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【要約と感想】ライプニッツ『モナドロジー』

【要約】モナドは、あります。それは目で見たり手で触れたりできるような物質的な何かではなく、人はそれを魂とか精神などとも呼んだりするような形而上学的点ですが、現実に存在しているのは実はこれだけで、何かが何かであるのはモナドの「一」なる働きによります。モナドは独立に自存する単純な存在ですが、他の実体すべてを含んだ世界全体を独自の観点から表象し、固有の内的な欲求に基づいて即自的に変化しながら自己実現を目指します。あらゆるモナドは神によってプログラムされた予定調和の秩序に従って多様な世界全体の完全な完成に向かいます。人間の魂は特殊な道徳的理性を持ち、神の下で精神的共同体を構成するので、真の幸福は神への愛にしかありません。

【感想】何を目的にした論考なのかを全く明らかにしないでいきなり「モナド」の定義から始まるので、最初から置いてきぼり感が半端ない。いちおう一通り最後まで読み切って、全体像を低解像度のままなんとなく把握して、その後に構成を整理して解像度を上げていくと、まあ、存在論と倫理学を貫く世界観が垣間見えてくる印象ではある。で、垣間見た結果としては、真顔でよくもこんなデタラメが言えるものだと、呆れるしかない。予定調和とか最善な可能世界とか、SF作家として成功しそうなくらい想像力豊かですね~とは思うものの、現代的観点からは、どうしようもなく荒唐無稽でバカバカしく見えてしまう。いや、現代の私がそう思うだけでなく、どうやら当時の人も荒唐無稽だと批判しているようだ。そりゃそうだろう。個々の論点でナルホドと思うところもなくはないが、全体を無矛盾な論理体系として構築しようとした結果、辻褄合わせのために苦し紛れの屁理屈を言い出す羽目になって、屁理屈を擁護するために無駄な労力を割いているように見える。そして、無駄な労力のおかげで仮に論理体系そのものが無矛盾になったとしても、妥当性があるかどうかにはまったく関係がないのであった。そして妥当性はまるで欠けている、ファンタジーだ。
 そういう現代的な感覚から見てトホホに思える屁理屈に目をつぶり、虚心坦懐に哲学史的な資料だと心して読めば、近代の入り口に立ちつつある香りが濃厚に漂ってくることは、あるかもしれない。少なくとも中世スコラ学が逆立ちしても捻り出せないであろうオリジナリティには満ち溢れている(しかし一方で、新プラトン主義やアリストテレスやボエティウスで十分というか、そっちのほうが世界を説明する理論として妥当性が高い気がしないでもない)。またあるいは著者の数学的・物理学的な業績については圧倒的すぎて私ごときが文句をつける余地など寸毫もないわけだが、それを踏まえた上で、本書のように限られた有限の前提から無矛盾な体系を構築して全世界を説明し尽くそうという「数学的に無矛盾な世界観」への欲望そのものが近代的に極めて大きな歴史的意義を持つということかもしれない。
 またあるいは思考の生産性という観点からは、隙があること自体に意味があるのかもしれない。たとえばライプニッツ自身はモナドのような「形而上学的点」を打ち出しながらも、それを「社会的点」と見なす社会契約論的な政治論・社会論を残していないわけだが、ライプニッツの概念を援用して社会構成の理論を考えるのは面白いかもしれない。具体的には、モナド同士の完全な「平等」と「自由」、そしてそれぞれの「完成」を最も尊ぶ「多様性」という考え方は、近代民主主義的な社会を構成しようとする際には何かしら前向きな意味を持ちそうだ。一つ一つのモナドが内在的な法則に従って世界全体を反映しながら自己表現するという主張は、個々人の固有の尊厳と権利を保障する「人権」という概念となにかしら響き合うものがあるかもしれない。独立自存のモナドが調和して全体の秩序を成しているという考え方は、なにかしら民主主義と響き合う世界観かもしれない。
 言っていること自体は無茶苦茶で荒唐無稽だけれども、思考の生産性という観点からは名著と呼ばれるに相応しいということか。

