【要約と感想】アリストテレス『ニコマコス倫理学』

【要約】あ、ありのまま、今起こった事を話すぜ。我々は「幸福」について考えていたと思ったら、いつの間にか「徳」についての考察を深めていた。何を言っているのかわからねーと思うが、おれも何をされたのかわからなかった。頭がどうにかなりそうだった。哲学とか倫理学かそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ。

【感想】タイトルは「倫理学」となっているけれども、アリストテレス本人がそう呼んだわけでもなければ、本文中で「倫理」という言葉も使われないわけだし、より適切には「幸福論」というタイトルをつけたほうがいい内容ではないかと思った。徹頭徹尾、「幸福」とはどういう状態で、「幸福」になるためには何が必要なのかが追究される本である。で、大まかには前半と後半に分かれるように読んだ。前半では「中庸」の大切さが説かれ、後半では「愛」の大切さが説かれることになる。とはいえ、主要な論点以外にも魅力的な描写が多く、細部まで侮れない本である。

まず前半、「中庸」の大切さが説かれる部分は、プラトン『国家』の倫理説=イデア論に対する批判として読むと理解しやすいように思った。プラトンは「善のイデア」を知ることが道徳の本質であると考えた。この場合の「知る」とは、あたかも数学の問題を理論的に解くように、正解が一つあるものを明瞭に認識することを意味する。しかしアリストテレスは本書の冒頭で、「幸福」というものは数学の問題を解くように理解することなどできないと宣言する。「幸福」については、論理的に一つの答えを導き出せるものではなく、我々の「経験」から大まかな答えを引き出して満足するしかない。だからアリストテレスは、まず「論理的に一つの答えを明確に出せる」ものと「論理的には一つの答えを出せるはずがないもの」をしっかり区別したうえで、「幸福」に関する議論が後者に属するものだということを強調する。しかし「論理的には一つの答えを出せるはずがないもの」について、我々はどうして理解することができるのだろうか。「幸福」について考えるためには、まず「学問」の全体構造を明らかにしなければならないのだ。
で、この学問論がなかなか味わい深い。アリストテレスは「帰納」と「演繹」という学問的な手続きについて説明したうえで、帰納推論を突き詰めていった先に絶対に人間の認識能力では説明できない究極的な事態に遭遇することを指摘する。人間の認識能力では絶対に証明不可能な究極を、アリストテレスは「アルケー(基本命題とか根源と翻訳される)」と呼ぶ。(私自身はそれを「特異点」と呼んできた。)アルケーがどうしてアルケーであるかに対する理解は、人間の認識能力を絶対的に超えている。そうであると受け入れるしかない。その認識を、アリストテレスは「学=帰納や演繹の手続きの連続で説明できる範囲:エピステーメー」とは区別して「直知:ヌース」と呼んだ。
そしてこの直知は、究極的な「普遍」と究極的な「個」という二つの限界認識に関わる。この認識に、プラトンのイデア論との明確な違いを確認できる。プラトンの言うイデアは、究極的な「普遍」という一方向への限界認識を示す概念だった。しかしアリストテレスは、究極的な「普遍」に加えて、究極的な「個」の方向にも論理の限界があると主張するのだった。「個」というものの捉え方に、プラトンとは異なるアリストテレスの思想体系の特徴を見ることができる。

とはいえ、この魅力的な学問構造論は、本書の全体構成から言えば脇筋なのだった。本筋では、「論理的には一つの答えを出せるはずがないもの」を判断する能力である「知慮:フローネシス」を活用して、縦横無尽に「中庸」の徳が語られる。ほんものの勇気とは無謀と臆病の中間である、というような。まあ、「そうですよね」としか。というか、「そうですよね」としか言えないところが、「知慮」が本領を発揮するところではある。そういう意味で、アリストテレスの記述と描写は凄いのであった。

