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【要約と感想】アリストパネース『女の議会』

【要約】男が政治をしている限り、アテナイに未来はありません。ということで、女が議会に潜入し、政権をのっとりました。
新しい世の中では、財産と女をすべて共有します。これで争いはなくなり、平和な世の中になります。下ネタ多数。

【感想】筋が通っていて、分かりやすく、面白かった。原文がおもしろかったのか、それとも翻訳のおかげなのかどうかは、分からないのだけれど。

圧倒的な量の下ネタの他に、主な見所は2点あったように思った。ひとつはジェンダー論、もう一つは原始共産主義的な主張だ。

ジェンダー論に関しては、女性が議会を占拠して政権をのっとるという構想そのものに、やはり興味が向く。こういう構想が著者独自のものなのか、あるいは当時ある程度一般的に広まっていたものか。まあ、現実には女性が政治から完全に排除されていたからこそ、こういう発想が「喜劇」として成立するのだろうけれども。
とはいえ、男性が攻撃的で無謀な戦争に突入するのに対し、女性が安定して保守的な平和を希求するという傾向が描かれていること自体が興味深い。こういう傾向に人類史的普遍性を認めるべきなのかどうかというところ。

もう一つの原始共産制に関して。権力を握った女たちが、平和を実現するために具体的に採用する政策が、富と性の平等な配分だ。富と性が平等に配分されることによって、窃盗や姦淫や訴訟の原因と需要そのものが撲滅されるというわけだ。
「そんなこと本当に可能なのか?」という疑問には当然作者も気づいている。というか、この夢想的なアイデアの実現可能性こそが喜劇の駆動力となっているわけだ。富の配分に関して抜け駆けやズルをしようとする男性の醜くも人間的な振る舞いや、性の配分に関わって女性の価値(特に年齢に関わる)の有無が露骨に描写されることになる。理想の制度と現実の生活の乖離が離れていれば離れているほど、喜劇の完成度が高まるというところではあろう。
ちなみにだが、本書において「奴隷」の存在は自明視されている。本書が扱う「富」とは、我々が安易にイメージする「金」にとどまるものではなく、主に「土地」と「人=奴隷」を構成要素とする「生産手段」であることは承知しておく必要があるだろう。
また、「富」と並んで「女性」をも共有の対象となっていることは、興味深いところではある。思い返してみれば、ホメロスの叙事詩に端的に見られるように、古代ギリシアでは「女性」こそが所有すべき第一の対象物であった。男たちは、金よりも土地よりも、女性を争奪するために命を賭けたのだった。本書はホメロスの時代からはるかに下っており、女性の地位はずいぶん変化しているだろうけれども、女性を「所有すべき対象」と見るという視点は明確に引き継がれている。「女性をモノとして扱う」という観念の源泉を考えるとき、本書は有力なサンプルのひとつになるだろうと思った次第。

※本書は旧字体活字で組まれており、慣れていないととても読みにくいだろうと思う。

アリストパネース/村川堅太郎訳『女の議会』岩波文庫、1954年

【要約と感想】ブルーナー『教育の過程』

【要約】ゆとり教育を終わらせましょう。子どもは想像以上に難しいことを理解することができます。学問の「本質的で単純な構造」を身につけることは、小さな子どもにも可能です。古臭い行動心理学や経験主義を信じて教育に限界があると考えるのはもう終わりにして、私が研究している最新の「認知心理学」の成果を踏まえて、教育を「現代化」しましょう。
 そのためには、子どもたちにただ外側から知識を注入するのではなく、学者がやるのと同じような過程を経て子どもたちが「本質的な構造」を自分の手で「発見」していくような教育課程を実現しなければなりません。その学習過程では、「分析的」な手続きで知識を獲得するのではなく、「直感的」に構造の本質を掴み取るような認知の働きが起こります。そういう教育でこそ、子どもたちは単に知識を身につけるだけでなく、学者と同じような「発見」への確信の態度を深めるなど、「学習のしかたを学習する」ことが期待できるのです。
 このような教育を実現するために、教師の役割はきわめて重要です。教師は教えるべき知識を完璧に身につけていなければなりません。教育課程とは子どもの学習を規制するためにあるのでもなく、教師の創造性を縛るためにあるのでもなく、教師自身の成長を促進するために存在するべきものです。
 まあ、こういう教育への変化は、アメリカがソ連に科学技術で追い抜かれたという安全保障上の危機感が原因でもあるんですけどね。ともかく、せっかくの良い機会でもあるので、アメリカの学校でやたらとフットボールの選手やチアリーダーなどがもてはやされるようなコミュ力重視の愚かな風潮はさっさと絶滅させて、もっと学問的な雰囲気が尊重されるように変えていきましょう。

