「哲学」タグアーカイブ

【要約と感想】國方栄二『ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち』

【要約】西洋哲学史のうち、特に紀元前4世紀(ヘレニズム期)から紀元2世紀(ローマ帝政前期)までに活躍した、ストア派の哲学者たちの思想を詳説しています。ストア前史としてキュニコス派の樽のディオゲネスから始まって、ストア前期(ゼノンなど)、ストア中期(パナイティオスなど)を経て、後期ストア派のキケロ、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスを大きく扱っています。
 ストイックとは、痩せ我慢とか諦念の態度などではなく、強い意志を持って自分の人生を「自由」で「幸福」に生きる姿勢のことです。

【感想】ギリシア時代の哲学(ソクラテス・プラトン・アリストテレス)については入門書も概説書もたくさんあるのだけれど、ヘレニズム期からローマ期の思想状況について扱った本は、がくっと少なくなる傾向にある。そんな状況にあって、さっくり時代状況を概観できて、痒いところにしっかり手が届く、とてもありがたい本なのであった。
 一方で、近年はストア派の思想に脚光が当たっているような印象がある。おそらく、現代日本の時代状況が、2000年前のローマの状況とよく似ている(行き詰まり感という意味で)から、ストア派の考え方に対して需要が生じているのだろう、と思う。プラトンやアリストテレスのような閑暇と観照の哲学ではなく、人生の指針となり行動に反映するような「幸福になるための知恵」に対する需要。
 そんなわけで、ストア派固有の壮大な宇宙論にはあまり注目されず、自分の心をコントロールする知恵と技術に焦点が当たりがちなのだが、本書にもその傾向が見られるような気はする。個人的な関心から言えば、有機体論の系譜に興味があるわけで、そのあたりは食い足りない印象ではあった。まあ、それが別に悪いというわけではない。

【今後の個人的な研究に対する備忘録】
 「人格」に関する記述があった。著者が翻訳したエピクテトス『人生談義』にもほぼ同じ記述があったけれども、やはり微妙な違和感がある。

「「それぞれの人格、状況、年齢に照らして何がふさわしいか、何が適性かを問うならば、たいてい義務が見出されることになる。」キケロ『義務について』(Ⅰ 125)
とある。ここで義務と関連の深い言葉が人格である。ラテン語では人格はペルソナという語で表現される。そして、キケロの『義務について』において独特の人格論を展開しているのがパナイティオスである。」pp.109-110

「ギリシア語で「顔」はプロソーポンと言う。プロソーポンはまた「仮面」の意味をも持ちうる。仮面とは悲劇や喜劇において舞台俳優が着けるものであり、表面的な顔とは違ったもうひとつの顔である。いわば内面の自己を言う。それがその人の「人格」にもなる。人格は英語ではpersonality(パーソナリティ)であるが、これはもともとラテン語のペルソナに由来している。ペルソナはギリシア語のプロソーポンに相当する語で、同様に「顔」や「仮面」の意味を持っている。これがキケロなどを通じて後に近代の人格概念に受け継がれていく。カントの場合、『人倫の形而上学』において展開された人格性(Personlichkeit)の概念が倫理学だけでなく彼の哲学において重要な意味を持つが、このような議論の淵源は中期ストア派のパナイティオスの思想にある。先に述べたように、パナイティオスの書物は失われて現存せず、『義務について』において、特にその第一~第二巻で紹介されているが、ペルソナ論はその第一巻(Ⅰ 107-125)で展開される。
 キケロは言う。まず自然は二つのペルソナを私たち人間に身につけさせた。ひとつは人間が理性を持つことによって得られるすべての人間に共通の人格である。もうひとつは足の速い人もいれば遅い人もあり、腕っぷしの強い人もいれば弱い人もいるように、個人に固有のものとしてある人格である。そして、個々の人格に応じてなすべき行為もまた異なってくる。」p.110
「第三のペルソナは偶然や機会に左右されるものである。たまたま王位に即くことができたとか、富、財産を得たとかいったことで、持つに至るのがこれである。第四のペルソナはそれぞれの選択によって得られたものを言う、哲学に向かう人もいれば、市民法に関わる人もいるし、軍人となる人もいる。以上の四つのペルソナを簡略化して示せば、(一)普遍的、(二)個別的、(三)偶然的、(四)選択的なペルソナがあって、それらが人間の人格を形成すると考えられるわけである。」p.111

 まず違和感を持つのは、ペルソナ=仮面が「表面的な顔とは違ったもうひとつの顔」であるのはいいとししても、すぐさま「いわば内面の自己を言う」と続くところだ。論理的には、順接しない。飛躍がある。常識的に考えれば、仮面はただの「仮」の面に過ぎず、内面は「内」の面として別のところにある、となりそうなものだ。「仮」面を直ちに「内」面に結びつけるのは、理解しがたい。(まあ、このあたりの論理の飛躍には坂部恵の影響が大きいような印象はあるが)
 実際、上記引用した「ペルソナ」という語は、「内面」と理解するのではなく、「社会的役割」と考えた方が落ち着きが良い。「仮面」というものは、「内の面とは全く関係がない、一時的に担わなければならない仮の社会的役割」と考えた方が、論理的にも常識的にも座りがいい。仮面を外したら、もうその社会的役割を担う必要はない。キケロのいう「義務」も、ペルソナを「内面」ではなく「社会的役割」と考えた方がしっくりくる。著者が整理する「(一)普遍的、(二)個別的、(三)偶然的、(四)選択的なペルソナ」も、それを「内面」と理解する理由も必然性もなく、単にそれぞれ「時と状況によって付け替え可能な社会的役割」があると理解するほうが、「仮面=内面とは無関係に付け替え可能な役割」というものの機能ともすんなりと順接する。
 で、こういう内面とはまったく関わりのないただの「ペルソナ=仮面」が、近代になると、カントに代表されるように、極めて重要な意味を担う言葉になる。なんでこうなったのかについてはいろいろな論者が関心を持って追究しているのだが、個人的に共感するのは、八木雄二の見解だったりする。要するに、キリスト教の論理(とくに三位一体の教義)が決定的な仲介者になるという考え方だ。八木の見解(と私の直観)が正しいとすれば、キリスト教の影響を受けていないストア派の「ペルソナ」が近代的な「人格」概念が担うような意味を持つわけがない、ということになるし、実際にテキストに触れてもそうだろうとしか思えないわけだ。
 ただし、だからといってストア派に近代的な人格概念がないかと言われれば、即座にそう決めつけることもない。個人的には「ペルソナ」という言葉以外の部分で、総合的に表明されているように思う。特に「宇宙は有機体として一つ」であり、「人間はその大いなる一の部分」であるという考え方は、近代的な人格概念を理解する上で決定的に重要な背景を為すだろうと思っている。そんなわけでストア派や新プラトン主義の「有機体」に対する考え方には興味津々なのであった。
 まあ、このあたりは、ライフワークとしてゆっくり追究していこう。(と言っているうちに人生が終わるからさっさとやりましょう、というのがストア派の思想だけれども)

