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【要約と感想】M.I.フィンリー『オデュッセウスの世界』

【要約】ホメロスが描いた『イリアス』『オデュッセイア』の形式と内容からは、トロイア戦争が本当にあったかどうかを確認することはできませんが、成立当時の社会状況一般を理解するための情報を取り出すことは可能です。さらに最新の文化人類学や社会学の知見(モースやマリノフスキー)を援用すると、紀元前10世紀のギリシアにはまだ国家(一元的で継続的な権力構造)と呼べるものは萌芽すらなく、家父長を中心とした拡大家族が婚姻と「贈与」を通じて結びついた世界が広がっていたことが分かります。ホメロスが歴史の真実を語っていると主張している人たちは、バカです。

【感想】ヨーロッパで「ホメロスは虚構だ」と主張するのは、日本で「日本書紀は虚構だ」と主張するのと同じく、踏んではいけない虎の尻尾のようなものなのだろう、著者の言い訳と苛立ちが一番の読みどころだ。

【研究のための備忘録】命の危険を顧みずに武具を剥ぐ行為
 『イリアス』を読んでいて「バカだなあ」と思うことはたくさんあるのだが、中でも倒した相手の武具を剥がしている最中に槍で刺されて命を落とす阿呆が極めて多いことには誰でも気がつくだろう。どうしてこんなにアホなのか、本書に説明がある。

「ところが戦利品は、必要な時にはいつでも見せびらかすことのできる永遠の証拠である。もっと未開の民族の間では犠牲者の首がその名誉ある役割を果たしたが、ホメロスのギリシアでは武具が首にとって代わった。英雄たちがくり返し、大きな危険が身に迫っているときにすら、戦闘を中断して殺した敵の武具を剥ぎとろうとするのはそのためである。戦闘それ自体から見るとそんな行動は愚の骨頂であり、遠征全体を危機に陥れかねなかった。しかしながら、名誉なき勝利が受け入れがたいのであれば、そもそも戦闘の終結を最終目標と見なすことが間違いなのである。公式の勝利宣言なしに名誉はありえなかったし、戦利品という証拠なしに世間の評判となることもありえなかったのである。」227頁

 ということで、まあ事情は分からなくもないけれど、それで死んじゃうのはやっぱりアホだよなあ。

【研究のための備忘録】戦利品としての女
 で、『イリアス』を読んでいてさらにアホだなと思うのは、女性をモノとして扱って一向に恥じるところがないところなわけだが、それもこれも「女が賞品」という文化が徹底しているからなのだった。

「若く美しい女奴隷の方が年老いた女よりも名誉ある賞品であり、そしてそれが全てだった。」230頁

 逆に、女を賞品として見なくなるようになるのはどのタイミングで、どういう背景があるのかは気になるところだ。本書では明らかにしてくれない。
 で、おそらくそういう文化とも深く関連するだろうが、いま我々がイメージする「家族」というものが存在しなかったことについて言及している。

「ギリシア語には、「帰って家族と一緒に暮らしたい」というような意味での、小家族に当たる言葉が存在しなかった。」245頁

 こういう純然たる家父長制を背景に、「女が賞品」という文化が根付いていたのだろう。小家族の制度が確立すると、こういう野蛮な考え方は通用しなくなるだろう。

【研究のための備忘録】ヘラの位置づけ
 ゼウスの正妻であるヘラについて、気になる記述があった。

「彼女(アテナ:引用者)は処女神であった。彼女はゼウスの頭から跳び出したのだから、女から生まれたのですらなかった――これは女性全体への侮辱であり、ヘラはこのことについて決して夫であるゼウスを赦さなかった。ヘラこそ最も女らしい女であって、オデュッセウスの時代から神々の黄昏に至るまで、ギリシア人はこの女神を少々畏れはしたが全然好きになれなかった。」251頁

 たしかに現代的観点からすればヘラを好きになる人は多くないだろう。が、文化人類学的な観点からの知見では、もともとギリシア地域に根付いていたのは大地母神信仰であって、後に征服者が殺到して以降にゼウスを首班に頂く現在の神話体系ができたという。そしてヘラは、大地母神信仰を代表する神格だったらしい。だとすれば、家父長的ギリシア人たちにヘラが嫌われているとすれば、野蛮な征服活動によって家父長制が成立する以前の大地母神信仰を想起させるからではないのか。あるいは、ヘラに嫌な性格を押しつけていったのは、家父長制にとって都合が悪い存在や価値だったからではないのか。本書のここの記述については、50年前という時代的な制約があるのではあるが、疑義なしとはしない。

M.I.フィンリー『オデュッセウスの世界』下田立行訳、岩波文庫、1994年

【要約と感想】阿部拓児『アケメネス朝ペルシア―史上初の世界帝国』

【要約】アケメネス朝ペルシアは、狭義には紀元前550年キュロス王による創建(諸説あり)から紀元前330年マケドニアのアレクサンドロス大王東征による滅亡まで、220年にわたってアジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがって君臨した、史上初の世界帝国です。歴代ペルシア王9代の事跡を内外史料に基づいて確認しながら、帝国の歴史全体を概観します。

