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【要約と感想】南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』

【要約】ローマの盛衰は、地中海地域だけ見ていても理解できません。ローマ帝国盛衰の本質は、ガリアやブリタニアなど従来「辺境」とされて見過ごされてきた地域支配の在り方と変容にあります。ローマが最も栄えていた頃は、辺境地域の優秀な人材をリクルートするシステムと、彼らを包括する「ローマ人」というアイデンティティが帝国の紐帯となっていました。「ローマ人」とは現在の偏狭な民族意識にもとづくものではなく、ローマ的価値を共有する意識が土台となっていたので、蛮族と呼ばれる人々も容易に「ローマ人」へ組み込むことができました。しかしローマ帝国崩壊の過程で「ローマ人」を緩やかに結びつけていたアイデンティティが崩壊し、偏狭なローマ人意識が台頭したのに応じて、いわゆる蛮族の人々が帝国から離脱します。これがローマ帝国崩壊の本質です。
本書はこの仮定を、皇帝や側近等を中心とした政治過程から明らかにしようとしています。

【要確認事項】「ローマ人というアイデンティティ」の崩壊がローマ帝国衰亡の決定的な要因だという著者の仮定が正しかったとして。でもだとしたら、いちばん決定的だったのは、ローマ帝国のアイデンティティの本質を構成していた多神教的価値観をキリスト教が破壊してしまったところにあったんじゃないの?と単純に思えてしまう。多神教的価値観と具体的な儀式を背景にして成立していた「ローマ人というアイデンティティ」は、キリスト教のような一神教によって本質的に変質してしまったのではないのか? その疑問に本書は答えてくれないどころか、「ローマ人というアイデンティティ」とキリスト教が両立することが前提で話が進んでいく。この論点を論証せずに話を進めて大丈夫なのか、ローマ史の専門家でない私には分からないところではある。
まあ門外漢の印象に過ぎないのではあるが、「アイデンティティ」という集団的心性を証明すべき課題の根幹として扱うにもかかわらず、宗教や文化といった集団的心性を形成する本質にほとんど触れることなく、権力闘争過程の叙述に終始するのでは、本質的に課題と方法が噛み合っていないのではないかと思ってしまう。果たして史料に即して権力闘争の過程を扱う政治史の手法だけで「アイデンティティ」というフワフワした得体の知れない対象を取り扱えるものだろうか? これは新書で紙幅が少ないとかそういう問題ではなく、本質的な「対象と方法」に関わってくる問題だと思う。

【感想】まあ、とはいえ、国家の在り方の本質が地方行政の具体相に現われるという点については、丁寧に書かれていたように思う。というか、「アイデンティティ」などと論証困難なフワフワした観念に頼らずとも、地方行政の有り様を丁寧に論証していけば、普通にローマ帝国衰亡の過程は描けるような感じがする。特に個人的には幕末明治期の国家制度に詳しいわけだが、やはり国家の在り方の本質は地方制度の具体相に現われる。山県有朋の市制町村制などに典型的だ。本書でも、従来の研究では見逃されていたガリアやブリタニアにおける地方行政の具体相がけっこう丁寧に描かれており、「アイデンティティ」という媒介項など必要とせず、そのままローマ帝国衰退を説明する根拠となるように見えてくるのだ。
特に重要なのは、おそらく地方名望家層の扱いと現地人のリクルート及び出世のシステムだ。日本の幕末維新期の課題も、地方名望家層の体制への取り込みと有能な人材のリクルートシステムの確立だった。これが上手くいったから、日本は近代化へ向けて舵を切ることができた。逆に言えば、ローマ帝国では地方名望家層の離脱とリクルートシステムの機能不全が本質的な問題だったのであって、アイデンティティは後から付いてくる類いの些末な問題だった可能性はないのだろうか。
現代の日本が抱える問題も、「日本人のアイデンティティ」という得体の知れないフワフワしたところに本質があるのではなく、地方行政の具体相に根幹があるような気がするのだった。

