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【和歌山県高野町】高野山金剛峯寺で南無大師遍照金剛と唱える

高野山は空海(弘法大師)が816年に開山し、現在は100以上の寺院が建ち並ぶ宗教的聖地です。奥深い山中にあって交通アクセスは不便なのですが、険しい森を越えると意外なほど開放感ある空間が広がる、不思議な場所です。
今回は露天風呂のある宿坊に泊まって、ゆっくり高野山を巡ったのでした。

麓から歩いてきた巡礼者が最初に辿り着くのは、大門(重要文化財)です。巨大で、たいへん立派です。

が、まあ、私は公共交通機関で来たので、他のところを見て昼食後に辿り着いたのですが。

次回訪れるときは、ぜひ麓から歩いて登って大門を拝みたいと思います。

さて、大門を通過して参道をまっすぐ東に向かい、中門をくぐると、金堂や根本大塔などが立ち並ぶ壇上伽藍に出ます。

壇上伽藍の建物には、それぞれ中に入って参拝することができます。

今回はたっぷり時間があったので、大師教会・教戒堂で受戒して参りました。大勢の巡礼者と一緒に声を上げてお経を唱えるなど、日常的に経験できる儀式ではなく、改まった気持ちになったのでした。

さらに先に進むと、金剛峯寺(国指定史跡・世界遺産)があります。

しかし気になるのは、案内パネルの内容です。

これまで私は「高野山=金剛峯寺」と暗記していたのですが、案内パネルを読んで理解したところでは、金剛峯寺は実は空海とは直接的には関係なく、1131年に建立されたということですね。現在の歴史の教科書等にはどう書かれているのか、ちょっと気になるところでした。

さて、さらに参道を奥に進むと、奥之院一の橋に着きます。ここから雰囲気ががらりと変わります。

杉並木に囲まれた参道に沿って、歴史上の人物のお墓がたくさんあります。たとえば、明智光秀の墓。

そして、織田信長の墓。

死んでしまえばノーサイドで、同じ墓地に葬られるのですね。まあ、光秀や信長の墓は他のところにもあるのですけれども。

さらに奥に進むと、いよいよ弘法大師の廟所に着きます。この御廟橋の向こうは、聖地すぎるので、写真撮影禁止です。

というわけで、日常では不可能な荘厳な体験ができる場所でした。暗黒の地下道を手探りで進む体験とか、とてもおもしろかったです。

さて。で、つい空海(弘法大師)と最澄(伝教大師)を比較してしまうわけですが。高野山で感じたのは、空海個人の圧倒的なカリスマ性です。高野山は空海個人に対する崇拝で成立しているような印象を受けました。一方の比叡山には、確かに伝教大師の廟所をお守りする聖地もあるのですが、全山的に最澄個人のカリスマはそれほど感じませんでした。それは、比叡山では法然・親鸞・日蓮・道元・栄西といった絢爛たる鎌倉新仏教のエースたちが育っており、その痕跡が残されているからかもしれません。逆に高野山には、空海以外には教科書に載るような僧侶を輩出していません。そういう意味では生産性がないようにも思えてしまうわけです。
まあ教科書に載るような僧侶を輩出することが素晴らしいかどうかは一概には言えないのは確かですが、私のような「教育」畑の人間からしてみれば、ここに高野山と比叡山の本質的な違いを見てしまいます。いいか悪いかは別として、空海の個人的なカリスマ性が強い高野山において、教育的想像力を発揮する余地が比叡山と比較してどれほどのものだったのか、という疑問です。
あるいは、仏教本来の考え方から思い起こして、空海に対する個人崇拝でいいのかどうかという疑問にも通じるところです。私も高野山で「南無大師遍照金剛」(意味は、ざっくり言えば、空海を無条件で全面的に信頼しますので私のことをよろしくお願いしますという感じ)と唱え、空海個人への尊敬の念を顕わにして、受戒したわけですが。改めて思い返してみれば、個人崇拝で終わって仏教的に大丈夫なのかという。もちろん真言宗によれば仏教の奥義は言葉で表現し尽くせないものなので、私のような宗教センスのない人間が人間的尺度でどうこう言う問題ではないのかもしれませんが。単に空海への個人崇拝で終わってしまったら、教育的生産性は一切ないのも確かだと思うのです。個人崇拝が単なる通過点という理屈であれば、分からなくもないのですが。
あるいは、自分自身の宗教的能力に対する限界を謙虚に設け、真理の啓示者である聖人個人(空海)を信仰の対象とする在り方は、プロテスタント的であるという点では、一神教的な浄土宗と並んで、実はヨーロッパ的な宗教の観念に近いとは言えるかもしれない。