【感想】教員採用試験に頻繁に登場するブルーナーの名言が登場する、教育学の古典的な作品だ。教員採用試験に出る名言とは、「どの教科でも、知的性格をそのままにたもって、発達のどの段階のどの子どもにも効果的に教えることができる」というものだ。だがしかし、実はブルーナーはそんなことは言っていないのだった。教員採用試験の問題は、彼の言いたいことの一部を切り取っているに過ぎず、ブルーナーの意図の半分は削り取られてしまっている。本当の文章は以下のようになっている。

「どの教科でも、知的性格をそのままにたもって、発達のどの段階のどの子どもにも効果的に教えることができるという仮説からはじめることにしよう。」42頁

 教員志望者から見るとほとんど同じように見えるかもしれないが、いやいや。正しい文章のなかにある「仮説」という言葉が、ブルーナーの学説全体にとって極めて重要な言葉なのだ。この言葉を省いてしまったら、彼の教育論の魅力は半減すると言ってもよいだろう。この大事な「仮説」という言葉を無視するような教員採用試験の問題は、実はブルーナー学説の本質を台無しにしているわけだ。
 どうして「仮説」という言葉が大事なのかというと、本書の最初から最後まで、一貫して「仮説を立てて検証する」という「学びの方法」そのものを身につけることが重要だと主張しているからだ。ブルーナーの主張では、教育とは単に既知の事実を与えるものであってはならない。子どもたちが学者と同じような「態度」を身につけることが決定的に重要だと言っているのだ。この知見を教員採用試験では「発見学習」と呼んでいるが、個人的には誤解を増幅させるような表現だと思う。というのは、単に「発見学習」と言うだけでは、「発見した<知識>が重要」だと勘違いする学生が続出するに決まっている。ブルーナーは「発見するための<過程>と<方法>そのものが重要」だと言いたいのであって、発見された結果としての「知識」は二次的な意義しかもたない。
 それはブルーナーが「分析」よりも「直感」を決定的に重要なものとして議論を展開しているところからも伺うことができる。ブルーナーが専門とする「認知科学」においては、個々のバラバラな分析的知識の蓄積はさほど重要ではなく、全体的な「構造」を一掴みに理解できるかどうかが問題となる。「分析的な<知識>」ではなく「直感的な<認知>」こそが本質的なテーマである。この「直感的な認知」を可能にするためにこそ、「仮説」を立てる力が必要となってくる。学生に大胆な「仮説」を立てるような学びを促すことで、学者のような「態度」や「学びのための学び」が身につくと考えているのだ。そして巧妙なことに、ブルーナーは彼自身の教育論(つまり本書)を、まず自分自身が直感的に大胆な「仮説」を立て、そして後に分析的に筋道立てて検証するという構成で組み立てる。この構成は、彼自身の「仮説を立てる」という教育論を仮説を立てて実証しようとしているわけで、いわばメタ的な構成になっているわけだ。だから、本書が魅力的だったり説得的であったとすれば、それは直ちに彼の教育理論が魅力的だったり説得的であったりすることを意味する。「仮説」という言葉は、本書全体の論理構成と彼自身の教育論をメタ的に結びつける特異点として作用するものなのだ。だからブルーナーのテーゼから「仮説」という言葉を排除したら、魅力が半減してしまうわけだ。
 いやあ、すごい構成だ。全世界的に大きな影響を与える本になるはずだ。感服つかまつった。

【今後の個人的な研究のための備忘録】
 2017年に改訂された学習指導要領は、裏では「ブルーナー・リバイバル」という呼び声もあるとおり、陰に陽にブルーナーの影響を受けていることは疑い得ない。本書のはしばしに、最新学習指導要領の記述と響き合う記述を伺うことができる。

 いちばん響き合っているのは、学習指導要領が言うところの「見方・考え方」という言葉だろう。これはブルーナーが「構造」と「態度」という言葉で表現しているものに対応する。学習指導要領では、小学校から高校まですべての学年において教科の「見方」を身につけることを目指しているわけだが、これはブルーナーが「教科の構造」を極めて重視したことと響いている。たとえばブルーナーは以下のように言っている。

「ますます明確になってきた一つの点は、そのようなことがらにおける構造の重要性ということである。一度この構造の重要性ということが十分に受けいれられると、さらに程度をすすめて、もっともっと年の小さい子どもたちにさらに一そうこみ入った教科を教えることが可能になる。」日本版への序文iv頁