【個人的な研究のための備忘録】一性
 ライプニッツは「一性」を表現するためにギリシア語由来の「モナド」という言葉を使い、「実体の原子」とか「実在的一性」とか「形而上学的点」とも言い換えているが、哲学史を踏まえれば、形式的には新プラトン主義者が言うところの「一」であり、内容的にはアリストテレスが言うところの「エンテレケイア=完全態」である。

「モナスというのはギリシア語であり、「」もしくは「一なるもの」を意味している。複合的なもの、すなわち物体は、多である。そして単純な実体、生命、魂、精神は、である。」77頁
「多なるものはその実在性を真の一性からしか得られない。真の一性は[物質とは]別のところに由来するが、それは数学的点とはまったく別のものである。数学的点は延長するもの[延長体]の端にすぎず、様態にすぎないから、数学的点から連続体を合成できないことは確かである。それゆえ、そうした実在的一性を見いだすために、私はいわば実在的で生きた点、すなわち実体の原子に頼らざるをえなかった。」97-98頁
「実体的形相の本性はにあり(中略)アリストテレスはそれを第一エンテレケイアと呼んでいるが、私は、おそくらもっと理解しやすいように、原初的力と呼ぶ。」98頁
「さらには、もしくは形相によって、私たちのなかの自我とよばれるものに呼応する真の[統]一性が存在する。」105頁
実体の原子、すなわち部分を全然もたない実在的一性だけが、作用の源泉であり、事物の合成の絶対的第一原理であり、いわば、実体的事物の分析の究極的要素である。これは、形而上学的点と呼ぶことができよう。」105頁

 このあたりは古代後期のボエティウスの議論に既視感が濃厚ではあるのだが、少なくともキリスト教中世やスコラ学には見えなかった議論で、ライプニッツが復活させたこと(しかも本人がそれを自覚している)には近代的な意義はあるのかもしれない。しかも数学的な微分積分の創始者であるライプニッツが「数学的点」と「形而上学的点」の違いを明確に理解していることは、実は「人格」とか「個性」という概念の展開を考える上で重要かもしれない。ここは侮れない。
 こういう古代の個体化議論の影響に配慮する一方、古代の「原子論」の影響も視野に入れておく必要がある。原子論は、アリストテレスやボエティウスとは異なる学統に属するデモクリトスやそれに影響を受けたエピクロス派に特有の議論だった。この派閥はルネサンス期にルクレーティウスが再発見・再評価されてから目立ち始め、モンテーニュには色濃い影響を確認することができる。そしてエピクロス主義は、デカルトやスピノザ、ホッブズと同時代のガッサンディによって本格的に復権する。ライプニッツも、この古代原子論やガッサンディに言及している。

「初めアリストテレスの軛から脱したとき、私は思わず空虚と原子へと気持ちが傾いた。」97頁
「ガッサンディ派が彼らの原子に付与している持続を、形相に与えるだけのことだからだ。」99頁

 で、近代に関わる問題は、原子論が物理的な現象の説明に留まらず、その想像力の射程が政治的・社会的な議論に及ぶかどうかだ。原子論に反対するストア派やカトリック神学は、政治や社会を有機体的な宇宙秩序(コスモス)と理解し、一人一人の人間を単位とした政治や社会を構想しなかった。それが近代の入り口に差し掛かった段階(1642年の清教徒革命)で、ホッブズがリヴァイアサンにおいて個人(実際には小家族だったかは問題になるが)を単位として社会を構成する論理を提示した。そして実は、その社会契約的なアイデアそのものは古代のエピクロスにもそっくりそのまま見いだせる。エピクロス派は単に物理学的な原子論を主張しただけでなく、政治的・社会的な単位としての「個人」も剔出していた。だとしたら同様に、「モナド」という概念でもって物理的・精神的な個体化の論理を打ち出したライプニッツが、国家共同体を個体化の論理で構成する議論を打ち出したってよかったはずだ。しかしライプニッツには、政治的・社会的共同体をモナドから構成しようとする発想はまったく見られない。むしろ中世キリスト教的な宇宙秩序による説明に終始しているような印象がある。どうしてモナドを国家論に適用しなかったか。まさかホッブズやスピノザ、そしてジョン・ロックが展開した社会契約論の議論を知らなかったわけではあるまい。