本書の後半では、「愛」についての議論が展開される。やはり「愛」に関する議論にも、プラトンに対する対抗意識が伺える。プラトンの愛とは、『饗宴』で見事に描かれているように、「エロス」としての愛である。プラトンの愛では、完全なものへの憧れに導かれて自分自身を成長させる、エロス的主体の自覚が問題となる。一方、アリストテレスの愛とは「友愛=フィリア」である。雑に言えば、エロスは「主体」を強調するのに対し、フィリアは「集団」を強調する。アリストテレスの有名な言葉に「人間はポリス的動物である」というものがあるわけだが、ポリスなど何らかの人間関係を成立させるものが自他の共同としてのフィリアであると言える。
この愛についての具体的な議論が、現代にも通じる論点を提出していて、とても読み応えがある。たとえばアリストテレスは「愛に関しては、愛されることよりも、愛することのほうが本質的だ」(1159a)と言う。現代でも「愛する」ことと「愛される」ことの優劣を議論する人々を見かけるが、既に2400年前に、「愛する」ことのほうが本質であると答えが出ているのだ。
あるいは、アリストテレスは、「ひととなり」に対する愛のほうが、「有用性」や「快楽」ゆえの愛よりも尊いと主張する(1156a-1165b)。翻訳で「ひととなり」となっている言葉は、原文のギリシャ語では「エートス」であり、個人的に言えば「人格」という日本語がいちばんしっくり当てはまるように思う。相手の「属性」ではなく相手の「人格」を愛することがもっとも尊いと、すでに2400年前に語られているのである。
あるいは、アリストテレスは、あらゆる愛の根源に「自己愛」があると言う(1166a-1168b)。ちゃんとした自己愛を持っている人でないと、他人を愛せないというようなことを述べる。現代の精神分析的な知見とも相通じるような見解が、既に2400年前に示されているのである。
高校倫理の教科書だと、「愛」と言えば「エロスとアガペー」の二種類ということにされがちだが、アリストテレスの「愛=フィリア」が無視されるのはあまりよろしいことではないように思う。

研究のための個人的備忘録

本筋とは関係ない記述ではあるが、各所に散見される「子供」に対する記述は、当時の子供観を象徴するものとして参照するに値するかもしれない。アリストテレスに従えば、子供とは徹底的に価値のない存在である。

【個人的備忘録】子供観
「同じくこの理由によって子供も幸福ではない。彼はその年齢のゆえに、いまだかかる性質のはたらきをなしえないからである。いわゆる至福なる子供とは、そうなるだろうという期待のゆえにそんなふうに呼ばれるにすぎない。」1100a
「放埒を意味する「アコラシア」(=無懲戒)という名称はわれわれはこれを子供の「わがまま」の意味にも適用している。両者は、事実、或る類似性を有している。そのいずれがもとになってそう呼ばれるようになったかは差しあたりどうでもいいことであるが、後にきたるものが、前のものに由来するものなることは明らかであろう。この転用は悪くないようである。なぜかというに、もろもろのみにくきものごとを欲求するところの、しかもその成長の速やかであるところのものは懲戒的な「しつけ」を必要とするが、その最も著しいのは欲情と子供たちなのだからである。事実、欲情のままに子供たちは生きるものなのであって、快というものへの欲求の最もはなはだしいのも彼らなのである。だからもし、彼らにききわけが生ぜず、支配的なるものの下に立つにいたらないならば、その赴くところ測るべからざるものがあるであろう。」1119b
「下等動物や子供の追求するのは、このような無条件的な意味では善きものとはいえないような快楽でしかないのであって、知慮あるひとの求める「無苦痛」なるものも、このような性質の快楽の欠如に基づく苦痛からの自由を意味している。このような性質の快楽というのは、欲望を伴い欠如の苦痛を伴うところの快楽、つまり肉体的な快楽ないしはその過程であり、それはまた、放埒なひとが放埒なひとである所以のものたるごとき快楽にほかならない。」1153a
「また、何びとといえども、子供たちが快楽を感ずるごときことがらについての快楽を、たとえどれほど満喫できるからといって、一生涯子供の知性の域を脱しないで生きていくことを選びはしないだろうし、また、たとえそれゆえに苦痛を受けるおそれが全然ないにしても、何らきわめて恥ずべき行為をなして悦ぶことを選ぶひとはないであろう。」1174a

また、「教育可能性」に対する議論も興味深い。「遺伝」か「環境」かどちらが重要かという、教育学の伝統的な議論の元になっているような議論が、この時点ですでになされているのである。アリストテレスは人間の教育可能性を重視しており、「習慣づけ」の重要性を繰り返し主張することになる。

