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【愛知県新城市】亀山城と古宮城

愛知県新城市(旧作手村)にある、亀山城と古宮城を見学してきました。

作手は、戦国時代には徳川家と武田家が所有を争った地で、長篠合戦の舞台の近くでもあります。作手村の盆地を囲むようにたくさんの城や砦が築かれており、盆地全体が要塞として機能していただろうと思われます。亀山城と古宮城は、盆地を囲む城塞群のひとつです。
作手盆地は、航空写真で見ると、長篠や岡崎とは以下のような位置関係になっています。

武田家の領地(高遠・飯田)から徳川家の本拠(岡崎)に出ようとするとき、選択肢が2つあることが分かります。
一つ目は、天竜川と豊川(ほぼJR飯田線沿い)を下って三河一宮(砥鹿神社)に出てから西に向かうルート(黄色)です。こちらの方は長篠城から豊橋城まで街道の守りがガチガチに固められています。
二つ目が、長篠を避けて作手盆地を通り、男川沿いに岡崎に出るルート(赤色)です。この2つ目のルートの中継点に当たるのが、作手盆地です。そしてもちろんこちらも、ガチガチに守りを固めるわけです。作手盆地が要塞化していたのは、地政学的に考えれば当然のことと言えそうです。

亀山城は、作手盆地の南の方に位置します。道の駅「つくで手作り村」のすぐ近くにあります。道の駅には様々な体験メニューが用意されていて、なかなか賑やかです。

道の駅に掲げられた看板でも、古来からここが交通の要衝であったことを強調しています。

登城口は、駐車場の脇にあります。案内版がしっかり整備されていて、ありがたいです。

城址案内図によると、古宮川の河岸段丘を利用して作られたようです。比較的コンパクトな作りに見えますね。

道の駅の駐車場から入る登城口は、西側(二の丸の反対側)のほうにあります。なかなか立派な虎口です。

虎口を登ったところから本丸を臨むと、視界が開けます。

亀山城址の周辺は樹木をしっかり整備してあって、遺構の観察には絶好の環境となっています。本丸は北の方に開けていて、南北に長い作手盆地を一望できます。武田家が構築した古宮城が北にあるので、北側からの攻撃に備える体制になっているんでしょうね。

本丸にあった案内パネル。基本に忠実な作りのように見えます。

奥平氏は上野国甘楽郡出身だったんですね。ちなみに近世の甘楽は織田信長の末裔がひっそりと支配することになります。

二の丸も、樹木を切り払って整備されています。見学しやすくて、ありがたいです。

西の方から見た亀山城全景。

現在たんぼになっているところは、おそらく当時は沼沢地だったのではないかと思います。コンパクトながら、なかなか堅固な砦だったのではないでしょうか。

亀山城から北に向かうと、続百名城にも選出された古宮城があります。
歩いて行くと、途中に「豊川矢作川分水点」がありました。矢作川に注ぐのが「男川」で、ここを下っていくと岡崎に辿り着くわけです。豊川水系の方は、新城を経て豊橋に辿り着きます。

川を覗いてみると、酸化鉄っぽく赤茶びておりました。天然のものか人工的なものかは分かりません。

以下、古宮城の全景。木々に覆われていて、遠目からは全体像がよく分かりません。

案内パネルによると、武田家(馬場信房)の造成にかかる城のようです。長篠合戦(1575年)の前哨戦(1573年)のような形で落城しているようです。長篠合戦だけ切り取って見ると武田家が徳川領に侵攻してきたように見えますが、奥三河の情勢を鑑みると、奥平家の動向が絡んで、話はそれほど単純ではないわけですね。

古宮城の南斜面は、現在は白鳥神社になっています。ここから城内に攻め上ります。

木立に邪魔をされているのは残念ですが、だからこそ堀や土塁などの遺構の保存状態は極めて良く、観察のしがいがあります。本丸への虎口周辺には何重にも土塁が築かれていて、なかなか壮観です。さすが続百名城に選出されるだけのことはあります。

虎口脇の大楠の木は、現在は朽ち果てていますが、戦国時代にはまだ健在だったでしょう。当時、この大木の存在を活かして門を構えていたことを想像すると、なかなか凄い虎口です。