【個人的な研究のための備忘録】完全性
 さて、古代哲学のアリストテレスやボエティウスが扱った「一性」の概念には「完全性」の概念も密接に関係していたが、ライプニッツもその議論を踏襲している。

「すべての単純な実体つまり創造されたモナドに、エンテレケイアという名を与えてもよいだろう。なぜならモナドはなかに、ある種の<完全性>をもっているからだ。」24-25頁
「どの実体も自分に可能な最高の完全性に達しなければならず、その完全性は実体に内包されている」134頁
「神がきわめてよく配慮されたので、物質のいかなる変化によっても、理性的魂からその人格の道徳的性質が失われることはない。すべては、宇宙全般の完全性に向かっているだけでなく、これら被造物一つ一つの完全性にも向かっている」102-103頁

 ちなみにライプニッツは「完全性」の概念を定義して「完全性とは、事物のもつ限界や制限を除いて厳密な意味に捉えた積極的実在性の大きさに他ならない。」(38頁)と言っている。
 引用部で特に個人的に注目したいのは「人格」という用語が絡んでいるところだ。原文でどうなっているか確認しておきたい。
 また、この「完全性」の概念が「愛」の概念とも絡んでいるところは注目しておきたい。

真の純粋な愛とは愛されるものの完全性と至福の内に喜びを認めるようになった状態のこと」91頁

 ここで言う「愛」が、愛する者の「喜び」という感情を含みつつも、愛されるものの「完全性」から定義されていることに大着目だ。「好き」という感情と「愛」という概念の決定的な違いは、おそらくここにある。「完全性」という概念は、「愛」を理解する上でそうとう重要だ。
 また、ライプニッツが「完全性」の概念に絡めて「多様性」を尊重しているところはユニークなオリジナリティとして大いに注目しておきたい。

「そしてこれは、できるだけ多くの変化に富む多様性を、しかもできうる限りの優れた秩序とともに得る方法である。言い換えれば、できうる限りの完全性を得る方法である。」52頁
「神の至高の完全性からして、神は宇宙をつくり出すにあたって可能なかぎり最善の計画を選んだということになる。そこには最大の秩序とともに最大の多様性がある計画だ。」87頁

 本書は「一と多」や「完全性と多様性」という、一見すると矛盾する対概念の止揚を目指した、古くはプラトン『国家』『パルメニデス』やアリストテレス『形而上学』の意図を引き継いだ論考と言える。そういう意味では、中世で忘れられていた古代哲学の問題意識を復活させたものとして大きな意義を持っているのかもしれない。

【個人的な研究のための備忘録】同一性
 本筋とは直接的には関係ないが、アイデンティティという概念の理解に絡んで、ライプニッツが「川」の比喩を用いているところはメモしておく。

「すべての物体は川のように永続的な流動状態にあり、その諸部分は絶えずそこに入ったりそこから出たりしている」61頁

ライプニッツ/谷川多佳子・岡部英男訳『モナドロジー』岩波文庫、2019年

【要約と感想】アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』

【要約】国際紛争の原因は、アイデンティティです。人間が自分の帰属意識(=アイデンティティ)をたった一つの国家や民族や宗教のみに定めてしまうことが不幸の根底にあります。これからは、人間に複数のアイデンティティが混在していることを積極的に認めていくべきです。
 確かに急速なグローバル化は、実質的にはアメリカ化を伴うことで、世界中の人々のアイデンティティを不安に陥れています。しかし人々が普遍的な価値(人間の尊厳)を踏まえて、豊かな多様性を認めることができるようになれば、本質的には問題を解決できるはずです。

