【要約と感想】イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』

【要約】学校という制度をなくしましょう。
学校という制度に捕らわれている限り、人々は幸せになれません。現代社会は人間生活に本質的には必要のない無駄なモノやサービスを大量に生産して、かけがえのない環境を破壊し、滅びに向かっているのですが、そのような破滅的な生活を根底から支えているものこそ学校制度なのです。なぜなら学校制度こそが「無駄な需要」を必需品と勘違いさせる元凶だからです。人々は学校から供給されるサービスを消費することに芯から慣れきり、官僚制度に飼い慣らされて、本質的には自分たちでできることすらサービス消費に依存するようになってしまうのです。環境を破壊する無駄な需要への欲望と期待を根底から断ち切り、官僚的なサービス消費への依存から脱却しない限り、人類は滅亡します。そのためにこそ、学校制度は廃止されなければなりません。
仮に学校がなくなっても、まったく困りません。学校がなくても「教育」は成立します。学校の代替となる制度についても、しっかり考えました。

【感想】
長く読み継がれているだけあって、様々なインスピレーションをもたらしてくれる本だ。とても面白い。学校に対する代替案は頼りないとしても、まったく問題ない。この本の魅力はそこにあるわけではない。本書の魅力の本質は、現代社会に対する極めて原理的な批判にある。
批判の原理は、大きく分けて2つの柱で構成されているように読んだ。一つは福祉国家を拒否するリバタリアン的な世界観であり、もう一つは人間の実存にかかわる人間観である。

リバタリアニズム

まず本書に一貫している理論的な柱は、リバタリアン的な世界観だ。イリイチは福祉国家的なあらゆる制度を否定し、個々人の自由を最大化しようとする。イリイチが福祉国家の害悪として特に槍玉に挙げるのは、官僚化した病院や学校制度だ。病院や学校が官僚的にサービスを供給することによって、本来なら人々が自分の力で処理できた物事が官僚組織の管理の対象となり、人間が本来もっていた自己処理の能力は剥落していく。
この視点は、フーコーの「生-権力」論と通底するものがある。本来は多様で渾沌としていた剥き出しの「生」だったものが、福祉国家が介入し管理することで規格化されていく。フーコーはそのような巧妙な権力のありかたを「生-権力」として浮き彫りにした。イリイチも同様に、人々の多様で渾沌とした生の営みが、官僚制度のサービス的介入によって規格化されることを批判する。

しかしフーコーの「生-権力」論とイリイチの脱学校論が違うのは、まず脱学校論が「コストパフォーマンス」という視点を前面に打ち出している点だろう。イリイチは、現状の学校制度がコスパ的に極めて効率が悪いことを繰り返し批判する。どれだけ学校制度に公的資金を大量に注ぎ込もうとも、目指すべき教育目標(たとえば卓越性や平等)は実現できないという主張だ。イリイチは、自分のアイデアが実現されれば、もっと安く、もっと手間がかからず、理想の教育が実現できると主張する。イリイチの脱学校論が説得力を持つかどうかは、「学校制度という巨大な官僚組織は、教育を行なう上で非効率的だ」という主張に具体的根拠があるかどうかにかかっている。それは「福祉国家の官僚制度一般は、国家運営の上で非効率だ」というリバタリアニズムの一般的な主張と同じ構造をとる。おそらくイリイチの脱学校論が世界的に広く受け入れられたのは、このリバタリアニズム的な課題意識と問題関心が、当時の福祉国家批判の流れと噛み合っていたからではないだろうか。実際、脱学校論以降、アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権、日本の中曽根政権は福祉国家政策を転換して「小さな政府」へと向かって行くこととなる。日本の臨時教育審議会が目指した教育改革は、イリイチの脱学校論の関心を部分的に共有しているように思える。具体的にはイリイチが提示している教育バウチャーというリバタリアニズム的なアイデアを、臨時教育審議会以降の新自由主義論者は繰り返し持ち出すことになる。
逆に言えば、もしもイリイチの脱学校論に対して直感的に危機感を覚えるとしたなら、その主要な原因はリバタリアニズム的な世界観にあるだろうと思う。新自由主義に対する危機感や嫌悪感を共有している場合、おそらく脱学校論の主張を素直に受け取ることはできないだろう。仮にイリイチが主張するように学校制度が福祉国家を代表する官僚組織であったとしても、それを解体してリバタリアニズムを実現したところで、本当に世界は良い方向に向かうのか。その疑問が拭えない限り、脱学校論の主張を全面的に受け入れることは難しい。