【感想】アケメネス朝ペルシアの歴史そのものについても勉強になったが、科学的な歴史学の研究手法と最新研究動向が幅広く紹介されていて、「歴史学の方法論」についても興味深く読める内容になっていた。おもしろかった。具体的には、「オリエンタリズム」や「受容史」というポストモダン的な動向を横目で睨みつつも、歴史学の伝統に基づいて丁寧な史料批判の土台の上で議論を展開して、落ち着いた筆致ながらも立体的で奥行きのある記述になっている。筆者の推測もふんだんに披瀝されるが、史料に基づいて根拠を示しながら対立する見解との比較考量も丁寧に行ってくれるので、かなり納得する。こういう方法論とそれに立脚した歴史記述は、歴史学を志す学生にとってはかなりためになるのではないだろうか。
 まあ全体として平和時の庶民の暮らしぶりはほとんど分からず、殺伐とした政争と戦争の歴史になっているのは、史料の性質上仕方がないところではあるか。

 で、ペルシアというと、私個人としてはギリシア人の書いたもの(ヘロドトスやトゥキディデス)を通して触れてきたので、無意識のうちにヨーロッパ中心史観(いわゆるオリエンタリズム)に影響されいるようだ。大いに反省するきっかけになった。あるいは「オリエンタリズム」というと近代以降の話だと思い込んでいたけれども、古代のギリシア・ローマ中心史観に対しても意識的に相対化する視点を用意しておく必要を理解したのであった。

阿部拓児『アケメネス朝ペルシア―史上初の世界帝国』中公新書、2021年

【要約と感想】小池和子『カエサル―内戦の時代を駆けぬけた政治家』

【要約】カエサルを扱った本は既に山ほど出版されていますが、本書の特徴は、学問的な成果に基づいてごくごく基本的な事柄を扱いつつ、同時代の時代状況や政治制度、あるいはキーパーソン(特にキケロー)の動向を踏まえて、カエサルの一生と人となりを描くところにあります。
 政治史的には、マリウス(平民派)とスッラ(閥族派)の抗争から内乱の一世紀に突入し、ポンペイユス・クラッスス・カエサルの三頭制を経て、最終的にカエサルがポンペイユス等との内戦に勝利、独裁制を始めることになります。

【感想】『ガリア戦記』は読んだし、キケローの著作や書簡集にも目を通したし、サルスティウスやルーカーヌスなど同時代の歴史書も読んだので、本書は「答え合わせ」の意図をもって読み始めたのだけれども、いやいや、知らないことだらけだった。勉強になった。
 で、私の個人的な好みとして、歴史が動くのは一人の英雄的行為ではなく、経済史的背景が決定的な要因になっていると考える傾向にある。本書は経済史的背景の要点を簡潔に押さえ、それを踏まえて各陣営の動向を説明するなど、私としてはかなり納得しやすい書き方になっている。カエサルが確かに代わりが効かない時代の英雄(秦の始皇帝や織田信長などと同様)であることは間違いないとしても、彼がその才能を十分に発揮するためには経済史的背景が煮詰まっている必要はあるだろう(秦の始皇帝や織田信長などと同様)。まあ、ローマ共和政末期の経済的矛盾(中小農民の没落)そのものは高校の世界史教科書に書いてある程度の知識ではあるが。
 一方、本書はカエサルの人となりについてはかなり抑制して描写している。学術的に確かな事柄しか扱わないという姿勢が現れている。が、それでもカエサルが魅力的な人物だったんだろうな、と覗わせる記述はそこかしこにある。敗北者には寛容だが、自らの尊厳を汚した相手は徹底的にやっつける。そんなカエサルと比較すると、キケローのほうがキレイゴトばかり並べる小物に見えてしまうのは仕方ないのであった。

小池和子『カエサル―内戦の時代を駆けぬけた政治家』岩波新書、2020年

【感想】古代オリエント博物館「女神繚乱―時空を超えた女神たちの系譜―」

 古代オリエント博物館で開催された秋の特別展「女神繚乱―時空を超えた女神たちの系譜―」を見学してきました(2021年12/3)。タイトルの通り、エジプトやメソポタミアやインドやギリシア・ローマから日本までの女神を一堂に会した展覧会です。有名でよく名前を知っているお馴染みの女神からよく知らない女神までたくさん紹介されており、楽しく観覧してきました。

 まず先史時代の女性像(土器が多い)が数多く展示されていましたが、感覚的に気になったのは、フォルムが二極化していたように見えたことでした。乳房や臀部をやたらと強調して造形している像があるのに対して、もう一方にはやたらと平板でほっそりしたフォルムの造形があり、なんとなく中間というものがないように感じました。地域性や歴史性を反映しているのか、あるいは展示物をチョイスした学芸員さんの意図なのか、よく分からないところではあります。が、一口に「先史時代の女性像」といってもいろいろあることはよく理解できます。