【感想】まさにロシアがウクライナに侵攻した行動原理を説明する本なのかもしれない。ロシアはウクライナに資源などの実利を求めたわけではない。地政学的に勢力圏の観点から説明できなくもないが、その点では専門家が判断を見誤っていたりする。ロシアやプーチンの行動原理は、まさにアイデンティティの観点から説明するのが、いちばんしっくりくる。だとしたら、著者が危惧していたことは、最も不幸な形で当たってしまったと言える。
 そして著者が危惧しているアイデンティティ問題は、現在いちばん目につきやすいウクライナ侵攻のみならず、我々の生活の中のあらゆるところに密かに忍び込んでいる。特に平気で「一民族一国家」などと言ってのける日本人は、アイデンティティの表現が稚拙で危ないところだらけだ。「日本人らしく」とか「男らしく」とか「高校生らしく」など、日頃から日本人が好んで使用する「○○らしく」という言葉は、表面的(コンスタティヴ)にはアイデンティティを指し示すように見せかけつつ、実際(パフォーマティヴ)には相手を自分の思い通りにコントロールしてやろうという権力志向の言葉に過ぎない。そしてその言葉に過剰に同化することで、いとも簡単に視野狭窄な排外主義に陥る。しかも現在は過剰な被害者意識を伴っているところが厄介でもある。そういう日常的に身の回りにあるアイデンティティ問題を交通整理する上でも、本書は明快な見取り図を与えてくれる。

【個人的な研究のための備忘録】アイデンティティという概念
 とはいえ、著者が用いる「アイデンティティ」という言葉の意味内容については、個人的にはそうとうな違和感がある。私が追求している「アイデンティティ」という概念とは、どうも別のものを指し示しているようなのだ。というか、世間的には、私の問題意識のほうが異端で、著者のような使用法が一般的なのだろう。(私個人の追求については、「アイデンティティとは何か?―僕が僕であるために」参照)
 まず著者は本書の中心テーマを以下のように掲げる。

「作家としていきていくうちに、私は言葉というものを慎重に扱うようになりました。往々にして、きわめて明瞭に見える言葉ほど人を欺くからです。そうした偽りの友のひとつが「アイデンティティ」という言葉です。誰もがこの語の意味するところを知っていると思っているので、この語がひそかに反対のことを意味し始めても、私たちは疑おうともしないのです。」p.16

 もうこの時点で違和感がある。著者は「誰もがこの語の意味するところを知っている」と言っているが、本当だろうか。少なくとも、日本人の多くは「アイデンティティ」という言葉の意味を説明することができないと、私は思っている。そして日本人に限らず、海外でもこの語の用法は混乱を極めていると思っている。中世スコラ学以来の伝統を持つ用法は背後に退き、エリクソン以降の心理学の影響も受けつつ、本来の意味とはまるで違う形で使用されているように見える。具体的には、もはや「パーソナリティ(人格)」とか「インディビジュアリティ(個性)」という言葉との違いが分からないようになっている。本書でも、アイデンティティという言葉をすべて「パーソナリティ」に置き換えても意味が通じる。「パーソナリティ」と「アイデンティティ」のどこがどう違うかを説明できない限り、アイデンティティという言葉の意味するところを知っているとは言えないはずだ。
 著者はさらにこう言っている。

「各人のアイデンティティは、公式の記録簿に記された諸要素以外の実に多くの要素から構成されています。」p.18
「しかし、どれひとつとしてまったく無意味というわけでもないのです。これらはどれも人格を構成する要素です。」p.18

 ここに「人格」という言葉が、アイデンティティと互換的な言葉として登場する。原語は確認していないが、おそらくフランス語でpersonnalitéなのだろう。また「要素から構成されています」という言い方も気になる。本当にアイデンティティは様々な「要素」から「構成」されているのだろうか? 個人的には、そんなわけはないと考えている。アイデンティティは、要素から構成される何かではない。が、もはや世間一般的には、日本人もそれ以外の国の人も、アイデンティティを「要素から構成されるもの」として理解しているのだろう。まあ本書にはその証拠としての価値はある。
 さらに著者はこう言う。

「各人のアイデンティティを特徴づけるのはまさにこのこと――複雑で、たったひとつしかなく、取り替えがきかず、他の誰のものとも混同されないということなのです。」p.30
「ここまでずっと、アイデンティティは数多くの帰属から作られているという事実を強調してきました。しかし、アイデンティティはひとつなのであって、私たちはこれをひとつの全体として生きているという事実も同じくらい強調しなければなりません。」p.36