一方、通俗的な新自由主義論者とイリイチが決定的に異なるのは、イリイチの福祉国家批判が環境問題に対する課題意識を土台にしていることだ。彼が福祉国家批判や脱学校論を展開するのは、単にコストパフォーマンスの問題だけに関心があるからではない。もっと根本的な危機感が土台にあるのだ。
たとえば資源が有限で、地球環境がどんどん悪化し、このまま資源を浪費し続けていると地球が壊れるだろうことは薄々みんな気がついている。本書が出たのはもう50年近く前のことではあるが、地球環境の悪化に対する懸念は解決されるどころか、ますます終極に向かって突き進んでいるように思える。……まあ、ここまでは多くの人が異口同音に主張しているところだ。イリイチのオリジナリティは、環境問題が解決しない根本的な原因に「学校化社会」があると喝破したところにある。「<需要>の供給」を行なう学校制度こそが何にもまして根本的な原因だと見なしたのだ。
環境と資源の問題は、結局は「人々の欲望」が際限なく膨らんでいくことに根本的な原因がある。しかしイリイチの主張では、人々の欲望が膨らむのは必ずしも自然的な現象ではない。学校制度が介在することによって人々の欲望が人工的に生産されると言うわけだ。学校制度によって人工的に生産された欲望によって、不必要なモノだけでなく、不必要なサービスも過剰に生産される。不必要なサービスを供給するために巨大な官僚組織が必要とされ、その維持に莫大なコストが必要となる。そして巨大な官僚機構の不必要なサービス供給がいったん成立してしまったら、人々はそこに取り込まれ、需要することが当たり前と思い込むようになる。そして巨大な官僚機構の不必要なサービスの代表が、学校であり、病院であるというわけだ。
人間が本来もっている力を考えれば、そんなに莫大なコストをかけて官僚組織を維持するまでもなく、同じレベルの教育は可能だとイリイチは主張する。あるいは、官僚機構が浪費する莫大な費用と比較したらごくごく僅かなコストで、はるかに有意義な教育が可能になるとも言う。ともかくも、まずは学校制度という巨大な官僚機構が、途方もなく莫大なコストを浪費しながらも、まったく成果を挙げていないどころか逆効果の極みであり、これこそが環境破壊の元凶であることを直視せよと、イリイチは具体的な例を畳みかけてくるのだった。イリイチの「コストパフォーマンス」に対する関心が地球環境への危機感を土台としていることは、論理的に押さえておくべき要点のように思う。

人間が本来もっている力に対する信頼

学校制度に対する批判の二つ目の理論的柱は、人間観にある。特に人間が本来もっているはずの力に対する信頼が、理論の土台にあるように思える。
既に見たように、イリイチが学校制度を批判するのは、その官僚組織にサービスが供給されることにより、人間が本来もっていたはずの可能性が発露しないまま抑圧されるからだ。例えば人々はかつては自分の力で病気を治すための努力をしていたのが、現在は病院の制度化と官僚主義的な福祉厚生行政によって、単にサービスを需要するだけの消費者に成り下がっている。学校も同じく、人々を単にサービスを需要するだけの消費者と化している。イリイチがここに問題の根源を見るのは、フーコーが言う「生-権力」の問題と課題意識を共有している。
人々はかつて単に消費者だったのではなく、自分の生を生きていたはずだ。特に自分を理想の自己へと教育する行為は、官僚組織から与えられるサービス消費などではなく、自分自らを生産する行為であったはずだ。人間は自分を自分らしく教育する学習可能性が本来的に備わっていたはずだ。官僚的な学校制度は、この人間本来の力を破壊し、無力化し、人々を専門家の監視と指導の下に置く。制度化された権力が生の全面に滑り込んでくる。
イリイチの脱学校論は、生に滑り込んできた官僚組織を追い出し、人々がもともと持っていた自己形成への力を取り戻すことを目指す。人は、強制などされなくとも、適切な環境さえ整備されれば、自分から進んで自己形成を行なうものだ。その環境とは、イリイチが構想するところでは、教育の需要と供給をマッチングさせるネットワーク整備ということになる。そして本書が出版された50年前には夢想的だった制度構想が、現在のインターネットの発展によって実現可能になっている点も、論点としては極めて興味深い。が、さしあたって構想された制度の実現可能性については、検討しない。私の関心は、この構想の核心部分にある教育哲学的にある。