國方栄二『ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち セネカ、エピクテトス、アルクス・アウレリウス』中央公論新社、2019年

【要約と感想】エピクテトス『人生談義』

【要約】幸せに生きましょう。そのために、自分の力の範囲でできることと、できないことを、明確に区別しましょう。自分の力が及ばないことに執着すると、必ず不幸になります。たとえば、財産、健康、家族、生死といったものは、自分の力ではどうにもなりません。自分の力が及ばない不運が人生に降りかかってきたときは、「ふーん」「ですよね」とでも思いましょう。それは私たちの善悪とは何の関係もありませんから、特に気にする必要はありません。不幸とは、不運なことではなく、不運を気にかける心が原因で陥ってしまうものです。
 一方、自分の力が及ぶものに関しては、力の限り頑張りましょう。その価値はありますし、トレーニングすれば誰にでもできるようになります。すぐやりましょう。自分の力が及ぶ対象とは、自分の心に浮かび上がってくる「心像」です。何でも自分の思い通りになります。心像を思うがままにコントロールすることで、私たちは幸せになることができます。そんなわけで、哲学とは、心像を把握し、容認し、判断するための知恵です。

【感想】後期ストア派を代表する哲学者エピクテトスの言葉を弟子が書き記した『語録』と、思想の要点をまとめた『要録』が収められている。文章量は多いけれども、言っている内容そのものはかなり単純で、同じ趣旨を何度も繰り返している。いつもいつも初心者が同じような初歩的な質問をしてくるから、何度も何度も基礎・基本を確認している、ということなのだろう。というわけで、ストア派の考え方の基礎・基本がよく理解できる本になっている。

 ところで、本書に示されているエピクテトスの考え方は、ひろゆきの考え方とよく似ている、と思う。自分の力が及ばないことには関心を持たず、他人の意見や感情などどうでもよく、見栄や外聞などに気を揉むことなく、できないことができるようになるような努力などせず、ただただ自分のやりたいこと=やれることに力を傾けながら、生活の静穏と安寧を心がけ、ひたすら幸福を噛みしめる、という観点で。という私の直観が正しいとして、もしも仮に今人々がひろゆきの言動に説得力を感じているとすれば、本質的には、実はストア派の考え方に人々が共振している、ということだ。その仮説を傍証するかどうかは分からないが、今まさにストア派の需要が広く生じている。エピクテトスを扱った一般書が立て続けに出版されていたりもするし、セネカ(同じくストア派の思想家)が脚光を浴びていたりもする。
 思い返してみると、エピクテトスが活躍していた帝政期ローマの状況と、現代日本の状況は、「行き詰まり感」という意味において、よく似ている気もする。都市の消費文化が頽廃を極めて拝金主義が横行し、地域格差や経済格差が埋め合わせ不可能なところまで拡大し、人生がうまくいくかどうかは「〇〇ガチャ」で決まり、人々を束ねる共通の目的が見失われ、古くからの共同体が機能しなくなり、人々は剥き出しの「個」として自己責任の名の元に放り出されている。そんな行き詰まり感。そんな真綿に首を絞められて窒息死させられそうな状況で、それでもなんとかサバイバルしようと手を伸ばしたときに、指先にひっかかるのがストア派であり、ひろゆきである、ということなのかもしれない。まあ、おそらく悪いことではない。どのみち、私たちは、何らかの手段で以て、サバイバルしなければならない。

【今後の研究のための備忘録】
 本書には「教育」という言葉がよく出てくる。ただしその中身は、いま我々が考える教育とはずいぶん趣を異にする。

「概してあらゆる能力は教育がなく力が弱い人がもつと、それによって自惚れ尊大になってしまう怖れがあるのだ。」1-8
「人は自分になにか優れた点があるとき、あるいはないのにあると思っているとき、教育を受けていなければ、必ずそのために自惚れることになる。」1-19

「むしろ、教育を受けるというのは、それぞれの物事が起きるがままに起きるように願うことを学ぶということなのである。」1-12
「とすると、教育を受けるというのはどのようなことなのか。それは、自然な先取観念を個々のものに自然本性にかなうようにあてはめ、さらには、物事のうち、あるものはわれわれの力の及ぶものであり、あるものは及ばないものであるということ、つまり意志や意志に基づく行為はわれわれの力の及ぶものであるが、身体、身体の一部、所有物、両親、兄弟、子供、祖国、要するに社会的なものはわれわれの力の及ばないものであるということだが、そのような区別をするしかたを学ぶことである。」1-22

「真の意味で教育を受けた人にとって最もうるわしく最もふさわしいものは、平静であること、恐れのないこと、自由である。自由人だけが教育を受けることを許されるという多くの人たちの言葉を信じるべきではなく、教育を受けた者だけが自由であるという哲学者たちの言葉を信じるべきである。」2-1

教育を受けるというのは、自分に関わるものと他人に関わるものとの区別を学ぶことだ。」4-5

「自分がうまくいっていないことで他人を非難するのは、教育を受けていない人がすることである。むしろ、教育を受け始めた人なら自分を非難するし、教育を受けてしまった人なら他人も自分も非難しないであろう。」『要録』5

 つまりエピクテトスが言う「教育」とは、ストア派の考え方を本質的に理解して実生活で実践できるようになることを指している。単に知識や技術を身につけることはまったく意味していない。(このあたり、原語を踏まえて研究を深めておく意味がありそうだ。)
 それを踏まえると、やたらと「子供」を例に出してくることもおもしろい。エピクテトスにとって、子どもは単に「教育」を受けていない未熟なものに過ぎない。そこに発達可能性の一端も見ることはない。

「何のためにか。自分が納得するだけで十分ではないのか。子供たちがやって来て、手をたたきながら「サトゥルナリア祭おめでとうございます」と言っているのに、彼らに「それはめでたくないよ」などと答えるだろうか。けっしてそんなことはしない。むしろ、自分たちも手をたたくのだ。だから、君もだれかの考えを変えることができなければ、その人を子供だと思って、一緒に手をたたけばよい。そんな気持ちにならなければ、それからは黙っていることだ。」1-29

