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【要約と感想】アリストテレス『ニコマコス倫理学』

【要約】あ、ありのまま、今起こった事を話すぜ。我々は「幸福」について考えていたと思ったら、いつの間にか「徳」についての考察を深めていた。何を言っているのかわからねーと思うが、おれも何をされたのかわからなかった。頭がどうにかなりそうだった。哲学とか倫理学かそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ。

【感想】タイトルは「倫理学」となっているけれども、アリストテレス本人がそう呼んだわけでもなければ、本文中で「倫理」という言葉も使われないわけだし、より適切には「幸福論」というタイトルをつけたほうがいい内容ではないかと思った。徹頭徹尾、「幸福」とはどういう状態で、「幸福」になるためには何が必要なのかが追究される本である。で、大まかには前半と後半に分かれるように読んだ。前半では「中庸」の大切さが説かれ、後半では「愛」の大切さが説かれることになる。とはいえ、主要な論点以外にも魅力的な描写が多く、細部まで侮れない本である。

まず前半、「中庸」の大切さが説かれる部分は、プラトン『国家』の倫理説=イデア論に対する批判として読むと理解しやすいように思った。プラトンは「善のイデア」を知ることが道徳の本質であると考えた。この場合の「知る」とは、あたかも数学の問題を理論的に解くように、正解が一つあるものを明瞭に認識することを意味する。しかしアリストテレスは本書の冒頭で、「幸福」というものは数学の問題を解くように理解することなどできないと宣言する。「幸福」については、論理的に一つの答えを導き出せるものではなく、我々の「経験」から大まかな答えを引き出して満足するしかない。だからアリストテレスは、まず「論理的に一つの答えを明確に出せる」ものと「論理的には一つの答えを出せるはずがないもの」をしっかり区別したうえで、「幸福」に関する議論が後者に属するものだということを強調する。しかし「論理的には一つの答えを出せるはずがないもの」について、我々はどうして理解することができるのだろうか。「幸福」について考えるためには、まず「学問」の全体構造を明らかにしなければならないのだ。
で、この学問論がなかなか味わい深い。アリストテレスは「帰納」と「演繹」という学問的な手続きについて説明したうえで、帰納推論を突き詰めていった先に絶対に人間の認識能力では説明できない究極的な事態に遭遇することを指摘する。人間の認識能力では絶対に証明不可能な究極を、アリストテレスは「アルケー(基本命題とか根源と翻訳される)」と呼ぶ。(私自身はそれを「特異点」と呼んできた。)アルケーがどうしてアルケーであるかに対する理解は、人間の認識能力を絶対的に超えている。そうであると受け入れるしかない。その認識を、アリストテレスは「学=帰納や演繹の手続きの連続で説明できる範囲:エピステーメー」とは区別して「直知:ヌース」と呼んだ。
そしてこの直知は、究極的な「普遍」と究極的な「個」という二つの限界認識に関わる。この認識に、プラトンのイデア論との明確な違いを確認できる。プラトンの言うイデアは、究極的な「普遍」という一方向への限界認識を示す概念だった。しかしアリストテレスは、究極的な「普遍」に加えて、究極的な「個」の方向にも論理の限界があると主張するのだった。「個」というものの捉え方に、プラトンとは異なるアリストテレスの思想体系の特徴を見ることができる。

とはいえ、この魅力的な学問構造論は、本書の全体構成から言えば脇筋なのだった。本筋では、「論理的には一つの答えを出せるはずがないもの」を判断する能力である「知慮:フローネシス」を活用して、縦横無尽に「中庸」の徳が語られる。ほんものの勇気とは無謀と臆病の中間である、というような。まあ、「そうですよね」としか。というか、「そうですよね」としか言えないところが、「知慮」が本領を発揮するところではある。そういう意味で、アリストテレスの記述と描写は凄いのであった。

本書の後半では、「愛」についての議論が展開される。やはり「愛」に関する議論にも、プラトンに対する対抗意識が伺える。プラトンの愛とは、『饗宴』で見事に描かれているように、「エロス」としての愛である。プラトンの愛では、完全なものへの憧れに導かれて自分自身を成長させる、エロス的主体の自覚が問題となる。一方、アリストテレスの愛とは「友愛=フィリア」である。雑に言えば、エロスは「主体」を強調するのに対し、フィリアは「集団」を強調する。アリストテレスの有名な言葉に「人間はポリス的動物である」というものがあるわけだが、ポリスなど何らかの人間関係を成立させるものが自他の共同としてのフィリアであると言える。
この愛についての具体的な議論が、現代にも通じる論点を提出していて、とても読み応えがある。たとえばアリストテレスは「愛に関しては、愛されることよりも、愛することのほうが本質的だ」(1159a)と言う。現代でも「愛する」ことと「愛される」ことの優劣を議論する人々を見かけるが、既に2400年前に、「愛する」ことのほうが本質であると答えが出ているのだ。
あるいは、アリストテレスは、「ひととなり」に対する愛のほうが、「有用性」や「快楽」ゆえの愛よりも尊いと主張する(1156a-1165b)。翻訳で「ひととなり」となっている言葉は、原文のギリシャ語では「エートス」であり、個人的に言えば「人格」という日本語がいちばんしっくり当てはまるように思う。相手の「属性」ではなく相手の「人格」を愛することがもっとも尊いと、すでに2400年前に語られているのである。
あるいは、アリストテレスは、あらゆる愛の根源に「自己愛」があると言う(1166a-1168b)。ちゃんとした自己愛を持っている人でないと、他人を愛せないというようなことを述べる。現代の精神分析的な知見とも相通じるような見解が、既に2400年前に示されているのである。
高校倫理の教科書だと、「愛」と言えば「エロスとアガペー」の二種類ということにされがちだが、アリストテレスの「愛=フィリア」が無視されるのはあまりよろしいことではないように思う。

研究のための個人的備忘録

本筋とは関係ない記述ではあるが、各所に散見される「子供」に対する記述は、当時の子供観を象徴するものとして参照するに値するかもしれない。アリストテレスに従えば、子供とは徹底的に価値のない存在である。

【個人的備忘録】子供観
「同じくこの理由によって子供も幸福ではない。彼はその年齢のゆえに、いまだかかる性質のはたらきをなしえないからである。いわゆる至福なる子供とは、そうなるだろうという期待のゆえにそんなふうに呼ばれるにすぎない。」1100a
「放埒を意味する「アコラシア」(=無懲戒)という名称はわれわれはこれを子供の「わがまま」の意味にも適用している。両者は、事実、或る類似性を有している。そのいずれがもとになってそう呼ばれるようになったかは差しあたりどうでもいいことであるが、後にきたるものが、前のものに由来するものなることは明らかであろう。この転用は悪くないようである。なぜかというに、もろもろのみにくきものごとを欲求するところの、しかもその成長の速やかであるところのものは懲戒的な「しつけ」を必要とするが、その最も著しいのは欲情と子供たちなのだからである。事実、欲情のままに子供たちは生きるものなのであって、快というものへの欲求の最もはなはだしいのも彼らなのである。だからもし、彼らにききわけが生ぜず、支配的なるものの下に立つにいたらないならば、その赴くところ測るべからざるものがあるであろう。」1119b
「下等動物や子供の追求するのは、このような無条件的な意味では善きものとはいえないような快楽でしかないのであって、知慮あるひとの求める「無苦痛」なるものも、このような性質の快楽の欠如に基づく苦痛からの自由を意味している。このような性質の快楽というのは、欲望を伴い欠如の苦痛を伴うところの快楽、つまり肉体的な快楽ないしはその過程であり、それはまた、放埒なひとが放埒なひとである所以のものたるごとき快楽にほかならない。」1153a
「また、何びとといえども、子供たちが快楽を感ずるごときことがらについての快楽を、たとえどれほど満喫できるからといって、一生涯子供の知性の域を脱しないで生きていくことを選びはしないだろうし、また、たとえそれゆえに苦痛を受けるおそれが全然ないにしても、何らきわめて恥ずべき行為をなして悦ぶことを選ぶひとはないであろう。」1174a