イリイチの教育哲学は、由来を遡るとルソー『エミール』に行き着くように思う。ルソーは教育の仕事として、自分の「力」でできることを増やしていくことが重要だと言った。人間にとって本当に幸せなことは、自分の力が拡張して、できることが増えていくことだ。いちばん避けなければならないのは、他人に言葉で命令してやらせることに慣れてしまうことだ。自分の力でできず、他人にやってもらうことほど惨めなことはない。このルソーの教育哲学を、イリイチも共有している。イリイチが最も忌避するのは、本来なら自分の力でできるようなことを他人に依存することだ。そして学校制度(あるいは病院)が最悪なのは、それが「他人に依存することを教える」ような官僚組織だからだ。他人に依存せず、自分の力でできることは自分でやる。そして「自分でやる」べき最たるものこそ、教育に他ならない。自分の教育は、自分でやる。そして人間は本来的に、その力を備えていたはずなのだ。
イリイチの脱学校論の根底にある教育哲学は、人間の自己教育への力に対する信頼であるように思う。脱学校論が様々な瑕疵にもかかわらず広く長く読み継がれているのは、この人間の力への信頼が土台となっているからであるように思う。

今後の研究のための備忘録

著者本来の主張とはおそらくあまり関係がないところで、いろいろ興味深い記述が多い。たとえば、イリイチ本人がカトリックと深く関わっていたからだろうが、教育(学校)を宗教の比喩でもって記述する文章が目につく。

【教育(学校)を宗教の比喩で捉えた記述】
「教育機会を平等にすることは、確かに望ましいことでもあり、実現可能な目標でもある。しかしこれを義務就学と同じことだと考えることは、魂の救済と教会とを混同することにも等しいのである。学校は近代化された無産階級の世界的宗教となっており、科学技術時代の貧しい人々に彼らの魂を救済するという約束をしているが、この約束は決してかなえられることはない。」29頁

「近代国家は自国の教育者の判断を、善意の怠学者補導官や就職条件を通して国民に押しつけてきたが、それはちょうどスペインの国王たちが彼らの神学者たちの判断を、中南米の征服者や宗教裁判を通して被征服民族や国民に押しつけたのと全く同じことなのである。」19-20頁

「それで、貧しい人々は自尊心を失い、学校を通してのみ救いを与えてくれる一つの教義に帰依することになる。少なくともキリスト教の教会は、人々の臨終の際に、彼らに懺悔をするチャンスを与えた。それに対して学校は彼らに、彼らの子孫がそれをなし遂げるであろうという期待(むなしい望み)を抱かせるのである。その期待とはもちろん、一層多く学習することであり、その学習は教師からでなく学校から与えられるものなのである。」65頁

「ところが、学校の教師と教会の牧師は、逃げ出す心配のない聴衆に説教するだけでなく、彼らに相談をしにきた人々の私事にまで立ち入って穿鑿する資格があると考える唯一の専門職業者なのである。」68頁

「今日学校制度は、有史以来の有力な宗教が共通にもっていた三重の機能を果たしている。それは社会の神話の貯蔵所、その神話のもつ矛盾の制度化、および神話と現実の間の相違を再生産し、それを隠蔽するための儀礼の場所という三つの役割を同時に果たしている。」78頁

「学校は、衰退しつつある現代文化の世界的宗教となるのに特に適しているように思われる。どんな制度も学校ほど上手には、その参加者に現代の世界における社会の原理と社会の現実との間の深い矛盾を隠蔽することはできないであろう。」p.88

教育や学校を宗教に喩える論法は様々に見ることができるが、イリイチの場合は単なる思いつきというレベルではなく、聖職者の経験を踏まえた上での論理的な記述なので、なかなか興味深く読める。

