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【要約と感想】増田四郎『ヨーロッパ中世の社会史』

【要約】Q:ヨーロッパはどうして世界最先端になれたのか?
A:個性を大事にしたからです。

【感想】本書で言う「ヨーロッパ」とは、フランス・ドイツ・イタリアを中心とする西ヨーロッパのことで、ビザンツ帝国やロシアや東欧やイベリア半島やスカンジナビア半島は視野に入れていない。つまり、ほぼほぼゲルマン民族を対象にしている。また「中世」とは、ゲルマン民族移動が始まる4世紀から国民国家の形成が始まる16世紀までを指す。ヨーロッパが近代以降に強大になったのは、中世に培われた精神的風土が決定的に重要だと主張している。また「社会史」とは、アナール学派が言うような意味ではなく、政治史・経済史・法制史等を総合した上で、今後は丁寧な「地域史」を土台に歴史像を組み立て、発展段階史を乗り越えていくべきだという、著者独自の主張を含む方法概念だ。
 で、地域史を丁寧に積み上げていくと、西ヨーロッパには、アジアやイスラムや東欧とは異なった共通の精神的土台があることが確認できると言う。秦漢帝国や古代ローマ帝国のような「世界帝国」を拒否して、個々の地域の個性を大事にしてお互いに切磋琢磨しながら支え合うような仕組みの社会だ。個性的な市民団体や職能集団が独自の役割を果たし、王様や貴族(荘園地主)など権力者もルールに従わなければ何もできないような社会である。西ヨーロッパから誕生した国民国家とは、世界帝国を目指さずに、地域の個性を大事にする精神的風土から成長してきた制度ということになる。日本がお手本にすべきなのはこれだ、と本書冒頭から結論が出ているのであった。

 さて、こういう西欧理解は、そんなに新しいものではない気がする。具体的には、いわゆる「勢力均衡」がヨーロッパの政治原理であることは、ずいぶん昔から言われている。西欧の国がそれぞれ個性を活かしながら役割分担をすることで発展してきたことについては、明治時代の日本人も気がついているし、著者に言われるまでもなくお手本にしている。
 本書の独創性は、それを具体的に、三圃制の展開、都市の成立、農村と都市の経済的相補関係、経済圏の成立と地域の個性などなどで実証している点にあるのだろう。まさに「地域史」の面目躍如というところだ。個々の論点ではさすがに古いと感じるところもなくはないのだが、歴史像の総合的な構想については今でもおもしろく読める。
 とはいえ、グローバル化の負の側面を嫌ほど見せつけられると、一定程度、眉に唾をつけておきたくもなる。地域の個性化と役割分担は、本当に世界の人々を幸せにできるのか。結局行き着く先は、ウォーラーステインが描いたような、格差を前提とした世界資本主義システムではないか。本書は、冷戦崩壊後の世界情勢を知らない(もちろん著者の責任ではない)。

 著者が後進地域として切り捨てたロシア帝国(ビザンツ帝国を引き継いで世界帝国を目指す傾向)が、西ヨーロッパ(多様性と個性を尊重する傾向)の一員になることを目指したウクライナを攻撃し始めた2022年2月24日。著者は本書内で、地域の個性を活かして経済的に相互依存を高めれば平和が訪れると何度も何度も繰り返し主張し、世界帝国への傾向を批判しているが、グローバル化の果てに出来したこの現実を見たら、はたして何と言うだろうか。

