鵜殿篤 のすべての投稿

教育概論Ⅰ(中高)-1

栄養・環教 4/14
語学・心カ・教服・服美・表現 4/15

半年間の予定

・本講義は教員免許(中学・高校)取得に関わる授業であり、特に「教育」の原理・哲学・思想・歴史に関わる領域を扱う。
・中でも「教育基本法」の精神を理解することに重点を置く。
・「教育基本法」を本質的に理解するために、教育の思想と歴史を学ぶことが必要となる。

今回の内容

教育基本法の概要を知る

・「教育基本法」には、日本の教育が目指す根本的な理念が示されている。
・日本の教育の目的は「人格の完成」である。
・「人格の完成」とはどういう状態か?
・そもそも「人格」とは何か?

教育の現在について考える

・文部科学省と内閣の教育への姿勢。
・グローバル化、情報化、少子高齢化。
・「教育振興基本計画(第2期)」の内容。

「教師」に必要な資質・能力を把握する

・「不易」と「流行」。
・不易=時代や地域によって変わらないもの。熱意や使命感、教育的愛情。
・流行=時代によって変わるもの。情報通信技術への対応、グローバル化への対応等。

復習

・「教育基本法」を熟読吟味しよう。
・「教育振興基本計画(第2期)」が示していることについて考えよう。
・「教師」に必要な資質・能力を確認しよう。

予習

・自分が「子供」なのか「大人」なのか、考えておくこと。
・どうしてそう考えたのか、判断の根拠や理由についてもまとめておくことが望ましい。

教育概論Ⅰ(保育)-1

東京家政大学 短大保育科 4/13

半年間の予定

・本講義は幼稚園教諭および保育士の資格に関わる授業であり、特に「教育」の原理・哲学・思想・歴史に関わる領域を扱う。
・中でも「教育基本法」の精神を理解することに重点を置く。
・「教育基本法」を本質的に理解するために、教育の思想と歴史を学ぶことが必要となる。

今回の内容

「学校」って何?

・「幼稚園」とは、学校教育法第1条に定められた「学校」の一種である。
・「幼稚園」と「保育園」の違い。
・「文部科学省」と「厚生労働省」の管轄。
・「教育委員会」と国家資格。

「教育」って何?

・「保育」と「教育」。
・「育」とは何か。
・「保」とは何か。
・「教」とは何か。

「教育基本法」って何?

・「教育基本法」には、日本の教育が目指す根本的な理念が示されている。日本の教育が目指しているものは何か。
・特に「教育基本法第11条」は、「幼児期教育」に関する根本規定である。
・「幼稚園」は、教育行政の全体的な体系の中に位置付いている。

復習

・「教育基本法」を熟読吟味しよう。
・「幼稚園」と「保育園」の違いについて、事実を確認しておこう。
・「学校」や「教育」の定義について、整理しておこう。

予習

・自分が「子供」なのか「大人」なのか、考えておくこと。
・どうしてそう考えたのか、判断の根拠や理由についてもまとめておくことが望ましい。

【要約と感想】アリエス『〈子供〉の誕生』

【要約】むかし、子供はいませんでした。けっこう最近になってから誕生しました。

【感想】「中世の社会では、子供期という観念は存在していなかった。」(122頁)という主張で有名な歴史研究書。センセーショナルな衝撃でブームを巻き起こす一方で、迂闊な反論から緻密な反論まで大量に呼び寄せて、その後の「子ども史研究」の流れをの源流となった、いろいろな意味で必読の先行研究となっている。

 本書のタイトルは「子供の誕生」となっているけれど、丁寧に読んでみると、実際に描かれていることは、もっと根本的な事態だと分かる。アリエスが描いているのは人間世界の根源を揺るがす地殻変動全体であって、「子供」はその変化を最も象徴的に示している指標に過ぎない。