南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』岩波新書、2013年

【要約と感想】吉村忠典『古代ローマ帝国―その支配の実像―』

【要約】紀元前70年、共和政ローマ末期にシチリア総督となって強大な権力を握ったウェレスは、暴虐の限りを尽くして現地人から搾取を繰り返しましたが、最終的には正義の訴追人キケロに悪事のすべてを暴かれ、政治の表舞台から姿を消します。
が、しかし、その裁判記録を現代的な観点からよくよく精査してみると、キケロも単純に正義を体現しているわけではなく、政治的経済的な利害関係の中にいることも分かります。単純に勧善懲悪として理解するのは、危険かもしれません。
実際に行なわれた裁判の具体的過程を通じて、共和政末期ローマの権力構造や世界観が浮き彫りにされます。

【感想】ケース・スタディを徹底することによって時代と地域の性質を包括的に明らかにする上に、普遍的な人間と国家のあり方までも考えさせるという、一点突破全面展開のお手本のような良書だと思う。現在のわれわれの常識からは、古代に「主権」というものがなく権力の極が複数存在することについて理解が及びにくいわけだが、本書は具体的に古代権力のあり方について分からせてくれる。そしてその作業は同時に、近代的な「主権国家」の有り様そのものを相対化させる視点も浮かび上がらせる。おもしろかった。

またキケロの胡散臭さもよく分かる。彼は莫大な資産を持つ「名望家層」を代弁して「寡頭制」を支持する立場にあった。共和制末期ローマの価値観として、キケロの立場は代表的なものだったようには思われる。が、もちろん民主制の現代的価値観からは、直ちに首肯できるものではない。個人的には、むしろキケロが口汚く罵るグラックス兄弟やカエサルなど民衆派のほうに親近感を覚える。『老年について』や『キケロー書簡集』にも、キケロが民主主義的な立場に対して真っ向から反対する意見を散見することができる。『キケロー書簡集』等には「よき人々」という言葉が盛んに用いられているが、これは道徳的に優れた人々という意味ではなく、資産を持った金持ち連中のことと理解しなければならないだろう。彼の政治観・正義観・道徳観は、「寡頭制」を支持する立場という前提から理解される必要がある。
とすれば、本書で扱われたウェレス裁判も、同様に「寡頭制」を支持する立場から行なわれたものと理解する必要があるし、本書もそう仄めかしている。ウェレスの行なった数々の野蛮な行為が仮に事実であったとしても、ひょっとしたらそれらは「寡頭制」が説得力を失って「名望家層」が没落する過程で必然的に発生する運命にあった不幸な出来事であり、単にキケロが保守的な価値観で以て断罪しただけのことかもしれないわけだ。後にキケロがカエサル等民衆派を立場の違いというだけで口汚く罵っているのを見ると、このウェレス裁判の内容も素直に聞くわけにはいかないように思えてくる。さらには後にキケロのライバルとなるカティリーナの弾劾に対しても。

まあ、いずれにせよ、権力というものがいかに恐ろしいか、思いを新たにする。権力者の指先一つで、われわれの生活は一瞬で台無しにされてしまうのだ。税金を食い物にして恥じない権力者がデカい顔をしているのは、2000年前も今も変わりがない。

吉村忠典『古代ローマ帝国―その支配の実像―』岩波新書、1997年

教育学Ⅱ-11

■新松戸キャンパス 12/7(金)
■龍ケ崎キャンパス 12/10(月)

前回のおさらい

・知識基盤社会、第四次産業革命、Society5.0

問題行動

懲戒と体罰

【学校教育法第11条】
「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」

・何がどこまで「懲戒」で、どこから「体罰」なのでしょうか?
・「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)
・「学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰等に関する参考事例

いじめ

・「いじめ防止対策推進法

【(定義)第二条】
この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。

・いじめの防止:第15条。
・いじめの早期発見:第16条。
・いじめに対する措置:第23条。

・「千葉県いじめ防止等基本的方針
・「家庭用いじめ発見チェックシート

特別支援教育

・平成19年の学校教育法改正により、すべての学校(幼稚園含む)で特別支援教育を推進することが明確となりました。
・「特別支援教育の推進について(通知)」2007年。
・「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告)」2012年。

特別支援教育の理念

共生社会:障害の有無やその他の個々の違いを認識しつつ、様々な人々が活き活きと活躍できる社会です。誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様なあり方を相互に認め合える全員参加型の社会です。
インクルーシブ教育:障害者が精神的及び身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能とするためにも、障害のある子供が障害のない子供と共に教育を受けられる仕組みです。
教育的ニーズ:子供が必要としている支援です。
合理的配慮:障害のある子供が、他の子供と平等に教育を受ける権利を享有・行使することを確保するために、学校の設置者及び学校が必要かつ適当な変更・調整を行うことであり、障害のある子供にたいし、その状況に応じて、学校教育を受ける場合に個別に必要とされるものです。体制面・財政面において、均衡を失した過度の負担は課しません。
ユニヴァーサル・デザイン:あらかじめ、障害の有無、年齢、性別、人種等にかかわらず多様な人々が利用しやすいよう都市や生活環境をデザインする考え方です。