また、「教育可能性」に対する議論も興味深い。「遺伝」か「環境」かどちらが重要かという、教育学の伝統的な議論の元になっているような議論が、この時点ですでになされているのである。アリストテレスは人間の教育可能性を重視しており、「習慣づけ」の重要性を繰り返し主張することになる。

【個人的備忘録】教育可能性
「かくして卓越性(徳)には二通りが区別され、「知性的卓越性」「知性的徳」と、「倫理的卓越性」「倫理的徳」とがすなわちそれであるが、知性的卓越性はその発生をも成長をも大部分教示に負うものであり、まさしくこのゆえに経験と歳月とを要するのである。これに対して、倫理的卓越性は習慣づけに基づいて生ずる。「習慣」「習慣づけ」という言葉から少しく転化した倫理的という名称を得ている所以である。」1103a
「このことからして、もろもろの倫理的な卓越性ないしは徳というものは、決して本性的におのずからわれわれのうちに生じてくるものでないことは明らかであろう。」1103a
「これを一言に要約すれば、もろもろの「状態」は、それに類似的な「活動」から生ずる。われわれの展開すべき活動が一定の性質の活動であることの必要な所以である。これらの「活動」の性質いかんによって、われわれの「状態」はこれに応じたものとなるのだからである。つとに年少のときから或る仕方に習慣づけられるか、あるいは他の仕方に習慣づけられるかということの差異は、僅少ではなくして絶大であり、むしろそれがすべてである。」1103b
「善きひとびとになるのは、一部のひとびとの考えによれば本性に、他の一部のひとびとによれば習慣づけに、また他の一部の人々によれば教えによる。ところで、もし本性に属するのだとすれば、明らかにこれはわれわれのいかんともしがたいところなのであって、何らか神的な原因によって真の意味における「好運な」ひとびとに与えられたものなのだつするほかはない――。また、理説とか教えとかも、おそらくは必ずしもあらゆるひとびとにおいて力があるわけではなく、それが有効であるためには、「うるわしき仕方において悦びや惜しみを感ずる」より、あらかじめ聴き手の魂がもろもろも習慣づけによって工作されてあることを要するのであって、これはいわば、種子を育むべき土壌に似ている。というのは、情念のままに生きるひとびとは、忠告的な言説に耳をかさないであろうし、耳をかしてもこれを理解しないであろう。こうした状態にあるひとを、いかにして説得翻意せしめることができよう。総じて、情念は理説に譲らず、その譲るのは強要に対してのみであると考えられるのである。してみれば、そこには、徳の完成に固有な倫理的性状――すなわち、うるわしきを愛し醜悪なるを厭うという――が、何らかの仕方で、すでに見出されることが必要となる。
しかるに、若年の頃から徳へのただしい誘導を受けるということは、やはりそういった趣旨の法律の下に育成されているのでないかぎり行われがたい。というのは、節制的に我慢強く生きていくということは、世人にとって、殊に若年者にとっては快適ではない。だからして、法律によって、彼らの育成や、もろもろも営みが規制されてあることを要する。いったん慣れてしまえばこうしたことも苦痛ではなくなるだろうからである。だが、おもうに、若年の時代にただしい育成や心遣いを受けるだけでは充分でない。やはり大人になってからもこのような営みを続け、それを習慣としてゆくことを要するのであって、そうなると、これに関してやはり法律というものが必要であり、総じて、だから、全生涯にわたってわれわれは法律を必要とするであろう。けだし世人は、理説よりも必須なるに従い、うるわしさによりも処罰に従うものなのだからである。」1179b-1180a

また、論理的な手続きの限界に関わる議論は、2400年前に既に論理体系の「不完全性」=定理の任意性が認識されていたものとして、瞠目に値するように思う。

【個人的備忘録】特異点
「「学」は普遍的なるもの・必然的なるものを対象としこれについて行なわれる理解なのであるが、もろもろの論証的な帰結は、したがってまたあらゆる「学」は、個々の基本命題の上に立っている。だとすれば、学的認識の基本命題それ自身にかかわるところのものは「学」ではなく、いわんや「技術」や「知慮」ではありえない。というのは、「学」の領域は論証的な性質のものであるが、「技術」や「知慮」は「それ以外の仕方においてあることの可能なことがら」にかかわっているのだからである。さりとてまた、「智慧」はもっぱら基本命題にかかわるというわけでもない。けだし、智者の智者たる所以としては、若干のことがらに関しては論証を与えうるということがやはり存するのだからである。
かくて、もし「それ以外の仕方においてあることのできないごときことがら」ないしは「それのできることがら」に関してわれわれをして真を認識せしめ決して誤った認識に導くことのないものとして「学」と「知慮」と「智慧」と「直知」があるとするならば、だがもし、そのうちの三者はいずれもこれに該当しないとするならば、あますところ、基本命題にかかわるところのものとしては、直知以外にはないのである。」1140b-1141a

アリストテレス/高田三郎訳『ニコマコス倫理学』上、岩波書店、1971年
アリストテレス/高田三郎訳『ニコマコス倫理学』下、岩波書店、1973年

【要約と感想】ペスタロッチー『隠者の夕暮・シュタンツだより』

【要約】教育というものは、相手が身分の高い人だろうが賤しい人だろうが、同じものであるはずです。なぜなら、教育とは人間をつくる仕事だからです。すべての人間は、その本性の奥底に、共通する素質と力を持っているはずです。

【感想】特定の身分や職業に即した教育を否定し、人間すべてに通じる普遍的な教育を目指したという点では、たしかにルソー『エミール』を引き継ぐものと言える。ペスタロッチ自身も若いころに『エミール』を読み込んで、大いに影響を受けている。
ただし、決定的な点で、ペスタロッチーの言っていることはルソーの主張とは異なっているように読める。

決定的な相違の一つ目は、「神」の位置づけだ。ルソーは、自然科学の見識が深まれば、必然的に内部から神の思想に至ると考え、早期からの宗教教育を戒めた。いわゆる「理神論」である。
しかし一方ペスタロッチーの考えでは、神に対する畏敬の念こそがすべての教育活動の基礎とならなければならず、早期からの宗教的心情陶冶は必須となる。
つまり、ルソーは人間の普遍性の根拠としておそらく「理性」をイメージしているが、ペスタロッチーは「理性」というよりも「信仰」を共通イメージの基礎に置いているように見えるわけだ。

