「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】プラトン『饗宴』

【要約】エロスとは何らかの対象というよりは、神(智者)と人間(無智者)を媒介する中間の存在です。エロスの働きによって、人は真や善へと向かう「愛智者」となります。

【感想】究極の真実に、人間は決してたどり着くことはできない(無知の知)。しかし人は常に真実を求めて止まない。エロスとは真実へと向かう動因であり、神と人間を繋ぐ「メディア(中間物)」だ。このように「メディア」という観点を前面に打ち出すことで、本書はプラトン哲学体系全体の中で特異な位置と役割を持つように思う。「メディア」論が適切な位置を得て、ダイナミックな哲学体系となる。

関連して、本書は、否定神学に対する違和感に一つの言葉を与えてくれる。否定神学は、排中律を駆使することで成り立っている。しかし本書は、「中を排除することの愚」を繰り返し主張する。たとえば「美しくないものは必然的に醜いとか、善くないものもまた同様に悪いとかいう風に考えてはいけません」というように。

本書が掬い取った「中」すなわち「メディア」の持つ意義という観点は、中世スコラ学の中で消えて亡くなるように見える。復活するのはカント『判断力批判』あたりか。

プラトン/久保勉訳『饗宴』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】プラトン『パイドン』

【要約】魂は死にません。そう確信して、ソクラテスは喜んで死刑を受け入れたのでした。

【感想】理不尽な死刑判決を食らったソクラテスが、まったく苦しむことなく死に向かっていく姿。これが凄い。並大抵の覚悟ではこうはいかない。

その生き様を根底から支えていたのが「魂の不死」にたいする確信だ。本書では様々な角度から「魂の不死」が証明される。その証明の説得力に関して、私が言うべきことは何もない。

今回、個人的に注目したのは、「自己同一性」という言葉だ。本書では「自己同一を保つ」という表現が多用されている。単一の形相を持ち、分解されず、恒常的な同一のあり方を「保つ」ものは、神的であり不死であるとされる。そして自己同一を保ち続ける「それそのもの」であるようなものは「イデア」と呼ばれる。逆に、自己同一を「保てない」ようなものは、死ぬ運命から逃れられないものと見なされる。

このような「自己同一性」の持続を良しとする感性は、日本人には馴染みがない。むしろ、「花の色は移りにけりな」にしろ「祇園精舎の鐘の声」にしろ「月日は百代の過客」にしろ、「自己同一」を保たないことが美の本質にあるとされる。逆に言えば、「自己同一性」への執着を把握できれば、西洋哲学の核心部分を掴めるということになる。

※9/26追記
【この本は眼鏡っ娘のことを書いている】
プラトンはソクラテスに、「一に一を加えたときに、<二となった>のは、加えられたほうの一なのか、それとも、加わった方の一なのか。あるいは、この加わった一と加えられた一とが、一方の他方への附加ということに原因して、<二となった>のか。それすらそうとは自分に納得できないからだ。」と語らせている。これはもちろん眼鏡っ娘について書かれた文章だ。
「一に一を加えて二になる」とは、「娘」に「眼鏡」を加えて「眼鏡っ娘」となることだ。しかしソクラテスはそれに対して「自分には納得できない」と疑問を呈している。なぜなら、「眼鏡っ娘」とは「二」ではなく「一」だからだ。だからソクラテスは続けてこう言う。「そもそも<一>というのが生ずることの原因は何であるのか、それを知っていると、私はもはや自分を納得させえないでいる」。これは、「娘」と「眼鏡」が合体したときに生じるのは単に「眼鏡をかけた娘」だけのはずであって、「眼鏡っ娘」が生じるわけではない、ということへの疑問だ。だからソクラテスは総括してこう言う。「そのものが生じたり消滅したり、またいま存在するというのは、いったい何を原因・根拠としてあることなのか」。彼は喝破したのだ。「眼鏡っ娘」が存在するというのは、単に「娘」に「眼鏡」が加わったせいではないのだと。
だとしたら、「眼鏡っ娘」の存在は何に由来するのか。彼はこう言う。「一に一が加えられた場合には、その附加が、二の生じる原因だとか、また分断される場合には、その分断が、原因だと、言わないように用心するのではないだろうか」。もはや明らかに、「眼鏡っ娘」の存在は「娘に眼鏡が加えられる」ということには求められない。「何であれ、ものには、それがあずかりもつところの、おのおのに独自な<存在の本来的なあり方>(ウゥシアー)があるのだ。そこで、まさにこれを分有したという仕方においてのみ、おのおののものは、生じてくるのである。それ以外の仕方を自分は知らない」。「眼鏡っ娘」とは、「眼鏡っ娘」という独自な「存在の本来的なあり方」を持っているものなのだ。

プラトン/岩田靖夫訳『パイドン―魂の不死について』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】プラトン『国家』