「数学であれ、歴史であれ、その教科の構造を強調すること――つまり、できるだけ迅速に、ある一つの学問のもっている基本的観念についての感覚を生徒に与えようというしかたで、それを強調すること」3頁

「教科の構造を把握するということは、その構造とほかの多くのことがらとが意味深い関係を持ちうるような方法で、教科の構造を理解することである。簡単にいえば、構造を学習するということは、どのようにものごとが関連しているかを学習することである。」9頁

「意図するところは。教育課程を計画する場合に、これまでにしばしば見落とされた、欠くべからざる一点を銘記すべきだということにある。その一点とは、すべての科学と数学の中核をなす基礎的観念や、人生や文学を形成する基礎的テーマは、強力であるが、同時に単純なものであるということである。」16頁

「要点をまとめてくりかえすと、この章のおもなテーマは、教科の課程は、その教科の構造をつくりあげている根底にある原理について得られるもっとも基本的な理解によって決定されなければならないということであった。」39-40頁

 要するに、細かい知識なんてものはいくらでもあとからついてくるから、教育で重要なのは教科の「普遍的な構造」を掴み取ること、ということだ。そのための「直感」である。ブルーナー以前の行動主義や経験主義では研究の対象にすらなっていなかった「直感」というものを、ブルーナーの専門である「認知科学」が捉えているという自信が裏付けとなっているだろう。そして認知科学は、21世紀に入って脳科学なども結びつき、急速な展開を遂げている。2017年の学習指導要領が60年近く前のブルーナー仮説と響き合うのは、「認知科学」という点で基本的な発想を同じくしているせいだろう。

 また、最新学習指導要領が言う「考え方」とは、もう少し丁寧に言えば「方法論の習得」を意味する。単に知識の量を増やすのではなく、未知の現象に触れたときにそれを適切に処理できる様々な考え方を身につけることが重要であり、そのために「方法論」を身につけるという観点だ。これはブルーナーが「態度」という言葉でしめしているものに当たる。たとえばブルーナーは以下のように言っている。

「それは、ある分野で基本的諸観念を習得するということは、ただ一般的原理を把握するというだけではなく、学習と研究のための態度、推量と予測を育ててゆく態度、自分自身で問題を解決する可能性に向かう態度などを発達させることと関係があるということである。ちょうど物理学者が、自然のもっている窮極の秩序と、その秩序は発見できるものであるという確信とに関して一定の態度をもっていると同じように、物理を勉強している若い生徒が、学習することがらを、自分が思考するときに役立つものにし、意味のあるものにするような方法で組織しようとするならば、物理学者のもっている態度をいくらかでもそのまま自分のものにする必要がある。そのような態度を教育するためには、たんに基本的観念を提示する以上のなにかが必要である。」25頁

「そのようなやり方に賛成している議論は、学習がその学問の最前線でしていることと、子どもがはじめてそれに近づくときにしているものの間には連続性があるという想定を前提にしているのである。」35頁

 つまり、学習した結果ではなく、学習の「過程」そのものが重要ということだ。まさに学習指導要領が言うところの「過程を重視した学び」である。
 ということで、ブルーナー理論と最新学習指導要領には極めて近いものがあるのだが、ただブルーナーから60年経っているにもかかわらず、内容がさほど進歩しているようにも見えないのは、多少心配ではある。むしろ学習指導要領のほうが後退しているのではないかとも思えるのは、ブルーナー自身は以下のように言明しているからだ。

「知識を伝達し、有能さで身をしめす模範になるためには、教師は教えることと学ぶことにおいて自由でなければならない。」117頁

 現行の文部行政は、むしろ教師を「教えることと学ぶことにおいて不自由」にしつつあるように見える。本当にブルーナーの理念を実現したいのであれば、学習指導要領の法的拘束力は弛めるべきだろう。学習指導要領の法的拘束力を保ったままで学習指導要領の理念が実現することは、おそらく、ない。

 それから、ブルーナーは大学スポーツが嫌いなんだろうな、という記述がたくさんあって、ちょっと微笑ましい。彼は本当は「大学はスポーツをやるところじゃない」と声を大にして言いたいんだろうけれども、紳士らしくオブラートに包んだ表現になっているのであった。

「わが国の文化的風土は、伝統的に知的価値を高く評価するという特徴をもってきていない。」95頁

「どのようにすればわが国の学校にもっとまじめな知的な格調を与えることができるかということに関して、また一方では体育や通俗性や社交生活と、他方では学問性をもちこむことのどちらに学校は重点をおくべきかに関して大いに議論されている。」97頁