もう一つの決定的な相違は、「君主」の位置づけだ。ルソーは、社会契約論の主張者だけあって、彼の体系のなかで「君主」というものが占める位置は大きくない。というか、フランス革命の理論的根拠となるくらい、反王権的だ。
一方、ペスタロッチーは君主の教育権を最大限に確保しようとしているようにみえる。それは「父権」の絶対的な位置づけにも相通じる。家父長制的なのだ。ペスタロッチーは「国民を教化して彼の本質の浄福を悦楽するようにするためにこそ、人民の長たる父があるのだ。そしてすべての国民は家庭の浄福を悦楽することによって、君主の親心に対する子としての純粋な信頼のうちに安らい、そしてその君主が子たちを教育し向上させて、人類のあらゆる浄福の悦楽に到らせる父としての義務を果たすことを期待している。」(30頁)と主張する。ここだけ読むと、パターナリズムの思想であるように理解できてしまう。
なんにせよ、自分の主人は自分だけというルソーからは逆立ちしても出てこない言葉であることは間違いない。

また、現代的な感覚で読むと、ペスタロッチーが体罰を肯定する文章(75頁)には困惑させられる。しかもその体罰肯定の根拠として、肉親の愛情に基づいた暴力は許されるという理屈を持ち出されると、困惑を超えてドン引きしてしまう。解説の長田新は、ペスタロッチーだからこそ体罰も許されるのだと擁護するわけだが。いやいや、ペスタロッチーだから許されるなんてことがあるわけはなく、単に220年前だったから大目に見られただけのことと理解するべきところだ。

そんなこんなで、書かれたものだけから判断するかぎり、完成度にしても人間教育への洞察にしても、どうしてもルソーのほうに軍配を上げざるを得ないというのが正直なところではある。
とはいえ、難しいのは、書き遺した断片からペスタロッチーの全体像を判断してはいけないというところだ。というのも、彼の真骨頂は「実践」にあるからだ。一方のルソーは、言っていることは立派ではあるが、やっていることはゴミのようだ。実践的に見た場合、圧倒的にペスタロッチーのほうを尊敬せざるをえない。

本人の著作から思想構造を再構成しにくいので、ペスタロッチーについて語るのはなかなか厄介だなあと思う次第である。特に『隠者の夕暮れ』は、若くて本格的に教育事業にとりかかる以前の著作であることと、ドイツ語本文の校訂の問題が重なって、解釈が難解である。
が、授業ではしっかり扱わざるを得ないので、各種研究書で補足するのであった。

【個人的備忘録】自然や生活による陶冶
教育方法として決定的に重要なのは、ペスタロッチーが「生活」や「自然」による陶冶を尊重したことにある。この意識は、本書の端々から感じとることができる。
とはいえ、自然や生活による陶冶は既にルソーによって主張されているところだし、さらにロックも生活習慣重視の姿勢を見せているし、さらに遡ればアリストテレスの習慣形成論にも行き当たる。ペスタロッチーの思想がなにに由来し、どこがオリジナルで、類似思想とどこがどう異なっているかは、思想史的に解明すべき課題になる。

「わたしは事物のもっとも本質的な関係を人間に直感させ、健全な精神と天賦の知力とを発達させ、そしてなるほど人生のこのどん底に塵芥に埋もれているようにみえはするが、しかしこの環境の泥土のなかから浄化されると、明るい光で輝き出す諸力を刺激するために、生活そのものからくるもろもろの必要ないし要求が、どれほど多く寄与するかということを知った。」(51頁)
「しかも大抵彼らは、何ら人為的の方法によらず、ただ子供を取り巻く自然や、子供の日常の要求や、いつも活溌な子供の活動そのものを、陶冶の手段として利用しようとする思想も嫌えば、またその思想を実現することも嫌っていた。ところがわたしの企図を完全に実現する基礎をなしているのが、まさに右の思想だった。」(53頁)

ペスタロッチー/長田新訳『隠者の夕暮・シュタンツだより』岩波書店、1993年<1779,1799

【要約と感想】ジャン・ジャック・ルソー『エミール』

【要約】あなたがたが教育と思っているものは、まるで教育と呼ぶに値しません。だからわたしが本物の教育というものをお目にかけてみせましょう。教育とは、「人間」をつくるものなのです。

【感想】まあ、まずは「すげえな」としか。すげえ本だ。すげえ。カントが夢中になってむさぼり読んだのもよくわかる。
 しかし一方、この作品の凄味が分かるためには、そこそこの知識と経験が必要なのかもしれない。知識や人生経験に乏しい学生にいきなり本書を読ませても、断片的なことはわかったとしても、本書が主張したい本質の全体像は理解できないだろうと思ってしまう。実際、わたし自身にしても、学生のときにに読んだ印象と、大学院生のときに読んだ印象と、いま実際に学生を教える身になってから読んだ印象とは、まるで異なる。学生や大学院生のときに読んだときにも確かにそれなりに感慨を持ったわけだが、いままた改めて読み直してみて、その時とはまったく異なる新鮮な印象を持つ。そういう本だ。さて、次の機会に読み直したときにも新鮮だろうか?

 まず本書の主張で決定的に重要なのは、本書が「人間の教育」を全面的・包括的に打ち出した点だ。「人間の教育」とは、ある特定の職業や特定の身分にとっての教育ではなく、あらゆる人間にとって共通する普遍的な教育のことだ。ここが決定的に新しい。(もちろんコメニウスの「あらゆる人にあらゆることを教える」というテーゼは議論の対象になるが、ここではスルー)。この「人間の教育」という視点が、たとえばジョン・ロック『教育論』には存在しない。ロックが打ち出した教育とは、あくまでもロック自身が所属する階級である「紳士」の在り方に即した教育だった。その教育は貴族にも役にたたないが、一方で貧乏人にも役にたたない。ロックが目指した教育は、決して普遍的な教育ではなく、特殊な人間をつくるための特殊な教育だ。そしてそれはそれで、まあ問題はない。ロックは最初から「人間の教育」など夢想しない。(ただしもちろん『人間知性論』で示されるタブラ・ラサは普遍的な人間を想定した観念に見えるが、ここではスルー)。が、ルソーは「人間の教育」を夢想する。ルソーが本書で示したのは、あらゆる身分とあらゆる職業に共通する普遍的な「人間の教育」だ。この「人間」をつくるという姿勢が、本書を感動的な作品に仕立てる一番の出発点であることは間違いない。ロックの教育論には、感心することはあっても、感動することはない。が、ルソーの作品は、感動を引き起こす。特定の集団を扱っているだけに過ぎないか、人間そのものを扱っているかが決定的に違うのだ。まずここを理解できないと、本書の全体的な趣旨を読み取れない。そしてこの最重要ポイントを理解することが、残念ながらなかなか難しい。なぜなら、現在の教育が「人間をつくる」というよりは、ある特定の条件の下で役に立つ特殊な才能を持った人材をつくろうとするものである傾向が強く、「人間をつくる」ことが実際にどういうことかを経験的に理解しにくいからだ。だから繰り返し主張しなければならないのは、特定の人間をつくるのではなく「普遍的な人間をつくる」ということの決定的な意義と重要性だ。本書は「人間をつくる」ことを高らかに歌い上げたことに、決定的な存在意義がある。「子供の発見」というものは、そこからこぼれ出たオマケに見える。
 (ただし補足しておくと、この場合の「普遍的な人間」が「性別」を不問に付しているかどうかが、かなり怪しいことには留意しておく必要がある。ルソーの言う普遍は、性別を超えていないかもしれない。彼は明らかに「男性」を想定して「人間」と言っているように見える。現代の我々は、ルソーを乗り越えて、性別を超えた普遍を意識する必要がある。)