まあともかく、露天風呂のある宿坊に泊まり、夜は写経会に参加して外国人観光客に混じって般若心経を写し、朝は早くから読経会に参加したりと、極めて充実した時間を過してきたのでありました。
ぜひまた機会を作って訪れたいと思います。
(2015年6/19・20訪問)

教育概論Ⅰ(中高)-4

栄養・環教 5/10
語学・心カ・教福・服美・表現 5/11

前回のおさらい

・昔は、「教育」とは違う形での人間形成である「形成」が行なわれていました。
・昔は「イニシエーション」を経て、若者組の中で様々な知識や経験を得ていました。

今回の目標

・「リテラシー」という言葉の意味と機能を理解しよう!
・昔の日本の教育機関のことを知ろう!
・寺子屋と藩校の違いを理解しよう!

大昔の日本の学校

・つまり、ほとんどの人は学校に行っていませんでした。なぜなら、生活をする上でリテラシーはまったく必要なかったからです。
・ごくごく一部の人が学校に行って勉強していましたが、それはリテラシーを必要とする専門家(書記・宗教)になるためでした。

リテラシー

リテラシー:文字を読んだり書いたりすることができる能力を指します。そこからさらに、様々な道具を使って情報を得たり発信したりすることができる能力のことを意味するようになります。

書記の教育(儒教)

・律令制の整備とともに、書記の教育が始まります。書記は文字が読めないと務まりません。
大学寮(中央の公立官僚育成機関)・国学(地方の公立役人育成機関)
大学別曹(私立の書記育成機関):藤原氏の勧学院など

仏教の教育

・聖徳太子以降、お坊さんの教育が始まります。お坊さんは文字が読めないと務まりません。
空海(774-835):綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)。828-845年。
最澄(766/767-822):比叡山延暦寺。山家学生式(さんげがくしょうしき)。818年。

武士の教育

・鎌倉幕府の成立によって武士が権力を握りましたが、本当に人の上に立つためには教養が必要です。
金沢文庫:北条実時(鎌倉幕府執権の親戚)。1275年?
足利学校:上杉憲実(室町幕府の関東管領)が再興。1432年。

日本での学校教育の始まり

※江戸時代(1603年~1868年)の基礎知識
(1)平和→生産力の向上→教育への関心向上
(2)身分制→統一的な教育制度がない
(3)幕藩体制→地域によってバラバラな教育

寺子屋

寺子屋:一般庶民が自分たちのために必要とした教育機関です。幕府や藩など支配者層が上から押しつけたのではなく、下からの自発的な要求によって自然発生的に増加していきました。
・庶民の生活と要求に対応して、習字(手習い)やそろばんを教えていました。
※「往来物」と呼ばれる教科書を使っていました。

・江戸時代中期(西暦1750年頃)あたりから子供に対する意識が変わり始めます。
←生産力の向上、遺産相続への関心、家意識の形成
←商品経済の展開、識字能力の有効性の拡大、寺子屋の増加