発達障害

発達障害:これまでの特殊教育の対象とはなっていなかった、知的な遅れのない障害のことです。
→LD(学習障害):知的発達に遅れはありませんが、聞く・話す・読む・書く・計算するなどの能力のうち、特定の分野に極端に苦手な側面が見られます。
→ADHD(注意欠如・多動症):注意力や衝動性、多動性などが年齢や発達に不釣り合いで、社会的な活動や学業に支障をきたすことがあります。
→自閉症スペクトラム:他者の気持ちを察することや周りの状況に合わせたりする行動が苦手だったり、特定のものにこだわる傾向が見られます。

具体的な教育のかたち

(1)特別支援学校:個別の教育的ニーズをかなえるため、専門的なケアや自立支援が手厚く受けられる学校に通います。1学級標準人数は6人です。特別支援学校は「個別の支援計画」や「個別の指導計画」を作成します。
(2)特別支援学級:個別の教育的ニーズをかなえるため、通常の学校に通いながら、専門的なケアが受けられる学級で指導を受けます。1学級標準人数は8人です
(3)通級:通常の学級に在籍しながら、必要に応じて個別の教育的ニーズをかなえるために特別の場を設けることがあります。
(4)通常学級:通常の学級に在籍します。

復習

・「問題行動」それぞれの定義と実際を押さえよう。
・特別支援教育の理念と実際について考えを深めよう。

予習

・「道徳の教科化」について自分なりに調べておこう。

【要約と感想】高田康成『キケロ―ヨーロッパの知的伝統―』

【要約】キケロを知ることは、ヨーロッパ文化の基底を知ることです。明治以来の日本の知的枠組では、ヨーロッパを国ごとに分割して理解しているため、歪みと偏りが酷く、統一的にヨーロッパを理解することができません。特にラテン文化に対する無理解が酷すぎるのですが、今こそギリシャ中心主義史観から脱却してキケロ等ローマ文化を評価し直し、西欧文化を土台から理解しましょう。
ちなみにプラトン(ギリシャ文化)とキケロ(ローマ文化)を比較したとき、顕著な違いは、(1)普遍主義と文化主義(2)個人中心思考と国家中心思考(3)理論志向と実際志向に見出せるでしょう。

【感想】キケロの生涯と人となりをさくっとインプットしようと思って手に取ったけれども、まったくそんな趣旨の本ではなかった。が、それ故におもしろく読んだ。

本書を読む前に岩波文庫で読めるキケロを3冊(『老年について』『友情について』『キケロー書簡集』)読んで、キケロの人となりについては極めて悪印象を持っていたわけだが、本書を読んでもその悪印象は弱まらなかった。というかむしろ、ペトラルカやモムゼンなど先哲たちも私と同じような感想を抱いていたことを確認できて、意を強くしたくらいだった。まあ、キケロの手紙をちゃんと読めば、誰でも同じ感想を抱くはずだと思ってしまうんだけれど。

とはいえ、心情的な悪印象は別にして、キケロが歴史的文化的に極めて重要な位置を占めることについては認識を改めた。古代末期から中世初期にかけて大きな影響力を持ったことや、ルネサンス期の広範囲にわたる影響については勉強になった。また、ヨーロッパでギリシア古典が実際に読まれるようになったのが250年ほど前のことに過ぎないことについては『グランドツアー』等で読んで知っていたつもりではあったけれども、イタリア・ラテンとの絡みで比較すると、また新たな角度から光が当たる。ヨーロッパの歴史と文化を理解するうえでイタリア・ラテンの評価が極めて不当になされているという筆者の歎きは、なるほど、よく分かった。(まあ、とはいえ、だとしたらビザンツはどうなるの?とか、イスラムの扱いはどうするの?とか、話は広がっていってしまうけれど。)

