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【要約と感想】佐藤淑子『日本の子供と自尊心―自己主張をどう育むか』

【要約】これからの教育は、子どもの自尊心(セルフ・エスティーム)を育んでいく必要があります。自己主張やセルフ・エスティームの発達には、母子関係のあり方が大きく関わってきます。「ほめる」ことの重要性を今まで以上に意識しましょう。
しかし性差や文化的背景の違いによって、親のしつけや学校教育が子どもに与えるメッセージも異なっています。たとえば、母親と娘の情緒的な関係性から、女性の自己主張は男性と比較して幼少期から抑えられる傾向にあります。
また日本では、「甘え」が許される親しい関係性では自己主張ができますが、「そと」では自己主張ができません。「会話」ができても「対話」ができないのが問題なので、これからは「対話」の機会を増やして自己主張のトレーニングをしていきましょう。
が、そもそも根本的に「自己/社会」の関係性を考慮すれば、セルフ・エスティームが高い低いの問題ではなく、柔軟性やしなりの強さが決定的に重要になってくるでしょう。これからの時代を生きる能力を育むためには、セルフ・エスティームの育成が土台とならなければなりません。

【感想】心理学の知見と比較文化史的な知見を組み合わせた論考で、興味深く読める。「ほめて伸ばす」ことの論理的な意味がよく分かる。まあ、結論そのものは、俗流教育論がさんざん言っていることとそう変わらないようには思う。世間の感覚を学問的に裏付けたというものではあるかもしれない。

【この本は眼鏡論に使える】
二項対立を乗り越えて自我のバランスを保つという観点は、眼鏡論に対しても大きな示唆を与えるように思った。例えば平木が対人行動を「非主張的/攻撃的/主張的」と3つに分けた見解は、眼鏡弁証法における「即自的な眼鏡/対自的な眼鏡/即且対自的な眼鏡」に対応するように思う(64-65頁)。

非主張的攻撃的主張的
引っ込み思案強がり正直
卑屈尊大率直
消極的無頓着積極的
自己否定的他者否定的自他尊重
依存的操作的自発的
他人本位自分本位自他調和
相手任せ相手に指示自他協力
承認を期待優越を誇る自己選択で決める
服従的支配的歩み寄り
黙る一方的に主張する柔軟に対応する
弁解がましい責任転嫁自分の責任で行動
私はOKでない、あなたはOK私はOK、あなたはOKでない私もOK、あなたもOK

平木の言う「非主張的」は、眼鏡をかけた自分に対して自信が持てない状態に当たる。そして「攻撃的」は、眼鏡を外して周囲にちやほやされている状態に当たる。最後に「主張的」は、様々な葛藤を経て再び眼鏡をかけ直した状態に当たるわけだ。
この「ほんとうのわたし」を取り戻すという眼鏡弁証法のプロセスは、本書の認知心理的な観点からも記述されているところだ。

「自己主張するには自己の判断が必要であり、そのうえで自己決定し自分の意思を表明する。このようなプロセスは自己意識を鮮明にするし、自分らしさの模索を促していくだろう。自己は、意識や行動をつかさどる「主体としての自己(I)」と、自他にみられている「客体としての自己(Me)」に区分される。自己主張するIとセルフ・エスティームを内包するMeの相互作用は、自己形成の一つの側面を映し出している。」68頁

「眼鏡をかける」という判断を行ない、自己決定するのは眼鏡少女自身である。そしてその判断と決定の積み重ねが「自分らしさ」の形成へと繋がっていく。そしてそれこそ少女マンガ(特にオトメチックまんが)が目指した「ほんとうのわたし」だ。
あるいは167頁で語られている「相互依存/独立」の二項対立を超えて「情緒的相互依存:自立ー相互関係的:自立的・関係重視自己観」へという理解も、眼鏡弁証法構造に極めて親和的である。「単なる自己主張ではない自立性と、単なる順応ではない協調性とを組み合わせた「自立的協調性」」(171頁)とは、眼鏡っ娘が最終的に目指す姿であろう。