【要約】「正義」とは何であるかを考えた本です。
国家にとっての正義とは、上に立つべき人がちゃんと上に立ち、下にいるべき人がしっかり下で従っている状態を指します。上に立つべき優秀な人とは、哲学者のことです。同じく、正義の人とは、上に立つべき知的要素がしっかり上に立ち、下にいるべき欲望がきちんと下で従っている状態を指します。逆に、下にいるべき欲望たちが思考や行動を支配した状況を「悪」と呼びます。
哲学者になるためには、感覚で捉えられるようなものは捨てて、思考だけが把握できる対象=イデアを捉えなければなりません。そうしてイデアを把握する哲学者は、正義そのものであり、最高に幸せな人間となります。

【感想】政治学や教育学の、押しも押されぬ大古典。内容に対して私が言うべきことは、ほぼ何も残されていない。

とはいえ、いくつか気になることはある。たとえば、社会契約論について。プラトンは明確に社会契約説を否定している。しかも歴史的に否定したのではなく、倫理的に否定している。社会契約論が本当に仮想敵としなければいけないのは、王権神授説のような代物ではなく、プラトニズムではないのか。

これはもちろん民主主義にも当てはまる。プラトンは民主主義を明確に倫理的な意味で否定している。しかも民主主義の根幹である「多様性」そのものを倫理的に否定する。プラトンは、単一性や単純性や純粋性といった「自己同一性」を最大の根拠として、民主主義の多様性を倫理的に非難する。この単一性や単純性や純粋性といった観念は、現代では民族の単一性・単純性・純粋性という「ナショナリズム」の形で先鋭化している。民主主義が本当のラスボスとすべきは、目の前に見えるナショナリズムではなくて、背後に控えているプラトニズムであり、「自己同一性」という概念そのものではないのか。

個人的には、本書は、政治学や教育学の古典であるよりも前に、「自己同一性」という概念が持つ魅惑と恐ろしさを疑いのない水準で浮き彫りにしたところに意義があると思っている。

もちろん教育について無視するわけにもいかないので、それについてはこちらへ。→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【この理論は眼鏡論に使える】人間の魂を三要素に分割する考え方は、眼鏡っ娘が登場するマンガを分析する際に、大きな理論的武器となる。プラトンは、一人の人間を「知的/勇気/欲望」の3つの要素に分割した上で、知的な部分がほかの部分を従えることこそが「正義」であると主張した。そしてそれは国家においても同様であり、知的な人間がほかの人間を従えるのが「正義」ということになる。それは一つの物語においても当てはまる。一つの物語に登場するキャラクターそれぞれに魂の三要素「知的/勇気/欲望」を割り当てる。すると物語で展開されるキャラクター間の葛藤は、一人の人間のなかで繰り広げられる魂の葛藤と相似するものとなる。そして「知的」な人間が上に立つことが、プラトンによれば「正義」なのだ。知的な人間とは、もちろん眼鏡をかけた者のことである。

*9/22追記
「眼鏡っ娘」がただの「眼鏡をかけた女」とは異なるという事態を、本書は端的に示している。国家の指導者となるべき哲学者を教育するエピソードにおいて、プラトンは数学教育の重要性を説く。そこで彼は「一」を認識することが真理を見抜く知性の土台を作るとして、こう言う。
「もし<一>というものがまさにそれ自体として、じゅうぶんに見られ、あるいは何かほかの感覚によってとらえられるものであるとしたら、ちょうど指の場合について行っていたのと同じように、それは我々を実在するものへと引っぱっていく性格のものではないことになるだろう。けれども、もしそれが見られるときにはいつも、何か反対のものが同時に見られて、一つとして現れるのに少しも劣らず、またその反対としても現れるということになるのであれば、これはもう、その上に立って判定する者が必要となるだろう。」(524d-525a)
プラトンが言う「何か反対のもの」とは、「一」に対して「多」が現れることを意味する。人間は「人間という一」であると同時に、「二つの眼と二つの耳と二つの手と二つの足などなどの多の集合」でもある。我々はどうして人間を「一人の人間」として認識し、「二つの眼と二つの耳と…の集合」としては認識しないのだろうか。これが「一と多」に関わる認識論的問題である。プラトンは様々な物事を「多」ではなく「一」として認識することこそが真理を認識する知性の役割だと言う。知覚だけでは、見えるのは「二つの眼と二つの耳と…の集合」だけであって、ここから必然的に「一人の人間」という認識は生じない。知覚に加えて知性の働きがあってこそ、初めて「一人の人間」という認識が生じる。
これは明らかに、「眼鏡っ娘」を「眼鏡っ娘」として認識する事態を指し示している。もしも単に知覚だけなら、そこにいるのは「眼鏡+娘」という「多の集合」に過ぎず、「一人の眼鏡っ娘」を認識することはあり得ない。そこに「真理を見る知性」の働きが加わることによって初めて「一人の眼鏡っ娘」を認識することが可能となる。逆に言えば、「眼鏡と娘という多の集合」から「一人の眼鏡っ娘」を見抜くことこそが知性の働きであって、真理への道筋ということである。

