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【要約と感想】苅谷剛彦『追いついた近代 消えた近代―戦後日本の自己像と教育』

【要約】日本の教育政策がどうして迷走を続けているかというと、現実に基づいた帰納的思考が貧弱だからです。具体的には、「近代(化)」という言葉を追いかけると、よく分かります。
日本は「追いつき追いこせ」の近代化を進めてきましたが、1980年代に西欧に追いついたと思い込み、「近代は終わった」と公言しはじめました。しかし「近代」とは、我々の生活をより良くしていこうという「現在」を含み込んだ考え方だったはずです。日本は「近代は終わった」と声高に叫ぶことで、むしろ「現在」を考える視点を失っただけでした。そして「近代」という参照軸を失って空虚になった1980年代以降、エセ新自由主義やエセ愛国主義が蔓延することになります。

【感想】著者が本文で何度も断っているように、本書は「言説分析」に終始している。つまり空中戦だ。著者ご本人は教育社会学者として「地上戦(つまり実態分析)」でたくさんの成果を挙げてきた。しかし本書で空中戦に挑むのは、せっかく地上戦で戦果を挙げても、空中戦で全て台無しにされてしまうというふうに、何度も煮え湯を飲まされてきたからなのだろう。本書でも、社会学者の着実な業績を台無しにし続ける官僚=東大法学部に対する恨み辛みが垣間見えるところである。著者は東大法学部に特有の思考様式を分析した上で、それを「エセ演繹思考」と切って捨てる。教育改革が迷走し続けるのは、官僚や学者がエセ演繹思考にしがみついているからだ。そう喝破して、返す刀で新自由主義やナショナリズムを薙ぎ倒す筆致は、迫力に溢れている。とても読み応えがあった。

【要確認事項】
とはいえ、明治期を主戦場とする日本教育史研究者としては、ハテナと思うところもないわけではない。
まず個人・国家・世界の関係について、著者は「個は国家(特殊)を通じて世界(普遍)に至る」という予定調和的な理想主義に触れて臨時教育審議会を分析しているが、こういう理想主義は、戦後どころか、明治20年代後半には既に広く見られる発想である。特に岡倉天心や三宅雪嶺には顕著だ。三宅雪嶺「真善美日本人」などは、そういう「特殊=日本/普遍=世界」理解を素直に体現している。「日本的な「特異」性を否定するのではなく、それを肯定する日本への回帰が強調されるようになる」(97頁)のは、まさに岡倉天心の思想そのものだ(詳細は私の論文「明治10年代の美術における国粋主義の検討」参照)。そして戦後直後においても、南原繁や上原専禄が同じような見解を表明している。臨時教育審議会から始まったわけではない。「特殊/普遍」に対する発想を戦後のものと見なすのは、思想史的に疑問とせざるを得ない。
まあ、この論点が崩れたところで本書全体の趣旨は損なわれないだろうとは思うが、専門家としては気になるところだ。
そして、「近代」という言葉で空中戦を行うなら、柳父章『翻訳語成立事情』の「近代」項目は参照必須文献だと思うのだが、敢えてスルーしたのかどうか。一言も触れられていないのは、ちょっと気持ちが悪いところだ。

【今後の個人的研究のための備忘録】
「人格」と「個性」に対する興味深い言及があった。

「ここでは「日本国民は人間性、人格、個性を十分に尊重しない」という問題を構築したうえで、「人間性、人格、個性」の三つの言葉にわざわざ説明を加えている。これらの概念が日本人には理解されていなかったという暗黙の前提がはたらいたのだろう。今日これらの言葉にこのような説明が不要なことを念頭に置けば、異様な感のする説明である。それほど、これら三つの言葉で示された価値が、戦前の日本には欠落していたとみなされていたのだろう。」(189頁)