増田四郎『ヨーロッパ中世の社会史』講談社学術文庫、2021年<1985年

【要約と感想】鈴木宣明『ローマ教皇史』

【要約】ローマ教皇2000年の歴史を、使徒ペトロを初代として、現代まで辿りました。

【感想】一般的な世界史の大半は、フランスとかドイツとか国民国家を単位として記述するため、ローマ教皇はその時々に脇役として登場してくるに過ぎない。たとえば「カール戴冠」や「カノッサの屈辱」などのエピソードで、何の脈絡もなくいきなりローマ教皇が登場して、「そういえば、いたんだ」って思い出すことになる。が、もちろんそれは国民国家を単位として歴史を見ているからそういう印象になるだけであって、ローマ教皇の方にも文脈があるに決まっているのだった。逆に、ローマ教皇の立場からヨーロッパの歴史を眺めることで、国民国家という単位の射程の短さが明瞭に見えてきたりする。
 しかしまあ、追放されたり、幽閉されたり、連れ去られたり、無視されたり、破門されたり、毒を盛られたり、暗殺されたり、何度も分裂したりして、ローマ教皇も大変だ。
 で、今後西洋史の勉強を進める上で注意しておくべき論点が浮き彫りになった気がするので、以下にメモしておく。著者の主張ではなく、あくまでも私が疑問に感じたことである。

【要検討事項】使徒ペトロ
 現代に至っては、ローマ教皇の権威は使徒ペトロに由来するというのが当たり前のように言われたりするけれども、実はその主張そのものが歴史的に形成されてきた神学の産物だということは押さえておく必要がある。実際、仮にペトロの権威を認めるとしても、それがカトリック教会及び歴代教皇に引き継がれる根拠については別に考慮する必要がある。ひょっとしたら、ないかもしれない。で、この根拠が崩れるとローマ・カトリックの権威が土台から崩れる。ので、カトリックがこの論点で譲るわけがない。本書でも、古代教皇のところではもっぱらこの論点が検討される。

【要検討事項】西ローマ帝国は滅亡したのか
 そして古代ローマ教皇はコンスタンティノープルの東方教会との主導権争いに明け暮れるわけだが、それはいわゆる西ローマ帝国滅亡(476年)をどう評価するかという話にも繋がってくる。いわゆる「西ローマ帝国滅亡」という考え方は、実はカトリック教会にとって都合の良い考え方に過ぎず、実態を表わしているわけではないと疑ってもよい。というのは、いわゆる西ローマ帝国滅亡以降も、ローマ教会はずっとずっと長い長い期間、東ローマ帝国からの関与と圧力を受け続けるからだ。東ローマ帝国の立場から言えば、そもそも西ローマ帝国は滅びてなんかおらず、というか最初からそもそも西ローマ帝国と東ローマ帝国が分離していることもなく、ローマ帝国はコンスタンティノープルに健在であって、だとすればローマ教皇はコンスタンティノープル宮廷であるところのローマ帝国に当然従う義務があるだろう、という話になる。しかしローマ教皇側としてはビザンツ帝国に従いたくないので、「私たちが従っていた西ローマ帝国は滅亡しました、だからもう教会は自由。ビザンツ帝国に従う理由はありません。」と主張して対立を煽ることになる。というわけで、「476年の西ローマ帝国滅亡」という事案そのものが、利害関係者によって都合良く拡大解釈されたものかもしれない、と疑ってもよい。
 たとえば神学論争についても、純粋にキリスト教神学として極められたというよりは、政治的・現実的動機によってことさら相違を強調されたと勘ぐることもできる。特にエフェソス公会議やカルケドン公会議等で問題になった「三位一体」とか「キリスト単性説」とか、大局的に見れば心底どうでもいいことで、コンスタンティノープル総主教ネストリウスが言いがかりを付けられただけのようにも見える。率直に言って、「三位一体」にこだわる理由や意義は論理的にはさっぱり分からないが、政治的な動機で騒ぎたてたと勘ぐれば極めてすっきりとよく分かる。
 となると、いわゆる西ローマ帝国滅亡後に発生した「聖画像崇拝」の問題にしても、ローマ・カトリックが聖画像崇拝を認めるのは、神学的な根拠に基づくものではなく、ことさら東方教会との違いを際立たせて、ビザンツから距離を取ってやろうという政治的意図から出たものではないか、と勘ぐることもできてしまう。
 いずれにせよ、ビザンツ(東ローマ)帝国の存在を視野に入れて「そもそもローマ帝国は滅亡していない」という主張を受け容れ、そして事実としてローマ教皇がビザンツ帝国からの影響と圧力を受けていたことに配慮することで、ヨーロッパ中心史観が描く物語とは別の側面に光が当たることは間違いないのだった。