本丸周辺は、何重にも堀と土塁が築かれていて、圧巻でした。

土塁と堀が迷路のように張り巡らされていて、歩いていると方向感覚を失います。木立のせいもありますが、まるで全体像が見えません。諏訪原城を思い起こさせるような、テクニカルな作りのように思いました。

テクニカルで広大な古宮城と、コンパクトながら整備が行き届いて見学しやすい亀山城がセットで楽しめて、作手盆地は城マニアにとっては外せない場所ということで間違いないでしょう。(2018年3/16訪問)

【愛知県新城市】鳳来寺は子宝パワースポットだけど、鳳来山東照宮はトップ3に入れるか問題

愛知県東部の山の中にある、鳳来寺に行ってきました。
鳳来寺の御本尊である薬師如来へお参りと、子宝パワースポットとして有名な鳳来山東照宮へのお参りが目的です。

本来は鳳来山の麓から1425段の石段を踏むべきではあるのですが、今回はパークウェイを使って山腹までピュッとショートカットです。駐車場から鳳来寺までは徒歩10分足らずで着きます。効験があったら、今度は麓からちゃんと登ってお礼をしに行かないといけませんね。
とはいえ、駐車場から鳳来寺までの道もなかなか凄いところです。写真の位置から金網の向こうを見下ろすと、眼下は垂直に切り立った断崖絶壁になっていて、眺めていると吸い込まれそうになります。写真ではなかなか立体感が出ないので分かりにくいですが、現場は相当の迫力です。

まずは鳳来山東照宮へお参りします。鳥居の向こうに立派な拝殿が見えます。

案内板によると、三代将軍家光が祈念して造営した東照宮のようですね。

別の案内板には、ちゃんと「奥方」ではなく「伝通院於大の方」と出ていますね。そして「日本の三東照宮」の一つとされています。んー、日光東照宮と久能山東照宮が一番二番の東照宮なのは間違いないとして、三番目は世良田の東照宮もかなり有力な気がしますけれども。岡崎と川越の東照宮もたいへんな由緒がありますし、三番目をどれにするかは難しい問題じゃないですかね。まあ、愛知県民としては鳳来山東照宮が三番目で問題ないかな。

そして鳳来山東照宮は、拝殿だけではなく本殿も直接拝むことができます。そんなわけで拝殿を回り込んで本殿の前へ。

拝殿の背後にある中門から本殿にお参り。何もなくここまで入れてもらえるところは珍しいんじゃないのかな?

東照宮の石垣の間を降りて、鳳来寺へ向かいます。鳳来寺の看板の下にちょうど梅が盛りとなっておりました。桃色でとても綺麗です。

鳳来寺の本堂にお参りします。御本尊は薬師如来です。本当はちゃんと麓から仁王門を通って登ってくるべきですが、それはまた今度。いちおう6歳の時に1425段は達成しておりますよ。

案内板は、鳳来山の自然や歴史についての解説が充実しております。

本堂前の展望台から南側を臨むの図。とても雄大な景色で、清々しい気分になります。写真だと雄大さが半減しちゃってますけどね。

今度は石段を登ってさらに奥の院まで行こうと決意を込めつつ、鳳来山を後にするのでした。
(2018年3/26訪問)

鵜殿の野望【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族

愛知県蒲郡にある、鵜殿氏ゆかりの不相城に行ってきました(2012年9月訪問)。
とはいえ、今は城ではなく、ホテルが建っています。蒲郡クラシックホテルという、なかなか立派なホテルです。かつては蒲郡プリンスホテルとして親しまれておりました。ぱっと見、城みたいな佇まいではありますが。

このホテルが建っている場所に、かつては鵜殿氏の城があったんですね。本家の鵜殿長持は蒲郡市内の上ノ郷に城を構えていましたが、こちらの不相城は分家の鵜殿長成(長持の弟)の城だったようです。長成は1562年の徳川家康(当時は松平元康)による鵜殿本家滅亡に伴って城を追われ、吉田城(豊橋)でしばらく頑張ったものの、最終的には家康に降伏したようです。

