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【要約と感想】山下美紀『子どもの「生きづらさ」―子ども主体の生活システム論的アプローチ』

【要約】子どもの「生きづらさ」を客観的に解析するために、子どもの生活に焦点を当て、家族・学校・友人関係を軸にシステムとして把握し、アンケートをとり、統計的な手法を駆使しました。社会学的な手法によって、子どもの「生きづらさ」はおおまかに5つのクラスタに分類でき、3割ほどの子どもが課題を抱えていることが分かりました。「いきづらさ」とは要するに、自分の問題を解決するためにシステムを変更する見通しが立たないことであるという仮説を立てて検証したところ、その一部は実証的に明らかになりました。

【感想】客観的に分析しにくい課題に果敢に取り組んで、粘り強く頑張って対象化したなあという。アンケートを企画するだけで大苦労だったはず。たいへんな労作という印象だ。
結論自体はおそらく既存の常識を画期的に覆すようなものではなく、「あっ」と驚くような知見はない。が、もちろん筆者も様々な限界には自覚的だ。様々な限界がありつつも、この研究のような着実な知見が積み重なっていくことで、きっと教育全体がより善いものになっていくに違いないし、そうしなければならない。我々研究者は、それを信じて日々の仕事を続けるしかないのだ。

山下美紀『子どもの「生きづらさ」―子ども主体の生活システム論的アプローチ』学文社、2012年

【要約と感想】小田貴美子『人とうまくつき合えない子どもたち』

【要約】不登校や引きこもりの子どもに苦労しているご両親向けの本です。
不登校や引きこもりになる子どもは、自己主張が苦手で、親など周囲に合わせて、気を遣って、ずっといい子を演じ続けてきて、疲れてしまうという特徴があります。本人が周囲のせいにして親を恨んでいる状態では、問題は解決しません。
本人がやりたいことを十分にやらせれば、そのうち自分で動きはじめます。親は、子どもが本来もっている力を信じましょう。

【感想】誤字脱字が多く、稚拙な表現が多いところが気になってしまった。「高校生の七割は煙草を吸っています」(42頁)とか、デタラメが平気で書かれていたりもする。こういうのを放置すると、本の全体的な信頼度が下がってしまう。編集者はもっと頑張ってもよかったのではないか。

小田貴美子『人とうまくつき合えない子どもたち―不登校・ひきこもり・ニート、その理解と支援』学事出版、2006年

【要約と感想】小西正雄『君は自分と通話できるケータイを持っているか』

【要約】答えを知っている者(教師)が答えを知らない者(学生)に質問する形の授業では、本来の学びが促進されません。学生たちの「解釈フィルター」と「活用エンジン」を活性化させることが大切です。そう考えると、現在の授業研究には危機感を抱かざるを得ません。
理性には限界があるので、理性的な対象を想定した授業研究は、生きる力の活性化には意味がありません。一回性こそが尊いのです。

【感想】学校で語られがちな「キレイゴト」の数々に鋭いツッコミを入れていく。なるほどなあ、と思うことも多い。「こうやって論点をズラすのね」と、教養の深さと視野の広さに感心するところもあったりする。
とはいえ個人的には、著者がとりあげなかった問題にこそ、問題の本質があると思ってしまうところでもある。具体的には、本書は「資本主義の本質」に切り込んでいくような論点を意図的に避けているように見えた。いわゆる進歩主義的教育が言いがちなキレイゴトに対する論評が鋭いだけに、現実そのものに切り込んでいかない態度に対しては釈然としない違和感を抱えてしまうところではある。
まあ、本書では「理性」の限界を示しながら「非合理」や「矛盾」に耐えることを推奨しているところなので、こういう非合理な姿勢も受け容れて、学べるところだけ学ぶのであった。一回性が尊いことについては、私も教育に携わる者として、意見を同じくする。本書との邂逅も、実に一回性のなせる業である。いやはや。

【言質】近代と学校の関係に関する言質を得た。大雑把に言えば「近代の終わり」に対する言及だ。

「近代国家は、整備された統治組織と独立を維持するための軍隊とそして一つの国家のもとにつどう国民の存在を必要とした。その国民を創出するために、学校教育という近代公教育がスタートする。すなわち学校は軍隊と同じ使命のものち編み出されてきた近代化のための装置であったのである。」183頁
「近代の荒波に船出していくには、学校という強制の場に子供たちを集め、一定の到達目標を掲げて「国民」を育成していくことは避けて通れない道であった。」184頁
「したがって、近代教育と近代工業はほとんどアナロジーが可能である。」185頁
「近代国家、軍隊と学校、近代科学、近代工業は、たがいに影響しあいながらそれぞれの発展の道をたどってきた。それは、合理、分析、規格、統制などをキーワードとする壮大な歴史絵巻とも言える現象であった。」186頁
「いじめや不登校などのいわゆる教育問題のそれぞれにはそれぞれの背景はあろうが、巨視的にみた場合、教育問題なるものは、近代の装置としての学校と眼前の子供が生きる「現代」とのミスマッチが、もはや限界に達していることの現れである。」186頁

学校と「近代」の密接不可分な関連性を明らかにした上で、脱近代化された「現代」においては学校はもはや不必要になってきたという、いわゆる脱学校論の文脈で理解できる文章である。
このミスマッチに対する解答は、高知で行なわれた「脱藩」という取り組みを具体例として、「一回性」というキーワードで示される。