【要検討事項】カール戴冠の意味
 西暦756年の「ピピンの寄進」や西暦800の「カールの戴冠」は高校世界史でも扱われる題材で、現在の西ヨーロッパ世界成立の原点とされているが、ビザンツ帝国が絡んでくると急にきな臭い話になる。そもそもローマ教皇がフランク国王カールに「西ローマ皇帝」の称号を授けるためには、前提として、西ローマ帝国が滅んでいなければならない。西ローマ帝国が滅んでいなければ、カールに称号を授けることはできない。ローマ教皇としては、是が非でも西ローマ帝国が滅んだことになっていなければならない。そこで邪魔になるのがビザンツ帝国=東ローマ帝国だ。ビザンツが「ローマ帝国は滅んでいない」と言い張ったら、ローマ教皇はカールにローマ皇帝の称号を与えることなどできない。実際、東ローマ帝国はカール戴冠の実効性を認めない。ローマ教皇の方としては、現実的にはただただビザンツ帝国を完全に見限ってフランク王国=ゲルマン人に乗り換えただけなのだが、その行為を正当化するためには、「西ローマ帝国は実は滅亡していたんだよ」という歴史を創作しておく必要が出てくる。となると、カール戴冠によって「西ローマ帝国が復活した」と言っている人もいるが、極めて怪しい話になってくる。そもそも滅亡していなければ、復活のしようがない。逆に言えば、復活したと言い張ることで、滅亡していたことにできる。カール戴冠は、本当に「西ローマ帝国の復活」としていいのか。ローマ教皇に、そんな権能が本当にあったと考えていいのか。というか、仮に権能がなかったとしても、後に何も事情を知らない人たちに対して「西ローマ帝国の復活」と言い張り続けることで、ローマ教皇に権能があったことにできてしまうのだ。こういうふうに既成事実の神話化を試みているのはローマ・カトリックだけではないのだが、ローマ教皇はこの技術が実に巧みだ。とういか、その知恵だけで生き抜いてきたようにも見えてしまう。

【要検討事項】神聖ローマ皇帝位の行方
 高校世界史のレベルでは、西ローマ皇帝の称号はその後ドイツ国王との関係で云々されることになるのだが、それも怪しい話だ。ローマ教皇は、カール戴冠の後、特に一貫してドイツ国王(東フランク王)に皇帝位を与え続けたわけではない。実は西フランクに浮気していたりもするし、10世紀初頭には形骸化して消滅している。
 神聖ローマ帝国皇帝の称号がドイツ国王と結びつくのは、西暦962年のオットー1世戴冠からのことだ。逆に言えば、ここでもまた歴史が創作されたと考えて良い。カール大帝の戴冠とオットー1世の戴冠には、直接的な連続性は認められない。それを連続していると理解できるのは、オットー1世とローマ教皇が歴史を創作したからに過ぎない。しかし実はそれすらも後世の創作に過ぎないのだろう。オットー1世に皇帝の称号を与えたローマ教皇ヨハネス12世は、物理的支配の後ろ盾を得るために皇帝の称号を形式的に利用しただけであって、それを理念の次元で「ローマ帝国の継承」などと考えていたわけはなかろう。またオットーはオットーで単にローマ教皇を利用しようとしただけで、実際に皇帝の称号を得てからは、ローマ教皇ヨハネス12世を殺人罪や汚聖罪を理由に退位させている。オットーがローマ皇帝の称号を得たのは、どうもローマ教皇ヨハネス12世が軽率で迂闊だったからに過ぎず、カール戴冠とオットー戴冠を理念的に繋げようとするのは、後の時代の創作に過ぎないだろう。
 そのあたり、ナポレオンの戴冠については神話化を許容できないほど生々しくも野蛮な剥き出しの実力主義だったことを記憶しているわけだが、そういうふうに生々しいのは事情が詳細に知られている(おそらく印刷術の効果)からであって、実際にはオットー1世の戴冠にも似たり寄ったりの事情があったのをみんな忘れてしまった(おそらく印刷術がなかったため)だけなのだろう。