 さて、ほんものの教育というものが「人間をつくる」ことだということになれば、次はその具体的な方法と実践の話をしなければならない。ルソーは、エミールという架空の少年を設定し、生まれたときからから結婚までを一人の家庭教師として導いていくことになる。エミールを教育する方針として掲げられるのが、「消極教育」というスローガンだ。だから教員採用試験対策でも、「エミールと言えば消極教育」というふうに暗記させられるわけだ。しかし教員採用試験対策本などで解説される「消極教育」が、ルソー本人の語る本来の「消極教育」の精神をいかに貧弱に矮小化していることか。いや、私自身が授業で解説しようとしても、どんなに上手に再現しようとしても、貧弱に矮小化せざるを得ない状況に追い込まれてしまう。「消極教育」という概念は、なかなか一言では語り尽くせない、極めて奥が深いものなのだ。
 たとえばルソーが「消極教育」を主張する背後には、「人間の欲望」というものに対する徹底的な哲学的考察が控えている。ルソーは、人間の欲望はどこからどのように生じ、どのような影響を我々に及ぼすのかを徹底的に考察する。その結果として、人間の「自然」が問題というよりも、人間の「社会」のほうに根本的な問題があることを明らかにする。人間に欲望が生じるのは自然なことであって、我々がコントロールできるものではない。我々がコントロールできないものとは、うまくつき合っていくしかない。しかし残念ながらうまくつき合うことは不可能だ。なぜなら社会の中にいるかぎり、人間の欲望は「自然」から離れ、手のつけられないものになっていくからだ。人間が「欲望の奴隷」ではなく「自分自身の主人」となるためには、「自然」とうまくつき合う一方で、「社会」からは距離を置かなければならない。だから最初の教育は、社会によって行われるのではなく、自然によって行われなければならない。「消極教育」とは一切の教育的行為を否定したものではなく、従来行われてきた社会による教育には消極的になる一方で、自然による教育は積極的に行おうという意図を持っている。
 「自然による教育」とは、自分の肉体を自分の意志通りにコントロールする技術であったり、外界の情報を正確にインプットするための感官の訓練であったり、自分が持っている力を最大限にアウトプットするための訓練であったり、自分の意志ではどうにもならない因果関係に対する理解を深めたりすることであったりする。この訓練のためには、本はまったく必要がない。ルソーは12歳までは本を読ませるなと主張する。また、ロックが強調した「習慣」も退ける。その代わりに「実物」による教育の重要性を強調する。実物に対応する正確な「観念」を持っていないのに空疎な「ことば」だけ覚えても、何の意味もないどころか有害である。自分の五感で自然を感じたことがない人々に「自然」ということばをぶつけても、なにも響かない。子どもは大量の空疎なことばを記憶するよりも、まず初めに少量でいいから正確な観念を持つべきだ、というのが「自然による教育」の主張である。教員採用試験の解説本で触れられる『エミール』の内容は、ほぼここまでだろう。

 が、ここはまだ『エミール』の三分の一の地点にすぎない。むしろここ(岩波文庫の翻訳だと中巻)からが本番である。教員採用試験解説本の類は、『エミール』の一番美味しいところを完全に無視していると言ってよいだろう。
12歳を超えたエミールは、決定的な転換点を迎える。いわゆる「思春期」に突入したのだ。本書は「子どもの発見の書」とも言われているが、より根本的には「思春期を発見した書」と言ったほうがいいかもしれない。思春期に突入した彼は、自分の人生を決定的に規定するであろう2つの課題に直面する。その課題とは、一つは「宗教」であり、もう一つは「性」である。12歳まで行ってきた「消極教育」は、実は、この2つの困難な課題を乗り越えるための入念な準備に過ぎなかったのだ。
 「宗教」という課題に取り組んでいるうちに、ルソーの筆は滑りに滑る。もはや主人公であったはずのエミールすら出てこない。ひたすら人生にとって「宗教」が持つ意味を考えまくる。ルソーが信じているところでは、信仰心は外から与えられても何の意味もなく、自分の内側から滲み出てこなくてはならない。だから子どもが自分自身で神について考えはじめる前に宗教的な観念を外側から与えようとすることは、無駄であると同時に有害なことだ。ルソーが信じるところでは、「自然の教育=消極教育」が順調に進んだ先には、必ず「神」が現れる。外側から神の観念を強制的に与えなくとも、「自然の教育=消極教育」を進めていけば、必然的に子どもの内側から神の観念が湧き上がってくるはずなのだ。それはすべての「観念」を究極的に一般化し、存在全体を「唯一の観念」にまとめ、絶対的な抽象である「実体」に辿り着いたときに発生する事態だ。だから逆に言えば、12歳までの「自然の教育=消極教育」の段階では、子どもに空疎なことばを持たせることを徹底的に戒め、堅実な「観念」だけを持たせるようにしなければならないのだ。ルソーが信じるところでは、「実体」という哲学的裏付けのないただの空疎なことばとして「神」を知ったとしても、人生にとっては何の意味もない。なぜなら、人間の「自由」というものの尊さを根本的に理解し実感することは、空疎な「神」の理解からは不可能だからだ。ほんものの「自由」を理解するためには、ほんものの「神」を知らなければならない。
 ここまで来なければ、「消極教育」という主張でルソーが本当に狙っていたものは見えてこない。ルソーは単に物知りをつくるための教育をしたいわけではなく、「ほんものの人間」をつくるための教育を描こうとしている。ルソーが言う「消極教育」とは「ほんものの人間=神への信仰を通じて真の自由を知る者」をつくるための準備期間であり、手段であり、理論的前提である。「消極教育」そのものが目的なのではない。教員採用試験解説本の類では「消極教育」そのものがルソーの教育の眼目であると言って、ルソーの主張の決定的に重要な論理を歪めているように見えるわけだが、まあ「宗教」とか「神」とかには踏み込めないので、仕方がないといって許すべきところかどうか。