 体育や通俗性や社交生活を排除したくてたまらないブルーナーであったが、彼の望みは60年経った今もさほど変わっていないのであった。いやはや。

 それから、本書の元になった「ウッズ・ホール会議」が、スプートニクショックをきっかけにしていることは教員採用試験にもよく出てくる。本書ではソ連との関係は婉曲的に表現されるだけではあるが、それでも危機感はよく表れていると思う。

「国家の安全に対する危機感から生まれた心配が一度におしよせたこともまた原因であったことは疑えない。」96頁

J.S.ブルーナー『教育の過程』鈴木祥蔵・佐藤三郎訳、岩波書店、1963年

【要約と感想】イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』

【要約】学校という制度をなくしましょう。
学校という制度に捕らわれている限り、人々は幸せになれません。現代社会は人間生活に本質的には必要のない無駄なモノやサービスを大量に生産して、かけがえのない環境を破壊し、滅びに向かっているのですが、そのような破滅的な生活を根底から支えているものこそ学校制度なのです。なぜなら学校制度こそが「無駄な需要」を必需品と勘違いさせる元凶だからです。人々は学校から供給されるサービスを消費することに芯から慣れきり、官僚制度に飼い慣らされて、本質的には自分たちでできることすらサービス消費に依存するようになってしまうのです。環境を破壊する無駄な需要への欲望と期待を根底から断ち切り、官僚的なサービス消費への依存から脱却しない限り、人類は滅亡します。そのためにこそ、学校制度は廃止されなければなりません。
仮に学校がなくなっても、まったく困りません。学校がなくても「教育」は成立します。学校の代替となる制度についても、しっかり考えました。

【感想】
長く読み継がれているだけあって、様々なインスピレーションをもたらしてくれる本だ。とても面白い。学校に対する代替案は頼りないとしても、まったく問題ない。この本の魅力はそこにあるわけではない。本書の魅力の本質は、現代社会に対する極めて原理的な批判にある。
批判の原理は、大きく分けて2つの柱で構成されているように読んだ。一つは福祉国家を拒否するリバタリアン的な世界観であり、もう一つは人間の実存にかかわる人間観である。

リバタリアニズム

まず本書に一貫している理論的な柱は、リバタリアン的な世界観だ。イリイチは福祉国家的なあらゆる制度を否定し、個々人の自由を最大化しようとする。イリイチが福祉国家の害悪として特に槍玉に挙げるのは、官僚化した病院や学校制度だ。病院や学校が官僚的にサービスを供給することによって、本来なら人々が自分の力で処理できた物事が官僚組織の管理の対象となり、人間が本来もっていた自己処理の能力は剥落していく。
この視点は、フーコーの「生-権力」論と通底するものがある。本来は多様で渾沌としていた剥き出しの「生」だったものが、福祉国家が介入し管理することで規格化されていく。フーコーはそのような巧妙な権力のありかたを「生-権力」として浮き彫りにした。イリイチも同様に、人々の多様で渾沌とした生の営みが、官僚制度のサービス的介入によって規格化されることを批判する。

しかしフーコーの「生-権力」論とイリイチの脱学校論が違うのは、まず脱学校論が「コストパフォーマンス」という視点を前面に打ち出している点だろう。イリイチは、現状の学校制度がコスパ的に極めて効率が悪いことを繰り返し批判する。どれだけ学校制度に公的資金を大量に注ぎ込もうとも、目指すべき教育目標(たとえば卓越性や平等)は実現できないという主張だ。イリイチは、自分のアイデアが実現されれば、もっと安く、もっと手間がかからず、理想の教育が実現できると主張する。イリイチの脱学校論が説得力を持つかどうかは、「学校制度という巨大な官僚組織は、教育を行なう上で非効率的だ」という主張に具体的根拠があるかどうかにかかっている。それは「福祉国家の官僚制度一般は、国家運営の上で非効率だ」というリバタリアニズムの一般的な主張と同じ構造をとる。おそらくイリイチの脱学校論が世界的に広く受け入れられたのは、このリバタリアニズム的な課題意識と問題関心が、当時の福祉国家批判の流れと噛み合っていたからではないだろうか。実際、脱学校論以降、アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権、日本の中曽根政権は福祉国家政策を転換して「小さな政府」へと向かって行くこととなる。日本の臨時教育審議会が目指した教育改革は、イリイチの脱学校論の関心を部分的に共有しているように思える。具体的にはイリイチが提示している教育バウチャーというリバタリアニズム的なアイデアを、臨時教育審議会以降の新自由主義論者は繰り返し持ち出すことになる。
逆に言えば、もしもイリイチの脱学校論に対して直感的に危機感を覚えるとしたなら、その主要な原因はリバタリアニズム的な世界観にあるだろうと思う。新自由主義に対する危機感や嫌悪感を共有している場合、おそらく脱学校論の主張を素直に受け取ることはできないだろう。仮にイリイチが主張するように学校制度が福祉国家を代表する官僚組織であったとしても、それを解体してリバタリアニズムを実現したところで、本当に世界は良い方向に向かうのか。その疑問が拭えない限り、脱学校論の主張を全面的に受け入れることは難しい。