 著者がここで表現しようとしているものを、人類はかつて「パーソナリティ(人格)」と呼んでいたはずだ。どうして「パーソナリティ」ではなく「アイデンティティ」という言葉を使わなければならないのか。その回答を本書に見出すことはできない。もう、「21世紀にはパーソナリティという言葉は死語になり、それが本来持っていた意味内容はアイデンティティという言葉が簒奪して、その代わりにアイデンティティという言葉が本来持っていた意味内容は消滅し、それに代わる言葉も登場していない。」と、客観的に述べるしかない状況なのかもしれない。もちろんそれは良いことでも悪いことでもなく、「単なる時代の変化」ということではある。

アミン・マアルーフ・小野正嗣訳『アイデンティティが人を殺す』ちくま学芸文庫、2019年

【要約と感想】兼本浩祐『なぜ私は一続きの私であるのか―ベルクソン・ドゥルーズ・精神病理』

【要約】脳科学が明らかにした知見を踏まえて、哲学が積み重ねてきた洞察を振り返ってみると、「私が一続きの私」であることのほうがむしろ奇跡的な綱渡りをしていることが分かります。確固たる一続きの「私」が最初にあるのではなく、反復する状況が「私」を一続きにさせます。反復の恒常性が失われれば、「私」の恒常性と統一性は容易に失われます。

【感想】私の専門的な研究テーマは「人格とは何か?」なので、本書も専門的な関心から手に取ったのだった。私は「人文科学としての教育学」というアプローチで以て「人格」と対峙してきたので、「自然科学としての心理学」を標榜するアプローチには常々失望してきたものだった。そういう関心からすれば、人文科学と自然科学を絶望的に隔てる深い溝に架橋しようと果敢に試みる本書の内容は、たいへんエキサイティングだった。おもしろかった。なるほど、「再入力の渦」によって量が質に変わる=物理が精神に飛躍するのだとすれば、「人格」の本質が「再帰的」であることを踏まえれば、とても興味深い仮説なのだった。

そして「再入力の渦」によって量が質に変わることを認めると、それは一人の人間の内部だけで発生する事象ではなくなる。個々の人間ひとりひとりが再入力の渦を構成する要素だと考えれば、何万人かが集まった集団は、単なる量ではなく、「質」に変わっている。ちなみに心理学では、ヴントがそういうことを既に言っているはずだ。本書ではコンピュータに「心」が生まれる可能性についても少し触れられているが、それなら同じように人間の集団にも「心」が生まれるはずだ。そしてそれは果たしてルソーのいう「一般意志」と見なしてよいのかどうか。

【この本は眼鏡論にも使える】
眼鏡論に対しても様々なインスピレーションを与える本であった。もちろん「普遍論争」は、直接的に関わってくる。果たして「普遍としての眼鏡っ娘」が存在するのか、それとも個々のキャラクターに対して「眼鏡っ娘」というラベルがつけられただけなのか。中世の普遍論争が眼鏡論に対しても極めて有効であることが、改めて確認できる。
しかし本書の中でもっと深い味わいがあったのは、「受肉」という概念に対する掘り下げだった。

「私は私の体に否応なく受肉してしまうにもかかわらず、私と私の体の関係はいつもちぐはぐで、多くの場合はぴったりとは一致しません。そもそも私の体がオートポイエティックな自己産出的な機会的閉鎖系であるのに対して、「私」は対象や他者の表象の残照として受け身的に構成される何かもっとその存在自体が常に問われるような何事かだと考えるならば、当然それは自然に一致するわけはないはずなのですが、だからこそ、それぞれの私達がそれぞれに自分自身の身体とどういう関係を持つかを決め直すことができるポテンシャルもあるということになります。」
「受肉とはそもそも観念的なもの、あるいは概念的なものが物質性を帯びることだといえます。」190頁
「受肉とは普遍が実体化することであって、普遍を記号として指し示すことではないからです。キリストは神そのものであって、神を連想するために用いられる記号ではありません。(中略)そういう意味で、ボディビルダーの筋肉もまた、私の持っている一つの偶有的な性質なのではなくて、「私」という普遍がそこで実体化しているという意味で受肉なのです。」192-193頁