リテラシーの展開

コンピュータ・リテラシー:コンピュータを使って情報を獲得したり発信したりすることができる能力を意味します。現在はコンピュータ・リテラシーを持っていることが当たり前とされ、学校で習得するようになっています。この能力がないと就職活動すらできません。
・リテラシーと学校:学校に行って勉強する目的の一つは、リテラシーを獲得することです。「話し言葉」は意図的にトレーニングしなくても身につけることができますが、「書き言葉」は意図的・計画的にトレーニングすることで初めて身につけることができます。
・かつてリテラシーを持っていたのはごく一握りの知的エリートだけで、大半の人々は文字の読み書きができませんでした。最初は一部の意欲のある人々だけが学校に行ってリテラシーを獲得していましたが、リテラシーの有用性が広く認識されてくると、次第に全ての人が強制的にリテラシーを持たされるような制度に変わっていきます。

江戸時代の文化

長期間にわたる平和と繁栄によって、学問が独自に発達を遂げていました。
*儒学:中国発祥の学問ですが、徳川家が推奨したのをきっかけとして、江戸時代の日本で独特の発展を遂げます。昌平坂学問所や藩校などで教えられていました。基本的には支配者階級のための学問で、主に武士が学んでいました。
昌平坂学問所:林羅山の私塾(1630年)を起源として、1790年に正式に幕府の直轄学校となりました。1871年に閉鎖された後、現在では建物が湯島聖堂として残っています。
藩校:全国に260あった藩が、それぞれ作っていた教育機関です。水戸藩の弘道館長州藩の明倫館薩摩藩の造士館会津藩の日新館が有名です。
郷校:例外的に武士ではない人々も学ぶことができた教育機関です。岡山藩の閑谷学校が有名です。
私塾:学問サークルが発展して、個性的な塾が運営されていました。伊藤仁斎の古義堂や、広瀬淡窓の咸宜園吉田松陰の松下村塾などが有名です。

*蘭学:日本は外国との交流を避けていましたが、長崎などを通じて入ってくる海外情報を元に、ヨーロッパの学問が研究されていました。シーボルトの鳴滝塾や、緒方洪庵の適塾が有名です。
*国学:中国とは異なる日本独自の文化を特に尊重して研究する姿勢が生まれていました。私塾としては本居宣長の鈴屋が有名です。

▼日本の昔の学校地図へのリンク

復習

小テスト
・「リテラシー」という言葉の意味を、自分なりに説明してみよう。
・日本にあった学校について、創設者や成立年代など、自分なりに整理しておこう。

予習

・「学制」について調べよう。
・16世紀以降のヨーロッパ近代の歴史をおさらいしておこう。

【滋賀県大津市】比叡山延暦寺は一隅を照らし続けた教育機関

天台宗の本山・比叡山延暦寺は、最澄(伝教大師)が788年に開山したお寺が発展して現在の姿になったものです。現在はたいへん規模が大きなお寺ですが、当初からここまで大きかったのではなく、様々なお坊さんが関わって、ここまで発展しています。

1994年に世界文化遺産に登録されて、外国人観光客もとても多くなっております。

さて、延暦寺は、もちろん宗教施設です。が、ここでは教育機関として延暦寺が果たした役割に注目していきます。

比叡山延暦寺が教育機関であることは、最澄が朝廷に提出した「山家学生式(さんげがくしょうしき)」に明確に表れています。比叡山で学ぶ学生たちへの教育方針や具体的な心得を説いた内容です。最澄が、日本に正しい仏教を広めるためには教育が重要であることをしっかり認識していたことが分かります。ここで示された「一隅を照らす」という言葉は、現在でも天台宗の方針を示す極めて重要な言葉となっています。

教育に関わって注目したい建物は、重要文化財の「戒壇院」です。

周辺の建物と比較して質素ではあるので観光客はあまり注目しないわけですが、教育史関係者としては見逃すわけにはいきません。教育機関としての延暦寺を考えるときに、決定的に重要な場所です。
案内パネルにもその重要性がしっかり記されています。