本書が出てから約20年、その間に岩波からキケロー選集が刊行され、代表作が文庫でも読めるようになり、塩野七生の流行もあったりして、ラテン文化への不当な扱いは改まったのか、どうか。

高田康成『キケロ―ヨーロッパの知的伝統―』岩波新書、1999年

【要約と感想】『キケロー書簡集』

【要約】ローマ時代の文人政治家キケローが遺した書簡のうち、重要と思われるものを抜粋しています。キケロー39歳から63歳で暗殺されるまでの書簡が収録されており、ローマでのキャリア絶頂期→政敵に追放される不遇期→再びローマに戻って復活→やりたくなかった辺境の仕事で活躍→カエサルの台頭によって失脚→カエサルに赦されて復帰→哲学的な著作に邁進→愛娘の死→カエサル暗殺後の内乱勃発に伴いアントーニウス弾劾→暗殺、といった具合の波瀾万丈の人生が伺えます。手紙にはポンペーイウスやカエサル、アントーニウスやオクターウィアーヌスといった大物が登場し、当時のローマ帝国が陥った逼迫した情勢の一端を窺い知ることができます。

【感想】キケローの人となりは、まあ率直に言って、手紙を読むかぎり、尊敬に値しない。自己賛美が激しすぎるのと、二枚舌が眼について、見てらんない。節操がない。まあ当時のローマ帝国内の生き馬の目を抜くような権力闘争の渦中にあってはもちろん情状酌量の余地は極めて広いのだけれども、それでも一方で立派な綺麗事を述べている人物が、もう一方で自分の言っていることをまるで実践していないわけだから、読者が白けてしまうのもまた当然だろう。小カトーのように信念に殉じることができずに権力闘争に明け暮れ保身に走るのだったら、綺麗事なんか並べず、マキアベッリみたいに開き直ってくれた方が、ナンボかマシだと思う。いやほんと、口は達者だがやることはチンケな、いちばん厭なタイプの人間に見えてしまう。残された手紙を読むかぎりでは。
ちなみにキケローの人格が褒められたものでないことについては、古代末期最大の神学者との呼び声が高いアウグスティヌスも指摘しているし、17世紀の人文主義者モンテーニュもエピクロスとセネカと比較しながら小物っぷりにあきれている。

「この人の心のほうはそれほどでもないが、その人の言語はほとんどすべての人が感嘆している。」アウグスティヌス『告白』第3巻第4章7
「キケロについては、彼が心のうちに、学問以外に大してすぐれたものをもっていなかったという一般の意見に、私は賛成する。(中略)正直なところ、惰弱と野心的な虚栄を多分にもっていた。」モンテーニュ『エセー』第2巻第10章。
「雄弁の父であるキケロに死の蔑視について語らせ、セネカにも同じことを語らせてみるがよい。前者の言葉は力なくだらけているし、自分でも決心のできないことを読者に決心させようとしていることがわかるだろうから。彼が読者に少しも勇気を与えないのは彼に勇気がないからである。」モンテーニュ『エセー』第2巻第31章

ほかにもモンテーニュ『エセー』はキケロに対する悪口で満たされている。本当に心から軽蔑しているようだ。まあ、その気持ちはよく分かる。
まあ、私の印象に残るキケローの人となりは脇に置いておいて、客観的に見たとき、極めて重要な歴史的証言が並び、かつ人生の教訓に満ちているのは間違いない。歴史的には、ローマの共和制が崩壊して帝政に遷り変わっていく過程が非常によく分かる内容になっている。この変化の過程でもキケローは相変わらず保守的な考えにしがみついて、カエサルのビジョンをまったく理解していないように見える。貧富の差が激しい格差社会において底辺の人々が抱く不満について、何も理解していないように見える。小さな規模の国家では上手く回っていた法律や道徳律が、グローバル社会では上手く機能しないということを何も分かっていないように見える。時代の転換点では、こういう保守的な人間が結局は社会を崩壊に導くということが見える。そしてその人間と社会の本質は、二千年の時を超えた現在でも変わっていないように見えてしまうことが、なかなかに恐ろしい。そういう意味では、キケローを読み返す価値は充分にあると思ってしまったのだった。

あと、心では嫌いな相手に対しても礼儀正しい文章を書きたいとき、本書はお手本として極めて役に立つ。実際に使える言い回しが満載だ。使おう。

『キケロー書簡集』高橋宏幸訳、岩波文庫、2006年