一方、通俗的な新自由主義論者とイリイチが決定的に異なるのは、イリイチの福祉国家批判が環境問題に対する課題意識を土台にしていることだ。彼が福祉国家批判や脱学校論を展開するのは、単にコストパフォーマンスの問題だけに関心があるからではない。もっと根本的な危機感が土台にあるのだ。
たとえば資源が有限で、地球環境がどんどん悪化し、このまま資源を浪費し続けていると地球が壊れるだろうことは薄々みんな気がついている。本書が出たのはもう50年近く前のことではあるが、地球環境の悪化に対する懸念は解決されるどころか、ますます終極に向かって突き進んでいるように思える。……まあ、ここまでは多くの人が異口同音に主張しているところだ。イリイチのオリジナリティは、環境問題が解決しない根本的な原因に「学校化社会」があると喝破したところにある。「<需要>の供給」を行なう学校制度こそが何にもまして根本的な原因だと見なしたのだ。
環境と資源の問題は、結局は「人々の欲望」が際限なく膨らんでいくことに根本的な原因がある。しかしイリイチの主張では、人々の欲望が膨らむのは必ずしも自然的な現象ではない。学校制度が介在することによって人々の欲望が人工的に生産されると言うわけだ。学校制度によって人工的に生産された欲望によって、不必要なモノだけでなく、不必要なサービスも過剰に生産される。不必要なサービスを供給するために巨大な官僚組織が必要とされ、その維持に莫大なコストが必要となる。そして巨大な官僚機構の不必要なサービス供給がいったん成立してしまったら、人々はそこに取り込まれ、需要することが当たり前と思い込むようになる。そして巨大な官僚機構の不必要なサービスの代表が、学校であり、病院であるというわけだ。
人間が本来もっている力を考えれば、そんなに莫大なコストをかけて官僚組織を維持するまでもなく、同じレベルの教育は可能だとイリイチは主張する。あるいは、官僚機構が浪費する莫大な費用と比較したらごくごく僅かなコストで、はるかに有意義な教育が可能になるとも言う。ともかくも、まずは学校制度という巨大な官僚機構が、途方もなく莫大なコストを浪費しながらも、まったく成果を挙げていないどころか逆効果の極みであり、これこそが環境破壊の元凶であることを直視せよと、イリイチは具体的な例を畳みかけてくるのだった。イリイチの「コストパフォーマンス」に対する関心が地球環境への危機感を土台としていることは、論理的に押さえておくべき要点のように思う。

人間が本来もっている力に対する信頼

学校制度に対する批判の二つ目の理論的柱は、人間観にある。特に人間が本来もっているはずの力に対する信頼が、理論の土台にあるように思える。
既に見たように、イリイチが学校制度を批判するのは、その官僚組織にサービスが供給されることにより、人間が本来もっていたはずの可能性が発露しないまま抑圧されるからだ。例えば人々はかつては自分の力で病気を治すための努力をしていたのが、現在は病院の制度化と官僚主義的な福祉厚生行政によって、単にサービスを需要するだけの消費者に成り下がっている。学校も同じく、人々を単にサービスを需要するだけの消費者と化している。イリイチがここに問題の根源を見るのは、フーコーが言う「生-権力」の問題と課題意識を共有している。
人々はかつて単に消費者だったのではなく、自分の生を生きていたはずだ。特に自分を理想の自己へと教育する行為は、官僚組織から与えられるサービス消費などではなく、自分自らを生産する行為であったはずだ。人間は自分を自分らしく教育する学習可能性が本来的に備わっていたはずだ。官僚的な学校制度は、この人間本来の力を破壊し、無力化し、人々を専門家の監視と指導の下に置く。制度化された権力が生の全面に滑り込んでくる。
イリイチの脱学校論は、生に滑り込んできた官僚組織を追い出し、人々がもともと持っていた自己形成への力を取り戻すことを目指す。人は、強制などされなくとも、適切な環境さえ整備されれば、自分から進んで自己形成を行なうものだ。その環境とは、イリイチが構想するところでは、教育の需要と供給をマッチングさせるネットワーク整備ということになる。そして本書が出版された50年前には夢想的だった制度構想が、現在のインターネットの発展によって実現可能になっている点も、論点としては極めて興味深い。が、さしあたって構想された制度の実現可能性については、検討しない。私の関心は、この構想の核心部分にある教育哲学的にある。

