「福祉」タグアーカイブ

【要約と感想】『子どもの貧困と食格差―お腹いっぱい食べさせたい』

【要約】いま子どもの貧困が大きな社会問題となっています。貧困対策として、学校給食が極めて有効です。具体的には(1)経済支援(2)食物提供(3)食育を充実させていく必要があります。食育で気をつけることは、知識提供では格差が広がるだけなので、環境改善を目指すべきということです。

【感想】とても興味深く読んだ。勉強になった。
あとがきにあった、「「食」は、ほかのどの側面よりも、「隣のおばちゃん」的な感情を刺激するのである。」(134頁)という文章が、とても示唆に富んでいるように思った。いまの行政では、「隣のおばちゃん」的な感覚ではなく、圧倒的にオジサンのセンスがまかり通っている。だから上手くいかないのではないかと思ってしまう。この「隣のおばちゃん」的な感情を掬い取るような制度が広がっていけば、貧困問題に対しても一条の光が見えるかもしれない。

文京区の子ども食堂の取り組みで、LINEを使って簡単に申し込める仕組みを作ったのには、なかなか感服した。周囲に知られずに申し込め、支援要請へのハードルを下げるという意味で、とても良い環境づくりだと思った。
個人的に北区の子ども食堂の取り組みにほんの少しだけ関わっているのだが、見えないニーズを可視化することがいかに難しいことか、実感しているところだ。各所の経験を集結させて、知恵を出し合っていきたいところだ。

完全給食実施(中学校)に対するニーズで、保護者が高い要求を示している一方で、教員が消極的なことは気になった。給食費未納問題なども含めて、教員の負担が増えるということなのだろう。
個人的に思うのは、教員の意識を高めようとするよりも、適切な役割分担によって教員の負担を減らしながら完全給食を実施する仕組みを模索するほうが、より建設的だろうということだ。ただでさえ教員の負担が重く、若い人の教員志望者が減少している昨今、さらに負担を増やす方向での制度設計は、好ましくない。まさに「チーム学校」や「コミュニティ・スクール」や「マネジメント」の観点から、教育委員会や校長のリーダーシップを発揮する場面なのだ。知恵を出し合って、子どもたちを幸せにするための制度を模索していきたいところだ。私も微力ながら頑張りたい。

阿倍彩・村山伸子・可知悠子・鳫咲子編著『子どもの貧困と食格差―お腹いっぱい食べさせたい』大月書店、2018年

【要約と感想】曽和信一『希望の「教育と福祉」―子どもの社会的養護と家庭福祉を考える』

【要約】いま、子どもや若者たちから「希望」が失われています。子どもに「希望」を取り戻すのが、教育や福祉の仕事です。
保育・施設養護・母子生活支援施設・児童自立支援施設について、具体的に理念・制度・歴史・問題・今後の展望を考えました。かつては狭い範囲の限られた子どもたちを囲い込む慈恵的な福祉政策でしたが、現在の制度は全ての子どもや保護者を対象とした幅広い支援体制の構築へと関心を変えてきています。

【感想】社会的養護の全般を「希望」というキーワードで読み解こうとする意図は興味深かったけれども、具体的な制度の読み解きのところで「希望」という概念がどう絡んでくるかがイマイチ見えにくい記述になっていたところは少々食い足りなかった感じがする。
それから「規範意識の低下」や「少年犯罪の低年齢化」については、具体的な統計資料を根拠とした否定的な見解が各所から出されているはずで、客観的な吟味を経ずに無条件で前提している記述に対しては、多少どうかなあという感じもする。
が、まあ、些細なことなのかもしれない。いま困っている子どもや大人立ちがたくさん存在しており、彼らをどのように支援していくのかの知恵が求められているのは確かなのだった。過去の経緯と現在の制度を知り、そして未来へ「希望」を持つために、本書は役に立つのだろう。

曽和信一『希望の「教育と福祉」―子どもの社会的養護と家庭福祉を考える』阿吽社、2012年

【要約と感想】藤原辰史『給食の歴史』

【要約】給食について、貧困・災害・運動・教育・世界史の5つの観点から多角的に考えることで、給食の歴史と思想の実相を捉えます。すると、給食とは「境界」にあるものだということが分かります。給食を通じて、日本や世界の姿がはっきりと見えてきます。

【感想】事前の予想に反して(と言ったら失礼で恐縮だけれども)、非常に情報量が多いにも関わらず論理的に明快で、読み応えがあって、勉強になり、様々なインスピレーションを与えてくれる本だった。おもしろかった。意表を突かれるような記述も多かったが、それだけ私の視野が狭かったということだ。目から鱗が何枚か落ちた。