驚いた。私は、現在でも日本人の大半が「人間性」「人格」「個性」という言葉を理解していないと思っている。阿部謹也もそう言っている。チコちゃんから街の人に「人格って何?」と聞いてもらえばいい。大半の日本人は「ボーっと生きている」はずだ。私にしても、うまく説明できる自信はない。これらの言葉は、わかったつもりでいるが、改めて聞かれると説明できない類の「翻訳語」だ。きっと柳父章も賛成してくれるだろう。しかし著者は「説明が不要」と言っているわけだ。
まあ、著者としても、本気で言っているというよりは、筆が滑っただけのような気はする。というのも、まさに「人格」とか「個性」という言葉こそ、著者が気迫を込めて批判している「エセ演繹思考」の元凶だろうからだ。帰納的に経験や事実が積み重ねられて鍛えられた言葉ではなく、必要に迫られて(法学や経済学で必要な概念だから)海外から輸入されて、意味も分からないままに使用しているうち、なんとなく理解したようなつもりになっただけの、表面的で浅い言葉なのだ。本書でも「多くの近代法を含め、日本語にはもともとなかった観念や、翻訳によっても、日本の過去に対応物がなかったり、観念レベルでまったく異なる制度を導入しようとする場合には、外来の知識の学習を頼りに、そこからの演繹的な思考によって導きだされる理解に基づいて、制度をつくりだすしかなかったはずだ。」(282頁)と指摘しているところだ。
そしてだからこそ、著者の分析枠組み通り、1980年代以降の「近代の消失」と「経済の前景化」に伴って、「人格」や「個性」という言葉の意味はガラリと変わる。たとえば臨時教育審議会以降に「個性」という言葉から人文科学的な背景が剥落し、単に経済的な適材適所を意味するようになったのは、数々の臨教審研究が明らかにしているところだ。「人格」という言葉についても、今時学習指導要領改訂に関わった人々が、歴史と哲学に基づかない極めて皮相な経済中心的見解を示している(国立教育政策研究所編『資質・能力[理論編]』参照)。「人格」や「個性」という言葉は、日本の現実に基づかず、「エセ演繹思考」のド真ん中(まさに教育基本法第1条)に居座っていたからこそ、逆に意味内容を完全に失いながらも現在まで生き延びていると言える。意味内容を真剣に問われることもないまま、「わかったつもり」の人々が、「エセ演繹思考」に従って使い続けるのである。だから学習指導要領解説編の「人格」という言葉は、極めて薄っぺらいものになっているわけだ。
ちなみに『新教育指針』における「人格・個性・人間性」理解は、明治後期から大正期にかけてカント及び新カント派の受容を踏まえた教養主義的な見解そのままと言える。そしてそれは天野貞祐『国民実践要領』なり『期待される人間像』にまで引き継がれる理解である。1900年から1970年までは、「人格」理解はカント的な背景で一貫している。それががらりと変わるのは、1980年以降のことになる。具体的には、カント的な理解が通用しなくなり、経済(能力)至上主義的な発想と儒教的な発想の2つが忍び込んでくる。その変化を説明する理論枠組みとして、本書が指し示した「近代が消された」という分析は極めて有効だ。「人格」からはカント(近代哲学)が殺されたのだ。実行犯は「経済至上主義」と「薄っぺらい愛国主義」だ。黒幕は、本書全体の行論が指し示すとおりだろう。
そんなわけで、著者自身は理論的な分析枠組みをしっかり提出しているのに、その枠組みを「人格」や「個性」という「エセ演繹思考」の元凶であろう言葉に及ぼさなかったのが、驚いたのであった。

それから、著者が「近代」の本質として「再帰性」を挙げているところは興味深い。自分自身が自分自身を「反省」して自分自身を変えていくというのが「再帰性」である。再帰性の要点とは、「絶え間ない変化」を繰り返しつつも、それでも「自分自身は自分自身のまま」というアイデンティティ(同一性)を保つところである。「変化しても変化しない」というのが再帰性というものが果たす機能である。つまり本書の趣旨から言えば、「近代は終わった」と認識することは、「変化するのか変化しないのか、どこをどう考えていいか分からない」という状態に陥ることを意味している。
実は「人格」というものの本質も、同じく「再帰性」である。私の定義では、「人格」とは「再帰的な一」であることに尽きる。そしてそれは「国家」にも適用できる。いやむしろ、「近代国家」と「近代人格」の本質が「再帰的な一」として相似的であるのが近代という時代の特徴とも言える。そして日本では、良いか悪いかは別として、この「再帰的な一」としての「人格」が決定的に理解されていないだろうと思うのだ。だから「アイデンティティ」という言葉の意味もわからなくなる。
しかし「再帰性」を本当に実現するためには、前期ヴィトゲンシュタインの指摘をまつまでもなく、必ず自分自身の中に「特異点」を必要とする。特異点を一つ以上設定しなければ、「再帰的な一」は成立しない。西欧諸国の場合は、それが「神」だった。日本の場合は「天皇」となった。特異点は何でもよい。「眼鏡」でもよい。本当に「近代」というものを突き詰めようと思ったら、本当はこの「特異点」にまで手を突っ込む必要がある。しかし本書は、その痒いところに手が届く前に終わっている。著者も自覚しているが。