「だが、ソクラテスはそれらのものをうまくお化けと呼んでいた。つまり、経験がないために子供たちにはその仮面が恐ろしくて怖いもののようにみえるように、われわれもまた、子供たちがお化けに対するのと少しも変わることなく、それらの事柄に対して同様の感情を抱くわけである。というのも、子供とは何であるか。無知である。子供とは何であるのか。学びの欠如である。子供が知っているところでは、彼らもわれわれと変わるところがない。」2-1

「そうしないと、子供に戻って、ある時はレスリングで、ある時は一騎打ちをして遊んだり、ある時は喇叭を吹いたり、さらにみたり驚いたりしたことで悲劇の芝居ごっこをする。そのようにして、君もある時は競技者になり、ある時は剣闘士になり、さらに哲学者に、またさらには弁論家になるけれども、本気ではなににもなっていない。」3-15
子供のように、今が哲学者だが、後で税務官に、その次には弁論家に、またその次は皇帝任命の太守になりたがってはならない。」3-15

「例えば、われわれがまだ子供だった頃、口を開けて歩いていてなにかに躓いたりすると、乳母はわれわれを叱らずに、その石を叩いたものだった。いったい石は何をしたというのか。君の子供の馬鹿な行動のために、石はよけねばならなかったのか。さらに、われわれが風呂から帰ってきたときに食べるものがないと、子守役の召使はわれわれの欲求を抑えてかかるのではなく、代わりに料理係を打ちすえる。ねえ君、われわれは君を料理係の守役に決めたのではなく、われわれの子供の守役にしたのだから、子供をしつけて、子供のためになることをすればいいのだ。
 このように、われわれは成長しても子供のようにみえる。音楽を知らない人は音楽において子供であり、読み書きを知らない人は読み書きにおいて子供であり、教育のない人は人生において子供であるからだ。」3-19

「そんなふうに幼稚で子供っぽくふるまうのをやめる気はまったくないのか。子供のようにふるまう人が歳を重ねると、それだけ滑稽になるということが分からないのか。」3-24

「それでは、子供を護衛兵がついている僭主のところに連れていっても、怖がらないのはどうしてだろうか。子供が護衛兵を知らないからか。」4-7
「だれかがイチジクやアーモンドを撒くと、子供たちが奪い合って、互いにけんかを始める。だが、大人たちはつまらないことだと思うから、そんなことはしない。しかし、だれかが陶片を撒いたら、子供たちも奪い合うことはない。地方総督の仕事が配分される。子供たちは黙ってみているだろう。お金が配分される。子供たちは黙ってみているだろう。将軍や執政官の職が配分される。子供たちに奪い合いをさせるがよい。」4-7

 徹頭徹尾、子どもを未熟で無知でくだらないことをする取るに足らない存在だと見なしているのであった。まあ、エピクテトスに限らず、西洋の古代から中世にかけてあらゆる人が同様の見解を示しているわけではあるが、分かりやすく表現されたサンプルということでは、けっこう貴重かもしれない。

 それから、「有機体」思想に関するおもしろい表現もサンプリングしておきたい。

「つまり、足については清潔であることが自然本性にかなっていると私は言うだろうが、もし君が足を足として認め、ほかから切り離されたものではないと考えるならば、それを泥の中に突っ込んだり、茨を踏んだり、時には全身のために切り離したりすることがふさわしく、もしそうでなければ、もはや足でないことになるだろう。われわれについても、なにかそんなふうに考えねばならない。君は何であるのか。人間である。もし君が自分をほかから切り離されたものと考えるならば、老年まで生き、富を蓄え、健康であることが自然本性にかなっている。だが、自分を人間として、つまりある全体の一部だと考えるならば、その全体のために時には病気をし、時には航海して危険を冒し、時には困窮し、また寿命の前に死ぬこともふさわしくなる。そうすると、なぜ君は腹を立てているのか。切り離された足がもはや足でないように、君も人間でなくなるということに気付かないのか。というのは、人間とは何であるのか。それは国家の一部である。第一には、人間と神々とからなる国家の、その次には、これに最も近似していると言われているもので、全体的な国家のなにか小さな模倣である国家の一部である。」2-5

「君は野獣と区別され、家畜と区別される。それに加えて、君は宇宙の市民であり、その一部であり、奉仕するものではなく指図するもののひとつである。なぜなら、君は神の支配を理解し、それから結果することを考慮することができるからである。ところで、市民の務めとは何であるのか。市民の務めは、どんなことでも私的な利益に関わるものとみなさず、どんなことについてもほかから切り離されたものと考えず、かりに手足が理性をもち、自然の仕組みを理解しているならば、全体に関わること以外のことに衝動を感じたり、欲求したりすることはけっしてないであろうが、それと同じように行動することである。」「それが全体の秩序から分かれて配分されたこと、全体は部分よりも、国家は市民よりも優れたものであることに気づいているからだ。」2-10

 もちろんこういう有機体思想は、既にプラトン『国家』の中に色濃く見られる(というか主題そのもの)であって、エピクテトスやストア派の専売特許というわけではない。後にキリスト教思想においても「神の国」における一体化が強調されていくことにもなるだろうし、ヘーゲルは「胃」によるメタファーを好んで使うことになるだろう。ここでは具体的に「足」や「手」というメタファーが使われているということに注目しておきたい。

 さてまたさらに、「人格」(ギリシア語でプロポーソン)の用例サンプルを得た。

「しかし、理にかなうこと、かなわないことを判別するために、われわれは外的なものの価値だけでなく、それぞれが自分の人格に関わるものの価値も用いている。」1-2
「というのは、一度でもそのようなことを考えたり、外的なものの価値を計算したりした者は、自分自身の人格を忘れてしまった者とほとんど変わらないからだ。」1-2
「ある人がこう訪ねた。「どうやってわれわれはそれぞれ自分の人格にかなったことを知ることになるのでしょうか」」1-2

「このことをよく記憶していれば、どんな場合にも、君がもつべき君自身の人格を保つことができるだろう。」4-3

 これに関して、本書の解説では以下のように指摘している。

「人格と訳したギリシア語のプロソーポンは顔の意味であるが、仮面をも意味しうる。いわば内面の自己である。それは本来の人間性を指し、同じく仮面を意味するペルソーナ(persona)によってラテン語化されて、キケロなどを通じて後に近代の人格概念(personality)へと受け継がれる。基本的には人格の喪失が個人の存在意義の喪失を結果させることを意味するわけであるが、尊厳を失わないための手段とされる自殺は、今日的な意味よりも範囲が広いことが注意されてよいであろう。」下486-487

