「教育」タグアーカイブ

【要約と感想】平井尚一『高校の授業でとりあげたオオカミ少女の物語』

【要約】オオカミに育てられた2人の少女をインドの牧師夫妻が愛情をもって人間性を引き出した話を授業で語り続けたら、生徒たちが感動しました。

【感想】まず客観的に確認しておかなければならないことは、「オオカミ少女」の話には捏造の疑いがかけられていることである。そして、科学的に考えた場合は、捏造の可能性が極めて高いということである。牧師夫妻の話そのものが仮に真実であったとしても、本当にオオカミに育てられたかどうかは別の話ということも認識する必要がある。

話そのものに関わる客観的な状況が確認できたなら、次に確認しなければならないことは、「仮に捏造された可能性が高い教材として、生徒たちに良い影響を与えるから大目に見るべき」なのかどうかという、教育的な観点である。「水に優しい言葉をかければ綺麗な氷になる」とか「江戸しぐさは素晴らしい」という科学的根拠が極めて低い話を、単に「いい話」だからという理由で道徳の教材として使用していいかどうかという問題である。

まあ、常識的な観点からも、科学的な観点からも、教育的な観点からも、ダメだろう。著者自身が善意の塊であることを思うと、モニョってしまう結論ではあるが。

こういう問題は、オオカミ少女の話に関わらず、身近なところに溢れている。教育に関わるものは(あるいは関わらないものでも)、常にアンテナを高く掲げている必要がある。謙虚に学び続けなければならない。

平井尚一『高校の授業でとりあげたオオカミ少女の物語』あけび書房、2014年

【要約と感想】早稲田大学教育総合研究所監修『高校の多様化と教員養成』

【要約】高校が多様化した現在、大学での教員養成では普遍的な資質能力を身に付け、実践的な力は現場で身につけましょう。

【感想】タイトルからして取得できると期待してよいはずの情報は、何ひとつ得ることができなかった。高校が多様化すべき社会経済的背景について何も分析していないし、高校多様化を推し進めた政治動向の力学も分からないし、現在の高校多様化の実態を俯瞰する統計的実態も分からないし、高校多様化に対応した教員養成カリキュラムの具体的なあり方も結局わからないし、現場の話と制度の話がまったく噛み合ってないという。がっかりである。
まあ、早稲田大学教育総合研究所が悪いのではなく、これが「高校の多様化と教員養成」の現実だと理解するべきところではある。おそらく誰がやっても同じ結果になるのだろう。我々の手の届かない何かが決定的に破綻しているのだ。根本的な問題を放置したまま姑息な対処療法を続けても、何も解決しない。いやはや。

若い2人の教師が試行錯誤しながら奮闘している姿が分かったことだけが、収穫であった。すり切れずに、このまま工夫を続けていって欲しいと思った。

早稲田大学教育総合研究所監修『高校の多様化と教員養成』学文社、2013年

【要約と感想】島沢優子『部活があぶない』

【要約】体罰では才能は伸びません。子どもの自主性が決定的に重要です。
部活で疲弊しているのは子どもだけではありません。先生も苛酷な労働を強いられています。
部活がブラック化する原因は、勝利至上主義にあります。保護者も顧問も学校も勝利至上主義の下、子どもの心と体を犠牲にしています。部活で得られる大切なものは、礼儀とか我慢などではなく、かけがえのない仲間です。

【感想】毀誉褒貶が激しい本になるんだろうなあと予測したら、案の定、amazonレビューとかとてもおもしろい。本書を酷評している人の日本語読解力が壊滅的に低く、内容をしっかり読めていないことなども含めて、とても興味深い現象に感じた。いやはや。

いま、「チーム学校」とか「働き方改革」の名前の下、部活動の位置づけも急速に変わりつつある。教師の負担が減るのは、いいことのようには思う。
とはいえ、代わりとなるはずの「部活動指導員」の扱いに問題を抱えたままであるのも、確かだ。地域のクラブチームも、部活動の代わりになるほど育っているわけでもない。これから具体的にどうすればいいのか、知恵を出し合いながら模索し続けていかなければならない、とても苦しい段階にあるように思う。社会全体の支えが必要なのだが、消費社会に毒されて公共性が削り取られた現代日本にそれが可能かどうか、さてはて。

体罰に関しては、教育原理に関わるものとしては、ロックやペスタロッチがある程度必要なものとして語っていることが気にかかる。日本固有の問題と決めつけるよりも、教育固有の普遍的な問題として考えるほうがいいのかもしれない。

島沢優子『部活があぶない』講談社現代新書、2017年

【要約と感想】三池輝久『学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている』

【要約】不登校は、心理的な葛藤ではなく、病気です。ホルモンバランスが崩れ、免疫機能が低下しています。身体からエネルギーが枯渇しているので学校に行けないのです。本人の努力とか気合いという問題ではありません。
子どもが疲れているのは、強制的に協調性を押しつける学校の責任です。人格を持つ一人の人間として子どもと向き合わないせいです。学校に行く必要はありません。ゆっくり休んで、薬を飲んで、まず身体を治しましょう。