苅谷剛彦『追いついた近代 消えた近代―戦後日本の自己像と教育』岩波書店、2019年

【要約と感想】工藤勇一『学校の「当たり前」をやめた。』

【要約】学校が機能不全に陥っているのは、目的と手段を取り違えているからです。目的を適切に設定した上で、手段を合理的に取捨選択しましょう。必ず状況は良くなります。
たとえば、期末テストなどやめてしまえばいいのです。期末テストなんかやっても、学生は一夜漬けに勤しむだけで、本物の学力は伸びません。逆に、他の手段で学力が伸びるなら、期末テストなどやる必要はありません。
宿題も廃止しました。宿題など、学力を伸ばす上でなんの役にも立っていません。廃止したほうが、学力が伸びます。
期末テストや宿題にこだわる人は、単に目的を見失って、思考停止に陥り、前例にしがみついているだけです。学校が何のために存在しているのか、根本から考え直す時代が来ています。かつて学校は時代の最先端でしたが、むしろ今は最も遅れています。今の時代、そもそも学校など必要ないかもしれません。

【感想】文科省が校長先生に「学校運営=マネジメント」の力を要求するようになって、しばらく経つ。本書に示された諸改革は、いわばマネジメントのお手本のようなものかもしれない。まず「目的」を適切に設定した上で、PDCAの「C」を軸にサイクルを回す、というところが教科書的なわけだ。実際のところ、学校では、マネジメントの最重要ポイントである「目的を適切に設定する」ということが、なかなか難しかったりする。文科省や教育委員会から目的が降りてきて、主体的に判断する力が育ってこなかったからだ。まあ、学校そのものの問題というよりは、上から目的を押しつけてきた教育行政そのものの問題であるようには思うが。

とは言うものの、いよいよ学校が独自のマネジメントを要求される時代に入ってしまったわけで、力が育っていないと嘆いている場合ではない。これを好機と捉えて文科省や教育委員会の圧力から離れて独自路線を行くか、従来通り上から言われたことを下請的にこなしていくのか、時代の分かれ目である。主体的な力を発揮する学校と、言われたことしかやらない学校で、これからますます格差が拡大していくことになるだろう。いやはや。

【今後の研究のための備忘録】
学習指導要領に対する苦言が現場の校長先生から発せられていることが興味深い。

「すでに2018年度から先行実施されている新しい学習指導要領は、「社会に開かれた教育課程」を標榜しています。(中略)しかし、学習指導要領の存在自体が、教員の自由な発想を忘れさせて、「社会に開かれた教育課程」の阻害要因となっているのは、何とも不思議なことではないかと思います。」74-75頁

学校評価に対するコメント(158-159頁)も、上から基準を設定することの無意味さやバカバカしさを指摘していて、なかなか要点を突いている。

またあるいは、教育のサービス化に対する苦言も、興味深い。

「しかし、現状の学校と保護者の関係を見ると、保護者が「消費者」、学校が「サービス事業者」と化しているような状況が見受けられます。保護者のクレームを真に受けて対応した結果、子どもが自律する機会が失われてしまったこともあるはずです。(中略)自身に当事者だという意識があれば、文句を言うより先に「どうすればよいか」を考え、行動を起こします。逆に、当事者意識がないと、「お客様感覚」で何か不都合が起きると、自分ではない周りの誰かのせいにしようとするものです。」152-153頁

ここから「コミュニティ・スクール」の必要性へと話が展開していく。これからの公教育は、学校だけが担うのではなく、大人たち全員が責任を持って進めなければ成り立たないと、私としても思う。

全体的な思想背景としては、「近代の終わり」が強烈に自覚されている。「近代」には学校の存在価値について疑問が持たれることはなかったが、「近代の終わり」に際しては、学校の存在価値が失われるという時代感覚である。これからの学校は、「近代の終わり」に対応して、変わっていく必要があるという認識である。学校改革で打った手が有効かどうかは、最終的にはこの歴史認識が適切かどうかに関わってくるのであった。