これはまさに眼鏡っ娘のことを過不足なく表現した文章だ。なかなか味わい深い。そのとおり。眼鏡っ娘とはメガネをかけた女性のことではない。「眼鏡っ娘」という概念を受肉した存在のことなのだ。

兼本浩祐『なぜ私は一続きの私であるのか―ベルクソン・ドゥルーズ・精神病理』講談社選書メチエ、2018年

渡辺秀樹・金鉉哲・松田茂樹・竹ノ下弘久編『勉強と居場所―学校と家族の日韓比較』

【要約】日本と韓国の若者を比較すると、韓国の若者が「学校の勉強」に大きな価値を見出しているのに対し、日本の若者は「学校を居場所」として価値を見出していることが分かりました。家族の経済資本や文化資本のほか、親との日常的な会話などの「社会関係資本」に注目して調査を行ないました。
現在、日本の若者は勉強に対する関心と意欲を失っていると言われていますが、どうしたら意欲を取り戻すことができるのか、国際的な比較から様々な示唆を得ることができます。

【感想】極めて有意義な本だと思った。数字にから結論を導き出すことの意義がよく分かる研究だ。データに対して謙虚で、都合の良い無理な結論を引き出していないのも好印象だった。力作だと思う。勉強になった。

韓国の教育事情や若者の置かれた立場についてもたいへん勉強になったが、やはり日本の若者の意識に関しては、私自身が日常的に学生たちと触れていることもあって、いろいろ思うところがある。価値が多元化して、意識が「コンサマトリー化」したというのは、私の実感としても、ある。
(ちょっと気になるのは、consummatoryという英語とconsumeという英語の関係で、この共通する語幹には何らかの意味があるのか。不勉強にして知らず。)

ともかく、そのような現状に対応すべく、いま「社会関係資本」とか「繋がり」とか「ネットワーク」という概念が重要度を増していることも理解した。やはり、「個の自律」と「公共性の創出」という課題を同時に達成していくのが、教育の役割ということになるのだろう。

【今後の研究のための備忘録】
やはり「子ども/大人」の関係と「アイデンティティ」については、言質を取っておこうと思う。

「いまや30歳になっても一人前になれない時代になった。」
「エリクソンは、青少年期のモラトリアムがこれほど長くなるとは、想像もできなかっただろうが、いまの現象は、心理的なモラトリアムというより、高まりつつある社会の不確実性から生じるモラトリアムである。」21頁、金執筆箇所

「というのも、現在の若者にとって、多元的な関係性を取り結び、多元的なアイデンティティを使い分ける技術は生きる上で不可欠な能力だからである。」146頁
「もちろん、アイデンティティや人間関係が多元的で流動的であることは、現代の若者の不安の大きな源泉にもなっている。」147頁、阪井執筆箇所

まあ、そうですよね、という。
Z・バウマンの本『アイデンティティ』も読まなくては。

渡辺秀樹・金鉉哲・松田茂樹・竹ノ下弘久編『勉強と居場所―学校と家族の日韓比較』勁草書房、2013年

【要約と感想】野矢茂樹編著『子どもの難問―哲学者の先生、教えてください!』

【要約】子どもが発した疑問(実は編著担当の哲学者が考案)に対して、現役の哲学研究者が本気で分かりやすく答えます。「ぼくはいつ大人になるの?」とか「勉強しなくちゃいけないの?」とか「死んだらどうなるの?」といった難問に、正面から答えます。

【感想】東大には理科Ⅰ類で入ったのだが、一般教養でとったのは哲学で、その担当が本書の編著者である野矢先生だった。最後には大森荘蔵先生御本人を呼んで来るという、今思えば凄い授業だった。まあ本当に凄かったと分かったのはしばらく後であって、当時はその贅沢さに気がついていなかったのであった。私が文転して現在では教育学で飯を食っているのは、少なからず野矢先生にAをもらった自信のお陰かもしれない。まあ今思えば、授業に参加した全員にAを出していたかもしれないのだが。