そんなわけで、本書が言う「自己/他者」の弁証法構造自体は私が従来から眼鏡弁証法として主張してきたものではあるが、認知心理の世界でも同様の理解があることを知り、たいへん心強いところである。本書から得た知見は、個人的な研究視点として積極的に取り入れていきたい。

→読むべき本:平木典子『アサーション・トレーニング―さわやかな<自己表現>のために』、辻平治郎『自己意識と他者意識』、岩田純一『<わたし>の世界の成り立ち』

佐藤淑子『日本の子供と自尊心―自己主張をどう育むか』中公新書、2009年

教育概論Ⅰ(中高)-6

栄養・環教 5/24
語学・心カ・教福・服美・表現 5/25

前回のおさらい

・「学制」の特徴=ヨーロッパの真似。
・ヨーロッパが強くなった経緯=大航海時代・宗教改革・ルネサンス←印刷術

今回の目標

・コメニウスの教育思想を知ろう!
・市民革命の経緯と理屈を踏まえて、「人格の完成」を目指すようになった理由を理解しよう!

ヨーロッパはどうして強くなったのか?(15~16世紀)

ルネサンス(15~16世紀)

・音楽や絵画の意味が大きく変わり、芸術家が誕生します。神に捧げるための技術から人間を楽しませるための芸術へ転回します。音楽や絵画は教会に納入するものではなく、一般民衆に売って儲けるための「商品」となっていきます。
・印刷術の普及によって、一人で本を読むことが人々の日常生活の中に入ってきます。印刷術が発明される以前は、本は音読して大勢の人で楽しむものでした。本の読み方が、音読から黙読へと変化します。
・孤独に読書する体験を重ね、人々は「自分自身」を作り上げていきます。リテラシーは、自己実現の決定的な条件となります。

リテラシーと学校の広がり

・印刷術の発明によって進んだのは、「知識の民主化」でした。それまで「知識」は王様や貴族や僧侶が独占するものでしたが、書物によって一般民衆がアクセス可能なものに変わりました。
・それまでは「身分」によって人生が固定していましたが、これからは「知識」によって人生が変わるようになります。
・人々は書物を通じて知識にアクセスするため、リテラシーを獲得しようとします。学校が自然に増加していきます。

*現代の知識の民主化:インターネットの普及によって「知識」を簡単に入手できるようになり、それまで「知識」を一方的に独占・発信していた学校や報道機関に対する不信感が高まります。
→もちろん16世紀ヨーロッパでも、新しい知識を獲得した人々は、それまで知識(そして権威)を独占していた王様・貴族や僧侶に対する不信感を高めていきました。
→不登校の増加やテレビ離れ、学校へのスマホ持ち込み等をどう考えるか。
*格差の拡大:新しい知識を持っているか持っていないかで、格差が拡大していきます。デジタル・ディバイド。

コメニウス Johannes Amos Comenius

・1592年~1670年。モラヴィア(チェコ)出身。プロテスタント(ヤン・フスのボヘミア兄弟団)。
・主著『大教授学』、『世界図絵』(世界初の絵本)
・キャッチフレーズ:近代教授学の父
・名言:全ての人に全ての事柄を教授する

小テスト

市民革命と社会契約論(17~18世紀)

市民社会:欲望の解放と制御

市民社会:身分社会を否定し、個人主義(欲望にまみれた利己的人間)を満足させることを優先して組み立てられた世の中のことです。
・経済的発展は「欲望の解放」によって促進されます。「欲望の制御」を厳しくしすぎると、世界は停滞してしまいます。
・しかし人間の欲望には際限というものがありません。解放された欲望は、そのままでは世界そのものを破壊してしまいます。実際に、ヨーロッパの16世紀と17世紀は宗教戦争や侵略戦争が続いて荒れ狂った時代となりました。
・人間の欲望を解放して、自分勝手な利己的人間だらけになって、なおかつ世界を破滅させないような方法はあるでしょうか? →民主主義