【感想】脱学校論そのものは1970年代から連綿と続いているわけだけど、こういうふうに脳科学と結びつくのは21世紀の傾向なんだろうなあ。まあ、科学的な装いをしつつも、言っていること自体は変わらない気がするのであった。
気にかかるのは、現代社会に対する分析と認識が甘いというか、資本主義や新自由主義に対する洞察が一切欠けているところだ。とりあえず、変な人に変な利用をされないように気をつけてもらえばなあというところではある。私からは、「脳科学」を自称する人たちがエビデンス抜きで自分勝手な主張をしまくる傾向にあるように見えている。

【言質】
「人格」や「個性」という言葉の使い方で、けっこう言質がとれた。

「私は何人かの教師の主治医であったが、そのような例を知らない。当然、登校刺激などあるはずがない。それは学校の教師が一人前の人格をもった「人」として扱われているからではないのか。そして、けっして怠けで登校できないなどと考えもしないからではないか。
逆に言えば、子どもたちは教師たちから、けっして一人前の人格が認められておらず、怠けているなどの疑いの目でみられていることを示すのである。(中略)
残念なことに、不登校はこれからは加速度をつけて急速に増えつづけると断言できるのであるが、その要因の一つに、保護者や教師が生徒を一人前の人格をもった人間として認めていないところにあると気づいていただきたいのである。」(143頁)
「扁桃体には、年齢を問わず、それまでの経験や学習に裏打ちされたその人独自の価値観が詰まっている。この価値観は、それを上回る強力で納得できる経験がない限り、簡単に塗り替えることはできない。それゆえに子どもたちの個性を大事にすることの重要さが解かれるわけである。現代学校社会では、すでに子どもたちの個性が大事にされているという人もあるようだが、それは個性というものを理解できていない人の話である。子どもたちの個性を大事にするということは、子どもたちの価値観を大事にするということにほかならない。」(155頁)
「大人が考えた理屈ではなく、子どもたちが幸せと感じるか否か、この感じるということが重要なのである。扁桃体に存在する自分の価値観が納得され、前頭葉に収斂されて判断されたことがその人の個性となる。この個性が本当に大事にされるときはじめて自由を得ることになり、「生きる力」がつちかわれる。」(156頁)

まあ、なるほどなあというところではある。著者によれば、「個性」の定義とは「扁桃体に詰まった価値観」ということになるようだ。そういう定義で本当に大丈夫なのかどうか、要検討事項だ。

三池輝久『学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている』講談社+α新書、2002年

【要約と感想】山脇由貴子『震える学校―不信地獄の「いじめ社会」を打ち破るために』

【要約】いじめが起こるのは、子どもたちが大人たちを信頼していないからです。大人同士が信頼を失っているからです。いじめは、信頼が欠けている隙間に忍び込んできます。
信頼を取り戻すために、情報を公開しましょう。コミュニケーション量を増やしましょう。強い大人になりましょう。

【感想】個人的には、各種様々のいじめ関連本の中で、いちばん説得力を感じる本だ。定義をもてあそんだり社会の変化を云々する本より、ストレートに腑に落ちる。私も著者と同じく、いじめをなくすためには、大人と子どもの信頼関係を取り戻すことがいちばん重要だと思う。そしてそのためには、大人と大人の信頼関係を築くことが大切だということにも、激しく頷く。

いわゆる「ネットいじめ」に関しても、的外れな分析をするいい加減な本が多い中、本書の考え方にいちばん説得力を感じる。本書で明示されたように、「先生ですらいじめの対象となる」ということが、ネットいじめの本質なのだ。
いじめが匿名性を帯びるようになってから、強いものや権力をもつものが「ネットいじめ」の対象となるようになった。弱いものや権力をもたないものの僻みや嫉みやストレスが、強いもの(先生ですら)の誹謗中傷に捌け口を見出す。従来のような「弱いものいじめ」の感覚では、ネット時代のいじめの特質を見失う。
むしろ、「いじめを行なうのは弱い精神」という従来からの知見を活かせば、現状の「ネットいじめ」を主導しているのが「弱いもの」だということに容易に気がついていいはずだ。弱いから、匿名でしか吠えられないのだ。この単純な事実に気がつかない「自称ネットいじめ分析」が蔓延していて、辟易する。
しかしだとすれば、子どもたちの日常に安心と安全がもたらされ、「自分は弱くない」と信じられれば、「弱いもの」による匿名的ないじめがなくなるのも当然なのだ。

もう一方で、「強いもの」によるいじめに対しては、従来通りの対応をしていく必要がある。こちらのタイプは、むしろ「いじめ」というより、恐喝とか傷害とか詐欺といった言葉を当てはめるほうが相応しいのだろうが。

山脇由貴子『震える学校―不信地獄の「いじめ社会」を打ち破るために』ポプラ社、2012年