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【教育学でポン!?】2022年8月31日

茨城県歴史館と徳川ミュージアムに行ってきました。歴史館から偕楽園を通ってミュージアムに行くのですが、夏の偕楽園もいいものです。
【本日の歩数】14697歩■水戸を闊歩。

ICT

■【速報】学校の教育用PCが児童生徒数上回る 教員の4人に1人「活用できない」 文科省調査(TBSテレビ)
まずはGIGAスクール構想の前提条件で、本番はこれから。

9/1、学校に行きたくない

■つらい。しんどい。明日、学校に行きたくない。そんなあなたに臨床心理士が知ってほしいこと(BuzzFeed)
■あした、学校に行きたくない君へ。昔、おなじ気持ちだった人たちが伝えたいこと(BuzzFeed)
■電話やチャットの相談強化 夏休み明けの自殺防止 専門家「学校が全てではない」(時事通信)
■「自分を見失って…友達もいて勉強もできるのに孤独を感じている」子どものSOS気づくには?(OBSNEWS)
■新学期開始「しんどいなら、つらいって言っていいよ」 SNSや電話で悩み相談、兵庫県教委などに窓口(神戸新聞NEXT)
■夏休み明け、子どもの変化「身近な大人が気付いて」 元文科官僚の寺脇さんと前川さん呼びかけ 兵庫・神戸(神戸新聞NEXT)
■新学期「一人で悩まずに誰かに相談して」最後まであなたの味方【長崎】(NBC長崎放送)
何のエビデンスもないけれど、夏休みの宿題を全廃すれば自殺する子どもも減るだろうと思う、教育学者であった。

不登校

■元高校教師が全寮制の不登校特例校に込めた想い 自然や地域から隔絶されてあえぐ子どもたち(東洋経済ONLINE)
逆に言えば、学校が「不自然」な場所になってしまっているということでしょうか。

■不登校の子供たちの為に…新たな施設が開所 鳥取県米子市(日本海テレビ)
家庭と学校以外の「第三の場所」が充実するのは、大事なことです。

いじめ

■いじめ、AIが見抜く仕組み導入へ 「教員の勘と経験に頼るの限界」(朝日新聞DIGITAL)
使えるテクノロジーはどんどん使うのがいいでしょう。

高等教育

■支援期間は最長25年 「大学ファンド」基本方針案 文科省(時事通信)
アメリカの大学がファンド運用で回っているということでマネするわけですが、そういう文化がない日本で回るかどうか。ともかく頑張ってほしいものです。

■東大教授が嘆く…日本の若手研究者が食えなくなってしまった「決定的理由」(現代ビジネス)
身も蓋もない話で、顔を覆ってしまうような内容でした。

教育全般(国内)

■MISIAさんが講演「教育は未来を変える」 広島大学 ペスタロッチー教育賞(RCC中国放送)
■歌手のMISIAさんに「ペスタロッチー教育賞」 ”アフリカの子どもたちを支援” 広島大が表彰(広島ニュースTSS)
おめでとうございます。立派な活動です。ますますの活躍を期待しております。

【教育学でポン!?】2022年8月30日

夏休みも終わりに近づいてきたので、新学期の授業の準備にとりかかりますよ。
【本日の歩数】5679歩■自宅と学校を往復。

働き方改革

■「職員室のIT化」以上に、教員の働き方改革を考えるなら、必要なのは「引き算」の発想(Yahoo!JAPANニュース)
仕事を減らす気はないという文科省のメッセージですかね。

■教員免許の更新制が廃止。「休眠免許」保持者は何の手続きが必要か ペーパーティーチャーの取り扱い(LIMO)
天下の愚法によって免許を失った方には、懲りずに、ぜひ教壇に戻ってきていただきたいです。

ICT

■「1人1台のiPad」を4000人に導入 日本の学校を支えるApp Storeの信頼性(ForbesJAPAN)
義務教育段階はこれでいいかもしれません。

夏休みの宿題

■“正直いらないと思う”夏休みの宿題ランキング! 2位の「自由研究」を超えた1位は? 【500人調査】(All About)
ですよね。

9/1、学校に行きたくない

■つらくて、どうしても学校に行きたくない時どうしてた? 寄せられた声(BuzzFeed)
■校長の“神対応”に反響 夏休み明け「学校来るだけで十分」(テレ朝news)
■「同年齢が同じ空間で過ごすのは生涯で一時」9/1を前に毎年メッセージを発信し続ける校長の想い(石川テレビ)
■悩みがあれば相談を 夏休み明け前後の自殺予防対策、法務省が電話相談(徳島新聞)
大人たちは寄ってたかってサポートしましょう。