案内パネルにも「比叡山中で最も重要なお堂」と明記されておりますね。最澄は、後進僧侶の育成にとって「戒壇」を設けることが決定的に重要だと考え、朝廷に働きかけていたのですが、その生存中にはついに設置を許されることがなかったのでした。
ちなみに僧侶の資格を保証する「戒壇」は、もともと日本に三個所作られたのですが(奈良の唐招提寺、下野薬師寺、太宰府)、最新の仏教理論を携えて日本に戻ってきた最澄は、比叡山延暦寺にもその資格を付与すべきだと考えたのでした。戒壇の設置は、比叡山が僧侶の教育機関として既成仏教勢力から独立することを意味するものでした。

こうして延暦寺は、「山家学生式」を教育方針とし、「戒壇」を権威として、優秀な僧侶を大量に輩出します。
比叡山の教育機関としての生産力の高さの証拠は、山の中のそこかしこに見ることができます。絢爛たる鎌倉仏教宗派の創始者たちが修行した痕跡が、比叡山のいたるところに残っているのです。

たとえば、臨済宗の栄西禅師。

そして、浄土真宗の親鸞聖人。

さらに、浄土宗の法然上人。

加えて、日蓮宗の日蓮上人。

まだあります、曹洞宗の道元禅師。

いやあ、圧倒的に錚々たるメンバーです。いかに比叡山が教育施設として卓越していたかが分かります。鎌倉仏教の新宗派創設者たちは、ことごとく比叡山延暦寺で学んでいるのですね。教育機関としての面目躍如というところです。これは、空海の高野山には見られないものです。最澄の教育構想が優れていたせいなのか、戒壇の権威なのかどうか、興味が尽きないところですね。

入山して大講堂へ向かう道には、比叡山で修行した宗教者たちのプロフィールがパネルで掲示されています。

が、まあ、そういう「教育機関としての比叡山延暦寺」にはまったく関心がなくても、比叡山はとても素晴らしいところです。

重要文化財の大講堂。

国宝の根本中堂。私が訪れたときは、大改修工事が始まっていて、普段近くで見られないような仏像を拝むこともできました。

横川の元三大師堂。

この元三大師は、江戸時代までには圧倒的な人気があって、昭和初期までよく知られていたように思うのですが、最近はあまり目立たないですね。全国に「大師堂」があって、その場合の「大師」とは「元三大師」を指すことが多いのですが、けっこう多くの人が「弘法大師」と勘違いしているように思います。

高野山の弘法大師ではなく、比叡山の元三大師であることは、日本人の教養として正しく認識しておきたいところです。

他にも、最澄の静かな眠りを守る浄土院の佇まいや、にない堂から聞こえてくる荘厳なお経の声とか、見るべきところばかりです。折に触れて訪れたい場所です。
(2015年8/11訪問)

教育原論(保育)-4

短大保育科 5/9・5/11

前回のおさらい

・家族は子育てをしていませんでした。社会(ムラ)全体で子育てを担っていました。
・昔は、「教育」とは違う形での人間形成である「形成」が行なわれていました。

今回の目標

・「イニシエーション」という言葉の意味を理解し、「大人になること」の意味が現在とどのように違うかを把握しよう!
・「リテラシー」という言葉の意味を理解しよう!
・昔の日本の教育機関のことを知ろう!

イニシエーションとは?

・イニシエーションとは:日本語では「成人式」や「通過儀礼」とも呼ばれています。一人前の共同体(ムラ)のメンバーになるために、全ての若者が突破しなければならない試練のことです。日本だけではなく、世界全体に共通して見られます。
・イニシエーションの必要性:肉体的に一人前の条件(自分の子どもが作れる)を揃えつつあるとき、精神的にも一人前になる必要があります。
←昔の人たちが何歳くらいで親になっていたのか考えてみよう。アンケート
・イニシエーションの内容:「死」と「再生」を象徴するものと言えます。一人前の共同体(ムラ)メンバーになるために、家族と分離(親離れ、子離れ)し、ムラ全体の子供として再び生まれなおす必要があるということです。