 解説では、キケロを通じて近代の人格概念へと受け継がれるとサラッと書いてあるが、果たしてそんなにサラッと理解してよいのかどうか。別の研究者はキリスト教の「三位一体」思想が決定的に重要な役割を果たしたと言っている。個人的には、「有機体」の思想も背後で大きな役割を果たしているような直感がある。
 このテーマに関して「カラクテール=刻印」に関する記述もサンプリングしておきたい。

「つまり、土地、家屋、旅館、奴隷ではなく――これらは人間にとって真に固有のものではなく、すべて他人のもの、隷属的、従属的であるもの、主人によってその時々に各人にあたえられたものだからである――、むしろ人間的なもの、心の中にもってこの世に生まれてきた刻印を失った人を悲しむべきなのだ。われわれはこにょうな刻印を貨幣の中にも探し、これをみつければ貨幣として認めるが、みつからないとそれを投げ捨ててしまう。」4-5

 ここに表現された「刻印」とはカラクテール、後には「性格」と訳されるような言葉である。むしろ近現代の「人格性=personality」とは、人間が人間である所以のものをさしており、こちらの「刻印」のほうが意味内容としては近いのではないか。だからというか、現代においてもcharacterという言葉は「性格」と訳されることもあれば「人格」と訳されることもある。エピクテトスの段階においては、むしろプロポーソンという言葉には「社会的な役割=仮面」という意味合いが強く、近現代のような「責任の主体」という意味合いは薄いような印象がある。このあたり、もっとたくさんサンプルを集めて検討しなければならない。

 また近代以降に表明される考え方と響き合うような表現がいくつかあったのでサンプリングしておく。まず個別の利益が集団の利益と自然に一致することに関して。(もちろんアダム・スミスとの関連)

「一般的に言って、ゼウスはこのような自然本性をもった理性的な動物をこしらえたが、それは共通の利益になんらかの貢献をするのでないかぎり、個別的な善のいかなるものも獲得できないようにするためなのである。かくして、すべてのことを自分のためにするからといって非社会的であるわけではないことになる。」1-19

 それから、一般と個別の明確な区別に関して。(教育に関しては、普通教育=education/専門教育=instructionの区別)

「さらに、目的には一般的なものと個別的なものとがある。最初のものは人間としてあるための目的である。これには何が含まれているか。たとえおとなしくても羊のように行動することではなく、野獣のように有害な行動をすることでもない。個別的な目的のほうは、各人の生の営みや意志に関連している。竪琴を弾いて歌う人は竪琴を弾いて歌う人として、大工は大工として、哲学者は哲学者として、弁論家は弁論家として行動する。」3-23

 もちろんこれらはエピクテトスやストア派固有の考えというよりは、アリストテレスを引き継いで様々な立場から表明されているものではある。サンプルをたくさん集めて、近現代に流れ込んでくる様子を把握したいものではある。

エピクテトス『人生談義(上)』國方栄二訳、岩波書店、2020年
エピクテトス『人生談義(下)』國方栄二訳、岩波書店、2021年

【要約と感想】聖アウグスティヌス『告白』

【要約】若い頃は名誉欲に駆られたり、乱暴な仲間たちと盗みを働いたり、軟弱文学やマニ教にはまったり、旧約聖書を荒唐無稽な与太話として馬鹿にしたり、性欲から抜け出せずにいたりしましたが、悩みに悩んだ末、様々な先人の助けを借りつつ、最終的には敬虔な母の願いどおり、キリスト者になりました。神様ありがとうございます。(第1巻~第9巻)
さらに、現在の私が如何様なものかを、認識の仕方、幸福の感じ方、情念に縛られる様を通じて示しますが、それが人間の在り方というものです。神様ありがとうございます。(第10巻)
そして聖書の理解について、時間論、天地論(空間論)、聖霊論(三位一体論)、生物論を通じて示します。神様ありがとうございます。(第11巻~第13巻)

【感想】かつてフランスの哲学者ミシェル・フーコーは「告白とは内面を作り出す制度」だというようなことを言った。まず内面があって次に「告白」という形の言表が行われるのではなく、まずは「告白」という制度に則った行動が行われて、それに伴って近代的内面が創出されるという洞察だ。フーコーは中世の教会における告解制度を想定してこう言ったわけだけど、本書読了後には、このような洞察をたちどころに想起する。本書に描かれているのは、まさに近代的内面であるように思われる。
とはいえ、著者アウグスティヌスが生きていたのは西洋古代最末期であって、我々が想定するような近代的自我がそのままの形で存在できるような社会経済史的条件は欠けている。我々が本書に近代的自我を読み取ってしまうのは、近代に生きる我々の側の思い入れに過ぎない可能性が高い。この違和感は、第11巻(岩波邦訳版では下巻)以降の展開に顕著に表れているのかもしれない。第10巻までは近代的感覚から見ても「告白」と呼ぶに相応しい内容に読めるが、第11巻以降の内容は「告白」という言葉のイメージからはかなり乖離している。しかし実はこの違和感バリバリの第11巻以降の行論こそ、まさに内面が創出される過程に立ち会うという経験を可能にしてくれるものなのかもしれない。

さて前半は、幼年期→少年期→青年期→壮年期の自伝的な記述となっている。言葉の獲得過程など、発達心理学的な洞察が各所で示されていたり、当時の学校の具体的な様子や学歴に関する事情が記されていて、教育学的にもたいへん興味深い。間違いなく第一級の史料だ。
また一方で、古代末期に新アカデミア派(懐疑主義)や新プラトン主義が大きな役割を果たしていたことが具体的によく分かる。マニ教も最終的には邪教ということになるが、実はこういう知的営為の一環を構成していたものとして理解できる。「自由意志と運命」とか「悪の由来」など、現代においても哲学上の問題として議論されるテーマをめぐって、1600年前にも様々な流派が鎬を削っていたのだ。最終的に西洋世界でキリスト教が説得力を持つのも、こういう古代末期の思想環境を踏まえて考える必要があるのだろう。
とはいえ一番おもしろく読めるのは、性欲に対する葛藤に関する記述かもしれない。それは、時代も地域も遠く離れた我が国の親鸞のエピソードを思い起こさせる。親鸞が性欲に対する葛藤に正面から立ち向かったところである種の悟りを得たのと同じく、アウグスティヌスもこの葛藤の克服過程を通じてある種の悟りを得ている。この性欲というやつは、自分以外の誰かに対しては表面的な糊塗によって誤魔化しがきくものだが、こと自分自身に対しては、自分自身の身体が自分の意志を裏切るという形で、しかも極めて厄介なことに寝ているときにも襲ってきたりして、まったく誤魔化しがきかないものだ。案外、近代的自我というやつが立ち上がってくるときには、この葛藤が重要な役割を果たしているのかもしれない。というか少なくとも親鸞とアウグスティヌスでは、そうだ。