工藤勇一『学校の「当たり前」をやめた。生徒も教師も変わる!公立名門中学校長の改革』時事通信社、2018年

【要約と感想】小西正雄『君は自分と通話できるケータイを持っているか』

【要約】答えを知っている者(教師)が答えを知らない者(学生)に質問する形の授業では、本来の学びが促進されません。学生たちの「解釈フィルター」と「活用エンジン」を活性化させることが大切です。そう考えると、現在の授業研究には危機感を抱かざるを得ません。
理性には限界があるので、理性的な対象を想定した授業研究は、生きる力の活性化には意味がありません。一回性こそが尊いのです。

【感想】学校で語られがちな「キレイゴト」の数々に鋭いツッコミを入れていく。なるほどなあ、と思うことも多い。「こうやって論点をズラすのね」と、教養の深さと視野の広さに感心するところもあったりする。
とはいえ個人的には、著者がとりあげなかった問題にこそ、問題の本質があると思ってしまうところでもある。具体的には、本書は「資本主義の本質」に切り込んでいくような論点を意図的に避けているように見えた。いわゆる進歩主義的教育が言いがちなキレイゴトに対する論評が鋭いだけに、現実そのものに切り込んでいかない態度に対しては釈然としない違和感を抱えてしまうところではある。
まあ、本書では「理性」の限界を示しながら「非合理」や「矛盾」に耐えることを推奨しているところなので、こういう非合理な姿勢も受け容れて、学べるところだけ学ぶのであった。一回性が尊いことについては、私も教育に携わる者として、意見を同じくする。本書との邂逅も、実に一回性のなせる業である。いやはや。

【言質】近代と学校の関係に関する言質を得た。大雑把に言えば「近代の終わり」に対する言及だ。

「近代国家は、整備された統治組織と独立を維持するための軍隊とそして一つの国家のもとにつどう国民の存在を必要とした。その国民を創出するために、学校教育という近代公教育がスタートする。すなわち学校は軍隊と同じ使命のものち編み出されてきた近代化のための装置であったのである。」183頁
「近代の荒波に船出していくには、学校という強制の場に子供たちを集め、一定の到達目標を掲げて「国民」を育成していくことは避けて通れない道であった。」184頁
「したがって、近代教育と近代工業はほとんどアナロジーが可能である。」185頁
「近代国家、軍隊と学校、近代科学、近代工業は、たがいに影響しあいながらそれぞれの発展の道をたどってきた。それは、合理、分析、規格、統制などをキーワードとする壮大な歴史絵巻とも言える現象であった。」186頁
「いじめや不登校などのいわゆる教育問題のそれぞれにはそれぞれの背景はあろうが、巨視的にみた場合、教育問題なるものは、近代の装置としての学校と眼前の子供が生きる「現代」とのミスマッチが、もはや限界に達していることの現れである。」186頁

学校と「近代」の密接不可分な関連性を明らかにした上で、脱近代化された「現代」においては学校はもはや不必要になってきたという、いわゆる脱学校論の文脈で理解できる文章である。
このミスマッチに対する解答は、高知で行なわれた「脱藩」という取り組みを具体例として、「一回性」というキーワードで示される。

「すべてのことが一回性である。「一回だけこれっきり」ということはすばらしいことなのだという発想に立たなければ「脱藩」の意義は読み解けない。近代教育学に縛られているかぎり読み解けない。」187頁
「教育というのは本来再現可能性などなくてもよいのではないか。子供を学校という教育空間に囲い込み、必ず再現できる事どもだけを与えていくというのは、むしろ貧しい発想ではないのか。」

うむ。ディルタイが100年前には指摘していることである。ボルノウの仕事は60年ほど前か。いずれにせよ、思いのほか近代学校の息は長いのであった。

小西正雄『君は自分と通話できるケータイを持っているか―「現代の諸課題と学校教育」講義』東信堂、2012年

【要約と感想】尾木直樹『子どもの危機をどう見るか』

【要約】1990年代後半から、学級崩壊や、普通の子がキレる「新しい荒れ」、さらに児童虐待が目立つようになりました。背景には、時代の変化についていけない旧態依然の学校文化、地域から孤立してホテル化した家庭、大人と子どもの関係不全があります。
解決のためには、道徳の強化や心の教育は役に立ちません。子どもの社会参加による自己効用感の回復が必要です。学校運営に子どもを参加させましょう。大人の価値観(いい子主義)を一方的に子どもに押しつけるのではなく、子どもの自主的な「学び」を励ましましょう。学校の中に乳幼児や老人を取り込みましょう。子どもの自己決定を大切にし、子どもと大人は独立した人格として関係を結びましょう。