ホテルの庭園は、かなり立派です。が、残念ながら城の遺構を確認することはできません。
散策していると、海の向こうに島が見えます。竹島です。

竹島には、橋で渡ることができます。

橋を渡りきって蒲郡市街の方を見ると、丘の上に蒲郡クラシックホテルが見えます。比高差30mほどでしょうか。城を作るならここしかないという立地条件に見えますね。

島全体が八百富神社の神域となっています。航海の安全を司る神様である市杵嶋姫命と弁天様を祀っています。琵琶湖の竹生島から勧請したようですね。

遊歩道を行くと、三河湾を見晴らす絶景ポイントもあります。

島の西側に出ると岩場になっていて、海を挟んで蒲郡クラシックホテルの建物を見ることができます。
個人的には、実はこの竹島も鵜殿氏の城として機能していたのではないかと想像しています。物的には何の証拠もありませんが、インスピレーションの源泉はあります。というのは、もともと鵜殿氏は熊野の海賊として活動している上に、南北朝時代には南朝方についていたことが分かっているからです。

地図で見ると、この「蒲郡」という場所の地政学的な重要性がよく分かります。北朝方は三河と駿河を押さえているわけですが、蒲郡はこの拠点をつなぐ場所にあります(上の地図では黄色のルート)。一方、南朝方は吉野と伊那谷を押さえているわけですが、なんと蒲郡は南朝方の拠点をつなぐ位置でもあるわけです(赤のルート)。北朝と南朝の支配ラインが交わる極めて地政学的に重要な場所であったことが見えます。しかも、南朝方が拠点を連絡するには海の道を使うしかないわけで、そこに海賊の出番があります。海賊鵜殿氏の本拠地は熊野川の河口にあり、蒲郡はこことも海の道で繋がっています(水色のルート)。もともと鵜殿氏が蒲郡に進出したのも、名目上は熊野神宮の地頭としてではありますが、実質的には南朝の海上連絡ルートを確保するための実効支配であったようにも思えてくるわけです。証拠は何もありませんが。

ということで、地政学的に考えた場合、蒲郡は陸地の拠点としてだけ活用するには勿体ない場所にあり、どうしても水軍の拠点として機能していたのではないかと思えてきます。蒲郡を水軍の拠点として考えたとき、竹島の地政学的な意味がどう見えてくるか。もう海賊の根城として機能していたとしか思えないわけです。証拠は何もありません。

鵜殿の野望シリーズ

【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。

【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。

【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。

【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。

【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。

【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。

さらに続く。刮目して待て??

鵜殿の野望【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?

 愛知県名古屋市にある、大高城に行ってきました。

 大高城は、織田信長が全国デビューした「桶狭間の合戦」ゆかりの城として知られています。そして桶狭間直前まで、鵜殿氏はこの大高城の守備についています。ところがなんと、まさに桶狭間の真っ最中に鵜殿軍が何をしていたのか、動向はまったく不明だったりします。どういうことか。