【個人的備忘録】教育可能性
「かくして卓越性(徳)には二通りが区別され、「知性的卓越性」「知性的徳」と、「倫理的卓越性」「倫理的徳」とがすなわちそれであるが、知性的卓越性はその発生をも成長をも大部分教示に負うものであり、まさしくこのゆえに経験と歳月とを要するのである。これに対して、倫理的卓越性は習慣づけに基づいて生ずる。「習慣」「習慣づけ」という言葉から少しく転化した倫理的という名称を得ている所以である。」1103a
「このことからして、もろもろの倫理的な卓越性ないしは徳というものは、決して本性的におのずからわれわれのうちに生じてくるものでないことは明らかであろう。」1103a
「これを一言に要約すれば、もろもろの「状態」は、それに類似的な「活動」から生ずる。われわれの展開すべき活動が一定の性質の活動であることの必要な所以である。これらの「活動」の性質いかんによって、われわれの「状態」はこれに応じたものとなるのだからである。つとに年少のときから或る仕方に習慣づけられるか、あるいは他の仕方に習慣づけられるかということの差異は、僅少ではなくして絶大であり、むしろそれがすべてである。」1103b
「善きひとびとになるのは、一部のひとびとの考えによれば本性に、他の一部のひとびとによれば習慣づけに、また他の一部の人々によれば教えによる。ところで、もし本性に属するのだとすれば、明らかにこれはわれわれのいかんともしがたいところなのであって、何らか神的な原因によって真の意味における「好運な」ひとびとに与えられたものなのだつするほかはない――。また、理説とか教えとかも、おそらくは必ずしもあらゆるひとびとにおいて力があるわけではなく、それが有効であるためには、「うるわしき仕方において悦びや惜しみを感ずる」より、あらかじめ聴き手の魂がもろもろも習慣づけによって工作されてあることを要するのであって、これはいわば、種子を育むべき土壌に似ている。というのは、情念のままに生きるひとびとは、忠告的な言説に耳をかさないであろうし、耳をかしてもこれを理解しないであろう。こうした状態にあるひとを、いかにして説得翻意せしめることができよう。総じて、情念は理説に譲らず、その譲るのは強要に対してのみであると考えられるのである。してみれば、そこには、徳の完成に固有な倫理的性状――すなわち、うるわしきを愛し醜悪なるを厭うという――が、何らかの仕方で、すでに見出されることが必要となる。
しかるに、若年の頃から徳へのただしい誘導を受けるということは、やはりそういった趣旨の法律の下に育成されているのでないかぎり行われがたい。というのは、節制的に我慢強く生きていくということは、世人にとって、殊に若年者にとっては快適ではない。だからして、法律によって、彼らの育成や、もろもろも営みが規制されてあることを要する。いったん慣れてしまえばこうしたことも苦痛ではなくなるだろうからである。だが、おもうに、若年の時代にただしい育成や心遣いを受けるだけでは充分でない。やはり大人になってからもこのような営みを続け、それを習慣としてゆくことを要するのであって、そうなると、これに関してやはり法律というものが必要であり、総じて、だから、全生涯にわたってわれわれは法律を必要とするであろう。けだし世人は、理説よりも必須なるに従い、うるわしさによりも処罰に従うものなのだからである。」1179b-1180a

また、論理的な手続きの限界に関わる議論は、2400年前に既に論理体系の「不完全性」=定理の任意性が認識されていたものとして、瞠目に値するように思う。

【個人的備忘録】特異点
「「学」は普遍的なるもの・必然的なるものを対象としこれについて行なわれる理解なのであるが、もろもろの論証的な帰結は、したがってまたあらゆる「学」は、個々の基本命題の上に立っている。だとすれば、学的認識の基本命題それ自身にかかわるところのものは「学」ではなく、いわんや「技術」や「知慮」ではありえない。というのは、「学」の領域は論証的な性質のものであるが、「技術」や「知慮」は「それ以外の仕方においてあることの可能なことがら」にかかわっているのだからである。さりとてまた、「智慧」はもっぱら基本命題にかかわるというわけでもない。けだし、智者の智者たる所以としては、若干のことがらに関しては論証を与えうるということがやはり存するのだからである。
かくて、もし「それ以外の仕方においてあることのできないごときことがら」ないしは「それのできることがら」に関してわれわれをして真を認識せしめ決して誤った認識に導くことのないものとして「学」と「知慮」と「智慧」と「直知」があるとするならば、だがもし、そのうちの三者はいずれもこれに該当しないとするならば、あますところ、基本命題にかかわるところのものとしては、直知以外にはないのである。」1140b-1141a

アリストテレス/高田三郎訳『ニコマコス倫理学』上、岩波書店、1971年
アリストテレス/高田三郎訳『ニコマコス倫理学』下、岩波書店、1973年