不登校

■不登校や引きこもりの子どもたちが学びつながる、オンラインフリースクール「CLULU」発表 9月4日(日)15時より保護者説明会も開催(こどもとIT)
■「仮想空間の学校」で不登校支援へ 熊本市教委が実証事業、タブレット端末で〝登校〟(熊本日日新聞)
未来になりつつあります。テクノロジーはどんどん活用していきましょう。

■「不登校」から広がる多様な学び『不登校でも学べる 学校に行きたくないと言えたとき』著:おおたとしまさを苫野一徳さんが読む(BookBang)
ふむふむ。読んでみようかな。

学校

■小学3年生以降のクラスの人数は何人にすべきか? 国の基準である35人よりも少ない人数とする方針 山梨県の検討委員会(UバクUTY)
■小1、2の25人学級「学習への意欲向上につながった」「小3以降にも導入するべき」少人数教育の検討委員会 山梨県(YBS山梨放送)
前向きな話で、心強いです。

■富山県内の県立高校定員削減で市と町のトップが異例の反対表明…その背景や今後の展望は(富山テレビ)
■氷見市長と立山町長が反対意見も“氷見・雄山”など5県立高校で1クラス削減決定 富山県教育委員会(富山テレビ)
子どもの数が減っている以上、自治体の長が政治的にゴネても本質的な解決に結びつくわけがないので、「教育学」の知見を踏まえて、学校の形そのものを根本から考え直してきましょう。さもなければ、ジリ貧です。

教育全般(国内)

■国立大学でも研究者の大量雇い止め危機 若者の研究に猶予を与えられない国家でいいのか(NEWSポストセブン)
オカルトを優先してきた結果が、これですかね。

■信州の次世代の教育とは…県が今後5年間に目指す教育のあり方について懇談会 長野(信越放送)
地教行法に定められた「総合教育会議」じゃなくて、「総合教育懇談会」なの?

教育全般(海外)

■算数のテストで30点…子どもの成績不振に発狂寸前の中学受験ママに「感情マネジメント」のプロがかける言葉(PRESIDENT WOMAN)
自分が子どもだった頃のことを思い出せるかどうか、でしょうかね。

■「学習塾禁止令」の中国で親の教育負担軽減 一部の塾は名目だけ変え継続(cns)
抜け駆けをしようとする人が、とうぜん出てきますよね。

【要約と感想】トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』

【要約】西郷隆盛「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして修道士の大業は成し得られぬなり。」
玉川カルテット「金もいらなきゃ女もいらぬ、あたしゃも少し愛が欲しい。」

【感想】世界中で聖書に次いでよく読まれた本という謳い文句で知られている本だが、確かに内容は分かりやすく、具体的な指針が明確で、人々の需要に応えたのもナルホドというところだ。言いたいことは非常にシンプルで、「世俗的な価値にこだわるな」ということに限る。だが、この実践が極めて難しい。本当に幸せになりたいのであれば、金や名誉に執着するな、食欲や性欲をコントロールせよ、という理屈は頭の中では分かるとしても、実際に行動に移すのは並みの人間では無理だ。だから「神の恩寵」に縋るしかないわけだが。
 また、現代的価値と決定的に異なるのは、自己肯定感を徹底的に挫こうとしているところだ。が、本書にとってみれば自己肯定感こそが最大の堕落の原因であり、悪魔の誘惑の根本なので、繰り返し繰り返し、徹底的に、執拗に、挫こうと試みることになる。まあ本書が修道士向けに書かれたものであって、世俗信者向けにメッセージを発したものではないだろうことを念頭に置けば、こういう姿勢にもそんなに違和感を持つ必要はないのだろう。(逆に言えば、こういう出家者に対する行動規範を世俗信者にまで求めるようになるとカルトになってしまうのだろう)
 で、それ故にというか、一本気な神に関する記述はともかくとして、糾弾の対象である世俗的な悪に対する描写は極めて精彩に富んでいて、おもしろい。人間的な自然から生じる悪の数々を微に入り細を穿って懇切丁寧に描写するのだが、これがたいへんな迫力だ。正義は一つだが、悪は多様だ、というところか。世俗的な快楽に流れようとする人間性の本質というものが、現代も中世ヨーロッパもまったく変わらないことがよく分かるのだった。