 大高城の案内板などにも書かれているように、織田方によって攻囲された大高城を守っていたのは鵜殿長照で、今川義元の甥にあたる有力武将でした。しかし兵糧不足に陥った大高城を救う形で、松平元康(後の徳川家康)が兵糧入れを行ったとされています。いわゆる「大高城兵糧入れ」の逸話であり、若き家康の武功として一般に知られています。通説では、この兵糧入れの後に鵜殿軍が城を退去し、代わって元康が大高城の守備についたと説明されます。
 しかし私は、この通説に大きな疑問を抱いています。最大の理由は、その後の鵜殿軍の所在が完全に不明になるという点です。もし鵜殿軍が通説通り陸路退却したのであれば、今川本隊と合流するか、あるいは戦場近辺に留まり、桶狭間の合戦に巻き込まれていたはずです。にもかかわらず、鵜殿軍は桶狭間本戦から忽然と姿を消し、戦後はいつのまにか蒲郡の本拠地に戻っているように見えます。多くの今川方有力武将が討ち取られた桶狭間合戦において、今川方筆頭家老鵜殿氏に関する史料的空白はきわめて不自然です。
 この問題は、兵糧入れの史実そのものに対する疑義とも関係します。私は、家康の兵糧入れに関して、異なる時期の事績が後世に混同された可能性を疑っています。まず『三河物語』では、永禄2年(1559 ― 桶狭間の前年)にも大高城への兵糧入れが記され、これを大戦功と高く評価しています。一方、『信長公記』では永禄3年(1560)の桶狭間直前に兵糧入れがあったと記されており、これがいわゆる大河ドラマ的な「決死の兵糧入れ」像の根拠史料となっています。しかし、『信長公記』における丸根砦攻略 → 兵糧入れという展開は兵站上きわめて不自然で、永禄2年の事績との混同を疑う余地があります。実際、『三河物語』の桶狭間関連部分では、家康は丸根砦攻略後に余裕をもって兵糧を入れたと記されており、『信長公記』とは戦術上の描き方が大きく異なります。もし『三河物語』の記述を採るならば、その兵糧は鵜殿軍救援ではなく、後から到着する今川本隊向けの補給と解するべきで、軍事的にはこちらのほうが圧倒的に整合的です。さらに『徳川実紀』でも大高城兵糧入れは桶狭間とは無関係の永禄2年の事績として処理されています。桶狭間において家康は、丸根・鷲津の両砦を攻略した後、鵜殿軍と交代で大高城に入ったとされますが、「兵糧入れ」の記述は存在しません。つまり、『三河物語』にも『徳川実紀』にも、後世一般に知られるような「決死の大高城兵糧入れ」の描写はなく、唯一そのイメージに合致する証言は『信長公記』のみに見られます。ところが『信長公記』の当該箇所は巻首部分にあり、史料としては一般に信頼性が低いと見なされています。以上を踏まえると、若き家康の軍功とされてきた「大高城兵糧入れ」は、永禄2年の軍功が永禄3年の桶狭間と混同された結果と考えるほうが合理的であるように思います。
 さらに、家康が兵糧入れ後に鵜殿長照と「大高城の守備」を交替したことが事実だとして、それは通説で言われるような形で長照が「退却」したことを意味しません。重要なのは、大高城の地形と兵站環境です。当時は海岸線が大高城付近まで迫っており、海側からの補給や展開が可能でした。大高城直下には軍港遺構があったとの地元史家の指摘もあり、城が港機能を備えていた可能性は否定できません。もし大高城が海に面した「港を持つ城」であったとすれば、兵糧は海路から運び入れることが可能であり、もともと陸路包囲に弱い性質の城ではありません。この地形を踏まえると、海上戦力の配置と制海権の問題が浮上します。大高城の守備を担っていた鵜殿氏は、熊野水軍をルーツとする水軍の将であり、蒲郡を拠点とする海上勢力を伊勢湾に展開させていた可能性があります。織田方が陸側に丸根砦や鷲津砦を築いて包囲したとしても、海路の補給線まで遮断することは困難です。仮に信長が鵜殿軍の補給線を遮断しようとするなら、地形的に考えれば、衣浦湾一帯(緒川城・刈谷城)に勢力を広げていた水野信元の協力が不可欠になります。では、桶狭間当時、家康の叔父である水野信元はどのように動いていたのか。なんと、水野軍の動きも、鵜殿軍の動向が分からないのと同様、史料上は不明です(ちなみに『徳川実紀』によれば、大高城にいた家康に義元死去を知らせたのが水野信元)。おそらく桶狭間合戦の真相を明らかにするうえで、鵜殿と水野の二つの「水軍」の動向を理解することは、極めて重要なはずです。
 このように考えてくると、大河ドラマなどで描かれる家康の「決死の兵糧入れ」というイメージは成立しにくくなります。海からの補給が可能な大高城の守備を水軍の将が担っていたのであれば、むしろ家康は『三河物語』が描くように、丸根砦攻略後に余裕をもって大高城に入城し、義元本軍の受け入れ準備を進めていたと解釈するほうが自然です。この場合、家康到着後に鵜殿軍が大高城を離れたのは「退却」などではなく、伊勢湾に展開して、義元本隊の大高城入りを海上から支援するための行動であったと考えるほうが合理的です。しかも、義元は既に大高城東方4km地点まで到達しており、入城目前だった状況において、信長勢力下の津島湊方面から伊勢湾に圧力が加えられる可能性なども考えれば、なおさら「伊勢湾」を直接制圧できる鵜殿水軍が撤退する理由などありません。
 しかし義元が田楽坪で急襲され戦死したという報が入ったなら、鵜殿水軍が伊勢湾に居残る理由はありません。が、もちろん陸路で危険な戦場を通過して撤退する理由などなく、海路、伊勢湾から知多半島を回って蒲郡へ撤収したと考えるほうが自然です。この解釈であれば、鵜殿軍が桶狭間陸戦に登場しない理由が明確に説明できます。通説では、義元が鵜殿氏を特別扱いして退却を許したと説明されることがありますが、これを裏付ける史料は存在せず、後付けのいい加減な解釈に思えます。むしろ、戦闘中・戦闘後に鵜殿軍の姿が史料上から消えるという事実そのものが、鵜殿氏が陸戦部隊ではなく海上戦力として機能していた痕跡である可能性を考えるべきではないでしょうか。
 以上の点から、大高城兵糧入れをめぐる通説や、鵜殿軍が大高城から「退却した」とする一般的な解釈には、再検討するべき余地が極めて大きいと考えています。特に、兵糧入れの時期に関する史料の混同問題に加えて、海上交通史・地形史・水軍史といった観点を踏まえると、従来の説明には不自然な点が少なくありません。
 また、桶狭間合戦の最中に鵜殿軍の動向が史料上不明瞭であることは、単なる史料不足ではなく、当時の作戦上の役割を示す重要な手掛かりと見なすべきでしょう。加えて、鵜殿氏と同様に動向が掴みにくい水野氏についても、「水軍」という観点から地政学的に検証することで、桶狭間合戦について新たな視点が得られる可能性があるように思います。