また、日本語では同じく「教育」と翻訳されるのであるが、英語言うeducationとinstuctionとdrillの違いについての見解は、なかなか興味深い。

【educationとinstructionの違いについての記述】
「社会を脱学校化するということは、学習の本質に二つの側面があることを認めることを意味している。技能の反復的練習(skill drill)だけを主張するならば不幸を招くであろう。学習の他の側面にも同じように重点をおかなければならない。しかし、もしも学校が技能を学ぶにふさわしくない場所であるならば、教育(education)を受けるにはもっとふさわしくない場所なのである。現在の学校はそのどちらの任務をも上手くやっていない。その理由の一部分は、学校がその両者を区別しないことにある。」40頁

「私は習得した技能の開放的かつ探求的使用を奨励するような環境の整備を「自由教育」(liberal education)と呼ぶことにする。学校はこの自由教育に関してはさらに効率が悪いのである。」40頁

「ほとんどの技能は、反復的練習(drill)によって習得し向上させることができる。なぜならば技能というのは、定義をし、かつ予測することのできる行動を習得することを意味するからである。したがって技能を教授するには、その技能が使われる環境の模擬に頼ることができる。しかしながら技能を探求的・創造的に使用することについての教育は、反復的練習に頼ることはできないのである。教育(education)が教授(instruction)の結果であることもあるが、その場合の教授は反復的練習とは基本的に異なる種類のものである。」41頁

「確かに技能の学習も、発明的創造的行動を育てる教育も、どちらも制度を変えることによってよりよいものにすることができるが、両者は本質的に異なり、しばしば対立する性質のものなのである。」41頁

この文章でイリイチは「教育(education)」と「教授(instruction)」を概念的に明確に使い分けている。そして学校制度はその両者ともにとって効率が悪いと主張する。
まず「教授=instruction」に対しては、イリイチは教育課程上の問題として議論を展開する。そして「教育=education」に対しては、就学義務の問題として議論を展開する。educationとinstructionは次元を異にする問題である。が、学校組織が害悪であるという点が共通しており、漠然と読むだけではイリイチの主張の要点を捉えるのが難しいのではないかと思う。educationとinstructionを概念的に区別することで、本来の主張を正確に理解できるのではないかと思った。

それから、「児童労働」についての見解は、なかなか興味深い。

【児童労働についての記述】
「もし、雇用条件が人間性を尊重するものであれば、八歳から十四歳までの年齢にある子供を、毎日、二時間雇う者には、特別な税法上の優遇措置がとられるであろう。われわれはユダヤ教の成人式あるいはキリスト教の堅信礼の伝統に戻るべきである。私がこのようなことをいう意味は、若者から公権をうばうことをはじめのうちは制限し、後にはそのようなことを全面的に廃止し、十二歳の少年が制限なしに社会生活に参加する責任をもつ人間であると認めることである。」156-157頁

教育史の常識では、児童労働の禁止は近代教育がなしとげた金字塔であった。が、イリイチはその成果を根本的に否定する。児童は労働するべきなのだ。その見解は、フーコーが『性の歴史』で子どもから性的自己決定権を奪うことの正当性に対して疑問を呈していることと根を同じくしている発想であるようにも思う。イリイチは子供にも自己決定権(政治的・市民的)を十分に与えるべきだと考えているのだろう。性的自己決定権についてイリイチがどう考えているかは、本書からはわからないが。
そういう意味では、イリイチが「学校の現象学」ということで、アリエス「子供の誕生」の知見を全面的に採用していることは、ナルホドというところではある。

【子供の誕生に関する記述】
「しかしながら、われわれは現在抱いている「子供時代」の概念が、西ヨーロッパにおいてつい最近、アメリカにおいては、さらに最近になってから発達したということを、忘れているのである。」60頁
「前世紀までは、中産階級の「子供たち」は家庭教師や私立学校の助けを借りながら家庭で育てられた。産業社会となってからはじめて「子供時代」の大量生産が実現可能となり、また大衆にも手の届くものとなった。学校制度は、それが作り出す子供時代と同じように、近代に出現した現象なのである。」61頁

イリイチは、近代によって大人と子供が分離したことそのものが問題の元凶であると捉えている。そういう意味で、徹底した反近代論者であると言えるし、特にそれを隠そうともしていない。プロメテウスを否定してエピメテウスを称揚する最終章は、まさに反近代主義の宣言であった。

イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』東洋・小澤周三訳、東京創元社、1977年