市民革命と社会契約論

・ヨーロッパの政治体制を決定的に変えた事件をまとめて市民革命と呼びます。王様や貴族などが倒され、僧侶の権威が低くなり、身分制がなくなりました。
*市民:農村の生産者ではなく、都市に暮らし、市場でお金を使う人々を指します。基本的にお金持ちです。
*革命:「一揆」と勘違いする日本人が多いですが、いわゆる一揆は支配者の交代を伴いません。支配階級が覆る事態を革命と呼びます。
*市民革命:ヨーロッパでは様々な地域と時期に革命が発生しましたが、全て共通して「市民」が支配者になる革命だったので、「市民革命」と呼びます。

市民革命重要人物政治思想書教育思想書
清教徒革命1642トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』
名誉革命1688ジョン・ロック『市民政府論』『教育論』
アメリカ独立戦争1776トマス・ペイン『コモン・センス』
フランス革命1789ジャン・ジャック・ルソー『社会契約論』『エミール』

・市民革命には、それぞれ理論的指導者と代表的な政治思想書が関わっています。市民革命の理論的根拠となったのが、社会契約論と呼ばれる考え方です。ホッブズ『リヴァイアサン』→ロック『市民政府論』→ルソー『社会契約論』というように展開します。

社会契約の「社会」とは?

社会:もともと日本語には存在せず、sociaeyやassociationの翻訳語として普及しました。ヨーロッパで成熟した「個人」を土台として組み立てられた世の中を指します。
・伝統的な「共同体」と新しい「社会」では、集団優先か個人優先かで世の中の形が決定的に違ってきます。共同体では身分が固定して人々の役割が決まっていましたが、社会では個人の力によって役割や組み合わせを変えることができます。
*たとえば「日本は集団主義」と言う人がいますが、本当でしょうか? 「集団」の質の違いを押さえずに言って大丈夫でしょうか?

社会契約の「契約」とは?

・自由で平等な個人同士が合理的な判断を下した結果として成立する合意と約束のことです。自由や平等が損なわれ、合理的な意志と判断が存在しない場合には、契約は成立しません。
・身分や性別などの「属性」によって条件が変わるものは契約と呼べません。契約とは、属性に関係なく、自立した個人の意志と判断によって成立します。←「属性」とは関係ない、「自立した個人」を作らなければいけません。

新しい社会にふさわしい新しい教育

・個人を作る:「個人」とは、身分や性別等の特殊性にはまったく関係がなく、何の特殊な属性も持たない、普遍的な人間のことです。伝統的共同体の様々なしがらみから切り離された、剥き出しの人間のことです。
・人間はわがままで自分勝手な本性(自然権)を持っているからこそ、その本性を外部から押さえ込まずに最後まで貫き通すことによって、自由で平等で平和な世の中を作り上げることができます。
・しかしそう判断できる(自然法を導き出す)ためには、合理的に物事を考える「理性」がなければなりません。
・新しい社会を作ることは、必然的に、新しい社会にふさわしい新しい「個人」を作ることを意味します。だから新しい社会について考えた思想家は、それにふさわしい新しい「個人」についても考えるし、それにふさわしい教育の形についても構想することになります。

人格の完成をめざす教育

・人格の完成:普遍的な教育とは、人間を作る=人格の完成を目的とする教育です。
・自発的に広がったリテラシーの教育(日本の江戸時代や印刷術発明後のヨーロッパ)と、普遍的な人間を作るための教育(市民革命後のヨーロッパ)の違いを考えてみましょう。教育を受ける人や、教育の内容や、教育への国家の関与などが、どのように異なるでしょうか? →決定的な違いは、教育が「人間の権利」であると考えられるようになったことです。
・「人間の権利」としての教育とは、性別や才能や財産や地位などの特殊性に関係なく、あらゆる人間に共通する資質を育てることを目指す普遍的な教育です。知識を注入したり偏差値を上げるような教育でもなければ、または特定の職業を目指すような教育でもありません。
*Instruction=専門教育(特殊性)とEducation=普通教育(普遍性)の違いを考えてみましょう。