イリイチの教育哲学は、由来を遡るとルソー『エミール』に行き着くように思う。ルソーは教育の仕事として、自分の「力」でできることを増やしていくことが重要だと言った。人間にとって本当に幸せなことは、自分の力が拡張して、できることが増えていくことだ。いちばん避けなければならないのは、他人に言葉で命令してやらせることに慣れてしまうことだ。自分の力でできず、他人にやってもらうことほど惨めなことはない。このルソーの教育哲学を、イリイチも共有している。イリイチが最も忌避するのは、本来なら自分の力でできるようなことを他人に依存することだ。そして学校制度(あるいは病院)が最悪なのは、それが「他人に依存することを教える」ような官僚組織だからだ。他人に依存せず、自分の力でできることは自分でやる。そして「自分でやる」べき最たるものこそ、教育に他ならない。自分の教育は、自分でやる。そして人間は本来的に、その力を備えていたはずなのだ。
イリイチの脱学校論の根底にある教育哲学は、人間の自己教育への力に対する信頼であるように思う。脱学校論が様々な瑕疵にもかかわらず広く長く読み継がれているのは、この人間の力への信頼が土台となっているからであるように思う。

今後の研究のための備忘録

著者本来の主張とはおそらくあまり関係がないところで、いろいろ興味深い記述が多い。たとえば、イリイチ本人がカトリックと深く関わっていたからだろうが、教育(学校)を宗教の比喩でもって記述する文章が目につく。

【教育(学校)を宗教の比喩で捉えた記述】
「教育機会を平等にすることは、確かに望ましいことでもあり、実現可能な目標でもある。しかしこれを義務就学と同じことだと考えることは、魂の救済と教会とを混同することにも等しいのである。学校は近代化された無産階級の世界的宗教となっており、科学技術時代の貧しい人々に彼らの魂を救済するという約束をしているが、この約束は決してかなえられることはない。」29頁

「近代国家は自国の教育者の判断を、善意の怠学者補導官や就職条件を通して国民に押しつけてきたが、それはちょうどスペインの国王たちが彼らの神学者たちの判断を、中南米の征服者や宗教裁判を通して被征服民族や国民に押しつけたのと全く同じことなのである。」19-20頁

「それで、貧しい人々は自尊心を失い、学校を通してのみ救いを与えてくれる一つの教義に帰依することになる。少なくともキリスト教の教会は、人々の臨終の際に、彼らに懺悔をするチャンスを与えた。それに対して学校は彼らに、彼らの子孫がそれをなし遂げるであろうという期待(むなしい望み)を抱かせるのである。その期待とはもちろん、一層多く学習することであり、その学習は教師からでなく学校から与えられるものなのである。」65頁

「ところが、学校の教師と教会の牧師は、逃げ出す心配のない聴衆に説教するだけでなく、彼らに相談をしにきた人々の私事にまで立ち入って穿鑿する資格があると考える唯一の専門職業者なのである。」68頁

「今日学校制度は、有史以来の有力な宗教が共通にもっていた三重の機能を果たしている。それは社会の神話の貯蔵所、その神話のもつ矛盾の制度化、および神話と現実の間の相違を再生産し、それを隠蔽するための儀礼の場所という三つの役割を同時に果たしている。」78頁

「学校は、衰退しつつある現代文化の世界的宗教となるのに特に適しているように思われる。どんな制度も学校ほど上手には、その参加者に現代の世界における社会の原理と社会の現実との間の深い矛盾を隠蔽することはできないであろう。」p.88

教育や学校を宗教に喩える論法は様々に見ることができるが、イリイチの場合は単なる思いつきというレベルではなく、聖職者の経験を踏まえた上での論理的な記述なので、なかなか興味深く読める。

また、日本語では同じく「教育」と翻訳されるのであるが、英語言うeducationとinstuctionとdrillの違いについての見解は、なかなか興味深い。

【educationとinstructionの違いについての記述】
「社会を脱学校化するということは、学習の本質に二つの側面があることを認めることを意味している。技能の反復的練習(skill drill)だけを主張するならば不幸を招くであろう。学習の他の側面にも同じように重点をおかなければならない。しかし、もしも学校が技能を学ぶにふさわしくない場所であるならば、教育(education)を受けるにはもっとふさわしくない場所なのである。現在の学校はそのどちらの任務をも上手くやっていない。その理由の一部分は、学校がその両者を区別しないことにある。」40頁