 たとえば「家族」。中世は、身分によって人間同士の関係が網の目のように密接に絡み合っていて、その網の目から明確に切り取られる「家族」という実態および感覚がそもそも考えられない。アリエスは建築様式の変化を辿りながら、「家族」を成立させるプライベートな空間自体が中世には物理的に存在していなかったことを示している。「家族」は特別な組織ではなく、網の目のように絡み合った人間関係の一部分に過ぎなかった。21世紀の現在であれば、「家族」は他の社会関係から切り離された、特別な親密圏としてイメージされる。法的にも、物理的にも、感覚的にも、愛情的にも。しかし家族が社会全体から隔離される条件がなかった中世においては、現在のような親密な感覚や愛情が育まれることなどあり得ない。
 (※現在の家族史研究においては、人口動態データを踏まえれば「核家族」の出現はアリエスの主張以上に早かったはずだ、というのが定説になっている。)

 それから、「労働」とその準備期間。中世においては、人々は労働のための準備期間を特別に設けることなく、いきなり現場に投入されて、実際に働くことで仕事に習熟していった。子供が学校に隔離されることなく、子供と大人が同じ空間(職場など)にいることは当り前の光景だった。中世の「学校」も、子供と大人が同時に存在する空間だった。

 あるいは「遊び」。中世では、大人も子供に混じって同じように遊んでいた。大人になったら「遊び」から卒業という感覚は存在していなかった。子供と大人が同じ空間で同じ仕事をしているために、大人が子供から区別されるべきという意識は生じない。他にも、階級意識とジェンダー規範についても、アリエスはかなりこだわって記述を進めている。このように、家族、労働、遊び、階級、ジェンダーに関わる根源的な地殻変動が記述の対象なのだ。

 ということで、アリエスが言う「子供がいなかった」という主張は、「社会から隔離された家族の中で、労働から解放されて、学校に囲い込まれ、健康と教育に関する細心の配慮がなされる愛情の対象としての子供」がいなかったという主張であって、もちろん物理的に子供がいなかったなどと言っているわけではない。「かつての子供は乳離れするとすぐに社会の網の目に組み込まれ、大人たちと一緒に働き、一緒に遊び、未成熟な家族という弱々しい組織には健康と教育に関する配慮を行う実力がない」という状態を、アリエスは「愛情がなかった」と見なしたのだ。それは「親としての愛」があったかどうかという問題ではない。ここを勘違いする人が多すぎる。まあ、アリエスの表現も軽率だったわけだが。
 (※1990年以降の研究においては、「家族の愛情」という家族内の文脈ではなく、幅広い社会的文脈の中で「子ども」を捉えようという流れが強くなっている。)

 だから、アリエスの仮説が正しいかどうかは、「家族」という組織が社会全体から隔離されて独立した機能を備えた島宇宙となっていく過程が丁寧に描けているかどうかにかかっている。この点に関して、後の研究はアリエスの見解を批判していくことになる。様々な史料が掘り起こされ、多角的な観点が示され、アリエスの主張そのものに対しては大きな修正が必要であることが、研究者の間では共通理解になっている。

 とはいえ、本書が掲げた課題の意義は現在でもまったく失われていないと思う。というか、子供や少年に関して根拠のない妄想と勘違いと思い込みだけで声をデカくしている軽率で迂闊なモラリストが増えてきている現在、本書の意義はますます重要になっているのではないか。教育学に関わる人間は、必読。

フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』みすず書房、1980年

子ども史に関して他に参考になる本

【比較的最近の子供史研究】
カニンガム『概説子ども観の社会史』:アリエスの仕事を相対化する視点が得られる。

【日本の子供史研究】
柴田純『日本幼児史』:かつて日本では子供をあまり大事にしていなかったことが分かる。
斉藤研一『子どもの中世史』:かつて日本の子供が苛酷な環境で生きていたことがわかる。
河原和枝『子ども観の近代『赤い鳥』と「童心」の理想』:日本で近代的な子ども観が成立したのが大正時代と主張している。

【アリエスの研究の影響を踏まえた議論】
イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』:学校制度が不必要であることの根拠として、「かつて子供はいなかった」というアリエスの知見を踏まえて「かつて学校制度などなかった」と主張する。