【要検討事項】イタリア・ローカリズム
 現代ではローマ教皇の権威は全世界に普遍的であると見なされているのだが、それは極めて近年の話で、中世からルネサンスあたりまではそうとうローカルな政治権力として機能していたことをイメージしておく必要があるように思う。たとえばマキアヴェッリ『君主論』ではローマ教皇アレクサンデル6世(およびその息子)が大活躍するのだが、それは西ヨーロッパに普遍的な宗教的権威としてではなく、ただただイタリアの現実政治に影響を及ぼすローカルな権力としてだ。
 14世紀のフランス王国によるアヴィニョン捕囚も、その文脈で理解しておく必要がある。フランス王国は宗教的に何かしようとしてローマ教皇を捕えたのではなく、ただただイタリア(特にナポリとシチリア)に影響力を行使するべく、ローカル権力であったローマ教皇を拉致していただけなのだろう。実際、ローマ教皇が捕囚されていたアビニョンは、フランス王家の支配地ではなく、ナポリとシチリアに極めて大きな関心を抱いていたアンジュー家の所領だった。捕囚直前の13世紀には、アンジュー家のシャルル・ダンジュー(シチリア王)が、ビザンツ帝国を征服して地中海の覇者となることをも夢見ていおり、ローマ教皇もその野望(東ローマ帝国征服)に乗っかっていた。ローマ教皇としては、やはり相変わらず東ローマ帝国の存在は目の上のたんこぶのようなものだったのだろう。
 ビザンツ帝国は1453年にイスラム勢力によって滅ぼされるわけだが、ローマ教皇は特に十字軍の発令などをすることもなく、ルネサンス美術にうつつをぬかしてローマ市内の美的整備に力を尽くしている。世界全体の動向などどうでもよく、ローマが美しくなればそれで嬉しいという、ただただローカルな権力になっている。その勢いのまま1517年、いわゆるルターの宗教改革に突入していくわけだが、ローマ教皇に対応する力がなかったのは当然だったかもしれない。とすれば、たとえばイギリスが国教会を打ち立ててローマから離反し、宗教的寛容を唱えたジョン・ロックが「カトリックと無神論者は例外だ」と主張することになる気持ちにも想像が及びそうだ。
 そんなカトリックが、いつの間にか「普遍」を装っているのはどういうことか、そこに至るまでにどういう歴史の創作があったのかは、しっかり把握しておく必要がある。案外、日本人だけが勘違いしていて、ヨーロッパ現地の人はそんなふうに思っていないかもしれない(たとえば日本人が神社やお寺に対して抱いている程度の感覚)ということも視野に入れておく必要がある。

鈴木宣明『ローマ教皇史』ちくま学芸文庫、2019年<1980年

【要約と感想】堀越孝一『中世ヨーロッパの歴史』

【要約】本書の「ヨーロッパ」とは、ケルト・ガリア・フランクの諸民族を基礎として、フランク王国から分離して伸長するフランス(フランス王国)、ドイツ(神聖ローマ帝国)、イタリア(ローマ教皇)を中心に、イングランド、スカンジナビア、スペインまでを視野に入れています。ロシア(スラブ民族)とビザンツ帝国は視野に入っていません。また「中世」とは、ローマン・ガリアへのゲルマン人の移動と西ローマ帝国の崩壊あたりから始まり、15世紀半ば(つまり新大陸発見と宗教改革以前)までをターゲットにした1000年あまりの期間を指します。
 叙述は複層的に展開しますが、いくつかの軸があります。
(1)封建制の伸長過程(主にフランス王国と神聖ローマ帝国を題材に、王と貴族層の相克)。
(2)身分制の確定過程(騎士階級の位置づけを中心に流動的であったことを強調)。
(3)カトリック教会の展開(叙任権闘争など世俗権力との関係と、修道院改革など後の宗教改革の萌芽)。
(4)中世都市と村落の形成過程(北イタリアとフランドルを題材に、経済圏の議論)。
(5)辺境という視点(ヨーロッパに内在する辺境から、十字軍を通じた外在の辺境への視点移動)