 が、まだ『エミール』は終らない。クライマックスは、まだ先にある。ルソーが「宗教」以上に熱心に考察を加えているように見えるテーマが、「性」だ。ルソーは、延々と「恋愛」や「結婚」や「子作り」について議論を続ける。さすが全フランスを泣かせた恋愛小説「新エロイーズ」の作者だけあって、ルソーの恋愛描写は極めつけの甘美な文章で読者の心に迫る。別冊マーガレットでもこんなにピュアな恋愛は語れないんじゃないかというくらいの純粋さ。当然のことながら、教員採用試験の解説本の類には、恋愛に関する話なんか微塵も登場しないし、ましてや性教育に関わるエピソードなど完全にスルーされる。この恋愛と性教育に関する下りは、ルソーがどれだけ女性に酷い目に遭わされたのだろうと心配になるくらい、女性の扱いが酷い。女性が読むととてもガッカリしそうなエピソードで満載だ。まあ、時代の制約というものもあるのだろう。とはいえ、現代の教育を考えても、「性」というものの扱いは、極めて厄介な問題を伴っている。この厄介な問題に対して、ルソーが逃げることなく真っ正面から原理的に取り組んだことは記憶しておいていいかもしれない。「性」の様々な誘惑を乗り越える際にも、「消極教育」で培った資質と能力は役にたちまくるのだった。彼の言う「消極教育」は、恋愛教育や性教育にも貫かれて見事な体系を構成しているのだ。

 恋愛教育が完了すると、いよいよ総仕上げとして「市民教育」が行われる(この市民教育に突入する前のエミールと恋人ソフィーちゃんの別れのシーンは、なかなか感慨深く読める)。この市民教育、形式的にはヨーロッパ教育伝統のグランドツアーになるわけだが、実質的な内容は「社会契約論」だ。『社会契約論』という本は、『エミール』と同じく1762年に出版された。『エミール』にも社会契約論の要約みたいなものが書き連ねられている。だから、ルソーの『社会契約論』という政治思想と『エミール』という教育思想は密接にリンクしていると捉える識者がいるわけだ。私もご多分に漏れず、その一人だ。何人かの研究者は『社会契約論』と『エミール』の断絶面を強調する傾向にある。もちろん全部が全部重なっているわけなどないわけだが、私から見れば、政治思想と教育思想の表裏一体・首尾一貫性は疑うべくもないルソー思想の特徴であるように思われる。
 特に私が思うのは、「一般意志」という「社会契約論」の根幹をなす概念とエミールとの関係だ。ルソーは、エミールという少年を「人間」に教育すると言って本書を書き始めた。ルソーの言う「人間」とは、軍人でもなければ僧侶でもなく、法律家でもない。特定の職業のための教育をしようというわけではない。ルソーがつくろうとしている人間は、極めて「抽象的で一般的な人間」だ。このように育てていた架空の少年エミールとは、実は一般意志を擬人化したものではなかったか。あるいは、ルソー自身が「一般意志の擬人化」を考えるまでもなく(あるいは考えているようには実際に読めないわけだが)、しかし、なんの特定の職業にもつかず特定の故郷を持たない抽象的な人間を想定したなら、それは結局は「一般意志の擬人化」のようなものになるのではないだろうか。エミールとは、論理必然的に、ルソーの考えた社会契約論的な世界の「中」で生きる人間(個別具体的な人々)ではなく、社会契約論そのものを生きる人間(一般的・抽象的な人間)にならざるをえなかったのではないか。まあ、このあたり、「一般意志」とはなにかという極めて厄介な問題と触れるので、なかなか迂闊なことは言えないわけだが・・・

 で、市民教育が終って、最後の最後、家庭生活指南の下りには、盛大にドン引きしてまうわけである。まったく、侮れない作品である。

研究のための個人的備忘録
【個人的備忘録】子どもの発見
「人は子どもというものを知らない。子どもについてまちがった観念をもっているので、議論を進めれば進めるほど迷路にはいりこむ。このうえなく賢明な人々でさえ、大人が知らなければならないことに熱中して、子どもにはなにが学べるかを考えない。かれらは子どものうちに大人を求め、大人になるまえに子どもがどういうものであるかを考えない。」(上18頁)

 冒頭の有名な言葉である。本書が「子どもの発見の書」と言われる所以もここにある。とはいえ、本書を注意深く読むと、単にロマン主義的に無条件に子どもの価値を称揚しているわけでもないことがわかる。ルソーは、「欲望」と「力」の「関係」を基準として、原理的に子ども-青年-大人の関係を理解している。子どもは一貫して「力」が不足している者として描かれる。そして「力」との関係で「欲望」の扱いが大きな問題として浮上してくる。子どもの在り方は「欲望」との関係で極めてシビアに描かれており、決して無条件に肯定されているわけではない。のちのロマン主義子供観とエミールの立ち位置はまったく異なっている。

【個人的備忘録】欲望と力
「人間は弱いものであるというとき、それはなにを意味するか。弱さということばは一つの関係を、それが適用される者のある関係を示している。必要以上の力を持つ者は昆虫、虫けらでも強い存在だ。力を超えた欲望をもつものは象、ライオンでも、征服者、英雄でも、たとえ神であろうと、弱い存在だ。」「あるがままで満足している人はきわめて強い人間だ。人間以上のものになろうとする人は極めて弱い人間になる。だから能力を大きくすることによって、実力を大きくすることができるなどと考えてはならない。」(上106頁)
「社会は人間をいっそう無力なものにした。社会は自分の力にたいする人間の権利を奪いさるばかりではなく、なによりも、人間にとってその力を不十分なものにするからだ。だからこそ人間の欲望はその弱さとともに増大するのであって、大人にくらべたばあいの子どもの弱さもそれにもとづいている。大人が強い存在であり、子どもが弱い存在であるのは、前者が後者よりも絶対的な力をいっそう多くもっているからではなく、前者はもともと自分で自分の用をたすことができるのに、後者にはそれができないからだ。」(上112頁)
「子どもは獣であっても成人した人間であってもならない。子どもでなければならない。子どもは自分の弱さを感じなければならないが、それに苦しんではならない。他人に依存していなければならないが、服従してはならない。もとめなければならないが、命令してはいけない。」(上113頁)

 そして当然のことながら、現代のアクティブ・ラーニングに通じるような文言をいくらでも引っ張ることができる。

【個人的備忘録】実物教授とアクティブ・ラーニング
「わたしはことばでする説明は好まない。年少のものはそれにあまり注意をはらわないし、ほとんど記憶にとどめない。実物!実物! わたしたちはことばに力をあたえすぎている、ということをわたしはいくらくりかえしてもけっして十分だとは思わない。わたしたちのおしゃべりな教育によって、わたしたちはおしゃべりどもをつくりあげているにすぎない。」(上316頁)
「第一に、生徒が学ぶべきことをあなたがたが指示してやる必要はめったにない、ということをよく考えていただきたい。生徒のほうで、それを要求し、探求し、発見しなければならないのだ。貴方方はそれをかれの手の届くところにおき、巧みにその要求を生じさせ、それをみたす手段を提供すればいいのだ。」(上315頁)
「しかし、あなたがたはかれになにを教えることになるのか。それはまもなくかれが自分で学んでしまうことにすぎない。まったく、教えなければならないのはそんなことではないのだ。ある真実を教えることよりも、いつも真実をみいだすにはどうしなければならないかを教えることが問題なのだ。」(上370頁)
「かれはその知識においてではなく、それを獲得する能力において、普遍的な精神をもっている。それは開放的な聡明な精神、あらゆることに準備ができていて、モンテーニュが言っているように、教養があるとはいえなくても、とにかく教養をうけられる精神だ。」(上374頁)
「人を教える才能は、弟子に喜んで教えをうけさせることにある。ところで、喜んで学ぶためには、かれの精神はまったく受け身の状態であなたがたの言うことをきき、あなたがたの言っていることを理解するには全然なにもしなくていい、ということであってはならない。教師の自尊心はいつも弟子の自尊心にいくらか余地を残しておかなければならない。わたしにはわかる、わたしは深く考えてみる、わたしは積極的に学んでいるのだ、と弟子が自分に言えるようでなければならない。」(中84頁)
「考えれば考えるほどよくわかってくることだが、そういうふうに慈善心を行動に移し、わたしたちの成功、不成功からその原因についての考察をひきだすことにすれば、青年の精神のうちに育てていくことのできない有益な知識はほとんどないし、学校で獲得することができるあらゆるほんものの知識のほかに、かれはさらにもっと重要な学問を身につけることになる。それは獲得した知識を生活に役だつように応用することだ。」(中92頁)

