【要約と感想】野矢茂樹編著『子どもの難問―哲学者の先生、教えてください!』

【要約】子どもが発した疑問(実は編著担当の哲学者が考案)に対して、現役の哲学研究者が本気で分かりやすく答えます。「ぼくはいつ大人になるの?」とか「勉強しなくちゃいけないの?」とか「死んだらどうなるの?」といった難問に、正面から答えます。

【感想】東大には理科Ⅰ類で入ったのだが、一般教養でとったのは哲学で、その担当が本書の編著者である野矢先生だった。最後には大森荘蔵先生御本人を呼んで来るという、今思えば凄い授業だった。まあ本当に凄かったと分かったのはしばらく後であって、当時はその贅沢さに気がついていなかったのであった。私が文転して現在では教育学で飯を食っているのは、少なからず野矢先生にAをもらった自信のお陰かもしれない。まあ今思えば、授業に参加した全員にAを出していたかもしれないのだが。

さて、本書で示される「ぼくはいつ大人になるの?」と「勉強しなくちゃいけないの?」と「頭がいいとか悪いとかってどういうこと?」という問いは、直接的に教育学に関わってくる問いである。まあ、広い目で見れば全ての問いが教育学と深い関係があるわけだけども。
そして僭越ではあるが、野矢先生が「ぼくはいつ大人になるの?」で示した回答には、多少の疑義がある。野矢先生はこう言った。

「そんな、「子ども」に特徴的な何か。それは「遊び」だと、ぼくは思う。もちろん大人も遊ぶけれど、子どもはもっと遊ぶ。」21頁

教育学の見解を踏まえると、なかなか危険な物言いだ。というのは、遊びが子どもの専売特許になったのは、おそらくそう昔の話ではないのだ。
かつて、子どもは7歳にもなれば、大人に混じって働いていた。子どもを労働の世界から隔離して「遊び」に専念させるようになったのは、近代以降のことだ。そして逆に、大人も子どもに負けず劣らず全力で遊んでいた。つい先日見てきた「遊びの流儀」という展覧会で展示されていた遊楽図では、遊んでいるのは大半が大人であり、貴族であった。「遊び」とは、貴族のように労働から解放されている立場の専売特許である。貴族は遊び、奴隷は働くのである。子どもと大人の問題ではない。庶民階級であれば、子どもだろうがなんだろうが、働けるほどの体力まで育った段階で労働に従事せざるを得ない。
つまり、「子ども/大人」が分離するのは、奴隷労働が廃止されて資本主義経済が浸透し、日常生活から「労働」が析出・分離されてからのことだ。それまでの遊びと労働は、密接不可分に一体化したものだ。だから、「労働」が析出されることに伴い、残余部分が「遊び」と認識されていくことになる。そして遊びは労働には不要なものとみなされ、大人の世界からは排除されることになる。生活の中から「労働」が析出・分離されなければ、「遊び」が析出されることもない。つまり「子ども/大人」の明確な区別とは、奴隷労働廃止と資本主義的賃労働発生に付随して生じる、賃金労働者を制度化するための仕組みだ。問題となった命題「ぼくはいつ大人になるの?」の答えは、資本主義的には極めて明快で、「賃金を得るようになったとき」だ。
だから逆に言えば、賃金労働者の確保が必要なくなれば、「子ども/大人」の区別も明確でなくなる。現在「子ども/大人」の区別が不明確になってきているとすれば、それは労使関係が様変わりして「労働」の意味と価値が大きく変わったことが根底にあるはずである。

ところで、野矢先生は次のようにも言っている。

「でも、そうだな、一人前の子どもになるには、一度は大人にならなくちゃいけないだろうね。」22頁

この場合の「大人」とは、資本主義経済で賃金労働者として役割を果たせることではなく、カントの倫理学的な意味での「人格」を備えた者のことだろうと思ってしまう。ここではもはや「遊び」という要素は何も関係がない。「子ども/大人」の区別に、「遊び」とは無関係な要素が断りなしに持ち込まれているように感じるのだが、如何か。

【今後の研究のための備忘録】
やはり哲学の本だけあって、「アイデンティティ」の用法に関する興味深いサンプルを得た。

「そう、「自分らしさ」を問う議論はどういうかたちであれ空転してしまうのです。自分が自分と一致しているかどうかを確かめるためにひとは「自分らしさ」を問うのでしょうが、そう問うひとは、その前提として、自分が自分自身と一致していないことを認めているわけです。」115頁、鷲田清一執筆箇所

「そこで、僕らの発言や行動の全部を照覧して、その首尾一貫性を要求してくる存在という一種の幻想が生まれる。それが神。僕らが言葉を使って考え、一貫性をもたせようとすると、そこに不可避に生まれる錯覚、それが神だ。」171頁、田島正樹執筆箇所

眼鏡っ娘論的にも、含蓄が深い。われわれは、どうして眼鏡っ娘が眼鏡を外すことに対してこれほど強い拒否感を覚えるのか。それこそ「一貫性」に対する信仰としか言いようのない感覚である。そしてその感覚は「神」に対する畏れに極めて似ている感覚なのだった。

野矢茂樹編著『子どもの難問―哲学者の先生、教えてください!』中央公論新社、2013年