流通経済大学「教育学Ⅰ」(1)

■龍ケ崎キャンパス 4/10(月)
■新松戸キャンパス 4/14(金)

単位について

・試験は行わず、レポートで成績を決定する。
・レポート提出期限は学期最後の授業時間内とする。(龍ケ崎7/17、新松戸7/21予定)
・レポートの形式および内容については、6月中に指示する。
・出席数が足りていない者については、レポート提出を認めない。
・レポートに関して、コピペが発見された場合は、カンニングと同じ扱いとする。

出席について

・出席確認は「出席調査システムC-learning」で行う。
・スマホを忘れた、電池が切れた、電波が届かない等の理由でC-learningが使用できなかった場合は、必ずその日のうちに申し出ること。いかなる理由があろうと後日の申し出は認めない。
・事由ある欠席の場合は、必ず公式な文書を作成して提出すること。
・公式文書の作成が認められない場合(就職活動等)による欠席も、やむを得ない理由がある場合は必ず書面で報告すること。
・遅刻は出席と認めない。
・出席に関して不正が確認された場合は、どれだけ出席していようと単位は認められない。

予習復習について

・大学設置基準によれば、1回90分の授業につき3時間の予習復習が要求されている。
・本講義も、予習と復習を前提として構成される。本講義の内容が理解できないとしたら、予習と復習が足りていない可能性が高い。
・予習と復習の具体的な指示、参考文献等の提示については、このサイトで行う。

質問について

・非常勤講師なので、授業日以外には出校しない。
・質問がある場合は、時間がある限り授業後に対応する。
・込み入った質問の場合は、回答をこのサイトに掲載することで対応する。

半年間の予定

・具体的にはシラバスを参照のこと。
・本講義は「教育」という現象と観念を対象とする教育の「学」であって、頭がよくなる画期的な教育の方法を扱うような「術」ではない。
・「学」とは、人々が当り前と思っていることを疑ってみるところから始まる。
・たとえば「教育学」の場合、「教育は本当に意味があるのか?」と問うところから始めてみよう。そして、「教育に意味があるとして、どのような意味があるのか?」とか「誰にとって意味があるのか?」と疑いの目を広げていこう。根本的なところから問い直すことによって、「教育」の意味が改めて明るみに出てくる。
・また「学校」というものの存在についても疑ってみよう。「どうして子供たちは全員学校に行かなくてはならないのか?」とか「学校の教育は、家庭や社会の教育とどこが違っているか?」とか「学校は誰のためにあるのか?」など、疑ってみよう。
・そして「子供/大人」の関係についても疑ってみよう。今は「子供/大人」は法的に完全に別の存在として扱われている。だが、「子供/大人」を分割する境界線について改めて考えてみると、不思議なところがいくつも出てくることになる。

次回までの準備

・自分が「子供」なのか「大人」なのか、考えておくこと。
・どうしてそう考えたのか、判断の根拠や理由についてもまとめておくことが望ましい。

円覚寺の降誕会

 4月8日は降誕会ということで、円覚寺の「花まつり」に参列してきました。

 円覚寺はJR北鎌倉駅から徒歩30秒。鎌倉五山の第二位、臨済宗大本山の一つです。あいにくの雨でしたが、桜がとても綺麗でした。

 「降誕会」とは、お釈迦様が誕生したことをお祝いする儀式です。方丈に据えられた「花御堂」の真ん中には、生まれたばかりのお釈迦様が天と地を指さしている像が祀られています。

 禅様式の独特な儀式を見た後、お焼香を上げて、お釈迦様の子供像に柄杓で甘茶をかけてお祝いをしてきました。

 儀式としての降誕会に茶々を入れたいわけではないと言い訳を前置きして。「子供観の歴史」に取り組んでいる教育史学徒としては、生まれた直後に歩いて天上天下唯我独尊と宣言する「早熟な子供の表象」が気になるところです。円覚寺の誕生仏は子供らしい体型をしていましたが、誕生仏の子供像はいつ頃から子供らしい造形になったのかな?