 そして全編を貫くのは、近代教育のアポリアである「自由を強制する」というテーマなのかもしれない。そしてそれは「社会契約論」のテーマでもあるのだった。

【個人的備忘録】自由を強制する
「わたしは、悪いことをしているときには奴隷だが、後悔しているときには自由な人間だ。わたしは自由だという感じがわたしのうちから消えていくのは、わたしが堕落するとき、肉体の掟にたいして魂が非難の声をあげているのをついにだまらせてしまったときだけだ。」(中150頁)
「わたしは、肉体の拘束から解放されて、矛盾のない、分裂のない「わたし」になるときを、幸福であるために自分以外のものを必要としなくなるときを待ちこがれている。」(中179頁)
「これまでのところ、きみは見かけだけ自由であったにすぎない。まだなにごとも命令されていない奴隷のように、きみにはかりそめの自由があっただけだ。いまこそじっさいに自由になるがいい。きみ自身の支配者になることを学ぶがいい。きみの心情に命令するのだ、おお、エミール、そうすればきみは有徳な人になれる。」(下198頁)
「情念をもつこと、もたないことは、わたしたちの自由にはならない。しかし、情念を支配することはわたしたちの力でできる。」(下200頁)
「自由になるためにはなにもすることはないのだ、とわたしには思われる。自由であることをやめようとしなければそれで十分なのだ。ああ、先生、あなたこそ、必然に従うように教えることによってわたしを自由にしてくれた。」(下254頁)
「自分が完全に自分のものになっていられるところ」(下254頁)
「わたしは、支配と自由とは両立しない二つのことばであって、どんなみすぼらしい家でもその家の主人になれば、かならず自分の主人ではなくなる、ということを知った。」(下254頁)

 ということで、コメニウスやロックには見えなかった「人格の完成」という思想を、ルソーには色濃く読みとることができるのだった。

【メモ】
 ジェンダー論の立場からは、もちろん本書は批判の対象となる。

「有名な『エミール』(1762)のなかで、エミールの相手としてソフィーという女性が登場する。この男女の人間形成に、ルソーはどのような教育論を展開しているのであろうか。(中略)と、男性に奉仕する性としての女性の教育が明記されている。教育を受ける理由も、学習内容も、男性中心の教育論であり、男性のために、男性の都合の良いように女性の教育を位置づけたことがわかる。そうした教育は、女性にとって自らのエンパワーメントにはなり得ていなかった。」亀田温子「ジェンダーが教育に問いかけたこと」『ジェンダーと教育』26頁

【参考】
西研『NHK「100分de名著」ブックス ルソー「エミール」自分のために生き、みんなのために生きる』NHK出版、2017年

ジャン・ジャック・ルソー/今野一雄訳『エミール』上、岩波書店、1962年<1762年
ジャン・ジャック・ルソー/今野一雄訳『エミール』中、岩波書店、1962年<1762年
ジャン・ジャック・ルソー/今野一雄訳『エミール』下、岩波書店、1962年<1762年

【要約と感想】ジョン・ロック『教育に関する考察』(教育論)

【要約】教育で大切なのは、知識を与えることではなく、良い習慣の形成です。いったん良い習慣さえつけることができれば、知識の習得など後からいくらでも簡単に取り返せます。が、逆はありません。良い習慣をつけるためには、子供を学校に通わせるのは愚かなことで、優れた家庭教師に指導を任せるのが良いでしょう。特に息子を紳士として育てたいのであれば、社会で役に立たないラテン語の暗記や作文なんかにつき合っている暇なんかないので、子供が社会に出たときにどういう能力が必要かを考えて実践的な躾をするべきです。

【感想】実際に読んでみると、教員採用試験用の参考書等に書かれているような解説とはずいぶん違う内容であることが分かる。たとえば参考書の解説では「タブラ・ラサ(白紙説)」というキーワードを伴って教育万能説を主張したような紹介をされることが多いわけだが、ロックは実際には子供たちの持ち前の特徴や個性は教育では変えられるものではないと主張している(79頁、151頁)。本文の中で「白紙」に触れる際も、積極的に教育万能説を説くために持ち出すわけではなく、単に「そういう仮定を置いて書くしかなかった」という言い訳として出てくるに過ぎない(333頁)。また、教員採用試験では定番となっている教育名言として「健全な身体に宿る健全な精神」という言葉が挙げられることが多いし、実際に本文冒頭でこのセリフが出てくるけれども、作品全体の趣旨から言えばそれほど重要な意義を持っている言葉というわけでもない。ロックが本当に言いたいことは、もっと他のところにある。

 ロックが言いたいのは、「教育」と「学習」は違うということだ(現代のことばに言いかえると、「性格形成」と「知識習得」は違うというようなニュアンス)。世間の人びとは、愚かにも、大量の知識を脳味噌に叩き込むような「学習」こそが重要であると勘違いしている、とロックは言う。そんな勘違いによって、子供たちの貴重な時間を無駄にするだけでなく、人生そのものを無駄にしていると非難する。世間の人びとがやらせている「学習」は、ただ子供たちを勉強嫌いにさせ無力感に陥らせるという逆効果をもたらすに過ぎないと言う。ロックは、子供たちに「学習」させる前に大人がするべき大切なことがたくさんあると主張する。重要なのは、子供の無邪気さや純粋さをそのまま保ちながら、興味や好奇心を刺激して、良い習慣や態度を形成していくことである。そのためには、子供の「自由」を尊重するべきであり、具体的なテクニックとしては「遊戯」を有効に活用することを推奨する。いったん良い習慣形成=教育に成功してしまえば、「学習」させることは極めて簡単な仕事になるらしい。学習へ向かう姿勢や態度を形成する「習慣」をつけることこそが、ロックの言う「教育」である。

 というふうに、ここまでくると、2017年版学習指導要領に見える学力観にかなり親和的であるように見えてくる。学習指導要領では、学力の要素として「自発的に学ぶ習慣」を極めて重視している。学ぶ姿勢や態度を学ぶことによって、生涯学習社会と知識基盤社会に適応していこうという考え方である。もちろんロックは生涯学習なんてまったく考えていない(当時は大人になれば学ぶ必要などない)わけだが、「自発的に学ぶ習慣」さえ身につけてしまえば知識は後からいくらでもついてくるという発想は学習指導要領の発想とまったく同じだ。そのうえ、本書にはアクティブ・ラーニング的な手法の萌芽を確認することもできる。先生が一方的に講義しても学習効果は上がらず、生徒自身に話をさせることが勉強や知識を愛好させる上でも、道徳性を身につける上でも高い効果を発揮すると、ロックは主張している。