またプラトンは「一」と「多」についてこうも言う。
「じっさい、君も知っているだろうが、この道に通じる玄人たちにしても、彼らは、<一>そのものを議論の上で分割しようと試みる人があっても、一笑に付して相手にしない。君が<一>を割って細分しようとすれば、彼らのほうはそのぶんだけ掛けて増やし、<一>が一でなくなって多くの部分として現れることのけっしてないように、あくまでも用心するのだ」(525d-e)
これは、愚かな非眼鏡勢力がしばしば「眼鏡を外した方が美しい」などという馬鹿げた戯言を発することに対する批判である。プラトンが言う「<一>そのものを議論の上で分割しようと試みる」とは、本来は「一人の眼鏡っ娘」であったものを言葉の上だけで「眼鏡と娘という多の集合に分割しようと試みる」ことを意味する。それは極めて愚かな行為であって、心ある眼鏡勢力はプラトンの言うとおり「一笑に付して相手にしない」ことが必要だ。眼鏡勢力が気をつけるべきは、「<一>が一でなくなって多くの部分として現れることのけっしてないように、あくまでも用心する」ということだ。もちろんこれは、「眼鏡っ娘」が眼鏡を外して「眼鏡と娘の多の集合」に成り下がらないように用心するということを意味する。なぜなら「眼鏡っ娘」という「一」にこそ真理が宿るのであって、「眼鏡と娘の多の集合」には知性のかけらも存在しないからである。そもそも「割って細分」とは眼鏡を否定する暗喩であり、「掛けて増やす」とは眼鏡を肯定する暗喩である。眼鏡を掛けて「眼鏡っ娘を増やす」ということこそ、真理へと到達する道筋なのだ。

プラトン/藤沢令夫訳『国家』〈上〉、岩波文庫
プラトン/藤沢令夫訳『国家』〈下〉、岩波文庫

【要約と感想】プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』

【要約】ソクラテスは処刑されました。頭がいい人たちから嫌われてしまったためです。なぜ嫌われたかというと、彼らがまったく頭が良くないことを自覚させてしまったからです。みんな「正義」とか「愛」については何も知りません。彼らは自分だけは世界の秘密を知っていると思い込んでいましたが、やはり勘違いに過ぎず、実際には何も知りませんでした。ソクラテスだけが「自分は何も知らない」ということを知っていたのでした。
そうして裁判の結果、ソクラテスは処刑されることになりましたが、その裁判の結果に進んで従いました。

【感想】何回読んでも、すげえな、としか。さすが、古典中の古典。芸術的な完成度も高いし、ソクラテスの卓越したブレないキャラクターの魅力はハンパないし。

で、やっぱり私たちも、ソクラテスに死刑判決を言い渡すんだろうなあと。何回も殺すことになるんだろうなあと。共謀罪が成立した日に思う。

プラトン/久保勉訳『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】芹沢俊介『「いじめ」が終わるとき』

【要約】反復継続的な暴力である「いじめ」は、反復継続的に通うことを強制する「学校」という場が引き起こしています。「ひとり」であることに耐えられない子供たちは、特定の一人を標的として分離することで、集団の一員であることに安住します。特定対象への執拗な暴力は、自分が「みんな」の側にいることを固定するために反復継続されます。であるなら、いじめが終わるのは、「みんな」という帰属性を求めず、「ひとり」でいられる力を持ったときでしょう。

【感想】命の危険を感じるくらいなら、学校なんか行かなくていい。そう大きな声で言えるようになったのは、そんな昔の話ではない。著者のような人たちが真剣にいじめ問題に取り組んでいるなかで、そういう認識ができあがっていった。

そもそも「学校」という組織は、産業革命の進行に伴って必要となった「過渡的な形態の組織」である可能性が高く、人間の成長にとって不可欠な役割を果たすかどうかは、極めて怪しい。「教育」が必要かもしれないとして、その役割を「学校」が一元的に独占するのは絶対に避けられないことなのかどうか。あんな狭い空間に人間が何十人も強制的に集められ、毎日顔を合わせることになったら、子供だろうがなんだろうが、万人の万人に対する闘争が勃発し、ある種のリバイアサンが誕生するのは不可避だろう。
いじめが発生するたびに、「学校なんか解散してしまえばいい」と思ってしまう自分がいるが、本書はその気持ちを半分だけ代弁してくれる。いじめをなくそうと思ったら、学校を解散するのがいちばん簡単だ。

もう半分は、それでも学校は必要だという、ある種の感覚。民主主義的な精神を涵養する教育を考えたときに、民間経営の塾ではダメだろうという直感。実は、民主主義的な精神を育てるというのは、「いじめ」が不可避的に発生するような場を敢えて作り、子供をその環境に強制的に閉じ込めた上で、万人の万人に対する闘争を意図的に発生させ、子供の人間関係調整能力を発達させようという、ものすごい過酷な試練なのではないか。

そういう意味でいうと、民主主義的精神を育てようと意図的に構成された学校では、実は必然的にいじめ発生に直面するリスクが高くなる。デモクラシーという目的が放棄されない限り、構造的に「いじめ」を終わらせることは不可能だろう。しかしそのリスクを低めることはできる。リスクを低めるための技術を蓄積することはできる。教師にできることは、その技術を多面的に活用し、万人の万人に対する闘争からリバイアサンを生み出すのではなく、「一般意志」を作り上げることなんだろうと思う。

芹沢俊介『「いじめ」が終わるとき-根本的解決への提言』彩流社、2007年