 歴史時代に入ると、名前がついてキャラクター化した女神たちが登場し始めます。ここで気になるのは、この展覧会のモティーフでもあるのですが、男性の神はわざわざ「男神」と呼ばないのに、女性の神はことさら「女神」と呼ぶという現象です。ただこれが古代から続く現象なのか、あるいは近代に入ってからの現象なのかは注意する必要があるのかもしれません。
 思い起こすのは、たとえばギリシア神話に登場するヘラがもともと母系制社会のギリシア各地で信仰を集めていた大地母神だったのが、権力の統合によって家父長制が発達する過程で、男神であるゼウスが神々の筆頭に祭り上げられて、それに伴ってヘラの権威が貶められたという説であります。(参考『ギリシア神話―神々と英雄に出会う』『古代ギリシアの旅―創造の源をたずねて―』)。結局、ヘシオドスがギリシア神話古典の一つである『神統記』を記す頃には、ギリシア神話の中身は完全にマチズモとミソジニーで定着したように見えます。
 そしてまた思い起こすのは、日本における最高格の神が女神=天照大神であるということです。これもやはり、マチズモとミソジニーで膨れあがった江戸時代の朱子学において、「天照大神は男である、なぜなら最高神が女であるはずはない」という意見がむりやり罷り通った結果、アマテラスを男として描いた絵や文章が広く流通していたという事実です。本展覧会でもアマテラスを雨宝童子として描いてた図像が一幅展示されていて、見た目は男性に見える(と言いつつかなり性別不明の中性的)わけですが、なんでそうなっているかの解説はありませんでした。

 個人的に古代オリエントの女神でいちばん興味を抱いているのは、キュベレーです。興味関心を持っている理由は、もちろんハマーン様が専用機として乗っていたMSの名前に由来します。しかしこのキュベレーという神様、知れば知るほどわけのわからない神様で、いったい何をしたくてそうなっているのか、ますます興味関心を掻き立てるのです。が、残念ながら、本展覧会ではあまりフィーチャーされていなかったのでした。

【要約と感想】中畑正志『はじめてのプラトン―批判と変革の哲学』

【要約】プラトンの著作に触れるときにまず大事なのは、それが「対話」として書かれているという事実です。私たちは、様々な人々が織りなす対話に参加した気持ちになって、性急に結論を求めず、ゆっくりじっくり物事を考えていきましょう。テキストを「批判的」に読み込み、自分の行動や態度を改めて点検する糸口にすることこそが、プラトンが目指していたものです。

【感想】前半は、わりとオーソドックスにプラトンの思想を説明している。対話編として書かれた意味、無知の知、イデア論、『国家』の構成。特にイデア論を真正面から扱っているのは、とてもいい。改めて勉強になる。が、魂の三分割の意味やシュトラウス派を批判する後半部は、なかなか手ごわい。それこそ「入門書」の体裁を借りて、学術論文では論証できない見解を自由に開陳している、という趣だ。まあ、それも「入門書」の醍醐味ではある。こういう無礼講がないと、「入門書」を改めて読む意味はない、と個人的には思う。

 で、類書と異なる本書の特徴は、副題に示されているとおり、プラトンを「批判と変革の哲学」として読むところだ。ちなみに私個人はプラトンを「教育」の営みとして読む立場にあり、それは著者の言う「変革の哲学」とも響き合う。というか著者自身も「プラトンは、いわば「生き生きとした知」の体現者であるとともに、そうした知を通じて、文化や社会のあり方の問題をとりわけ教育の問題として引きうけようとした哲学者だったのである。」(218頁)と言っているので、いっそのことタイトルは『はじめてのプラトンー教育の哲学』でもよいわけだ。
 ただしこの場合の「教育」とは、もちろん近代以降に成立した学校教育制度の下での教育ではない。それはむしろプラトンが批判したソフィストたちの教育に近いものだ。プラトンが意図する「教育」とは、知識を外部から与えるinstructionではなく、生きる姿勢や態度を内部から反省する「魂の向け替え」である。そしてそれは意図的・計画的に外部から注入する働きかけではなく、偶然始まった「対話」の過程から不意に立ち上がってくるような僥倖であり恩恵であり贈与である。それは近代的な意味での「教育」ではありえない。とすれば、著者が副題に「教育」という言葉を使用できなかったのも、当然ということになるだろう。が、私は敢えてそれを「教育」と言い張りたい、ということだ。そしてその私の姿勢は、著者が端的に指摘しているように、「俺のプラトン!」という読みなのだった。いやはや。

中畑正志『はじめてのプラトン―批判と変革の哲学』講談社現代新書、2021年