【要約と感想】J.アナス・J.バーンズ『古代懐疑主義入門―判断保留の十の方式』

【要約】あらゆる現象は、条件によって顕れ方が異なります。だから物事の本質が何なのかに対しては確かなことを言うことはできません。「判断保留」をして、探究を続けましょう。そしてその姿勢こそが心に平静をもたらし、人々を幸せにします。これが、ストア派やエピクロス派と並び立つヘレニズム哲学の第三の潮流、古代懐疑主義の主張です。

【感想】退屈な本である。序章がやたら威勢がよかったから期待を持ってしまったけれども、完全に肩すかしだった。この退屈さは英米系の分析哲学に共通する緊張感の欠如と冗長性が原因だろう。徹底的に論述する価値や意味を見いだせないものを徹底的に論述しているので、退屈なのだ。1頁で言えることを100頁も書いている。本書は自ら「哲学の入門」を謳っているけれども、まったく哲学入門には相応しくない。「哲学」の概念が英米系に特有の偏りを示していて、普遍的ではない。最大限に好意的に解釈して、「英米系分析哲学の入門書」ということなら、そう主張しても許されるかもしれない。まあ「英米系分析哲学の退屈さに耐える訓練入門」としては最適だろう。オチがメタ構造的なギャグ(しかもそんなにデキがよくない)で終わってたしなあ。

さて、人間が物事を認識するには必ず「特異点」を必要とする。そんなことはプラトンもアリストテレスも気づいているし、ソクラテスも「無知の知」という形で表現している。ストア派、エピクロス派、古代懐疑主義の違いとは、その「特異点」の設定の仕方の相違に結局は収斂する。ストア派は「大いなる一」を特異点に設定した。それは後々キリスト教の「神」とも響き合うような説得力ある特異点に成長していくことになる。エピクロス派は「小さなる一」を特異点にした。デモクリトスに由来する、いわゆる原子論である。この発想は近代になって自然科学の作法や民主主義の理論的支柱である社会契約論として花開くことになるだろう。そして古代懐疑主義は、特異点を「無限遠の彼方」に設定した。いつまで経っても辿り着かない人間認識の臨界に特異点を設定することで、我々のあらゆる認識が常に暫定的な中間地点であるという物語を描いた。近代哲学の華であるカントの理性批判やフッサール現象学とも響き合うエキサイティングな物語ではある。
要するにストア派・エピクロス派・古代懐疑主義の3つは、「特異点」というものの設定において究極と思われる3類型を論理形式的に代表するものであり、だからこそそれぞれそれなりの説得力を持つし、信者もつく。(いちおう論理的には古代懐疑主義の反対である「最近接」に特異点を設定するという立場もあり、それは古代であればアリスティッポスのような形を取りつつ、近代ではホッブズ以降に経験主義という形で精緻化されていくことになるだろう)。まあ、それだけのことだ。本書は、序章でやたらと古代懐疑主義の再発見の意義を強調しているけれど、そんなに凄いことを言っているようには読めなかった。

逆に言うと、本書が浮き彫りにしているのは、むしろ古代懐疑主義がストア派やエピクロス派と同じ土俵に立っている、ということだ。ストア派がアパテイアと呼び、エピクロス派がアタラクシアと呼ぶものを、やはりまた古代懐疑主義も追究している。そういう意味で古代哲学は共通して、「哲学」と言うより「幸福論」と呼ぶ方が相応しい。古代懐疑主義は、ストア派やエピクロス派との距離より、近代懐疑主義との距離の方がはるかに遠い考え方に見えるのだった。

J.アナス・J.バーンズ/金山弥平訳『古代懐疑主義入門―判断保留の十の方式』岩波文庫、2015年