「私は習得した技能の開放的かつ探求的使用を奨励するような環境の整備を「自由教育」(liberal education)と呼ぶことにする。学校はこの自由教育に関してはさらに効率が悪いのである。」40頁

「ほとんどの技能は、反復的練習(drill)によって習得し向上させることができる。なぜならば技能というのは、定義をし、かつ予測することのできる行動を習得することを意味するからである。したがって技能を教授するには、その技能が使われる環境の模擬に頼ることができる。しかしながら技能を探求的・創造的に使用することについての教育は、反復的練習に頼ることはできないのである。教育(education)が教授(instruction)の結果であることもあるが、その場合の教授は反復的練習とは基本的に異なる種類のものである。」41頁

「確かに技能の学習も、発明的創造的行動を育てる教育も、どちらも制度を変えることによってよりよいものにすることができるが、両者は本質的に異なり、しばしば対立する性質のものなのである。」41頁

この文章でイリイチは「教育(education)」と「教授(instruction)」を概念的に明確に使い分けている。そして学校制度はその両者ともにとって効率が悪いと主張する。
まず「教授=instruction」に対しては、イリイチは教育課程上の問題として議論を展開する。そして「教育=education」に対しては、就学義務の問題として議論を展開する。educationとinstructionは次元を異にする問題である。が、学校組織が害悪であるという点が共通しており、漠然と読むだけではイリイチの主張の要点を捉えるのが難しいのではないかと思う。educationとinstructionを概念的に区別することで、本来の主張を正確に理解できるのではないかと思った。

それから、「児童労働」についての見解は、なかなか興味深い。

【児童労働についての記述】
「もし、雇用条件が人間性を尊重するものであれば、八歳から十四歳までの年齢にある子供を、毎日、二時間雇う者には、特別な税法上の優遇措置がとられるであろう。われわれはユダヤ教の成人式あるいはキリスト教の堅信礼の伝統に戻るべきである。私がこのようなことをいう意味は、若者から公権をうばうことをはじめのうちは制限し、後にはそのようなことを全面的に廃止し、十二歳の少年が制限なしに社会生活に参加する責任をもつ人間であると認めることである。」156-157頁

教育史の常識では、児童労働の禁止は近代教育がなしとげた金字塔であった。が、イリイチはその成果を根本的に否定する。児童は労働するべきなのだ。その見解は、フーコーが『性の歴史』で子どもから性的自己決定権を奪うことの正当性に対して疑問を呈していることと根を同じくしている発想であるようにも思う。イリイチは子供にも自己決定権(政治的・市民的)を十分に与えるべきだと考えているのだろう。性的自己決定権についてイリイチがどう考えているかは、本書からはわからないが。
そういう意味では、イリイチが「学校の現象学」ということで、アリエス「子供の誕生」の知見を全面的に採用していることは、ナルホドというところではある。

【子供の誕生に関する記述】
「しかしながら、われわれは現在抱いている「子供時代」の概念が、西ヨーロッパにおいてつい最近、アメリカにおいては、さらに最近になってから発達したということを、忘れているのである。」60頁
「前世紀までは、中産階級の「子供たち」は家庭教師や私立学校の助けを借りながら家庭で育てられた。産業社会となってからはじめて「子供時代」の大量生産が実現可能となり、また大衆にも手の届くものとなった。学校制度は、それが作り出す子供時代と同じように、近代に出現した現象なのである。」61頁

イリイチは、近代によって大人と子供が分離したことそのものが問題の元凶であると捉えている。そういう意味で、徹底した反近代論者であると言えるし、特にそれを隠そうともしていない。プロメテウスを否定してエピメテウスを称揚する最終章は、まさに反近代主義の宣言であった。

イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』東洋・小澤周三訳、東京創元社、1977年

【要約と感想】『キケロー書簡集』

【要約】ローマ時代の文人政治家キケローが遺した書簡のうち、重要と思われるものを抜粋しています。キケロー39歳から63歳で暗殺されるまでの書簡が収録されており、ローマでのキャリア絶頂期→政敵に追放される不遇期→再びローマに戻って復活→やりたくなかった辺境の仕事で活躍→カエサルの台頭によって失脚→カエサルに赦されて復帰→哲学的な著作に邁進→愛娘の死→カエサル暗殺後の内乱勃発に伴いアントーニウス弾劾→暗殺、といった具合の波瀾万丈の人生が伺えます。手紙にはポンペーイウスやカエサル、アントーニウスやオクターウィアーヌスといった大物が登場し、当時のローマ帝国が陥った逼迫した情勢の一端を窺い知ることができます。