本書の論理的な柱である5つの観点それぞれがいずれも重要な論点を提出している。たとえば「貧困」に関しては、私も個人的に地域の「子ども食堂」に少し噛んでいるわけだが、貧困対策の本丸は給食にあるという本書の記述には、激しく納得する。表面上はどれだけ「飽食」を叫ぼうとも、貧困は見えないところに確実に存在する。現在は、ますます貧困の実相が見えにくくなっている。その貧困を掬い上げるのが福祉の仕事のはずだ。ところが小さな子ども食堂ですら「教育/福祉」の境界をどう調整するかで悩ましい問題がたくさん生じているなか、給食ではさらに大変な問題に直面しているであろうことは想像に難くない。その問題を解くには、おそらく「教育/福祉」を一体化した理念を提出できるかどうかがポイントになるのだろう。やはり児童の権利条約の精神が鍵を握っている気はする。

そして「教育」に関しては、大学で栄養教諭養成に関わっていることもあって、多少は勉強して知っているつもりではあったものの、改めてその重要性を認識し直した。授業では学生に対して「食育基本法」の精神だとか「教科等横断的な視点」における食育指導について話をしているわけだが、やはりまずは給食に関する根本的な理念を土台に据えることが決定的に重要なのだと感じた。表面上の条文やカリキュラム規定を暗記しても、土台となる精神を理解していなければ、何の意味もない。
また、教育学者が給食に対して関心を持ってこなかったという告発には、頭が下がる思いがした。確かに教育学の世界では「学力」に関する論争は盛んに行なわれる一方で、「食」に関しては周辺的な領域に追いやられがちなのだ。単に「食」を学習の題材にするという意識では、おそらくいつまでも周辺的な要素に留まり続ける。既存の常識に固執するのではなく、「生活」という広い観点から本質的に発想を組み換える論理が必要とされているように思った。

また「世界史」に関して、アメリカの影響と新自由主義の波がこれほどダイレクトに給食に表れていることは、言われてみればナルホドではあるが、普段はさほど気にしないところではあった。給食ほど日常生活の中に「世界史」が組み込まれている例は、確かにあまりないかもしれない。一点突破全面展開の材料として、給食がこれほど実り豊かな成果を出し得るポテンシャルを持っていたものだったとは、不覚にも認識していなかった。著者の着眼点の鋭さと、着実な成果を挙げる研究手法の確かさには、かなり感じ入った。いい本だった。
個人的には「遅刻しそうになって食パンを加えながら学校へ急ぐ」という戯画的なエピソードが極めてアメリカ的な心性の反映であり、象徴であるという仮説を持っていたわけだが、本著の成果と研究スタイルは私の仮説を裏付けるのに何かしらの意味を持っているように感じた。

【今後の個人的研究のための備忘録】
教育という営みが本質的に抱え込むアポリアに対して誠実に向き合っている本は、実はそんなに多くないだろうと思った。だいたいは、アポリアを抱え続ける不安定な緊張に耐えられず、どちらか一方の立場から論を進めてしまうものだ。以下の記述は、なかなか感慨深く読んだ。

「給食は、国家に依存しない自立した人間をつくる、という考えは、当然、冷戦体制が急速に構築されていくなかで生じたものであるが、それ以上に、給食とは何かを根源的に問うものだ。なぜなら、学校とは社会の力で子どもを守るところであるとともに、一人の自立した人間として育てるところでもあり、厳守すべき社会のルールを学ばせつつ自己の独創性を育てなければならない、という、決して簡単には調和しない課題を引き受けており、日本の給食はまさにその教育の二面性の象徴だからである。」(123頁)

教育を仕事にするということは、この本質的なアポリアをアポリアとして断念したまま、それでも前に進む意志を持ちつづけるということだ。すぱっと割り切れないモヤモヤしたものをいつまでも抱え続ける勇気と根性が必要なのだ。いやはや。
本書が示した「境界」という言葉は、どちらか一方に倒れ込むことなく緊張感を保つための、よい戒めの言葉だと思った。境界に立っていることを自覚できれば、軽率に一方に決め込む愚を避けられる。

藤原辰史『給食の歴史』岩波新書、2018年

【感想】佐野翔音監督『こども食堂にて』

映画を観てきました。「こども食堂にて」というタイトルで、もちろん子ども食堂が舞台の話です。
いやあ、涙腺はもともと強い方ではないのですが、最後の方はずっと涙腺が崩壊したままでした。いい映画でした。

児童虐待の辛い体験を乗り越えて前向きに生きる女子大生が、子ども食堂でボランティアに携わり、様々な事情を抱える子どもや大人と関わっていく話です。体中に痣を作って被虐待の疑いが強い女の子や、悪いと分かっていながら障害を抱える子どもに手をあげてしまう母親や、実の母親に会いたいことを里親に言い出せない男の子など、生き辛さを抱える人たちを「見守ることしかできない」という子ども食堂の活動の過程で、少しずつ主人公が成長していきます。