復習

・コメニウスの思想を時代背景とともに押さえよう。
・市民社会に必要な教育が、リテラシーの教育と決定的に異なることを押さえておこう。

予習

・「憲法」とは何かについて、「法律」との違いを中心に調べておこう。

【感想】クリムト展―ウィーンと日本1900(東京都美術館)

東京都美術館で開催されている「クリムト展―ウィーンと日本1900」に行ってきました。

とても面白く観てきました。やはり有名な「ユディトⅠ」の生は圧巻でした。図版で見ている時は気づかなかったのですが、生で見ると、額縁も含めた立体的な装飾技術が素晴らしいのに驚きます。平面的な装飾美術と立体的な装飾美術の総合が、他にない独特の雰囲気を作り出しているような感じがしました。人物表現の立体性(顔と乳房)と平面性(頭髪と衣服)の落差に対する衝撃も、全体的な装飾技術の立体性と平面性の落差によってさらに際立っている気がします。見入ってしまいました。凄いです。

あと不勉強にして知らなかったのですが、「ベートーヴェン・フリーズ」は圧巻でした。わけの分からない執拗な迫力に満ちております。お腹とか、垂れた乳房とか、膝の描写とか、病的で、衝撃を受けます。この病的な感じに対して、なんとなく宮西計三とか大矢ちきとか山岸凉子とか楠本まきとかを思い出してしまうわけですが、もちろんクリムトのほうが先ですね。

個人的な研究に関して、もちろん私は美術の専門ではないわけですけれども、かねてから気になっていたのは19世紀後半から20世紀初頭にかけて先鋭化していったように見える「純粋芸術/装飾美術」=「普遍主義/民族主義」の展開過程です。先行研究でもジャポニズムの流行と絡めて議論が進んでいるところだと思います。クリムトが活躍した多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国でも、大ドイツ主義の挫折とも絡んで、芸術概念の再編成とナショナリズム意識の錯綜とした展開があっただろうと思います。チェコのアルフォンス・ミュシャとは異なって明示的な民族主義は見られないものの、ジャポニズムの影響を受けつつ「純粋芸術」に対する「分離」を志向したクリムトにも、何らかの時代精神が反映しているのではないかと注目しながら見たわけではあります。が、まあ、私の現在の実力では、よく分かりませんでした。そういう観念的なものよりも、「退廃」や「官能」や、あるいは「死」の臭いの方が圧倒的に濃厚でした。敢えてやるとすれば、同時代のベルグソンとかディルタイとか、「生」という観念から接近する方が相応しいのでしょうが……

「接吻」とか「ダナエ」とか「人生は戦いなり」がなかったのは少し残念ですが、まあ、また別のところでぜひ。

【要約と感想】『子どもの貧困と食格差―お腹いっぱい食べさせたい』

【要約】いま子どもの貧困が大きな社会問題となっています。貧困対策として、学校給食が極めて有効です。具体的には(1)経済支援(2)食物提供(3)食育を充実させていく必要があります。食育で気をつけることは、知識提供では格差が広がるだけなので、環境改善を目指すべきということです。

【感想】とても興味深く読んだ。勉強になった。
あとがきにあった、「「食」は、ほかのどの側面よりも、「隣のおばちゃん」的な感情を刺激するのである。」(134頁)という文章が、とても示唆に富んでいるように思った。いまの行政では、「隣のおばちゃん」的な感覚ではなく、圧倒的にオジサンのセンスがまかり通っている。だから上手くいかないのではないかと思ってしまう。この「隣のおばちゃん」的な感情を掬い取るような制度が広がっていけば、貧困問題に対しても一条の光が見えるかもしれない。