【個人的な研究のための備忘録】反知性主義
 本書の特徴の一つは、「反知性主義」的なメッセージを執拗に繰り返し発しているところだ。

「人間はみな生まれながらを望みもとめる。けれども神を畏れることのない知識が何の役に立とうか。まことに、神に仕える卑しい田舎の男は、自身をゆるがせにして天体の動きを測る傲慢な哲学者に優るのである。」第1巻第2章1
「つつましくわずかな理知によって、少しばかりの知恵をもつ方が、大そうな知識の宝庫を、空しい自惚れと共にもつよりまさっている。」第3巻第7章3
「神によって光を与えられた信心ふかい者の知恵と、学問のある篤学な聖職者の知識には、大した違いがあります。天上からの尊い御力より流れ出る教えは、人間の才能で骨を折って獲られる教説よりも、ずっと貴いものです。」第3巻第31章2
「お前がいろんな本を読んでたくさん知識を積んでいても、いつも唯一の根本原理に立ち帰らねばならない。人間に知識を与えるのは私だ、ということ、そして私が小さい者どもにわかち与える知恵は、人間の教えるところよりも、ずっとはっきりしたものだということを。」第3巻第43章1
「わが子よ、多くのことにおいてお前は無知なのがよい」第3巻第44章1
「お前に要求されているのは、信仰と真率な生活であって、理知の高遠さとか、神の玄義についての深い知識ではない。」第4巻第18章2

 人間の持つ「知識」などは大したことがなく、神の恩寵に由来する「知恵」こそが重要だというメッセージだ。近代的な価値観から見れば、とうてい受け容れることができない戯れ言ではある。完全に中世だ。
 問題はこの反知性主義の射程距離だ。少なくともルネサンス期のエラスムス『痴愚神礼讃』には明らかにこの反知性主義の反映が見られるし(そして初期人文主義者ペトラルカ『無知について』を想起してもよい)、啓蒙期ルソー『エミール』の自然主義教育(消極教育)や、啓蒙主義に反発したロマン主義の流れも同じベクトルの延長線上にあると考えてよいか。この反知性主義的な傾向を、どう思想史に位置づけるべきか。
 そして現代に至っても、カルト系キリスト教団体の教義の核心にはこの反知性主義が居座っており、それは信者から健全な批判能力を奪う結果に陥っているように見える。この反知性主義を、我々は実践的にどう扱うべきなのか。

【個人的な研究のための備忘録】わたしらしいわたし
 「わたしがわたし」というアイデンティティの思想は、もちろんプラトンから始まって古代ストア派哲学を経由し、キリスト教神秘主義にも見られる考え方だ。ご多分に漏れず、本書にも見られたのでメモしておく。

「人が自分と一つになり、内において単純となるにつれ、彼はいよいよ苦労なしにいっそう多くのさらに高いことを悟るようになる。」第1巻第3章3
「世の賞讃を博したからといって、それでいっそう聖人になるわけではなく、悪口されたからといって、それでいっそうつまらぬものになるわけでもない。あるがままのあなたがあなたであって、人がどういおうと、神の見たもうところ以上に出ることはできない。」第2巻第6章3

 こういう「誰から褒められようがけなされようが、わたしがわたしであることに対しては何の影響も与えない。気にするな。」という考え方は、古代ストア派もしばしば表明するテーゼだが、SNS時代の現代にも非常に良くマッチする。逆に言えば、人から何か言われるてクヨクヨするのは、SNS時代の現代文化に特有の現象ではなく、2000年前から続く人間の本質に根ざした何かだということだ。

【個人的な研究のための備忘録】人性(human nature)
 いつの世も変わらない人間の本性について執拗に記述しているのが興味深い。

「十字架を担い、十字架を愛し、身体を責め苛み、苦役に服させ、名誉を遁れ、侮辱を喜んで堪え忍び、自分自身を蔑み、人にも蔑まれるのを願い、あらゆる不幸を損失と共に忍びとおし、何の仕合わせもこの世では乞い求めないというのは、人性のままではない。」第2巻第12章9

 日本語で「人性」となっている言葉は、英語ではhuman natureだが、原文ではどうなっているのか。ともかく、人間というものが何かと快楽と名誉を欲し、苦役を避けて怠けたがることを、畳みかけるように表現している。そしてその「人間としての自然」を徹底的に打ち砕くことが、本書の目的だ。

「自分を愛することは、この世の他のどんな物事よりも、身を害なうものだ、ということをわきまえなさい。」第3巻第27章1
「人間の本当の霊における向上は、されば、我、すなわち自己、を否定し去ることにある。そして、自己を否定した人間は、全く自由であり、安固である。」第3巻第39章4
「完全な勝利とは自分自身に打ち克つことである。というのは、自身をいつも服従させておき、こうして官能を理性に従わせ、理性を万事につけて私に従うようにする者こそ、まことに自己に打ち克った者、この世界を支配する者なのだ。」第3巻第53章2
自己を内に捨てるというのが、すなわち神に結ばれることなのである。」第3巻第56章1

 特に「自己愛」とか「自尊感情」というものを徹底的に挫くことを目指している。現代的感覚からは信じられない。が、この自己否定のポイントは「自己を内に捨てる」というところなのだろう。外に捨てるのではなく、内に捨てるという感覚を掴めるかどうかだ。自己を内に捨てると、無限後退のプロセスに陥り、特異点が発生する。そしてこの特異点が果たして弁証法的なプロセスを経て近代的自我というものに繋がってくるのかどうかは気になるところだ。

