【要約と感想】三池輝久『学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている』

【要約】不登校は、心理的な葛藤ではなく、病気です。ホルモンバランスが崩れ、免疫機能が低下しています。身体からエネルギーが枯渇しているので学校に行けないのです。本人の努力とか気合いという問題ではありません。
子どもが疲れているのは、強制的に協調性を押しつける学校の責任です。人格を持つ一人の人間として子どもと向き合わないせいです。学校に行く必要はありません。ゆっくり休んで、薬を飲んで、まず身体を治しましょう。

【感想】脱学校論そのものは1970年代から連綿と続いているわけだけど、こういうふうに脳科学と結びつくのは21世紀の傾向なんだろうなあ。まあ、科学的な装いをしつつも、言っていること自体は変わらない気がするのであった。
気にかかるのは、現代社会に対する分析と認識が甘いというか、資本主義や新自由主義に対する洞察が一切欠けているところだ。とりあえず、変な人に変な利用をされないように気をつけてもらえばなあというところではある。私からは、「脳科学」を自称する人たちがエビデンス抜きで自分勝手な主張をしまくる傾向にあるように見えている。

【言質】
「人格」や「個性」という言葉の使い方で、けっこう言質がとれた。

「私は何人かの教師の主治医であったが、そのような例を知らない。当然、登校刺激などあるはずがない。それは学校の教師が一人前の人格をもった「人」として扱われているからではないのか。そして、けっして怠けで登校できないなどと考えもしないからではないか。
逆に言えば、子どもたちは教師たちから、けっして一人前の人格が認められておらず、怠けているなどの疑いの目でみられていることを示すのである。(中略)
残念なことに、不登校はこれからは加速度をつけて急速に増えつづけると断言できるのであるが、その要因の一つに、保護者や教師が生徒を一人前の人格をもった人間として認めていないところにあると気づいていただきたいのである。」(143頁)
「扁桃体には、年齢を問わず、それまでの経験や学習に裏打ちされたその人独自の価値観が詰まっている。この価値観は、それを上回る強力で納得できる経験がない限り、簡単に塗り替えることはできない。それゆえに子どもたちの個性を大事にすることの重要さが解かれるわけである。現代学校社会では、すでに子どもたちの個性が大事にされているという人もあるようだが、それは個性というものを理解できていない人の話である。子どもたちの個性を大事にするということは、子どもたちの価値観を大事にするということにほかならない。」(155頁)
「大人が考えた理屈ではなく、子どもたちが幸せと感じるか否か、この感じるということが重要なのである。扁桃体に存在する自分の価値観が納得され、前頭葉に収斂されて判断されたことがその人の個性となる。この個性が本当に大事にされるときはじめて自由を得ることになり、「生きる力」がつちかわれる。」(156頁)

まあ、なるほどなあというところではある。著者によれば、「個性」の定義とは「扁桃体に詰まった価値観」ということになるようだ。そういう定義で本当に大丈夫なのかどうか、要検討事項だ。

三池輝久『学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている』講談社+α新書、2002年