文京区の子ども食堂の取り組みで、LINEを使って簡単に申し込める仕組みを作ったのには、なかなか感服した。周囲に知られずに申し込め、支援要請へのハードルを下げるという意味で、とても良い環境づくりだと思った。
個人的に北区の子ども食堂の取り組みにほんの少しだけ関わっているのだが、見えないニーズを可視化することがいかに難しいことか、実感しているところだ。各所の経験を集結させて、知恵を出し合っていきたいところだ。

完全給食実施(中学校)に対するニーズで、保護者が高い要求を示している一方で、教員が消極的なことは気になった。給食費未納問題なども含めて、教員の負担が増えるということなのだろう。
個人的に思うのは、教員の意識を高めようとするよりも、適切な役割分担によって教員の負担を減らしながら完全給食を実施する仕組みを模索するほうが、より建設的だろうということだ。ただでさえ教員の負担が重く、若い人の教員志望者が減少している昨今、さらに負担を増やす方向での制度設計は、好ましくない。まさに「チーム学校」や「コミュニティ・スクール」や「マネジメント」の観点から、教育委員会や校長のリーダーシップを発揮する場面なのだ。知恵を出し合って、子どもたちを幸せにするための制度を模索していきたいところだ。私も微力ながら頑張りたい。

阿倍彩・村山伸子・可知悠子・鳫咲子編著『子どもの貧困と食格差―お腹いっぱい食べさせたい』大月書店、2018年

【要約と感想】石川瞭子編『高校生・大学生のメンタルヘルス対策―学校と家庭でできること』

【要約】社会のあり方が大きく変わった結果、高校生や大学生に対するケアのあり方も、従来の考え方から大きく変えていかなければなりません。発達障害、危険薬物、ひきこもり等、新しい状況にきめ細やかに対応するため、養護教諭やスクールカウンセラー、ソーシャルスクールワーカーなど専門家が連携を密にしていく必要があります。個別事例を詳細に検討すると、子どもと父親との関係が問題であることが多いことが見えてきます。保護者に対するケアを伴わなければ根本的な解決は望めないでしょう。

【感想】個別的事例は、詳細で、胸が痛む。どうしてうまくいかないのか。現場の専門家たちは精一杯やっているようにしか見えないのだが、やはり家庭の協力がなければいかんともしがたい。こうした個別事例から得られる教訓を共有しながら、地道に粘り強く対応していくしかない。私自身も、目の前に課題を抱える学生たちがたくさんいるので、自己有用感を育んでもらえるよう、傾聴の姿勢と受容の態度で受けとめ、温かく見守っていきたい。

が、理論的な部分では「?」とも思う。「時代は変わった」と言うのはよいが、その本質的な部分を捉えているかというと、個人的にはかなり微妙な感想を持つ。心理に関わる人たちには歴史の知識が欠けているという認識(偏見?)が、さらに強まった本でもあった。

【今後の個人的な研究のための備忘録】
エリクソンの理論が時代にそぐわなくなっているという記述があって、おもしろかった。心理の専門家から見ても「時代遅れ」に見えるという言質を得て、勇気が出るのであった。

「エリク・ホーンブルガー・エリクソンは、高校の時期を青年期前期とし、同一性と同一性拡散がこの時期の発達の課題だとした。この時期は子どもから大人に移行する時期であり、心理社会的な意味が大きな時期だと言われている。しかし現代の青年期は、大人への移行期ではなくなっている。つまり、エリクソンが言うような青年期、自分を見つめたり葛藤したりしながら自己を確立する時期とは違うものになっている。(中略)大人になったら自由にできることが増えるから、窮屈な子供時代から脱出したいと思うような社会の構造ではなくなっているのだ。」(85頁)

石川瞭子編『高校生・大学生のメンタルヘルス対策―学校と家庭でできること』青弓社、2013年