【個人的な研究のためのメモ】
今後いろいろな場面で使えそうな示唆に溢れる文言が多く、おもしろい本だった。
まずキリスト教の「子ども観」について、疑いようもなく明瞭な言質を与えてくれる。

【子ども観】
「だれがわたしに幼年期の罪を思い起こさせるのであるか。何人も、あなたのみ前で、罪なく清らかであるものはないのであって、地上に生きること一日の幼児でさえも清くはないからである。」第1巻第7章11

これが「原罪」というものだ。いま私たちが想起する「子どもは純真で清らか」というイメージは、キリスト教が力を失っていく近代以降に創出されたものだ。
また、幼児の世話についても言質を得た。

【幼児の世話】
「幼児はかなり大きくなった少女の背中に負われるのがつねであった」第9巻第8章17

日本でも高度経済成長期頃までは、幼児の世話をするのは少女の役割だった。大人が野良仕事に精を出している間、乳幼児の世話をするのは10歳前後の少女、いわゆる「子守」だった。これは日本だけの事情ではなく、どうやら世界共通で見られる現象のようだ。
そして当時の学校の様子が、生々しく記録されている。

【学校の様子・体罰】
「神よ、わたしの神よ、わたしがこの世で成功して、人間の名誉と虚偽の富をうるのに役たつのみである弁論の術に秀でるために、教師に対する服従が少年時代のわたしに生活の規範として示されたとき、わたしは人生の荒波だつ社会にどんな悲惨と嘲弄をなめたことだろう。それからわたしは学問を学ぶために、学校へおくられたが、それが何の役に立つかはあわれなわれわれの知らぬところであった。しかも学習をなまけると、笞で打たれた。年長の人びとはこういうことをも是認していた。」第1巻第9章14

「しかもわたしたちは書くことも読むことも考えることも、教師たちから命ぜられていたようにせずに罪をおかした。主よ、じっさいわたしたちは、記憶力も知能もなかったわけではなく、わたしたちはそれらの能力をあなたの望みどおりにわれわれの年齢のわりに十分もっていた。しかし、わたしたちは、遊ぶことに熱中して、われわれと同じようなことをしている人によって罰せられた。年長者のいたずらは「つとめ」といわれたのに、少年たちが同じことをすればかれらによって罰せられ、少年たちをあわれむひとも、年長者をあわれむひとも、まして両者をあわれむひともいない。」第1巻第9章15

学習を怠けると体罰を受けるというのは、前近代の日本では見られない現象だったように思う。西洋世界が体罰を躊躇しなかった理由について、キリスト教の「原罪観」が槍玉に挙がることがしばしばあるが、アウグスティヌスの報告によれば、キリスト教に影響を受けるまでもなく、もともとローマ世界に体罰上等の文化が広がっていたことが分かる。
また、言語を学ぶことについて言及している部分で、学ぶ際には強制されるよりも自由に任せるほうが効果的だと指摘している。

【強制と自由】
「しかしわたしの少年時代は青年時代ほど心配されはしなかったが、わたしは学問を好まず、それを強制されることを嫌っていた。それにもかかわらずわたしは、強制された。」第1巻第12章19
「じっさい、わたしに強制的に学ばせていたことがらを、ゆたかな窮乏と不名誉な欲望を満たすことにすぎないということに気付いていなかった。」第1巻第12章19
「じっさい、わたしはギリシア語を少しも知らなかったので、それを覚えるために残酷な脅迫と懲罰をもって激しく責め立てられた。」第1巻第14章23
「言語を学ぶには恐ろしい強制よりも自由な好奇心のほうが有力であることはまったく明らかである。」第1巻第14章23

そしてアウグスティヌス自身は、言葉は「教える人」からはまったく学ばず、「語り合う人びとから覚えた」(第1巻第14章23)と言っている。現代日本でも、しばしば英語教育に関して同じことを主張する人がいる。

さすが古代最大の神学者と呼ばれるだけあって、「一性」や「同一性」や「三位一体」に関する言及が、本書の中にも極めて多く現れる。

【一性・同一性】
一なる者であられる方よ、あなたからすべての尺度は起こるのであり、もっとも美しい者であられる方よ、あなたはすべてのものを美しく形成し、あなたの法をもってすべてのものを統べられるのである。」第1巻第7章12
「しかしあなたは物体ではなく、また物体の生命である魂でもない。この物体の生命は物体そのものよりもすぐれて、いっそう確実である。あなたは、魂の生命であり、生命の生命であり、わたしの魂の生命よ、あなたは生命そのものでありながら、しかもけっして変化することがない。」第3章第6章10
「侵されないものは侵されるものよりも尊く、変化しないものは変化するものにまさると考えたのである。」第7巻第1章1
「それからわたしは、あなたの下にあるものを眺めて、それがまったく存在するのでもなく、またまったく存在しないのでもないということを知った。それらはあなたによって存在するのであるから、たしかに存在するが、あなたが存在するような存在ではないから、けっして実在しない。変化することなく、常住するもののみが真実に存在するのである。」第7巻第11章17
「わたしはあなたが存在すること、無限でありながらしかも有限の空間にも、無限の空間にもひろがらないこと、あなたが真に存在し、つねに同一であってどの関係においても、またどの運動によっても変化しないこと、しかしあなた以外のものは、それが存在するというもっとも確実な証拠から見ても、あなたによって創造されたものであるということを確信していた。」第7巻第20章26←プラトン派の書物の影響
「また、見るものがつねに同一であるあなたを眺めるようにすすめられるばかりでなく、」第7巻第21章27
「あなたはつねに同一であって、けっして移り変わることがない。つねに同一の仕方で存在しないものをも、あなたはつねに同一の仕方で知っておられるからである。」第8巻第3章6←「詩編」101の28
「しかしあなたのあわれみは、生命にまさるのであるから、どうであろう、わたしの生命は分散なのである。しかしあなたの右手はわたしをわたしの主において、すなわち一なるあなたと多なる――多によって多となれる――わたしたちとの間の仲保者である人の子において、支えられたのであるが、それはわたしがかれによってわたしがすでに捉えられたものにおいて捉え、わたしの以前の行状から呼び戻されて、一なるものを追い求めるようになされたのである。」第11巻第29章39
「つぎのような被造物でさえもあなたと等しく永遠であるのではないと語られた。この被造物というのは、ただあなたのみがそれによって喜びであり、永久不変の貞節を守って、あなたをそれ自身のうちに吸収し、いついかなるところにおいても、それ自身の変易性を示すことなく、それにむかってつねに現存されるあなたに衷心からよりすがり、それが期待する未来をもつこともなく、それが記憶するものを過去に移しいれることもなく、どんな変化によっても変わることなく、どんな時間にも分散しないのである。」「もしこのようなものがあるなら、それは他のものに移るという背反の心なしにただ一途にあなたの喜びのみを観照するものであり、聖なる霊的存在の、すなわちわたしたちの見る天の上の天にあるあなたの国の市民たちの平和の紐帯によってまったく一心に結ばれたただ一つの純粋な知性である。」第12巻第11章12

