【要約と感想】トマス・アクィナス『君主の統治について―謹んでキプロス王に捧げる』

【要約】この本の目的は、立派な君主を教育することです。そのために聖書や先哲の議論から、具体的な事例が豊富に示されています。
 君主制は、先哲の議論と歴史の経験と論理的な理屈を踏まえれば、貴族制や民主制よりも優れた、最高の政治形態です。しかし君主制には僭主制へと堕落する弱点もありますので、民衆のほうは用心しておくのがよいでしょう。
 ところで人間の最高目的は神によって定められており、カトリック教会が指導しているので、君主もそれに従わなければなりません。君主の仕事の範囲は、俗界の指導に限られます。君主固有の仕事をまっとうするためには、政治的な力量ではなく、高潔な人格のほうが重要です。それこそがカトリックの指導に従ったあり方です。教会の言うことを守って立派な君主になりましょう。
 都市を建設したり維持したりするために気をつけるべき注意点も示しました。

【感想】本文よりも、訳注と解説のほうが長い、岩波文庫にしばしば見られるスタイルの、気合が入った本だった。解説に書いてあったことは、不勉強にも知らないことばかりで、とても勉強になった。
 本書はいわゆる「君主の鑑」とカテゴライズされる、カトリック教会の価値観に従って俗界君主を教育することを目的とした内容の本で、ヨーロッパ中世には類書がたくさんあったらしい。そして直ちに想起されるように、マキアベッリ『君主論』が暗に批判するようなキレイゴトの記述に満ちている。逆に言えば、マキアベッリが政治のキレイゴトを粉砕するまでは、「君主の鑑」のようなあり方のほうが常識的だったということでもある。
 また直ちに想起されるのは、東洋の君主論(貞観政要や資治通鑑など)との類似だ。論語の精神である徳治主義(修己治人)や「天」への畏敬の念とトマスが示す君主の理想は、もちろん具体的な細部はまったく異なるものの、大枠では響き合っているように思う。君主にとって大事なのは、政治的力量ではなく徳である。ちなみに本書訳注や解説でもヘレニズムとの関係が指摘されてはいるが、全面的に議論が展開されているわけでもない。しかし東洋にはマキアベッリを待つまでもなく、既に韓非子もいたりするわけではあるが。

【要検討事項】本文ではなく解説のところに示されている文章だが、「教育」という翻訳語が気になった。

「まず指摘しておかねばならないのは、それら作品の表題である。「道」(スマラグドクス『王の道』Via Regia)、「教育」(オルレアンのヨナス『王の教育について』De Institutione Regia)、「人格」(ランスのヒンクマルス『王の人格と王の職務について』De Regis Persona et Regio Ministerio)といったタームが用いられている。」pp.157-158

 現代英語ではinstitutionとなっている単語が、ここでは「教育」となっている。まあそれ自体は西洋教育史を勉強すれば常識に属する知識であって、特に驚くことではない。ただしそれがeducationでもなくinstructionでもなかったことについて、特別に意識を払っても損はないように思うのでもある。ここで使用されている「Institutione」が示す具体的な内容は、もちろん現代の私たちが用いる「教育」という言葉が示す内容とは、大きくかけ離れている。大枠の大枠では「教育」と呼んでもちろん差し支えないわけだが、この「Institutione」を適切に表現する現代日本語を考えることは、現代教育についての知見を深める上でも、おそらく無駄な作業ではない。
 それと同様に、この文章では「Persona」というラテン語が「人格」と翻訳されている。もちろんここでは「人格」という日本語を使うしかない。しかし現代の我々が使用する「人格」という言葉の意味内容が、中世からは、特にカント以後に決定的に転回していることを踏まえると、いま私たちがイメージする近代的な「人格の陶冶」概念を、この中世の「君主の鑑」に当てはめることがどれくらい適切か、ある程度疑って留保しておいた方がいいのだろう。そして「Persona」と「Institutione」の転回は、「目的」の転回と深く関わってくる。

【今後の研究のための備忘録】
 例えば「目的」について、以下のように記されている。

「しかし人間は徳にしたがって生活しながら、既に上述したように、神の享受のうちにあるより高次の目的に向かって秩序づけられているので、多数の人間の目的と一人の人間の目的は同一のものでなければならない。それゆえ会い集う民衆の終局目的は徳にしたがって生きることではなく、有徳な生活を通して神の享受へと到達することなのである。」第1巻第14章107

 このような考え方は、もちろん近代的な「教育」や「人格」がまったく知らないものである。というか、こういう考え方を覆したところで、近代の「教育」や「人格」という観念は成り立っている。だとするなら、このような中世的目的観の下で行なわれる「Persona」への「Institutione」は、はたして「人格の陶冶」と考えてよいかどうか、ということになる。
 ちなみにもちろん著者を批判しているのではなく、私が批判的に行なうべき仕事として留意しておこう、という話である。

 またそれから「国家有機体論」について触れていることについては、しっかり記憶にとどめておきたい。

「それゆえ君主たる者は王国における自己の職務が、ちょうど肉体における魂や、世界における神のごときものである、とういことをよく認識しておかなければならない。」「かれの支配下にいる人びとをかれ自身の四肢のように考え、柔和と寛容の精神を発揮することができるであろう。」第1巻第12章95

 ただしもちろん、近代国民国家とは条件が決定的に異なっていることについては忘れてはならない。

トマス・アクィナス『君主の統治について―謹んでキプロス王に捧げる』柴田平三郎訳、岩波文庫、2009年