 さて、大高城の入り口には、こんなところから行けるのかと不安になるような細い道を抜けて辿り着きます。こちらは近代になってから開削・舗道された道で、戦国の当時は崖だったことが予想されます。

 大高城の石柱が葉っぱに覆われています。

 坂を登ると、本丸です。知多半島から伸びる舌状台地の北西端で、西の方に開けた伊勢湾を見晴らせる高台にあります。このあたりで城を作るならここしかないという絶好の立地条件です。

 本丸は広く整地されていて、かなり重要な城であったろうことが分かります。が、あるはずの土塁は破壊されていて、当時の姿は失われています。戦国時代は海にも近かったので、船着き場などもあって水軍の基地としても機能していたのではないかと想像しますが、海が埋め立てられて海岸線が大幅に後退している現在では、当時の様子はよく分かりません。

 本丸には八幡社が鎮座していました。戦の神ですね。

 二の丸から本丸に抜ける土橋と空堀は、かなり良好な遺構を確認することができます。

 樹木で埋まってしまって空堀の状態を確認するのは大変ですが、なかなか立派な堀です。二の丸の方も広々としていて、そうとうな数の兵力を蓄えられたように思います。ただし、江戸時代に入ってからも尾張藩に活用されていたので、戦国時代の様子がどうだったかは別の話になります。

 三の丸のほうに降りてくると、休憩所に黒い猫が寝ていました。

 2015年に訪れたのがかなり暑い日だったので、涼しい日陰で休んでいたようです。
 三の丸は児童公園として整備されていて、かつての面影は残っておりません。船着き場があったとしたらこの周辺だったと思いますが、まったく痕跡は見当たりません。

 2011年にも大高城を訪れたことがありますが、そのときは人相の悪い猫に出くわしました。

 さて、大高城から北東に700mほど行くと、織田信長が築いた鷲津砦があります。

 こちらはJR大高駅からすぐ近くです。ここも大高城三の丸と同じく児童公園に整備されていますが、なんだこの生物?

 砦跡には遊歩道が整備されており、中腹に「鷲津砦」を示す柱石が立っています。現在は散歩にちょうどいい遊歩道となっていますが、450年前にはここから大高城を睨んでいたわけですね。

 砦の麓に降りてくると、ズタボロの案内看板が。案内板によると、この砦は今川軍の攻撃で全滅したそうです。合掌。

 さらに織田信長が築いた丸根砦へ移動。こちらも大高城攻撃のための拠点として築かれた砦で、大高城の東に800mほど行ったところにあります。

 こちらの丸根砦も、今川軍の総攻撃によって全滅するという憂き目に遭っており、戦没者慰霊碑が建っております。

 かなり急な斜面を下ってくると、砦の麓に説明看板が。家康に攻められて守備隊が全滅した経緯が説明されておりました。

 そんなわけで、織田信長とも徳川家康とも単独で戦った戦国武将は鵜殿長照以外では武田信玄くらいしかいないのではないかと思い至り、「信長の野望」等での鵜殿氏の能力の不当な低さに憤慨しながら、大高城を後にするのでした。
(2011年5月、2015年8月、2023年1月訪問)

鵜殿の野望シリーズ

【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。

【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。

【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。

【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。

【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。

【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。

さらに続く。刮目して待て??