【感想】20年近く前の本で、個々の状況(教育基本法改正とかいじめに関わる法律とか学習指導要領の大綱化とか道徳の教科化とか)は大きく変化しているわけだが、大まかな見取り図としては古くなっている感じはしない。
子どもの社会参加と自己決定が大切だという話は、「子どもの権利条約」の精神に則っていて、私も総論賛成である。各論としても具体的な事例が紹介されていて、たいへん参考になる。

【言質】
いじめや「人格」や子ども観に関する証言をたくさん得た。

「いじめの加害者と被害者の立場の組み替えが自在であるだけに、現代のいじめにはパワーゲームとしての「面白さ」があります。」44-45頁

個人的にもいじめを「パワーゲーム」として理解する観点は大事なんじゃないかと思っている。単なる「弱い者いじめ」としてでは、現代のいじめは把握できない。勉強ができたり顔が良かったりスポーツが得意だったりする「強者」を、いかに弱者と対等な立場に引きずり下ろすかというルサンチマンが、現代のいじめには色濃い。これは、誰が「強者」になるかという、教室における「パワーゲーム」だ。そしてそれは、大人社会で起きていること(たとえば頭の悪い人が、頭のいい人をバカにする)と、同じだ。
もちろん突きつめれば、各個の自己肯定感の低さが最大の問題にはなるのだろう。

「子育ての責任は家庭・親にあるという見方があまりに支配的なため、わが子を「私物化」してとらえてしまいます。しかし、子どもは社会の構成員です。したがって本来は、親だけでなく、社会全体が子育てには責任を負っているのです。」66頁

まあ、そうですよね、という。この「子育ての公共性」を破壊している元凶は、臨教審以降の新自由主義だろう。自分が良ければ他人の不幸は自己責任という。このままじゃ滅びると思うんだがなあ。

「学級崩壊とは、個の意志を尊重する就学前教育の基本方針と、相変わらず硬直したままの一斉主義的傾向を重視する小学校との間の断絶に原因の一つがあると考えられます。」94頁

小学校の先生にこそっと聞くところでは、自分たちに問題があるとは考えておらず、幼児教育の自由化傾向のほうが元凶だと捉えている感じがするんですけどね。幼小連携のあり方は、今後どうなっていくのか。いやはや。(←他人事ではない)

「私は、今日の「子ども観」を「独立した人格の主体である子どもが未来の主権者になるために、最善の利益を受け、権利行使をする発達保障期」と定義したいと思います。」157頁

なるほどなあと。「独立した人格の主体」と「未来の主権者」を峻別したところが、この定義の最大のポイントであるように思う。近代は、「独立した人格の主体=主権者」であった。この未分化な「人格=主権者」を二つに分離させるわけだ。(となると、教育基本法第一条「人格の完成」は、廃止すべきという議論になるかな。)

「子どもが陥っている危機から脱出するためにも、二一世紀は、子どもと大人のパートナーシップ時代にしていかなくてはなりません。」233頁
「大人と子どもの関係のあり方に、いま異議が唱えられていることはくりかえし述べた通りです。大人と子どもの関係のあり方は、いま子どもの市民性の高まりによって、根底から揺らぎ、言い意味でボーダーレス化しているのです。」236頁

19世紀的な「子ども=学校/大人=労働」という価値観を、どう超えていくのか。というか、価値観は既に大きく変化しているので、社会的な制度をどう変えていくかという話になるわけだ。子どもの社会参加と自己決定は、どのように保障されるのか。いろいろな取り組みを注視していきたい。(←他人事ではない)

尾木直樹『子どもの危機をどう見るか』岩波新書、2000年

【要約と感想】諏訪哲二『ただの教師に何ができるか』

【要約】1970年頃から、子どもたちは決定的に変質しました。教育が行き詰っているのは教師や学校が悪いのではなく、変質した子どもに対応できないのが原因です。
変化の本質は、「近代化」が思わぬ形で達成されてしまったことです。我々教師は子どもたちに近代的自我を持たせることを夢見てきましたが、高度消費社会の到来は予想外の形で子どもたちに「かけがえのない個」をもたらしました。そして確固たる指針を失って個人的な利害にしか関心を持たない教師たちが、その傾向に拍車をかけています。産業社会における近代化に特化してきた学校は、このような形で近代化を達成した子どもたちに対して、もはや無力です。
著者は1960年代には集団主義的な学級経営によって、管理や受験に対抗し、人間形成に関する成果を上げてきましたが、70年以降の変質した子どもに対しては、もうお手上げです。