「すべてのことが一回性である。「一回だけこれっきり」ということはすばらしいことなのだという発想に立たなければ「脱藩」の意義は読み解けない。近代教育学に縛られているかぎり読み解けない。」187頁
「教育というのは本来再現可能性などなくてもよいのではないか。子供を学校という教育空間に囲い込み、必ず再現できる事どもだけを与えていくというのは、むしろ貧しい発想ではないのか。」

うむ。ディルタイが100年前には指摘していることである。ボルノウの仕事は60年ほど前か。いずれにせよ、思いのほか近代学校の息は長いのであった。

小西正雄『君は自分と通話できるケータイを持っているか―「現代の諸課題と学校教育」講義』東信堂、2012年

【要約と感想】冨永良喜・森田啓之編著『「いじめ」と「体罰」その現状と対応』

【要約】「いじめ」と「体罰」をテーマとした2つのシンポジウムの記録です。いじめも体罰も、どちらも人権侵害です。教育関係者が力を合わせてなくしていきましょう。
いじめを防ぐためには、心の健康教育が重要だと推奨しています。道徳の時間の具体的な指導のあり方については、学習指導要領の記述を巡ってパネリストの間で見解の相違が見られます。
体罰については、特に学校の部活動の中で、それを許容する風土があることに警鐘を鳴らします。スポーツ本来の姿に立ち帰ることを提唱しています。

【感想】いじめに関しては様々な立場からの見解が示されて、根底的なところで一致しているようには見えなかった。まあ、それ自体は問題ない。多様な立場と多面的なアプローチで解決していけばいいものだ。
個人的には、「心の健康教育」を国家的に推奨することには多少の疑問を持っている。いじめとは本来的に「人間関係」の問題だと思っているので、それを個人の内面的な心の問題に解消することは、場当たり的で表面的な解決法だと思っているからだ。完全に無駄と主張したいわけではないが、本質的なアプローチではないように思う。優先順位の問題だ。このあたりの考えは、私が心理系の人と仲良くなれない理由ではあるのだが。保健体育の時間に「心の健康」を扱うこと自体には一般的な意味があるとは思うものの、いじめ解決のための抜本的な対応と言われると、ちょっと違うのではないかと思ってしまうわけだ。

体罰に関しては、これは法律で禁じられている以上、問答無用で撲滅していかなくてはならない。しかも子どもの側の問題ではなく、大人の側がやめればいいだけの話なので、いじめとは次元が異なる問題ではある。
特に部活動については、教育現場を歪めているものなので、本質的に考えた方がいいのではないかと思う。

【言質】いじめが一方的な悪意に基づくのではなく、「正義」に依拠していることが言及されている。

「いじめっ子の中にも「こいつを何とかしてやろう」という「善意」があります。」28頁
「事件が起きた学校には全国から匿名での罵倒の電話が殺到します。そこにあるのは、いじめの責任追及をする全国の「正義の味方」による集合的な非難です。自分だけが電話しているつもりかもしれませんが、いじめを非難する行為が、結果的に、いじめに酷似しています。残念です。」28頁、戸田有一執筆箇所

「まず学校は、正しいことを教え、正しくないことをだめだよと教えるところです。そして個人の意思にかかわらず集団が形成されるところでもあります。この二つの要素が「正しくないものはだめだ」「嫌なものを排除して、いい社会にする」という感覚を生んでしまいがちだということを自覚しなければならないと思います。(中略)つまり正しいことを教え実行させる学校文化は、それ自体が子どもを追い詰める文化なんだということに気づいているかどうかが、大事だと思います。」67頁、中村和子執筆箇所

いじめについて考える場合、このあたりの視点は、常に意識しておいた方がいいような気がするのだった。

兵庫教育大学企画課社会連携事務室企画編集、冨永良喜・森田啓之編著『「いじめ」と「体罰」その現状と対応―道徳教育・心の健康教育・スポーツ指導のあり方への提言』金子書房、2014年

【要約と感想】向山洋一『「いじめ」は必ず解決できる』

【要約】いじめ解決に必要なのは、近代的なシステムと、技術です。今の学校には近代的システムも技術も欠けているから、いじめが解決しないのです。

【感想】まあ技術を向上させること自体は、いいことだと思う。本書に示された技術の数々も、なるほど、迫力がないわけではない。
とはいえ、「目的」に対する吟味を失って暴走する技術ほど恐ろしいものはない。「どうやって教えるか」も重要だが、「何を教えるか」はもっと重要だ。というか、内容に対する批判的吟味から目をそらすために、むやみやたらと方法や技術に固執しているようにすら見える。重要なものに目を向けず、ひたすら技術の向上に励む姿は、ちょっと、怖い。

【言質】「近代」という言葉の用法に関するいくつかのサンプルを得た。

「学校はもっと近代的にならなければならない。」71頁
「現在の学校のほとんどは、近代的システムになっていないのである。」229頁
「学校の運営を「近代的システム」にすべきなのである。」232頁

まあ、ここで著者が言う「近代的」は、単に「官僚的」という意味に過ぎないように読める。「人権」という「近代的概念」は、考慮に入っていないように見える。

向山洋一『「いじめ」は必ず解決できる―現場で闘う教師たちの実践』扶桑社、2007年