さて、本書で示される「ぼくはいつ大人になるの?」と「勉強しなくちゃいけないの?」と「頭がいいとか悪いとかってどういうこと?」という問いは、直接的に教育学に関わってくる問いである。まあ、広い目で見れば全ての問いが教育学と深い関係があるわけだけども。
そして僭越ではあるが、野矢先生が「ぼくはいつ大人になるの?」で示した回答には、多少の疑義がある。野矢先生はこう言った。

「そんな、「子ども」に特徴的な何か。それは「遊び」だと、ぼくは思う。もちろん大人も遊ぶけれど、子どもはもっと遊ぶ。」21頁

教育学の見解を踏まえると、なかなか危険な物言いだ。というのは、遊びが子どもの専売特許になったのは、おそらくそう昔の話ではないのだ。
かつて、子どもは7歳にもなれば、大人に混じって働いていた。子どもを労働の世界から隔離して「遊び」に専念させるようになったのは、近代以降のことだ。そして逆に、大人も子どもに負けず劣らず全力で遊んでいた。つい先日見てきた「遊びの流儀」という展覧会で展示されていた遊楽図では、遊んでいるのは大半が大人であり、貴族であった。「遊び」とは、貴族のように労働から解放されている立場の専売特許である。貴族は遊び、奴隷は働くのである。子どもと大人の問題ではない。庶民階級であれば、子どもだろうがなんだろうが、働けるほどの体力まで育った段階で労働に従事せざるを得ない。
つまり、「子ども/大人」が分離するのは、奴隷労働が廃止されて資本主義経済が浸透し、日常生活から「労働」が析出・分離されてからのことだ。それまでの遊びと労働は、密接不可分に一体化したものだ。だから、「労働」が析出されることに伴い、残余部分が「遊び」と認識されていくことになる。そして遊びは労働には不要なものとみなされ、大人の世界からは排除されることになる。生活の中から「労働」が析出・分離されなければ、「遊び」が析出されることもない。つまり「子ども/大人」の明確な区別とは、奴隷労働廃止と資本主義的賃労働発生に付随して生じる、賃金労働者を制度化するための仕組みだ。問題となった命題「ぼくはいつ大人になるの?」の答えは、資本主義的には極めて明快で、「賃金を得るようになったとき」だ。
だから逆に言えば、賃金労働者の確保が必要なくなれば、「子ども/大人」の区別も明確でなくなる。現在「子ども/大人」の区別が不明確になってきているとすれば、それは労使関係が様変わりして「労働」の意味と価値が大きく変わったことが根底にあるはずである。

ところで、野矢先生は次のようにも言っている。

「でも、そうだな、一人前の子どもになるには、一度は大人にならなくちゃいけないだろうね。」22頁

この場合の「大人」とは、資本主義経済で賃金労働者として役割を果たせることではなく、カントの倫理学的な意味での「人格」を備えた者のことだろうと思ってしまう。ここではもはや「遊び」という要素は何も関係がない。「子ども/大人」の区別に、「遊び」とは無関係な要素が断りなしに持ち込まれているように感じるのだが、如何か。

【今後の研究のための備忘録】
やはり哲学の本だけあって、「アイデンティティ」の用法に関する興味深いサンプルを得た。

「そう、「自分らしさ」を問う議論はどういうかたちであれ空転してしまうのです。自分が自分と一致しているかどうかを確かめるためにひとは「自分らしさ」を問うのでしょうが、そう問うひとは、その前提として、自分が自分自身と一致していないことを認めているわけです。」115頁、鷲田清一執筆箇所

「そこで、僕らの発言や行動の全部を照覧して、その首尾一貫性を要求してくる存在という一種の幻想が生まれる。それが神。僕らが言葉を使って考え、一貫性をもたせようとすると、そこに不可避に生まれる錯覚、それが神だ。」171頁、田島正樹執筆箇所

眼鏡っ娘論的にも、含蓄が深い。われわれは、どうして眼鏡っ娘が眼鏡を外すことに対してこれほど強い拒否感を覚えるのか。それこそ「一貫性」に対する信仰としか言いようのない感覚である。そしてその感覚は「神」に対する畏れに極めて似ている感覚なのだった。

野矢茂樹編著『子どもの難問―哲学者の先生、教えてください!』中央公論新社、2013年