若者組……学校がない世界での精神的成熟

*若者宿(メンズハウス):一人前になるために、年齢別集団へ加入して、親元を離れて、様々な知識や技術を身につけます。(女性の場合は「娘宿」など)←参考:「學」の漢字の元の形。
・家族でも学校ではない場所(若者宿)で、親や先生ではない人(同年齢集団)を通じて、経験を積みます。
・若者組の役割:集団労働力の提供、祭礼や村芝居の執行、消防・警察、性や結婚の管理など。
・近代の学校教育と決定的に異なるのは、「死」と「生=性」の重要性かもしれません。

大昔の日本の学校

・ほとんどの人は学校に行っていませんでした。生活をする上で、リテラシーはまったく必要ありませんでした。
・ごくごく一部の人が学校に行って勉強していましたが、それはリテラシーを必要とする専門家(書記・宗教)になるためでした。

リテラシー

リテラシー:文字を読んだり書いたりすることができる能力を指します。そこからさらに、様々な道具を使って情報を得たり発信したりすることができる能力のことを意味するようになります。

書記の教育(儒教)

・律令制の整備とともに、書記の教育が始まります。書記は文字が読めないと務まりません。
大学寮(中央の公立官僚育成機関)・国学(地方の公立役人育成機関)
大学別曹(私立の書記育成機関):藤原氏の勧学院など

仏教の教育

・お坊さんは文字が読めないと務まりません。
空海(774-835):綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)。828-845年。
最澄(766/767-822):比叡山延暦寺。山家学生式(さんげがくしょうしき)。818年。

武士の教育

・武士の地位を上げるためには教養が必要です。
金沢文庫:北条実時。1275年?
足利学校:上杉憲実が再興。1432年。

日本の昔の学校地図へのリンク

日本での学校教育の始まり

※江戸時代の基礎知識
(1)平和→生産力の向上→教育への関心向上
(2)身分制→統一的な教育制度がない
(3)幕藩体制→地域によってバラバラな教育

寺子屋

寺子屋:一般庶民が自分たちのために必要とした教育機関です。幕府や藩など支配者層が上から押しつけたのではなく、下からの自発的な要求によって自然発生的に増加していきました。
・庶民の生活と要求に対応して、そろばんや習字を教えていました。
※「往来物」と呼ばれるテキストを使っていました。

・江戸時代中期(西暦1750年頃)あたりから子供に対する意識が変わり始めます。
←生産力の向上、遺産相続への関心、家意識の形成
←商品経済の展開、識字能力の有効性の拡大、寺子屋の増加

リテラシーの展開

コンピュータ・リテラシー:コンピュータを使って情報を獲得したり発信したりすることができる能力を意味します。現在はコンピュータ・リテラシーを持っていることが当たり前とされ、学校で習得するようになっています。この能力がないと就職活動すらできません。
・リテラシーと学校:学校に行って勉強する目的の一つは、リテラシーを獲得することです。「話し言葉」は意図的にトレーニングしなくても身につけることができますが、「書き言葉」は意図的・計画的にトレーニングすることで初めて身につけることができます。
・かつてリテラシーを持っていたのはごく一握りの知的エリートだけで、大半の人々は文字の読み書きができませんでした。最初は一部の意欲のある人々だけが学校に行ってリテラシーを獲得していましたが、リテラシーの有用性が広く認識されてくると、次第に全ての人が強制的にリテラシーを持たされるような制度に変わっていきます。

復習

小テスト
・「イニシエーション」と「若者組」の知識を踏まえて、「大人になること」の意味が現在とどう違っているか説明してみよう。
・「リテラシー」という観点から、昔の日本の教育が現在とどう違っているか説明してみよう。

予習

・「藩校」について調べよう。
・「学制」について調べよう。

参考文献

ファン・ヘネップ『通過儀礼』
文化人類学の観点からイニシエーション(通過儀礼)を捉え、人生の節目で危機を乗り越えるための儀礼と理解し、越境の過程を「分離→過渡→統合」という図式で理解する。古典的名著。