 このように現代の学習指導要領とロックの教育論の内容の親和性が高いので、その類似性に目を奪われて、思わず「ロックはアクティブ・ラーニングの祖だ!」とか「現代にも通用する!」なんて言ってしまいそうになるけれども、それは少々軽率かもしれない。というのは、ロックがどうしてアクティブ・ラーニングっぽい教育論を主張したのか、彼が生きた時代の構造と背景をしっかり考察することで、実は現代との類似性が見えてくるはずだからだ。学習指導要領とロックの主張が表面的に似ていることに注目するのではなく、学習指導要領を産みだした現代社会とロックの主張を産みだした当時のイギリス社会の類似を見透しておく必要があるわけだ。
 さて、現代とロックの時代が似ているのは、社会構造が急激に転換して、従来の知識観・教育観が意味をなさなくなってきていることだろうと思う。イギリス名誉革命の時代に生きたロックは、まさに「市民」の立場を代表している(ロック自身はその立場を「紳士」と呼んでいる)。従来の支配者層である王や貴族に代わって、紳士(あるいは市民)と呼ばれる新しい階層が時代の主役に躍り出た。この新しい時代の寵児が必要とする教育は、もちろん従来の王や貴族が必要とした教育とはまったく異なるものとなる。ロック自身も、紳士の教育と王子や貴族の教育は異なるべきであると本文中に明確に述べている(333頁)。たとえば、それまでの王子や貴族に対する教育では有効であったラテン語が、紳士に対してはまったく無意味なものになる。紳士にとって必要なのは実業社会で実際に活躍することができる実力であり、実力を確実に養成する実践的な教育である。名誉や教養によって人の上に立つ貴族とは力の発生源が根本的に異なっている以上、教育も決定的に異なるものとならなければならない。だからロックは、王子や貴族を育てる方法ではなく、あくまでも「紳士」を育てる教育について記述したのだった。そしてそれは「人間一般」を育てる普遍的な教育でもない。ロックは自分が属する階級であり、これからの時代の主役である「紳士」の教育の有り様を祖述することに関心と使命を持っていたわけだ。彼のアクティブ・ラーニングは、そういう紳士教育の実際的な要求から生じたものであって、単なる机上の教育論から出てきたものではない。
 ひるがえって、現代の学習指導要領を見てみると、もちろんそこには社会構造の転換が如実に反映している。その具体的な特徴は当然ロックの時代とはまったく異なるわけだが、これまで通用した教育が通用しなくなって新しい教育の形が切実に必要とされているという点で、形式的には類似した状況にある。ロックも、現代社会も、従来型の教育では通用しない新世界で活躍できる自発的で主体的な人間を作ろうとしている。これまでのマニュアルが通用しなくなったとき、おそらく人は「真の実力」というものの教育を夢想する。

 まあ、教員採用試験対策で「ロックの教育論といえばタブラ・ラサと紳士教育」などというふうにひたすら暗記して、教員になってから絶対に現場で使えないような死んだ知識をむりやり脳味噌に詰め込むような姿勢が、まるでロックの精神と反していることだけは確かである。

 あと、「習慣」の形成を重要視する教育論は、アリストテレス『ニコマコス倫理学』などでも主張されているような西洋古代からの経験主義的な伝統をおそらく正統に引き継いでいるだろう。そしてこれが「教育=習慣/学習=個別知識」の二項対立的観点の基礎的な土台となっているであろうことは、備忘的にメモ。

【個人的備忘録】新学力観を想起させる文章の抜粋
「監督者の重要な仕事は、態度を形づくり、精神を形成することであり、その生徒に良い習慣と徳と知慧の原理をつけ、さらにわずかずつ人間について見識を与えることであり、その生徒に、優れたもの、称賛に値するものを愛好し見習うようにさせ、またその実行に当っては気力、積極性と勤勉さを与えることです。」(138頁)「理性は、もし相談を受けるなら、子供たちの頭に、その大部分は、彼らが生きている限り二度とは思い出さない(彼らがそうする必要がないことは慥かです)ような屑を、一杯詰め込むよりはむしろ、彼らが大人になったとき、彼らの役に立ちそうなものを手に入れることに、子供の時間は費やされなければならぬと忠告してくれるでしょう。」(140頁)「家庭教師と生徒が一緒にいる時間は、講義をしたり、生徒が守り、従うべきことを高圧的に生徒に命ずることですべて費やされてはなりません。生徒の番になると、その言い分を聞いてやり、持ち出されている事柄については、理性的に考えるように取扱えば、諸規則もさらに容易に受け入れられ、さらに深く心に刻まれ、生徒に勉強、知識を好むようにさせるでしょう。」(148頁)

「子供たちが習う作品の大部分を無理やり暗記させられることですが、こういうことはなんら利益になるものではなく、とりわけ彼らがとりかかっている仕事にはなんの足しになるものとも思えません。」(276頁)

「知ることのできる一切のことを子供に教えることではなく、知識に対する愛と尊敬の念を子供の心に起こし、子供にその気があれば、自分自身で知り、向上する正しい軌道に乗せることです。」(305頁)

ジョン・ロック/服部知文訳『教育に関する考察』岩波書店、1967年<1693年

【要約と感想】アリストテレス『形而上学』

【要約】存在を存在として探求する学というものがあり、それは「矛盾律」のような疑い得ない確かな定理を土台として構築されるものでしょう。そして存在について厳密に考察を進めると、「イデア」のような考え方は必要なくなります。

【感想】個人的な見所は、「一」というものに対する徹底的な吟味と、「可能態=質量/現実態=形相」という措定から演繹される諸結論の2つだ。

人間が或る何かを「一」であると認識することができるのは、たしかに不思議な力だ。たとえば人間のことを「2つの目と2つの耳と2つの手と2つの足と…」というふうには認識しないで、「一人の人間」と認識する。どうして我々は物事を「多」ではなく「一」と認識するのか。この「一」という認識は、そのまま「人間が存在する」という「存在」に対する認識である。どれだけ「2つの目と2つの耳と2つの手と2つの足と…」という認識を深めていっても、決して「一人の人間」という認識には到達しない。「一人の人間」という認識に飛躍的に到達したときに、初めて「一人の人間がいる」という認識が可能となる。だから「存在」を存在そのものとして理解するとは、「一」を認識できる根拠を理解することである。

アリストテレス自身は、この「一」を「尺度」として探求し、数の原理的考察から追い詰めていこうとしている。「一は数ではなく、二から数である」という認識は、「一」というものを原理的に問い詰めていった末の結論であって、一定の世界観を示している。