一性の考え方そのものは、キリスト教に傾倒する以前、新プラトン主義(プロティノス・プロクロス)の書物から学んでいるようだ。新プラトン主義の「一性」とキリスト教の一神教教義が親和的であることは自明ではあるにせよ、どうして結果的に親和的となったかについてはいろいろなストーリーが考えられそうだ。
そしてこの「一性」に対する理解を踏まえて、「三位一体」について独特の考え方を示している。

【三位一体】【眼鏡っ娘論に使える】
「さて、わたしの挙げる三者というのは、存在と認識と意志である。じっさい、わたしは存在し、認識し、意志する。わたしは認識し、意志しながら存在し、わたしが存在して意志することを認識し、存在して認識することを意志するのである。それゆえ、この三者において、生命が、いや、一つの生命、一つの精神、一つの本質がどれほど不可分的であるかを、またその区分がどれほど不可分的でありながら、しかもなお区分であるかを、自己に注視し、それを認めて、わたしに語るがよい。しかし、それらのうちにある手懸かりとなるものを見いだして、それを語るとき、それらのものの上にある不変的なもの、すなわち不変的に存在し、不変的に認識し、不変的に意志するものを見いだしたと考えてはならない。この三者のゆえに、その上にあるものにも三位一体が存するのであるか、あるいいは三位の各々にこの三者が存して、三者が三位の各々に属するのであるか、あるいはまた、不可思議な仕方で、単純でしかも複雑に、同時にそのいずれでもあって、三位一体においてはそれ自身がそれの制限をなしながら、しかも無限であり、そのような仕方によってそれは存在し、それ自身に認識せられ、その統一性の豊富な広大性によって不変的に同一なものとして、それ自身充ち足りているのであるか、だれがそれを容易に考えようか。」第十三巻第十二章12

人間の認識を超えたものを記述しようと努力すると、こういう言い回しに落ち着くということかもしれない。とはいえ、まずはアウグスティヌスの公式見解として、三位一体が「存在/認識/意志」の可分と不可分として議論されていることは、重要な基本知識として押さえておきたいところだ。この三位一体の公式は、眼鏡っ娘論で言えば、「娘/眼鏡/っ」に当たる。神秘である。

聖アウグスティヌス『告白(上)』服部英次郎訳、岩波文庫、1976年
聖アウグスティヌス『告白(下)』服部英次郎訳、岩波文庫、1976年

【要約と感想】J.アナス・J.バーンズ『古代懐疑主義入門―判断保留の十の方式』

【要約】あらゆる現象は、条件によって顕れ方が異なります。だから物事の本質が何なのかに対しては確かなことを言うことはできません。「判断保留」をして、探究を続けましょう。そしてその姿勢こそが心に平静をもたらし、人々を幸せにします。これが、ストア派やエピクロス派と並び立つヘレニズム哲学の第三の潮流、古代懐疑主義の主張です。

【感想】退屈な本である。序章がやたら威勢がよかったから期待を持ってしまったけれども、完全に肩すかしだった。この退屈さは英米系の分析哲学に共通する緊張感の欠如と冗長性が原因だろう。徹底的に論述する価値や意味を見いだせないものを徹底的に論述しているので、退屈なのだ。1頁で言えることを100頁も書いている。本書は自ら「哲学の入門」を謳っているけれども、まったく哲学入門には相応しくない。「哲学」の概念が英米系に特有の偏りを示していて、普遍的ではない。最大限に好意的に解釈して、「英米系分析哲学の入門書」ということなら、そう主張しても許されるかもしれない。まあ「英米系分析哲学の退屈さに耐える訓練入門」としては最適だろう。オチがメタ構造的なギャグ(しかもそんなにデキがよくない)で終わってたしなあ。

さて、人間が物事を認識するには必ず「特異点」を必要とする。そんなことはプラトンもアリストテレスも気づいているし、ソクラテスも「無知の知」という形で表現している。ストア派、エピクロス派、古代懐疑主義の違いとは、その「特異点」の設定の仕方の相違に結局は収斂する。ストア派は「大いなる一」を特異点に設定した。それは後々キリスト教の「神」とも響き合うような説得力ある特異点に成長していくことになる。エピクロス派は「小さなる一」を特異点にした。デモクリトスに由来する、いわゆる原子論である。この発想は近代になって自然科学の作法や民主主義の理論的支柱である社会契約論として花開くことになるだろう。そして古代懐疑主義は、特異点を「無限遠の彼方」に設定した。いつまで経っても辿り着かない人間認識の臨界に特異点を設定することで、我々のあらゆる認識が常に暫定的な中間地点であるという物語を描いた。近代哲学の華であるカントの理性批判やフッサール現象学とも響き合うエキサイティングな物語ではある。
要するにストア派・エピクロス派・古代懐疑主義の3つは、「特異点」というものの設定において究極と思われる3類型を論理形式的に代表するものであり、だからこそそれぞれそれなりの説得力を持つし、信者もつく。(いちおう論理的には古代懐疑主義の反対である「最近接」に特異点を設定するという立場もあり、それは古代であればアリスティッポスのような形を取りつつ、近代ではホッブズ以降に経験主義という形で精緻化されていくことになるだろう)。まあ、それだけのことだ。本書は、序章でやたらと古代懐疑主義の再発見の意義を強調しているけれど、そんなに凄いことを言っているようには読めなかった。

逆に言うと、本書が浮き彫りにしているのは、むしろ古代懐疑主義がストア派やエピクロス派と同じ土俵に立っている、ということだ。ストア派がアパテイアと呼び、エピクロス派がアタラクシアと呼ぶものを、やはりまた古代懐疑主義も追究している。そういう意味で古代哲学は共通して、「哲学」と言うより「幸福論」と呼ぶ方が相応しい。古代懐疑主義は、ストア派やエピクロス派との距離より、近代懐疑主義との距離の方がはるかに遠い考え方に見えるのだった。