【感想】近代の断末魔だなあ。いやはや。
ちなみに私は1972年生まれで、高校に入るのが1987年ということで、まさに著者の言う得体のしれないオレ様化した子どもたちのド真ん中に位置するのであった。でも、著者の言っていることはよく分かる。なぜなら、私も本質的には近代主義者だからだ。教育の本質が「自由を強制するというアポリア」であることを自覚する、近代主義者だからだ。教育の本質が「公共性」にあることを信じる、近代主義者だからだ。
しかし著者と違うだろうところは、私(あるいは私と同世代)の場合、もはや近代を続行しなくても問題ないかもしれないと考え始めているところにある。たとえば東浩紀が言う「動物化」とかテクノロジーとは、個々の近代的自我に依拠しなくても近代的システムが成立してしまうという事態を言い表している。東の議論を徹底すると、近代的自我を持てない個体には、もはや持ってもらわなくても結構ということになる。勝手に単なる消費的主体として豚のように楽しく生きていただければいいのである。
とはいえ私個人は、教育学徒だけあって、そこまで割り切れないものを抱え込みながら近代と対峙しなければならない。著者が「近代の終わり」を明確に見据えながらも、それでもアポリアの渦中でもがき続けるのは、「それが教師だからだ」としか言いようのない情念が関わってくるように思うわけだ。そういう情念の在り処も窺わせてくれる、なかなか面白い本ではあった。

【備忘録】
近代の終わりに関する議論がとても多い。そしてそれが高度経済成長と関わって70年前後に転換点があるという指摘は、私個人の関心にも示唆を与えてくれる。言質を取っておきたい。まあ、宮台真司が言っていることとほぼ被っているんだけれども、教育関連の文章に明確な影響があることは、確認しておいてたぶん損はない。

【近代の達成と終わり】
「私は高度消費社会と大衆民主主義とを二つながら備えているこの国が新しい「時代」に入りつつあると考えているが、それは「近代」が達成されたと同義である。」(18頁)
「教師が教え、生徒が学ぶという教育の方が危うくなり、生徒の個別的な学びを教師が支援するという怪しげな「個性重視」なるものに文部省は流れつつある。これは「個性」や「個人」にもともと実体的な価値があるということを前提としなければ成り立たない。近代公教育は市民の卵としての無数の「私」を育成するところに、その原基がある。
(中略)もともと、人間は「私」の局面において「外部」を学べるものである、近代の夢は十全な「私」が成熟して「この私」(自立した近代市民)になるということになっていた。
(中略)おそらく、個体の成長のしかるべき時期に「外部」が適切に提示されなかったこと、システム的な「外部」である学校が有効に機能していないこと、高度消費社会からの眼差しが個体に強い「主体」の意識を与えていることが、この国において子どもたちが「私」と「この私」制を簒奪する形で「自己確立」を成し遂げた理由であろう。かくして、日本の普通教育は「時代」に合わなくなってきたのである。
子どもたちの変容に適合すべく、「個性重視」のソフトな教育や学校が耳ざわりよく語られる。たぶん楽天主義者は「近代」そのものの確実性や普遍性に寄りかかっている。これらの問題はことによると「近代」そのものの宿痾かもしれないのにである。」(51-52頁)
「時代の子としての高校生たちは七〇年以降の高度成長経済の進行のなかで、内部に社会性を持った個人としての硬質さをどんどん欠いていったように、私には見えました。」(245頁)