私自身は、この「一」とは生命原理に由来するように思える。アリストテレス自身も「霊魂」へ言及するところで仄めかしているのだが、人間は何らかの「生命の塊」の単位を「一」として認識しているように思える。それは「全体と部分」の関係からも洞察される。ある部分を切り離したときに全体そのものが失われるという場合、その部分は「多」ではなく「一」として全体に含まれている。そもそも「ある部分を切り離したときに全体そのものが失われる」とは、一部の毀損によってなんらかの「生命」が失われることを意味するだろう。生命が失われたとき、「一」は成立しなくなる。その場合の「生命」とは、無生物にも適用できる。それは「働き」の単位である。何らかの「働き」をするものがあったとき、それが「多」から合成されたものであっても、我々は「一」と認識する。ある工場群に大量の工作機械があって、働く人間やロボットや建物が「多」であったとしても、その工場群の「働き」が一つであるとき、我々はそれを「一」と認識する。我々は「働き」の単位を「生命」として認識するということだろうか。
そしてここまでくると、物事の本質を「アレテー=徳」として捉えたソクラテス=プラトンの議論とも響き合ってくる。プラトンによれば、アレテーとは、物事に本来備わっている「働き」を完全に発揮することだ。このソクラテス=プラトンとアリストテレスの議論を重ねると、「徳=アレテー」を完全に発揮したものこそまさに「一」であり「生命」であるという話になる。

【この本は眼鏡っ娘について語っている】
ところで我々は、どうして眼鏡っ娘のことを眼鏡っ娘と理解できるのか。どうして「眼鏡」と「娘」が合成されただけの、つまり部分が集合した「多」として認識するのではなく、全体としての「眼鏡っ娘」、つまり「一」を認識するのか。たとえばアリストテレスはこう言う。

しかし、或るものから複合されて、その結果、全体として一つであるような複合体は、すなわち、穀粒の集積のようでなしに語節がそうであるように複合されたものは、――というのは、語節はたんなる字母どもではなく、BAはBとAとではなく、肉は火と土とではないからである。なぜなら、複合体、たとえば肉または語節は、それぞれの要素に分解されると、もはや(肉とし語節としては)存在しないが、字母どもはそのまま存在し、火や土もまたそうだからである。そうだとすれば、たしかに語節は或るなにものかである、すなわちそれはたんに字母ども(或る子音と母音と)であるのではなくて、さらにこれらとは異なる或るなにものかである。(1041b)

この文章は明らかに眼鏡っ娘について語っている。眼鏡っ娘とは「眼鏡と娘の複合体」ではなく、これらとは異なる或るなにものかである。そしてこの眼鏡っ娘を単なる「眼鏡と娘の複合体」ではなく「眼鏡っ娘全体」にしている「或るなにものか」こそが眼鏡っ娘の実体であり本質である。この実体や本質を追究することこそが、眼鏡っ娘学の使命と言える。

また本書は、「眼鏡っ娘の生成」に関しても多方面から大きな示唆を与える。たとえば、眼鏡っ娘が眼鏡を外したら直ちに眼鏡っ娘でなくなってしまうのだろうか? アリストテレスは「実体」という概念に即してこの問題を検討している。

もし実体が、さきには存在していなかったがいまは存在しているとか、あるいは逆にさきには存在していたがのちには存在しなくなっているとかいうようなものであるとすれば、このことは、生成しまたは消滅する過程においておこることと考えられる。しかるに点や線や面は、たとえこれらが或るときには存在し或るときには存在しないとしても、生成や消滅の過程にはあり得ない。というのは、物体が接触しまたは分割される場合、接触すれば一つの面が生成し、分割されれば二つの面が生じるが、それはその接触または分割と同時に(生成過程においてでなしに一挙に)生じるのだからである。したがって、両物体が接合されたときには一つの面は存在しなくて消滅しており、一物体が分割されたときには今まで存在しなかった二つの面が存在している。だからまた、もしこれらの面が生成したり消滅したりするとすれば、何から生成するというのか。それはあたかも時間における「いま」のごときものである。すなわち、「いま」もまた、生成し消滅する過程にはありえない、しかもそれにもかかわらず常に他なるものであるかのように思われる、このことは、「いま」が実体的な存在でないことを示している。そしてこれと同じことは、点や線や面についても明らかである(1002a-b)

アリストテレスが言っているのは、眼鏡っ娘にとっての「眼鏡」とは、立体を切断するときの「面」のようなものであり、時間で言うところの「いま」のようなものだということである。それらは等しく「生成や消滅の過程にはあり得ない」ような、「一挙に生じる」という性質を持つ。つまりそれは「実体的な存在ではないことを示している」ということである。アリストテレスの論理に従えば、眼鏡っ娘が着脱する眼鏡そのものは眼鏡っ娘にとっての「実体」ではない。

この眼鏡の着脱が眼鏡っ娘そのものを消滅させるかどうかについては、アリストテレスの言う「可能態/現実態」の概念が参考となる。アリストテレスはこう言う。

なにものも、ただそれが現に活動しているときにのみそうする能がある(活動しうる)のであって、活動していないときにはその能がない。たとえば、現に建築していない者は建築する能がなく、ただ建築する者が現に建築活動をしているときにのみそうする能があり、同様にその他の場合にもそうである、というのである。だが、この説から生じる諸結果の不合理性を見つけることは容易である。
というのは、明らかに(この説からすると)なんぴとも、現に建築していないならば建築家ではない、という(不合理な)ことになるからである(なぜなら、建築家であるということは建築する能のあるものであるということだから)。(1046b)

この論理は眼鏡っ娘は眼鏡をかけていないときでも眼鏡っ娘であると言うことを示唆する。「可能態としての眼鏡っ娘」とは、メガネっ娘居酒屋「委員長」で新城カズマ氏が語った「未がねっこ」概念を指し示している。では、その「可能態」とはどういうことか? アリストテレスはこう主張する。

しかし、もし実際に、我々の言うように、この「人間」のうちの一方はその質量で、他方はその型式であり、一方は可能的に、他方は現実的にあるのだとすれば、ここに問い求められているところは、もはやなんらの難問とも思われないはずである。(1045a)

「眼鏡っ娘」のうちの一方(可能態)は質量であり、他方(現実態)は型式である。こう考えれば、もはや矛盾は解消される。様々な個別の質量(可能態)=未がねっこに対して、眼鏡っ娘の型式が備わったものが現実態としての眼鏡っ娘である。しかし眼鏡っ娘はどのようにして可能態から現実態へと転化するのだろうか? アリストテレスはこう言う。

では、このことの原因は、すなわち可能的に存在するもの(丸くありうる青銅)が現実的に存在する(現に丸くある)にいたることの原因は、生成する事物の場合では、能動者を除いては、そのほかになにがあろうか? というのは、可能的に玉であるものが現実的に玉であるということには、他になんらの原因もなくて、まさにこうあることがこの両者の本質なのであったのだから。(1045a)

アリストテレスによれば、未がねっこ(可能態)が眼鏡っ娘(現実態)であることは、「他になんらの原因もなくて、まさにこうあることが両者の本質」なのだ。ただしそこには「能動者」という原因が想定されている。「能動者」とは何か? アリストテレスによれば、それは「種子や医者や勧告者やそのほか一般にこうした能動者、これらすべては、それから物事の転化または静止の始まる始まり(始動因)としての原因である」(1013b)ということになる。そこで問題は、この「始動因」としての「能動者」の有り様ということになる。この問題については、残念ながら本書では詳らかにならない。

アリストテレス/出隆訳『形而上学〈上〉』岩波文庫
アリストテレス/出隆訳『形而上学〈下〉』岩波文庫