【個人的な研究のための備忘録】持ち味と個性
 人それぞれ個性を持っているという描写があったので、メモしておく。ただもちろん「個性」本来の概念を示したものではなく、人それぞれに持ち味があるという以上の表明ではない。この程度なら日本の戦国時代に織田信長や武田信玄も言っている。こういう意味での「個性」の把握と理解は、特に近代的な思考枠組みがなくても十分に可能だ、ということの証拠である。

「誰も彼もが、みな一つの勤めをおこなうことはできない。ある人々にはこれ、他の人々にはそれが、いっそう適するというものだ。さらにまた、それぞれの時季に応じて、それに従い、あれやこれやの勤めが適当しよう。」第1巻第19章5

トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』大沢章・呉茂一訳、岩波文庫、1960年

【教育学でポン!?】2022年8月29日

事務処理を頑張った一日。
【本日の歩数】6639歩■自宅と学校を往復。

ICT

■子どものプログラミング技術を競う「情報オリンピック」って?【理系博士の子育て】(共働きwith)
女子の参加が増えているということで、心強いですね。

■登校できなくても学習の遅れが出ないように ICT活用し授業 コロナ禍でも学びの機会を<福島市>(福島テレビ)
まずはこういう受動的な使い方でいいのですが、ゆくゆくはICT本来の強みを活かす情報発信型の取り組みにシフトしていきたい者です。

■千葉県の小中学校がランサムウェア被害に 成績、住所、体重などのデータを暗号化(ITmedia NEWS)
やっぱり「幼稚園バスジャック」をする悪の組織という感じが拭えないが、単に手間がかかって面倒が増えるだけなのでやめてほしい。誰も得しない。

■廃棄PCからスパコン製作 渋幕が育んだ東大の異才(NIKKEI STYLE ニュースクール)
素晴らしく、夢のある話でした。のびのびと才能を伸ばして、夢を叶えてほしいです。

夏休みの宿題

■140年続く「夏休みの宿題」現代に合った在り方は?【佐賀県】(SAGA TV)
目的を見失って前例踏襲に陥ると、なんでもおかしくなります。

不登校

■不登校の時期に熱中したゲームで自信、「世界は広いぞ」と伝えたい…小幡和輝さん STOP自殺 #しんどい君へ(讀賣新聞オンライン)
この「世界は広い」ということが、子どもにはなかなか分からないんですよね。まずはたくさんの大人たちがメッセージを発信していくしかありません。

学校

■対話で合意形成する力を育む「本質観取」は小学生でもできるといえる訳 苫野一徳「民主主義の本質に基づく対話の場を」(education×ICT)
対話について本質的に考えるための考え方のコツがコンパクトにまとまっている、良い記事です。

■名門インターナショナルスクール「ハロウ安比校」が29日開校 教育理念・岩手への影響は(iBC岩手放送)
教育界の黒船になるのか。

■大阪府立高校3校で生徒募集停止へ 定員割れが続く3校で再来年度に 近くの高校に統合へ(8カンテレ)
■『橋下教育改革』背景に大阪府立高校3校“4年連続定員割れ”などで新たに廃校対象に(MBS NEWS)
「公共性」という理念を無視して、市場原理でものごとを推し進めて、果たして未来は拓けるか。

■以前は「モンペ」扱いの保護者の要求、今では学校が受け入れも 変わりつつある境界線(AERA dot.)
理論的には、良い意味でも悪い意味でも教育の商品化と市場化が進行し、「公共性」の意味が変質しているということです。商品化・市場化を止めようと思っても無理なので、現実に合わせた「新しい公共性」を立ち上げられるかどうかが鍵になります。

【要約と感想】P.O.クリステラー『イタリア・ルネサンスの哲学者』

【要約】一口にルネサンスといってもその中身は多様です。本書は14~16世紀のイタリアで活躍した8人の人物の事績と思想の特徴を、おおまかに4つの学派に分けて検討します。すなわち、(1)ヒューマニズム(2)プラトン主義(3)アリストテレス主義(4)新しい自然哲学の4学派ですが、それぞれ興味関心や活動領域が大きく異なっています。どれか一つの学派が決定的にルネサンスの思想を形づくったのではなく、それぞれが真実の何かしらの側面を表現しながら、総体として新しい時代を作り、近代に向かって行きます。
 ヒューマニスト(人文主義者)は、従来研究者が強調してきたほどには「人間の尊厳」に近代的な意味での関心を持っていたわけでもないし、もちろんルネサンス全体を代表する思想家たちでもありません。ヒューマニズムは中世スコラ学から出たものではなく、中世的伝統からすれば傍流から現れたものです。さらにヒューマニズムによって中世以来のスコラ哲学やアリストテレス主義が駆逐されたわけではないし、「哲学」の中心に位置を占めたなんてことはあり得ません。ヒューマニストは、あくまでも詩作を中心とした文学や、文法・修辞学ならびに雄弁術に多大の関心を示しており、哲学に対してはかろうじて実践倫理の分野で絡んでくるに過ぎません。ヒューマニズムが大きな影響を持ったのは専門分化した個別学科(神学・哲学・医学など)ではなく、ラテン語文法や修辞学など、その前段階の自由学芸の領域です。

