【要約と感想】三宅ほなみ監訳『21世紀型スキル―学びと評価の新たなかたち』

【要約】産業社会から知識社会に変化するので、これまでの学校教育は役に立たなくなります。知識社会に対応するため、教育は21世紀スキルを育成しなければなりません。21世紀スキルは、テクノロジーの圧倒的な発達を背景にして評価システムが画期的に進化することを前提に、授業の中に評価システムを埋めこみ(結果ではなくパフォーマンスを重視した形成的評価)、目標から授業をデザインするのではなく、個々の子どもたちが創造的に知識を生産してゴール自体を変更し(創発的アプローチ)、多様な他者と協働的にコラボレーションすることで身についていきます。

【感想】まあ、言っていること自体は分からなくもない。現代は、明らかに根本的な変化の過程にある。かつて農業社会から産業社会に生産様式が変化した際には、封建社会から市民社会へという政治様式の変化に伴って、徒弟制から学校教育へ教育様式も変化した。現在の学校システムは、明らかに近代(産業社会+国民国家+資本主義+民主主義)をサポートするために機能している。だからもしも産業社会が終わるのであれば、学校システムの有効性も崩れる。そのこと自体には、多くの人がとっくに気づいている。問題は産業社会から知識社会への変化に対応するような代替的な教育システムの具体的構想が極めて難しいことで、本書はその課題に対して一定の回答を示したものと言うことはできる。そういう意味では、かなり頑張っていると思う。勉強になるところも多々あった。私自身の授業-評価改善のために参考になるところも多い。

だが、読んでいて気持ち悪いのもまた確かである。私が馴染んできた教育学の本とは、まるで違うものになっているのだ。まず文体が気持ち悪い。教育学の本ではなく、まるでアプリケーションの付属説明書を読んでいるかのようだ。英語からの翻訳文体という事情はあるのかもしれないが、それにしても奇妙な文体だ。

おそらく文体の気持ち悪さと連動しているのだろうが、気になるのは、「人格の一貫性」とか「アイデンティティ」という近代教育の根幹に関わる部分に一切の関心が払われていないところだ。むしろ一貫性やアイデンティティは、意図的に排除されているとも読める。本書の立場では急激に変化する社会に柔軟に適応することが重要なのであって、人格の一貫性とかアイデンティティとかいったものに執着するのはむしろ適応障害と見なされそうだ。またあるいは本書の立場は、「個の尊厳」を軽視し、コミュニケーションやコラボレーションやネットワークといったものを重視する。それはテクノロジーの発展によって、個体を「スタンド・アローン」ではなく、ネットワークに接続された「端末」として想定するのと同様のことだろう。そして彼らの文体の気持ち悪さは、文章をプロトコルとして扱うことに由来している気がする。そして「人格」そのものも、人間の尊厳の源として尊重すべき不可視の対象ではなく、測定し評価し開発して活用すべき操作可能な資源と見なされている。この人間観の違いこそが、気持ち悪さの根源にあると思う。

しかし翻って、この「人格」という概念自体が近代に由来するものとすれば、知識社会の到来に伴って近代の有効性が崩れるとき、人格概念の意味もまた土台を失う。「人格」概念は、前近代の身分制や封建制を克服する中から説得力を持った。はたして、近代の終焉と共に「人格」概念も捨て去られる運命を辿るのかどうか。「人格の尊厳」ではなく「ネットワークの尊厳」となるのかどうか。
あるいは、21世紀型スキルというものが具体的にわかりにくいのは、仮に知識社会では「人格」概念が無効だとして、その代わりとなる有効な概念が示されていないのが原因なんだろう。逆に言えば、「人格」を代替する概念を発見すれば、21世紀型スキルに説得力が生じ、近代が終わる。個人的には、それは「環境」と呼ばれている言葉から芽が出てくるような気がしているが、どうか。

P.グリフィン、B.マクゴー、E.ケア編/三宅ほなみ監訳、益川弘如・望月俊男編訳『21世紀型スキル―学びと評価の新たなかたち』北大路書房、2014年