佐野賢治『ヒトから人へ』
「大人になる」ために昔の人々が行っていた伝統的な習俗を、「一人前」という視点から描き出すエッセイ集。高度経済成長後に失われた伝統的な人間形成の在り方について考えさせられる。

教育原論(栄養)-3

栄養科 5/7

前回のおさらい

・18世紀半ばから日本では子供の教育に関心が持たれるようになりました。どうして教育が必要なのか?←リテラシーを身につけると幸せになれるからです。
・身分の違いによって、藩校や寺子屋というふうに学ぶ場所に違いがありました。

今回の目標

・市民社会の成立によって、新しい教育が必要になったことを理解しよう!
・近代西洋教育思想の特徴をつかみ、現在の教育に繋がっていることを理解しよう!

民主主義の教育

市民社会の成立

・ヨーロッパの政治体制を民主主義の成立に向けて決定的に変えた事件を、まとめて市民革命と呼びます。
*市民:農村の生産者ではなく、都市に暮らし、市場でお金を使う人々を指します。基本的にお金持ちです。
*革命:「一揆」と勘違いする日本人が多いですが、いわゆる一揆は支配者の交代を伴いません。支配階級が覆る事態を革命と呼びます。
*市民革命:ヨーロッパでは様々な地域と時期に革命が発生しましたが、全て共通して「市民」が支配者になる革命だったので、「市民革命」と呼びます。

市民革命重要人物政治思想書教育思想書
清教徒革命1642トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』
名誉革命1688ジョン・ロック『市民政府論』『教育論』
アメリカ独立戦争1776トマス・ペイン『コモン・センス』
フランス革命1789ジャン・ジャック・ルソー『社会契約論』『エミール』

・市民革命には、それぞれ理論的指導者と代表的な政治思想書が関わっています。政治に関わった人物が同時に教育理論書を書いていることにも注目しましょう。
・新しい世の中(民主主義)に変わったら、それに相応しい新しい教育が必要となります。それまでの身分制社会では、偉い人の言うことを聞いていれば問題がありませんでした。新しい世の中では、自分の頭で考え、判断し、行動する、自律的な人間でなければ生きていくことができません。
・どうして教育が必要なのか?←民主主義の世の中で幸せになるためには、誰かから命令されて動くような人間ではなく、自分の頭で考えて行動できる自律的な人間になったほうがいいに決まっているからです。
・身分や属性に縛られず、他人に動かされるのではなく、自律的な人間になることを「人格の完成」と呼びます。

憲法と教育の自由

・人格が完成した自律的な人間の権利を保障するために、憲法というものが存在しています。

思考実験:法律を破ったことはありますか?

・市民は、リーダーが作った法律に従う義務があります。法律を破ったときには、ペナルティが課されます。法律は、それぞれの市民が平和かつ幸福に暮らすことができるよう、選ばれたリーダーによって定められます。←自分たちが決めたことは自分たちで守りましょう=自律。
・市民は、法律を破ることはできますが、憲法を破ることはできません。法律と憲法は、どこがどう違っているのでしょうか?
・そもそも憲法を守る義務があるのは誰でしょうか?→日本国憲法第99条。
・憲法は市民に何を期待しているのでしょうか?→日本国憲法第97条と第98条。

『日本国憲法』第十章 最高法規
〔基本的人権の由来特質〕
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

〔憲法の最高性と条約及び国際法規の遵守〕
第九十八条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

〔憲法尊重擁護の義務〕
第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

基本的人権

基本的人権:誰がリーダーになったとしても、絶対に人々から奪うことができない生まれながらの人間の権利です。性別や身分や才能などの特殊性に関係なく、あらゆる人が平等に持っている普遍的なものです。*確認:多数の専制の怖さ。
自由権:国家が侵害することができない、個人が持つ権利です。「国家からの自由」のことです。具体的には、身体の自由、財産の自由、居住の自由、職業選択の自由、教育の自由などなどがあります。
教育の自由:自分の子供をどのように教育するかは、国家から関与されることではありません。←信仰の自由:どのような思想信条を持つかについて、国家が個人に命令することはできません。