【感想】おもしろかった。「痒いところに手が届く」とはこのことだ。私が知りたいことがまさにそのまま書いてあった。しかし都合が良すぎるので、警戒感も通常以上に持っておく必要がある。知りたいことだけ知るのは危険だ。

【個人的な研究のための備忘録】ルネサンスの定義
 本書は、外見的には静かな筆致であるにも関わらず、従来のルネサンスの定義に対してはかなり攻撃的で斬新な見解を示している。
 まずポイントになるのは、ルネサンスを「一言」でまとめようとせず、多様性をそのまま認めようとする姿勢だ。この場合の「一言」とは、たとえば「人間の尊厳」のようなものをイメージすれば良いのだろう。そんな一言で以てルネサンスを総括することは不可能だと、著者は繰り返し主張する。

「もしわれわれがわれわれの概観の終わりにあたって、ルネサンス思想がわれわれ自身の世紀をもふくめて後につづく諸世紀に残した知的遺産を評価しようとしても、ただ一言では答えられない。そしてその一言を解体して、われわれの議論してきたさまざまな傾向を別々に語る方が賢明である。」211頁
ルネサンスは中世後期から、高度に分節され専門化した学問の集成を継承した」226頁
ルネサンス思想こそは、その多様なしかも混沌とした努力を通じて、中世哲学をしだいに分解させていき、近代哲学の勃興への道を準備したのである。」

 そして「多様性」の具体的な中身のポイントは、おそらく「人間の尊厳」にこだわる人が見落としがちな「自然科学」の領域だろう。確かに、この時期の唯物論的な傾向を含む自然科学の発展を視野から外してしまうと、「近代」という時代の本質の大部分を見逃すことになる。
 そして自然科学も含めた多様性という観点を確保した後は、返す刀で「人文主義者(ヒューマニスト)」中心史観を切り捨てていく。

「私は、ルネサンス・ヒューマニズムが神学や思弁哲学に、また法律や自然科学に関心をもったのは、しばしば偶然にであって、けっして第一義的にあるいは首尾一貫してというのではなかったのであり、それゆえルネサンス・ヒューマニズムはこれらの他の諸学科の中世的伝統と密接に結びつけられえないということを、確証されたこととみなしたい。」227頁
ヒューマニストたちが、人文学者や作家としての彼らの仕事とは別に、まず第一に哲学史の中に位置を占めることになったのは、道徳哲学への彼らの関心によるものである。なぜなら、ヒューマニストたちの仕事の大部分は、哲学とは何の関係もなかったからである。またわれわれがその限界をはっきりさせようと試みたように、ルネサンスの哲学的思想の大部分は、ヒューマニズムの領域の外にある。」232頁

 高度に分節化した多様な学問体系の中で、人文主義の占める位置など僅かしかない。そしてその人文主義そのものにしても、中世的な伝統の真ん中(たとえばスコラ学)から出てきたものではなく、傍流が合わさってできた流れだという。

「中世的スコラ主義とルネサンス・ヒューマニズムとを対照することは容易であるが、後者を前者から引き出そうとすることが可能だとは、私はまったく思わない。」222頁
「私の意見では、ルネサンス・ヒューマニズムの勃興に寄与した中世の伝統は、基本的に三つある。すなわち、中世イタリアのアルス・ディクタミニス(ars dictaminis)、中世フランスの学校において育成されたような、文法、詩、および古典ローマ作家たちの研究、またビザンティン帝国において追求されたような、古典ギリシャの言語、文字、および哲学の研究である。」238-239頁
ルネサンス・ヒューマニズムの中世的先例は、スコラ哲学や神学の伝統――ある歴史家たちはそこにそれらを見いだそうと試みた――の中に見いだされるべきではなくして、むしろ、慣例的な中世文明像においてははるかに周辺的な位置を占める他の三つの伝統の中に見いだされるということを、私はできるだけ手短に占めそうと試みた。」244頁
「だがこれらの源泉はいっしょに結合されることによって、ルネサンス・ヒューマニズムがその中で発展した一般的枠組みを説明する。これらの源泉は、ルネサンス・ヒューマニズムのある限界を説明しさえする。多くの歴史家たちをたいへん驚かすことであるが、その限界とは、ルネサンス・ヒューマニズムがスコラ主義や大学の学問の構造を覆したり、取って代わることに失敗したというようなことである。なぜなら、ヒューマニズムは、人文学の外にある諸学科の中世的伝統を単に補足したり、修正したにすぎなかったからである。」245頁