高校生の変質を「70年」という具体的な年代を出して、資本主義の変質という下部構造から理論化してくれているのは、私個人の理屈にとってはとても都合がいい。

また、時代がどうかというよりも、近代教育に本質的なアポリアに対する意識がとても高いところは実に興味深い。この原理を自覚していない人は、世の中にとても多い。

【近代教育の本質的なアポリア】
「教育は子どもに文化伝達をしながら、将来主体的人格として「自立」することを期待している。」(23頁)
「冷静に考えればわかるように、生徒は学校では明らかに「文化伝達の対象」であるが、「主体的な人格」は学校を出てからそうなるべく想定されていることであり、そこに時間差があるといってよかろう。また、すでに「主体的な人格」になった者が「文化伝達の対象」であるはずがない。」(24頁)
「とりわけ、教師の側が「主体的人格としての子ども」の側面を重視することは、教師の個々の知性や人格によって生徒たちに「価値」を教え込もう、教え込めるという思い上がりと錯覚を生じさせる。」(29頁)
「学校では何ごとか意味のあることをなそうとすると、必ず「近代」になってしまう。」(165頁)
「近代公教育の学校は、「未開」である子どもを啓蒙して、近代社会の市民・生活者たるべく育て上げることを目的としている。」(166頁)
「親は子どもが言うことを聞くように育てながら、いずれ言うことを聞かなくなるように育てなければならない。」(231頁)

ちなみに諏訪は「教育活動(生徒にとっては学習活動)においては「文化を伝達する」プロセスと、「生徒が自立へ向かう」プロセスが同時的に進行している。どちらか一方だけがなされているわけではない。」(25頁)というが、これがまさしくヘルバルト(教育学の父)が言った「教授(instruction)があって教育(education)があり、教育があって教授がある」という洞察であることは自覚されているだろうか?

そして近代教育のアポリアの焦点となるのは、近代的自我を支える「特異点」である。この特異点への言及も、興味深いところではある。諏訪は絶対的に「外」や「上」など外部からもたらされると決めつけているが、実はそれこそが諏訪の論理構成全体の鍵を握っている。諏訪のこの認識と論理が正しいかどうかが、彼の教育論を批判する上での決定的な要点となる。逆にいえば、この急所を認識しないで批判しているとしたら、ほぼ間違いなく的外れということだ。

【特異点】
「「神を畏れなくなった」ということは、「個」が自立したのである。正確には、「個」が自立したと錯覚しはじめたのであり、「個」が現実において生活している「共同社会」を対象化しはじめたのである。(中略)要するに、高度消費社会と大衆民主主義社会と情報化社会が「新しい個」を分泌しはじめたのである。」(113頁)
「私たちは「個」が自立するためには「外」なる「上」なる「普遍」が必要であることを知らなかったのである。」(115頁)
「「個」が主体となるためには、一度「個」を超える超越系に征服されなければならない。そのためには、個体が本源的に持っている自己中心性が完全に「外」から「上」から否定される契機が必要である。」(202頁)

個人的には、「特異点」は「特異点」でありさえすればいいので、論理的にはそれが必ず「外」や「上」からもたらされる必要はないと思える。まあ、「特異点」は外や上から与えるのが一番「らくちん」なのではあるだろうが。しかし、「内」や「下」から特異点が立ち現れる可能性は、模索してもいい。

そして著者は、近代が終わって教育がどうなるかという予見も示している。

「前期近代型の公教育システムはそこからはみだし、落ちこぼれる生徒を作り、それは個人の責任ではなくシステムに問題があるとされているが、後期近代型の個性尊重システムは、個人の逸脱を許さないものになろう。つまり、これこそ超「近代」の理念に沿った「構築」なのである。」(167頁)
「いま文部省が押し進めている教師の意識改革は、本来教育的意味合いを持っていた「近代前期」的な要素を洗練させて「近代後期」的なものにすることである。」(167-168頁)

なかなか鋭い指摘だと思う。1998年段階でこれをしっかり予見できていたことに驚くが、まあ、宮台も言っていたことではあった。ともかく、いわゆるインクルーシブ教育等は、この方向(個人の逸脱を許さない)での構想ではあるだろう。あるいは苫野一徳が目指すのも、この近代後期的な構築ではある。いちおう、それが悪いと言いたいのではない。私個人としても、「事ここに至れば、選択肢はそれしかないだろうなあ」というところではある。

ところで、「見る/見られる」の非対称性というメガネ論的にも興味深い文章も記録しておきたい。

「日本は近代になって一度だけ「見られる」側から、「見る」側にまわろうとして致命的な大失敗をした。」(206頁)

なるほど。これはメガネ弁証法に対しても示唆を与えてくれる観点だ。勉強になった。

諏訪哲二『ただの教師に何ができるか』洋泉社、1998年