鵜殿の野望【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う

 三河鵜殿氏の本拠地「上ノ郷城」は愛知県蒲郡市にあります。蒲郡駅から北に2kmくらい行ったところです。桶狭間の戦いと絡むので、様々な歴史ドラマでも触れられる城です。
 2020年1/22放送の『歴史秘話ヒストリア』では、極めて防御の堅い城として登場しました。(ただ、忍者が落としたという点では、私の解釈とは異なる話になっていましたが)
 2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』8~11話では、今川家が三河に侵攻しますが、その三河攻略最前線基地の一つとなっていたのが、この鵜殿氏が治める上ノ郷城です。城主の鵜殿長照は、義元の妹を嫁にもらうほど信頼されていた武将で、長年にわたって三河の松平諸家と抗争を繰り広げています。

 さて、鵜殿氏はもともと熊野を本拠地としていましたが、室町時代には蒲郡に進出しています。いつ来たのか、正確な時期と理由は分かりません。

 私が勝手に推測するに、おそらく熊野大社が所有する荘園を管理する地頭としてやってきて、次第に地元に根づいた国人領主として頭角を現し、目をつけた今川家の縁者となったのでしょう。周りにはなんとなく熊野大社ゆかりの神社もあるみたいですし。

 さて、温室ハウスが広がる畑を抜けていくと、城の案内看板があります。

 「上ノ郷城跡を愛する会」が設置した縄張図の案内板もあります。地図を見ると、城は北東南の三方を川に囲まれた舌状台地の端にあって、自然の要害であったことが分かります。

 下から見上げた上ノ郷城の本丸。当時はもっと高い土塁や土塀があったんでしょうけど、今は一面に雑草が生い茂って、諸行無常の響きあり。

 登城口。城はミカン畑になっていて、水撒き用のホースに併走して登っていきます。石垣は当時のものではなくて、ミカン畑を造成するために造られたものでしょう。

 いよいよ本丸に入る虎口の脇に、赤い木の案内がありました。青い空と緑の雑草に、素朴な赤い案内柱が映えます。

 本丸には詳しい案内板があります。鵜殿氏は蒲郡の王者だったんですね。注目すべきは、1562年、すなわち桶狭間の2年後に鵜殿氏と徳川家康が戦っていることです。桶狭間で義元が討ち死にした後も、鵜殿氏は今川家に忠誠を誓っていたんですね。今川義元の妹を嫁にもらっていたので、逃れられなかったのでしょう。

 さておき、徳川家康の三河統一の過程において、鵜殿氏が三河一向一揆と並んで最大の敵であっただろうことが分かります。そして1562年に上ノ郷城が落城した際、鵜殿長照の息子2人氏長と氏次が捕えられます。氏長と氏次は、今川家に捕えられていた家康の正室築山殿(瀬名)と人質交換されます。
 近年では2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』でエピソードとして扱われました。2020年1/22放送『歴史秘話ヒストリア』では、家康はそもそも人質交換を狙いとして上ノ郷城を狙ったことになっていました。新解釈です。

 さて、本丸から南を臨むと、遠くに三河湾が見えます。三方を山に囲まれ、南側だけ海に開けている蒲郡の地形は、鎌倉の地形を思い起こさせます。守るに易く、攻めるに難い、本拠地としては最高の立地条件ではないでしょうか。家康がこの城を落とすのに手こずったのも、よく分かります。「忍者が活躍したこと」については、いろいろ面白いエピソードもあるので、また別の機会に。

 雑草が生い茂る本丸に立ち、遠く三河湾を眺めていると、つわものどもが夢の跡。ここから見る月は、とても美しそうです。

蒲郡市博物館:上ノ郷城跡を愛する会
蒲郡市博物館:上ノ郷城跡ってなに?(こども向け)

鵜殿の野望シリーズ

【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。

【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。

【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。

【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。

【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。

【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。

さらに続く。刮目して待て??