 本書の主張に従えば、人文主義は中世的伝統の傍流から派生して、合流して大きな流れになったものの傍流のままであり続け、本家本元に取って代わることはなかった。今現在、「人文主義は死んだ」などと盛んに主張する人たちも現れているが、本書の見解が確かなら、人文主義はルネサンスの時からたいしたことはなかったことになる。いやはや。(日本の文脈に引き写してみれば、大田南畝みたいなものか?)

【個人的な研究のための備忘録】ペトラルカの位置付け
 ルネサンスにおける人文主義はたいしたことがなかったという主張は、具体的にはペトラルカに対する記述に表れる。

ルネサンス・ヒューマニズムは実際に、中世的アリストテレス主義に固有の異端的傾向に対する一つのキリスト教的およびカトリック的な反動であったという誇張された逆説的な見解」18頁
「そしてかなり奇妙なことに、ある著名な中世研究家が、スコラ哲学は根本的にキリスト教的であり、ルネサンスは神を取り去った中世であると主張しようと試みたのに対し、ひとは中世のスコラ学者の著作の中にキリスト教哲学の概念を探すとしてもむだであろう(トマス・アクイナスをふくむ彼らスコラ学者たちにとって、神学はキリスト教的なものであり、哲学はアリストテレス的なものであった。そして問題はその両者がいかに融和されうるかということであった)。そのような概念は、ただ何人かの初期キリスト教の著者たちの著作の中にのみ見いだされるであろう。それからまたルネサンスのキリスト教的ヒューマニストたちの中に、ペトラルカやエラスムスの中に、見いだされるであろう。」18-19頁

 実は私個人としては、ペトラルカの本を読んだ時に、これは中世的アリストテレス主義に対するカトリック的保守反動ではないかと疑問に思ったわけだが、さすがに本書はその立場は採らない。本書によれば、そもそも中世スコラ学そのものがキリスト教的ではないとのことだ。だとすれば、ペトラルカの主張は、確かに反アリストテレスであると同時に、反スコラ学ということになる。「中世スコラ学がキリスト教哲学ではない」という見解は、目から鱗だ。
 だとすれば少なくともペトラルカは新しい何かを示しているわけだが、それは何なのか。

「ペトラルカは中世的であるとともに近代的でもあった。」20頁
「ペトラルカは、ヒューマニズムの父でも最初のヒューマニストでもなく、彼の時代よりも少なくとも一世代前にはじまったある運動の最初の偉大な代表者にすぎなかった。」242頁

 この場合の「近代的」とは、具体的には著作の個人主義的な自意識を指していて、この方向の後継者をモンテーニュと想定している。そしてそれは具体的には詩作という文学的な活動に集約される。しかし印刷術発明後に個人主義的な自意識が発生するのはおそらく容易い説明できるが、印刷術発明前の写本時代にどうして個人主義的な自意識が生じるか、説明はそうとうに難しい。個人的には、フィレンツェというグローバル都市の資本主義的に発達した特異な環境を背景に考えたいところだが、本書はそこまでは突っ込まない。

【個人的な研究に関する備忘録】人間の尊厳
 ということで、本書は「人間の尊厳」というものの価値を多様性の観点から相対的に低めようと試みている。「人間の尊厳」という思想は、確かにルネサンスの一部ではあるが、一部でしかない。

人間とその尊厳についての強調は、われわれがすでに見たように、ストゥディア・フマニタティス(人文学研究)のプログラムそのものの中に暗にふくまれている。それゆえその主題は、ファーチョやマネッティにいたるまで、ヒューマニストたちによってしばしば言及された。」100頁
人間の尊厳についてのピーコの賛歌は、数世紀を超えてわれわれの時代にいたるまで、ルネサンス思想の他のすべての声には耳を傾けなかった者たちによっても、「フマニタス」(humanitas)が親しい感情のほかに、自由学芸の教育とある学問(私はこの概念を、ゲッリウスがかつてしたように、あえて俗なものとは呼ばないだろう)をふくんでいることを忘れてしまった近代の自称ヒューマニストによってさえも、傾聴されてきた。」106-107頁

 ピーコの言う「人間の尊厳」が不当に高い評価を受けてきたことを仄めかすような、皮肉っぽい響きのする文章だ。ただ本書は、「人間の尊厳」という主張の価値自体を否定しようとはしていない。それを多様性の相の下、同時期にあった他の有力な考えと合わせて総体的に評価していこうというわけだ。