【感想】キケローの人となりは、まあ率直に言って、手紙を読むかぎり、尊敬に値しない。自己賛美が激しすぎるのと、二枚舌が眼について、見てらんない。節操がない。まあ当時のローマ帝国内の生き馬の目を抜くような権力闘争の渦中にあってはもちろん情状酌量の余地は極めて広いのだけれども、それでも一方で立派な綺麗事を述べている人物が、もう一方で自分の言っていることをまるで実践していないわけだから、読者が白けてしまうのもまた当然だろう。小カトーのように信念に殉じることができずに権力闘争に明け暮れ保身に走るのだったら、綺麗事なんか並べず、マキアベッリみたいに開き直ってくれた方が、ナンボかマシだと思う。いやほんと、口は達者だがやることはチンケな、いちばん厭なタイプの人間に見えてしまう。残された手紙を読むかぎりでは。
ちなみにキケローの人格が褒められたものでないことについては、古代末期最大の神学者との呼び声が高いアウグスティヌスも指摘しているし、17世紀の人文主義者モンテーニュもエピクロスとセネカと比較しながら小物っぷりにあきれている。

「この人の心のほうはそれほどでもないが、その人の言語はほとんどすべての人が感嘆している。」アウグスティヌス『告白』第3巻第4章7
「キケロについては、彼が心のうちに、学問以外に大してすぐれたものをもっていなかったという一般の意見に、私は賛成する。(中略)正直なところ、惰弱と野心的な虚栄を多分にもっていた。」モンテーニュ『エセー』第2巻第10章。
「雄弁の父であるキケロに死の蔑視について語らせ、セネカにも同じことを語らせてみるがよい。前者の言葉は力なくだらけているし、自分でも決心のできないことを読者に決心させようとしていることがわかるだろうから。彼が読者に少しも勇気を与えないのは彼に勇気がないからである。」モンテーニュ『エセー』第2巻第31章

ほかにもモンテーニュ『エセー』はキケロに対する悪口で満たされている。本当に心から軽蔑しているようだ。まあ、その気持ちはよく分かる。
まあ、私の印象に残るキケローの人となりは脇に置いておいて、客観的に見たとき、極めて重要な歴史的証言が並び、かつ人生の教訓に満ちているのは間違いない。歴史的には、ローマの共和制が崩壊して帝政に遷り変わっていく過程が非常によく分かる内容になっている。この変化の過程でもキケローは相変わらず保守的な考えにしがみついて、カエサルのビジョンをまったく理解していないように見える。貧富の差が激しい格差社会において底辺の人々が抱く不満について、何も理解していないように見える。小さな規模の国家では上手く回っていた法律や道徳律が、グローバル社会では上手く機能しないということを何も分かっていないように見える。時代の転換点では、こういう保守的な人間が結局は社会を崩壊に導くということが見える。そしてその人間と社会の本質は、二千年の時を超えた現在でも変わっていないように見えてしまうことが、なかなかに恐ろしい。そういう意味では、キケローを読み返す価値は充分にあると思ってしまったのだった。

あと、心では嫌いな相手に対しても礼儀正しい文章を書きたいとき、本書はお手本として極めて役に立つ。実際に使える言い回しが満載だ。使おう。

『キケロー書簡集』高橋宏幸訳、岩波文庫、2006年

【要約と感想】キケロー『友情について』

【要約】友情は、お金や権力や名誉などよりも遙かに素晴らしいものです。なぜならお金や権力や名誉等は別の何かの役に立つことで初めて意味を持つものですが、友情はそれだけで意味のあるものだからです。
しかし徳と愛に基づいた友情でなければ、結ぶ意味はありません。利益や打算に基づいた友情は、必ず破綻します。友達だからといって、なんでも相手の要求を聞けばいいというものではありません。くだらない人間とは友情を結ばないようにしましょう。

【感想】実践的に言えば、「ともだち100人できるかな?」なんて言っている人に読ませるべき本ではある。100人も必要ないことが、よくわかる。

学術的には、アリストテレスの友情論(友愛=フィリア)との比較が課題になるようだ。細かい点で相違があるのは確かだが、友情の本質が「非功利性」にあると見ている点では、相通じるものがある。

とはいえ、『キケロー書簡集』を読むと、本人の言っていることとやっていることがまったく連動しておらず、本書の内容が所詮は綺麗事の言葉に過ぎないことが伺える。残念なことだ。

キケロー『友情について』中務哲郎訳、岩波文庫、2004年