J.アナス・J.バーンズ/金山弥平訳『古代懐疑主義入門―判断保留の十の方式』岩波文庫、2015年

【要約と感想】マルクス・アウレーリウス『自省録』

【要約】私が善き人間であろうとする時、他人の評価は全く関係ありませんし、意味がありません。過去を思い悩んだり、未来に希望をかけたりするのは意味がありませんので、現在与えられた環境と条件の下で精一杯できることをしましょう。宇宙の原理と一体化し、存在の本質を考えれば、やるべきことは自ずと見えてくるはずです。

【感想】文句のつけようのない名著で、長く読み継がれてきたことにも深く納得する。折に触れて読み返したい本だ。
 著者のマルクス・アウレーリウスは、2世紀後半にローマ帝国の皇帝を務めた人物だ。が、本人は皇帝ではなく、哲学者になりたかったようだ。
 本書には、高貴であろうと努力を重ねる魂のもがきが記録されている。地球の重力に肉体を引かれつつも、魂は自由を求めて宇宙を目指す。こういう人が実際にいたんだと思うだけで、私自身もちょっとは謙虚になれる。自分の生き方に対して具体的な人生訓になるかどうかは別として、あるいはこういう生き方や考え方に共感するかどうかも別として、こういう一本筋の通った人生というのがあり得るという「可能性」については、知っておいて損はない気がするのだった。

【個人的な研究のための備忘録】
 著者の思想の根幹はストア哲学で固められている。ストア哲学は、「一」という概念に対する強烈な信仰が土台にある。世界は一つであり、太陽の光は一つであり、普遍的な物質は一つであり、生命は一つであり、理性は一つである。あらゆるものを貫く「一」という見方・考え方こそが「神」という概念を構成する。

【「一」に対する信仰告白】

「自分固有の魂をすべて理性のあるものの魂から切りはなす者は社会から切断された肢のようなものだ、なぜならば魂は一つであるから。」第4巻29章

「宇宙は一つの生きもので、一つの物質と一つの魂を備えたものである、ということに絶えず思いをひそめよ。またいかにすべてが宇宙のただ一つの完成に帰するか、いかに宇宙がすべてをただ一つの衝動からおこなうか、いかにすべてがすべて生起することの共通の原因となるか、またいかにすべてのものが共に組み合わされ、織り合わされているか、こういうことをつねに心に思い浮べよ。」第4巻40章

「万物によって成立する一つの宇宙があり、万物の中に存在する一人の神があり、一つの物質、一つの法律、叡智を有するあらゆる動物に共通な〔一つの〕理性がある。また同胞であり、同じ理性を共有する動物の完成ということが一つならば、真理もまた一つなのである。」第7巻9章

「四肢と胴とが一つの体を形成する場合と同じ原理が理性的動物にもあてはまる、というのは彼らは各々別の個性を持っているが、協力すべくできているのである。君が自分に向かって「私は理性的動物によって形成される有機体の一肢である」とたびたびいって見れば、この考えはもっと君にピンとくるであろう。」第7巻13章

「ひょっとしたら君は見たことがあるだろう、手、または足の切断されたのを、または首が切り取られて、残りの肢体から少し離れたところに横たわっているのを。起ってくる事柄をいやがったり、他の人たちから別になったり、非社会的な行動を取ったりする者は、それと同じようなことを自分にたいしてするわけである。君は自然による統一の外へ放り出されてしまったのだ。君は生まれつきその一部分だった。ところが現在は自分で自分を切り離してしまったのだ。ただしここで素晴しいことには、君は再び自分を全体の統一にもどすことが許されている。」第8巻34章

「理性のない動物の間には一つの生命が分配されている。理性的動物の間には一つの叡智ある魂が分け与えられている。それはちょうどすべて土からくるものにたいして一つの地があり、我々にものをみせてくれる光が一つであり、我々のようにすべて視覚と生命を持つものの呼吸する空気が一つであるのと同様である。」第9巻8章

「太陽の光は一つである。たとえそれが壁や山や、その他数知れぬものに分割されようとも。普遍的な物質は一つである。たとえそれがどれほど沢山の個体に分けられていようとも、生命のいぶきは一つである、たとえそれが数知れぬものの自然に分かれ、各個体固有の制約の下に分かれようとも。叡智ある魂は一つである。たとえそれが分かれているように見えても。以上いったものの中で(精神以外)の部分、たとえば息や物質のごときものは、感覚もなく、相互間の絆もないが、それでもなお知力および同じ中心に向かって牽引する重力によって結合されている。ところが精神は独特で、同類のものへ向かい、これと結びつく。そして社会連帯の感情はとだえることがないのである。」第12巻30章

 この「一つ」への希求は、新世紀エヴァンゲリオンの「人類補完計画」やA.C.クラーク『地球幼年期の終わり』等にも見ることができるユートピア(あるいはある種のディストピア)だ。この強烈な「一」への信仰と希求を押さえると、ストア哲学の全体像を掴みやすいような気がする。
 このような「一つ」への信仰を土台とする世界観は、デモクリトスに始まる「原子論」とは対極にある。原子論は世界を「バラバラの要素」の集まりだと考える。だとしたら、世界をどのように作るかも自由に見えてくる。しかし世界がもともと「一つ」であるならば、人間が自分の思うように世界を作ってはいけないし、作れるはずもない。世界を「一つ」と見るか「バラバラ」と見るかで、自然観も社会観も宗教観も完全に変わってくる。ストア的世界観は保守的(社会有機体説)に流れやすいし、デモクリトス的世界観は革命的(社会契約説)に流れやすいだろう。

 そしてこのような「一つ」に対する信仰は、空間だけでなく時間に対しても適用される。いわゆるアイデンティティ概念に言及した記述も非常に多い。鴨長明『方丈記』と同じく、儚く移り変わるものを「河」に喩えて説明しているのも印象的だ。

【アイデンティティに関わる記述】

「時というものはいわばすべて生起するものより成る河であり奔流である。あるものの姿が見えるかと思うとたちまち運び去られ、他のものが通って行くかと思うとそれもまた持ち去られてしまう。」第4巻43章

「存在するもの、生成しつつあるものがいかにすみやかに過ぎ去り、姿を消していくかについてしばしば瞑想するがよい。なぜならすべての存在は絶え間なく流れる河のようであって、その活動は間断なく変り、その形相因も千変万化し、常なるものはほとんどない。」第5巻23章

