「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】加野芳正『なぜ、人は平気で「いじめ」をするのか?』

【要約】日本型いじめの根本的な原因は、集団主義的な社会構造が壊れたにもかかわらず、それに替わる道徳モデルとなるべき個人主義が未成熟な点にあります。「いじめをゼロ」にとか「みんな仲良く」のような思考停止したスローガンでは現実は変わりません。子ども同士の人間関係を本質的に考えることで、いじめを克服する根本的な力を育てることが大事です。

【感想】マスコミが流すいじめ報道には、しばしば「学校や教師や教育委員会を槍玉に挙げておけ」というような、視聴者が喜ぶだけのストーリーに構成するという、いい加減なところがある。で、学生たちの理解を見ていると、ほとんどがマスコミ報道を鵜呑みにしている。そしてそういう誤解を自分の都合のいい教育制度を作るために利用する人たちがいるという。

いじめを受けて苦しんでいる子供を全力で守るのが教師の重要な役割であることはいいとして。でもそれは、いじめをなくすこととは違う。いじめを受けている子も、いじめをしている子も、どうしたら人間的に成長できるかという、もっと本質的な教育学的問題が忘れられてはいけない。そういうことを改めて考えさせてくれるし、読みやすい。「友達なんかいなくていい」と言い切ってくれる教育本は、なかなか少ないような気がする。教師や学生向けには、良い本じゃないかな。

加野芳正『なぜ、人は平気で「いじめ」をするのか?―透明な暴力と向き合うために』日本図書センター、2011年

【要約と感想】桑瀬章二郎編『ルソーを学ぶ人のために』

【要約】ルソー特有の矛盾は、ものごとを論理的に突き詰めた末に、論理の限界に突き当たったことに由来する。ルソーを学ぶということは、まずルソーの自己言及の輪に絡め取られることだ。ルソーが「自伝」ジャンルの確立者ということは、そういうことだ。

■図らずも知ったこと=ルソーは「音楽辞典」で、「趣味」とは「理性には眼鏡の役割をする」と言っている。つまり眼鏡とは、理性にとって趣味のようなものだったのだ。

【感想】「自分が主人だと錯覚しながら教師に従う」とか「自由への強制」とか「自分で自分に法を与える」とか、なるほど自己言及性の問題だ。「一般意志」というものも、民主主義的な手続きの問題というより、再帰的な自己というふうに捉えれば、論理的に説明できそう。そしてその論理は自己実現という教育的概念にも反映する。「告白」という自己言及的制度も、そうか。

桑瀬章二郎編『ルソーを学ぶ人のために』世界思想社、2010年

【要約と感想】仲正昌樹『今こそルソーを読み直す』

【要約】ルソーの政治社会思想に焦点を当て、現代政治哲学の成果も交えながら、特に「一般意志」について詳しく解説してくれる教養本。自然的自由を市民的自由へと変換してしまう道筋が、社会契約論の醍醐味。しかしルソーの思想は多義的で矛盾を含むものであって、一貫的な体系性はもともと期待してはいけない。「人間」と「市民」という先鋭化した両極でブレまくる姿こそ、我々がルソーに求めているものかもしれない。

【感想】個人的には、「一般意志」を、あらゆる具体的な属性を剥ぎ取られた理念人の持つ意志というふうに考えるのが、一番落ち着く。男でもなく女でもなく、金持ちでも貧乏でもなく、年寄りでも若者でもなく、手があるのでもないのでもなく、健康でも病気でもなく、日本人でもインド人でもない、そんなふうに具体的な属性を全て喪失した、理念的な「点」としての人間。そういう理念人が持つであろう意志を「一般意志」とすると、誰にでも普遍的に当てはまるような抽象的な共通点が見つかる。その普遍的で抽象的な共通点を憲法として構成した上で、あとは属性を元に戻してやって、多数決で具体的な法律を決めていくという感じ。まあ、ロールズの手続きとほぼ同じだけど。

具体的な人々の個人差を放置したままで集合的人格を構成するには、アクロバティックな飛躍が必要になる。ルソーの言う一般意志は、そのあたりの手続きがかなり杜撰な気はする。いったん個人差を解除するような手続きが挟まれば、多少はハードルが下がりそう。

とはいえ、「自然的自由」を「市民的自由」へ転換するという論理が、強烈な発明なのは間違いない。わがままで自分勝手だからこそ、進んで協力する。日本や中国やインドからはこんな発想は出てこない。近代ヨーロッパの面目躍如だ。

仲正昌樹『今こそルソーを読み直す』NHK出版 生活人新書、2010年

【要約と感想】野崎歓『フランス文学と愛』

【要約】17世紀以降、フランス文学は「愛」を中心に展開していきます。一方で肉体的な享楽を露骨に表現する作品もあれば、一方で精神的な愛を称揚するような作品も現れます。フランス文学は真正面から「愛」を扱うことで前進し続けます。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=18世紀フランス啓蒙主義が、キリスト教禁欲主義の倫理観を意図的に破壊するような露骨な性表現を伴っていたこと。ディドロやヴォルテールなどが、「愛」よりも「快楽」を自然と見なす態度を示していること。

■図らずも得た知識=ラブレーのウンチ中心主義。19世紀の激しい児童虐待の実態。フランスでも、20世紀の恋愛自由化に伴って非モテ層が出現し、本田透のような作家が現れたこと。非モテは世界的に普遍的な現象だったか。

【感想】一条ゆかりの1970年代発狂系作品が、18世紀~19世紀フランス文学のめざす方向とよく似ていることがわかった。エネルギッシュでおもしろいはずだ。

野崎歓『フランス文学と愛』講談社現代新書、2013年

【要約と感想】岡田温司『グランドツアー』

【要約】18世紀ヨーロッパでは、教育の総仕上げとしてイタリア旅行に出かけることがブームになっていました。イタリアでは文化人たちのサロンが形成され、新しい文化的な心性が育まれ、西ヨーロッパへと環流していきました。

■図らずも新たに知った事実=18世紀イタリアでは、女性の文化人が、美術や医学や哲学など幅広い分野で活躍していた。ひょっとしたらモンテッソーリなんかもその伝統的地盤から生まれてきたりするか、どうか。

また、18世紀イタリアでは、19世紀の印象派を100年先取りするような風景へのまなざしが生まれていた。17世紀に衰退したかに見えたヴェネツィアの文化も、18世紀にはむしろ生産性を高めていた。ひょっとしたら、ルネサンスにおけるイスラームやビザンティンの忘却と並べて、18世紀イタリアに対しても意図的な忘却が施されている可能性を視野に入れておく必要があるかもしれない。英独仏を中心とするヨーロッパ起源の捏造という点でシチリアが面白い位置にいるのは分かっていたつもりだけど、イタリア問題も相当に根が深そうだ。

【感想】西ヨーロッパにとってのイタリアは、日本にとっては中国にあたるような感じ。古代への憧れと現在への反発が同居するという意味で。ほか、異教的要素とキリスト教的要素、または歴史的景観と自然的風景、あるいは素朴で質実剛健な単純性と猥雑な多様性という相反する嗜好の同居など、イタリアに対する人々の感情と評価の振れ幅が大きいのは印象的だった。

岡田温司『グランドツアー―18世紀イタリアへの旅』岩波新書、2010年