教育基本法と日本国憲法

・教育基本法は、1947年に日本国憲法と一体のものとして制定され、準憲法的性格を持つと考えられています。→つまり、教育基本法を守らなければいけないのはリーダーの側であって、一般国民は守らせる側ということになります。

近代西洋(18~19世紀)の教育思想

ロック John Locke

・市民革命、経験主義。
・1632年~1704年。イングランド出身。
・主著『市民政府論』(政治思想)、『人間悟性論』(認識論)、『教育論』あるいは『教育に関する一考察』(教育思想:翻訳が異なるだけです)
・キャッチフレーズ:紳士教育タブラ・ラサ(白紙説)
・名言:健全なる精神は健全なる身体に宿る。←まず体育(食物、睡眠、居住環境など)の重要性を強調しました。
・身分制を反映した古い教育を否定して、新しい市民社会を担う紳士(ジェントルマン)を作ることを目指す教育です。自発性を重視して詰め込み教育を否定し、大人になってから役に立つ習慣形成を重く見ました。

ルソー Jean-Jacques Rousseau

・市民革命、ロマン主義。
・1712年~1778年。ジュネーヴ出身。
・主著『社会契約論』(政治思想)、『人間不平等起源論』(政治思想)、『新エロイーズ』(恋愛小説)、『エミール』(教育思想)
・キャッチフレーズ:子どもの発見消極教育
・名言:万物を創る者の手を離れるときはすべてよいものであるが、人間の手に移るとすべてが悪くなる
・子供期の独自性を初めて主張しました。消極教育とは、書物による早期教育をいましめ、まず自然による教育(たとえば感覚の訓練など)を重視する姿勢を指します。また、思春期や青年期の持つ独特の意義について意識を向けたのも大きな特徴です。

カント Immanuel Kant

・1724年~1804年。ドイツ出身。
・名言「人間は教育されなければならない唯一の被造物である。
・大人になって自律性を獲得をするためには、子どものときにある程度拘束されたり外から知識を与えられたりすることが必要かもしれません。

ペスタロッチー Johann Heinrich Pestalozzi

・1746年~1827年。スイス出身。
・主著『隠者の夕暮』『シュタンツだより』『ゲルトルートはいかにその子を教えたか』『白鳥の歌』
・キャッチフレーズ:実物教授。直感教授。労作教育。3つのH(Hand、Heart、Head)=知徳体。
名言:「玉座の上にあっても、木の葉の屋根の蔭に住まっても同じ人間だ」=身分に関係なく、普遍的な人間を教育するということです。
・孤児や貧民の子供の教育を通じて、身分や階級に関わらない人間一般の教育原理を打ち立てました。ルソーが理論だけだったのに対して、ペスタロッチーは実践を通じて教育原理を明らかにしました。
・アメリカを経由したペスタロッチー主義(開発主義教育)は、明治初期に日本でも流行しました。

復習

小テスト
・時代背景を考慮しながら、各教育思想の本質を押さえよう。

予習

・義務教育とは何か、その導入経緯について調べておこう。特にコンドルセとオーエンの仕事を調べよう。

発展的な学習の参考

ジョン・ロック『教育に関する考察』:新しい時代にふさわしい紳士教育の形が示されています。
ジャン・ジャック・ルソー『エミール』:普遍的な「人間」をつくるという、まったく新しい教育の姿が描かれています。
ペスタロッチー『隠者の夕暮れ・シュタンツだより』:ペスタロッチーの教育思想のエッセンスが詩という形式で表現されています。
フレーベル『フレーベル自伝』:フレーベルの教育観の一端を伺うことができます。