この映画を観て、私が強く思ったことが三つあります。(1)チームの重要性、(2)食べることの意義、(3)家庭でも学校でもない第三の場所の重要性です。

(1)チームの重要性
主人公は、最初は一人で問題の渦中に突入していくのですが、何もできない自分に対する情けなさで無力感を強めるだけに終わります。しばらく「私は何もできない」と落ちこむのですが、偶然入ったガラス工芸店で、何人もの専門家が関わって初めてようやく一つの作品を作り上げることができることを聞き、考えを改めます。一人でできることには限界があるけれども、たくさんの人が役割分担をして一人一人の持ち場を誠実に守っていくことが、最終的に価値ある仕事に繋がっていきます。
そう考えると、子ども食堂の運営者が言う「私たちの仕事はここまで」という言葉は、とても含蓄が深いものに思えます。もちろんそれは行きづらさを抱える人々を突き放す言葉ではなく、自分の持ち場を誠実に守るという決意を前提として、他の持ち場を守る人々をチームの仲間として信頼する言葉でもあります。自分たちの仕事に限界はあるけれども、他の専門家たちと連携することで様々な困難を解決できると信じている言葉です。実際、この映画では、子ども食堂と児童福祉に関わる専門家たちとのコミュニケーションが、しっかり描かれています。
私も大学の教職課程を持ち場としている身として、まずは自分の持ち場をしっかりと守りつつ、他の専門家の方々との連携を深めていくことが大事なのだと、改めて認識しなおした次第です。

(2)食べることの意義
映画の舞台が「こども食堂」ということで、もちろん「食」が中心的なテーマとなっている映画です。子ども食堂の運営を裏から支える八百屋さんや魚屋さん、パン屋さんたちの温かい活動が、さりげなくも丁寧に描かれていました。また、子ども食堂のシーン以外でも、コミュニケーションツールとしての「お饅頭」の扱い方が印象的で、人と人を繋げる行為としての「食」がライトモチーフとなっているように感じました。
言うまでもなく、生きることのいちばんの基本は「食」にあります。が、このいちばん大事であったはずの「食」の土台が、現代では壊滅的に崩れてきています。特に現在では「食」が徹底的に個人化・市場化してしまい、人と人を繋げる基礎が見えなくなっています。失われた「人と人との繋がり」を取り戻す上で、「子ども食堂」が「食」を基礎に置いていることは、とても重要なことのように思います。単に話を聞いても何も話してくれない子どもも、安心して「食」に参加できる場では口を開いてくれそうな気がします。安全に「食」を楽しむことは、生きることを無条件に肯定することだからです。
よくある勘違いとして、子ども食堂は貧困の子どもを対象にしていると思われがちですが、本来はそうではありません。貧困かどうかに関係なく、子どもたちが安心して「食」に関われる場です。生きるための基礎となる「食」が安定して、初めて人と人が繋がる条件が成立するということが、よく分かる作品だと思いました。

(3)家庭でも学校でもない第三の場所の重要性
近年では、子育ては家族がもっぱら責任を負うべきものだとされがちですが、かつてはそうではありませんでした。生産力の低い時代、子育ての優先順位は低く、まずは生存に必要なカロリーを確保することが最優先事項でした。大人たちは農作業や狩猟で忙殺され、子育ては近所の小さな女の子が担当する(いわゆる子守)など、地域全体で担うものでした。現代では生産力の向上と同時に家族の島宇宙化が進行し、家族が子育ての責任をもっぱら背負うようになり、地域が子育てに関与しなくなりました。児童虐待の増加は、このような「家族にだけ責任を負わせる」ような子育て形態の変化が土台にあるように思います。
地域の存在感の低下を埋め合わせるように児童相談所など行政への期待が増してきていますが、まだまだ人員や予算が不足しているため、すべてをカバーしきることは難しい状況です。そんな中、かつては地域が行ない、本来は行政がカバーしなければいけない領域を代わりに確保しているのが、子ども食堂という存在だと思います。その存在は、作中では「家庭でも学校でもない第三の場所」と呼ばれました。
80年代から90年代にかけての少年にとって、「家庭でも学校でもない第三の場所」はゲームセンターだったりストリートだったりしました。そこでは家庭や学校の序列からは解放されて、本来の自分を取り戻せるような感覚を得られました。今では、その場所はインターネットなど仮想空間になっているかもしれません。が、仮想空間では、お腹がふくれません。「第三の場所」としての子ども食堂は、子どもたちの居場所を確保する場として、本当に貴重な存在だと思いました。

そんなわけで、この作品、派手な演出があるわけでもなければ、びっくりするようなドンデンガエシの脚本なわけでもありません。ドキュメンタリーの手法を交えた、会話中心で進行する、地味な映画であるとはいえます。が、観てよかったなと、確実に思える作品でもあると思います。いろいろな立場の人に観てもらいたいなと思いました。私個人は、地域の子ども食堂に実際に行ってみたいと思いました。観る前には心のなかに存在しなかった感情です。
上映後に行なわれた監督のトークショーも興味深く聞きました。まさか作中の重要な登場人物が監督本人だと思っていなかったので、そこそこ意表を突かれました。

2018年10月12日まで、渋谷アップリンク上映中「こども食堂にて」