【個人的な研究に関する備忘録】自然科学
 そして同時期にあった他の有力な考えとは、唯物論的で自然科学的な志向だ。確かに、中世と近代を分ける決定的な鍵は唯物論的な思考様式であって、「人間の尊厳」ではない、と考えることはできよう。

「彼[ピーコ]の攻撃の根本的な衝動は、宗教的なものであって、科学的なものではなかった。」103頁

 だから仮に「人間の尊厳」という主張が表面的には見えたとしても、それを主張する根本的な衝動が「宗教」に根ざすのか「科学」に根ざすのかで、評価が変わってくることになる。ピーコの言う「人間の尊厳」は、確かに表面的な表現は近代的だとしても、根本的な衝動は中世に属するというわけだ。「神様抜きでやろうぜ」と主張したわけでは、もちろんないのだ。

「ヒューマニズムとアリストテレス主義の共存、また時として両者の間の対抗は、ヒューマニズムが職業的にまたアカデミックに「人文学研究」(studia humanitatis)と結びついており、アリストテレス主義が哲学的学科、特に論理学、自然哲学、およびもっと少ない程度で形而上学と結びついていたということに気づくならば、きわめてよく理解される。ヒューマニストたちの主張するところによれば、道徳哲学のみは彼らの領域の一部であった。この二つの伝統の間の対抗は、ある適切な留保をつければ、近代における科学と人文学との間の対抗に比較されうる。」111頁

 アリストテレス主義が「科学」に、ヒューマニズムが「人文学」に相当するというのは、なかなか思い切った表現だと思う。しかし確かにそう考えると、ルネサンス期の思想全体をクリアに見渡すことができるようになる。特にペトラルカを相対化して考えることができる。

「イタリアのアリストテレス的伝統は、十五世紀と十六世紀を通じて繁栄しつづけ、十七世紀にいたるまでも生き長らえた。それゆえ、アリストテレス主義はペトラルカと彼に追随するヒューマニストたちによって打ち負かされた、と主張する文学史家たちを信じるのは難しい。」113頁
「ポンポナッツィの時代までに、イタリアのアリストテレス主義は数世紀の間栄えていたし、ペトラルカや他のヒューマニストたちの攻撃に耐えて生き延び、十四世紀の終わりころにはパリやオックスフォードから重要な新しい刺激を受け容れていた。」115頁
「この伝統は、その出典と権威のゆえにアリストテレス主義と呼ばれ、またその用語や、方法や文体のゆえにスコラ的と呼ばれるに違いない。しかしながらそれは、医学との密接なきずなのゆえに、また神学との結びつきの欠如のゆえに(それは、しばしば主張されたように、宗教にはもちろん、神学に対立してはいなかったけれども)、まったく世俗的であったし、またそう言ってよければ自然主義的であった。それはしばしばアヴェロエス主義と呼ばれているが、私としてはむしろ世俗的アリストテレス主義と呼ぶ方を選ぶだろう。」113-114頁
「自然哲学のアリストテレス的伝統は、ヒューマニストたちやプラトン主義者たちの外側からの攻撃によって、あるいは自然哲学者たちの示唆的な理論によって、打ち倒されはしなかった。その伝統は、ガリレオと彼の後継者たちが、堅固に確立された優れた方法にもとづいてその主題をあつかうことができた十七世紀において、またそれ以後になって、初めて瓦解したのである。」148頁
「多くの中世主義者たちがわれわれに告げたいと願っているように、ルネサンスが科学や哲学の分野において沈滞の時期であったとか、まして退歩の時期であったということは本当ではない。(中略)十五世紀はその後継者たちに中世の全遺産を伝え、それに古典古代の貢献を加えて、それを初めて完全に利用できるようにしたのである。」190頁

 これはまさに私の知りたいことがそのままそっくり書いてあるようなところだ。ペトラルカの本を読んだときから個人的にはペトラルカとアリストテレス主義の関係に大きな疑問を抱いていて、ペトラルカが批判の対象とするアリストテレス主義の方がむしろ私の目からみれば近代的に見えたわけだが、本書のようにアリストテレス主義を「自然科学」の萌芽だと考えることができれば、私の疑問も簡単に解ける。宗教にこだわるペトラルカのほうが中世的で、自然科学に目を開いたアリストテレス主義のほうが近代的、ということで間違いない。
 しかし自然科学ということでは、アリストテレスよりもエピクロスのほうがより重要かもしれない。

「空虚な空間についての彼[テレジオ]の主張は、ある意味において、アリストテレスが反駁しようと試みた古代の原子論の立場への復帰であった。この立場は、ルクレティウスから、またアリストテレス自身から、テレジオに知られたに違いない。」157頁