「ある物は急いで生起しようとし、ある物は急いで消滅しようとし、生じ来ったものも部分的にはもう消え失せてしまった。絶ゆることなき時の流れが永遠の年月をつねに新たに保つがごとく、流転と変化が世界をたえず更新する。この流れの中にあって、我々の傍を走り過ぎて行くもの、その上にしっかりと足を踏まえるところもないようなもののうち何をそう尊ぶことができようか。それはちょうど我々の傍を飛んで過ぎて行く雀どもの中のいずれかを愛しにかかるのと同じようなもので、当の雀はもう視界の外へ行ってしまっているのだ。実際各人の生命それ自体も血から蒸発したもの、空気から吸い込まれたものに似ている。なぜならあたかも我々が一度空気を吸い込み、またそれを吐きもどすように、――それは我々が各瞬間にしていることだが――昨日か一昨日君が生まれたときに与えられた全呼吸機能を、最初君が息を汲み取った源泉へ返納するのもまったく同じことなのである。」第6巻15章

「人生は短い。褒める者にとっても褒められる者にとっても、記憶する者にとっても記憶される者にとっても。しかもすべてこの地域のこの小さな片隅でのこと。その上そこでは万人互いに一致しているわけでもなく、個人にしても一人として自己と一致しているものはない。また地球全体は一点にすぎない。」第8巻21章

つねに同一の人生目的を持たぬ者は一生を通じて一人の同じ人間でありえない。しからばその目的はなんであるべきか、ということを付け加えなくては以上いったことは足りない。というのは、大衆がなんらかの意味で善しと見なすものについての世論は必ずしも一致せず、その中にあるもの、すなわち公益に関するものについてのみ一致するようであるが、我々もまた同様に公共的市民的福祉を目的とせねばならない。自己のあらゆる衝動をこれに向ける者は、彼の全行動を首尾一貫したものとなし、それによってつねに同じ人間として存在するであろう。」第11巻21章

 しかし仮に河が常に移り変わるものであったとしても、やはり依然として「河は同じ河」であり続ける。河が同じ河であり続けるように一人の人間が同じ人間であり続けるためには、移り変わるものにこだわってはいけない。たとえば肉体や経済状況のようにめまぐるしく変動するものは、人間存在にとって本質的なものではない。そんな些末なことに囚われるのは、人生全体にとって無駄なことだ。同じ人間であるために決定的に重要なのは、著者によれば「人生目的」の定め方ということになる。この「人生目的」を定める時に、「一」という概念が本質を見定める指針となる。「一」に適っているのが正しい目的で、そうでなければ一時的で些末な衝動に過ぎないということになる。ここはなかなかアクロバティックな論理展開に思えるが、だからこそ逆に言えばストア派の自然観と倫理観を繋ぐ重要な「飛躍=信仰」でもあるのだろう。
▼参考:アイデンティティとは何か?―僕が僕であるために

 他、本筋とはあまり関係ないところで、おもしろい証言もたくさん手に入る。たとえば当時の「子ども」と「学校」にまつわる証言は興味深い。

【学校に関すること】

「曾祖父からは、公立学校にかよわずにすんだこと、自宅で良い教師についたこと、このようなことにこそ大いに金を使うべきであることを知ったこと。」第1巻4章

「しかしこれは皮肉や叱責の調子ではなく愛情をもって、心の底に怨恨をいだかずにやらなくてはいけない。そして学校の先生のような態度ではなく、そこにいる第三者に尊敬されるためでもなく、たとえ周囲に他の人たちがいようとも、まったく彼一人にたいして話すがよい。」

【子どもに関すること】

「腹黒い性質、女々しい性質、頑固な性質、獰猛、動物的、子供じみている、まぬけ、ペテン、恥知らず、欲ばり、暴君。」第4巻28章

「また我々は互いに咬みあう子犬や、笑ったかと思うともう泣く喧嘩好きの子供と選ぶところはない。」第5巻33章

子供の喧嘩と遊び、また死体を担う小さな魂」第9巻24章

「活動の停止、衝動や主観の休止ならびにその死ともいうべきもの――以上は悪いことではない。今度は人生の各段階に目を転じて見よ、たとえば幼年時代、少年時代、青年時代、老年時代等――以上における変化はそれぞれ一つの死である。ここになにか恐ろしいものがあるだろうか。」第9巻21章

 まず興味深いのは、当時の「学校」や「学校の先生」がくだらないものと認識されていることだ。学校や先生に関わらなくて幸せであったと著者は主張している。学校に対するこのような意見は21世紀に入っても見られるところだが、学校や先生は2000年ずっと変わらないということか。
 また本書では、子どもは一貫してくだらないものとして認識されている。理性を最大限に尊ぶ著者からしてみると、理性に欠ける子どもは尊重するに値しないものとなる。このような姿勢は少し後のアウグスティヌスにも同様に見られることになるだろう。西洋思想が子どもをくだらないものと認識する姿勢は、キリスト教の「原罪」に由来するというよりは、ギリシア・ローマの「理性尊重」の姿勢に由来するもののような印象がある。
 また発達段階に対する著者の証言は記憶しておきたい。著者は人間の一生を「幼年→少年→青年→老年」の4段階として認識している。この認識は著者独特のものではなく、ギリシア・ローマを通じて一般的だったと考えていいように思える。そして、その段階の変化を「それぞれ一つの死」だと表現していることから分かるように、それぞれの発達段階をまったく別のものだと認識している様子がうかがえる。この姿勢も、少し後のアウグスティヌスに色濃く見られる考え方だ。子どもを取るに足らないものとして認識する姿勢の背景にある、当時の常識ということだろう。

 また認識論の点では、カントの理性批判を彷彿とさせる描写がそこかしこにあった。カントの考え方は急に登場したのではなく、ストア哲学的な背景と土台があって生まれてきたということなのだろう。

「したがって人間の構成素質の中で第一の特徴は社会性である。第二は肉体的欲情にたいする抵抗力である。というのは、理性的知性的な動きには独特な能力があって、周囲のものから自分を孤立させ、感覚や本能の動きに決して負けないのである。なぜならば後者は双方とも動物的である。ところが叡智の動きは優越を欲し、これらのものに克服されるのを肯んじない。これは当然のことである。なぜならばその性質として叡智は全て他のものを利用するようにできているからである。」第7巻55章

「事物は(我々の魂の)戸の外に立っていて、自分自身の中にとじこもり、自己についてはなにも知らず、なにも伝えない。では彼らについて伝えるものはなにか。指導理性である。」第9巻15章

「「自分とはなにか。」理性のことだ。「しかし私は理性ではない。」それならそれでいい、だが少なくとも理性が自分で自分を苦しめることのないようにせよ。君のほかの部分が具合悪くなった場合には、その部分自体に自己についての意見をいだかしめればいいのだ。」第8巻40章

 カントの倫理的な態度は、著者の倫理的な姿勢とそうとうに共振しているように思った。ストア派はなかなか侮れないなと、改めて認識しなおした次第である。

マルクス・アウレーリウス/神谷恵美子訳『自省録』岩波文庫、2007年<1956年