 ルクレティウスに好意的に言及するルネサンス人はけっこう多い(ヴァッラとか)のだが、このルクレティウスこそエピクロス主義のエッセンスを伝える唯物主義者代表だ(参考:【要約と感想】ルクレーティウス『物の本質について』)。ひょっとしたら実は、ルネサンスが決定的に重要なのは、このルクレティウスを通じてエピクロスを復活させたところにあるのではないか。実際、18世紀に説得力を持つ「社会契約論」などは、もともとはエピクロスを通じてルクレティウスが展開した思想だが、それこそまさに中世身分制社会を終わらせて近代市民社会を打ち立てる原動力になった。哲学界が華々しいプラトン(理想主義)とアリストテレス(現実主義)の対立に目を奪われている間、実は市井の人々にいちばん説得力を与えたのはエピクロス(唯物主義)だったのではないのか。

「独創性を求めることは、この時代に展開し始め、十七世紀にはるかに大きな規模に達することになった、ある確信を反映している。それはすなわち、新しい発見をし、古代人には近づきえなかった知識に到達することが、近代人にとって可能である、という確信である。十六世紀には実際に、数学や天文学、解剖学や植物学において、古代人を越えたことが明らかに分かる最初の進歩が見られた。そしてアメリカの発見のほかに印刷術の発明が、近代人の優越性に対する論拠として用いられはじめた。」147頁

 印刷術に関する記述が気になるからメモしたが、本書ではこれ以上に展開はしていない。しかし印刷術が決定的なターニングポイントになるだろうことは、私が言うまでもなく、多くの論者が指摘しているところだ。

【個人的な研究に関する備忘録】宗教改革との関係
 ルネサンスと宗教改革の関係をどう考えるかは極めて大きな問題だが、本書はさらっと触れているだけだ。

ルネサンスは、その特徴的表現を十五世紀および十六世紀初めのうちに見いだしたが、宗教改革の風潮の中では展開しえなかった。そうしたことから、宗教改革の到来した後には、ルネサンスは異なった思考態度や思考様式のために席をゆずらなければならなかった。」142頁

 この箇所を読む限り、本書はルネサンスと宗教改革を順接するものとは捉えていない。

【個人的な研究に関する備忘録】西洋教育史
 西洋教育史に関わる記述をメモしておく。

教育に関する数多くの論著において表明されたヒューマニズムの文化的理想は、グアリーノや、ヴィットリーノや、他の多くの人々によって創立された学校において実行に移された。諸大学において、また大学をもっていない多くの都市において、ギリシャ語をふくむヒューマニズム(人文主義)的諸学科における高等教育が、多少とも規則的にあたえられ、人気と威信を獲得した。」31頁
「文化的運動としてそれは、行きわたった古典主義や、十五世紀とともにはじまり、ほとんど今世紀の初めまで存続した古典主義的(あるいは人文主義的)教育の勃興の原因である。」212頁

 この記述を踏まえて考えてみると、ルネサンスの人文主義とは、特に高等教育に関わる教育運動であり、逆に言えば、教育に関わらない領域にはさほど大きな影響を与えなかったということなのだろう。たとえば経済や政治に対しては、さほどの影響力を持たなかった。経済に対しては人文主義ではなく大航海時代、政治に対しては人文主義ではなくマキアヴェリズムかエピクロス経由の社会契約論が決定的な影響を与える。ルネサンス・ヒューマニズムは、教育という領域の中でのみ影響力を持ったなにものかと捉えておくのが謙虚な態度というものなのだろう。逆に言えば、だからこそ教育学が扱うのに相応しいということでもある。

【個人的な研究に関する備忘録】ビザンツ帝国
 ビザンツ帝国に関する記述もメモしておく。

「ギリシャ研究の分野においてヒューマニストたちは、ビザンチンの学者の継承者となった。そして彼らのおかげで西ヨーロッパにギリシャ学が紹介された。ギリシャ語の写本は、東方から西欧の図書館にもたらされた。」32-33頁
「彼らのその時代への寄与のこのような重要な部分をなしたルネサンス・ヒューマニストたちのギリシャ学は、ある程度までビザンティン中世の遺産であったと、われわれは誇張なしで言うことができよう。なぜなら、ギリシャ的東方には全中世を通じて、ギリシャ古典学の多少とも連続した伝統が存在していたからである。」243頁

 ルネサンスを考える上で、ビザンツ帝国の存在はどうしても外すことができない。ビザンツ帝国抜きでルネサンスを語ろうとする態度は、おそらくヨーロッパを捏造したいという欲望に基づく。そういう意味では、ビザンツ帝国を視野に入れてルネサンスを語る本書が、知的に誠実なのは間違いない。

P.O.クリステラー『イタリア・ルネサンスの哲学者』佐藤三夫監訳、みすず書房、1993年