【感想】通史というものは、折に触れて読むべきだろうなと思った。ひとつは答え合わせという意味があって、各所で仕入れた知識が正確かどうか改めて確認する機会になる。もう一つは、新たな問いを霊感するという意味があって、それまでバラバラに見えていたものに何かしらの関連を発見するきっかけを得られる。ということで、何気なく読み始めた本だったが、いろいろと勉強になった。

【要検討事項】三位一体
 カロリング・ルネサンスのところで三位一体に関する記述があった。

「キリスト教神学についても、また、このゲルマン男は一家言もっていた。「父と子と精霊」の三位一体論の解釈をめぐり、東ローマ教会の決定に反論し、「精霊は父および子から発する」との説を西方教会の根本教義としたのは、じつにアルクィンとカールの共謀であったのだ。」95頁

 なるほど。しかし一方、アウグスティヌス研究者山田晶は、この西方教会の教義はアウグスティヌスに由来すると主張し、アルクィンとカールの名前は一言も出さない。さて。

【研究のための備忘録】貨幣経済
 貨幣経済の進展と影響について、13世紀のペスト流行にも関わって気になる記述があったので、サンプリング。

「おそらくこの災禍は、都市においても農村においても、富めるものと貧しいものとの較差を、いっそう拡げる作用を及ぼしたことであろう。これまた、すでにじわじわと進行していた事態であった。この大災害は、人間と土地に拠ってたつ農業生産、一口にいってものの価値のたよりなさと、金銀貨の形でのかねの価値のたしかさを、しみじみとさらせる効果をもったのではなかったか。かねをためた商人、上級役人、大借地農、こういった連中が主役の社会が中世後期に現出する。主役の座から下ろされたのは、ものの体系である領地経営にしがみついた領主たちである。」386頁

 貨幣経済のインパクトというものは日本の歴史(特に個人的な専門的関心から言えば江戸中期以降の教育爆発)を考える上でも極めて重要な観点なのだが、感染症の流行という要素を踏まえると、なんとなく昨今のコロナ禍による環境変化にも当てはまってしまうような気がするという。

【研究のための備忘録】ルネサンス
 ルネサンスという概念について専門的な観点からの言及があったのでサンプリングしておく。

「「ルネサンス」とは「再生」を意味する。なにが「再生」したのか。言葉本来の用例では、古典ラテン語と古典古代の美術様式が、である。
 十五世紀のイタリアの人文学者は、ダンテもペトラルカもだめだ、ラテン語でものを書かなかったから、と批評している。これが、いわば本音であって、事情は「アルプスの北の」人文学者たちにとっても同様であって、彼らの神経質なまでの気の使いようは、ホイジンガが『中世の秋』最終章に紹介しているところである。」430-431頁

 要するに、13世紀~14世紀のフィレンツェ文化の華であるペトラルカやダンテは「ルネサンス」とは認められないという主張だ。そして本書はブルクハルトを「混乱のもと」「中世という時代についての無知を背景」(431頁)と名指で批判して、世俗のルネサンス概念を修正している。これが歴史学プロパーの常識というところだろうか。私個人としては、本書の理由とは異なるが、「印刷術」の登場前と後ではまったく事情が異なるという理解から、ダンテやペトラルカをルネサンスに位置付けるのにはかなり違和感を持っている。

【研究のための備忘録】説明のシステム
 ヨーロッパ中世の歴史とは関係なく、私の個人的な研究に関わって響いたところをサンプリング。

「既成の言葉では説明しきれないと感じたとき、人は、その場その場の臨機の判断で、現実を処理してゆく。理念の体系そのものは、そのまま残されていても一向にかまわない。むしろ残しておきたいのである。説明のシステムをもたない生とは、なんと不安な生ではないか。やがて数世紀ののち、既成の理念の体系をそっくり作りかえて、新しい現実説明のシステムが生まれる。」421頁

 これは中世から近代への移り変わりを説明した文章だけれども、同じことは近代の終わりにも言えるのだろう。まさに現在、近代が生んだ「理念の体系」の要であった「人格」という言葉が説明のための力を失いつつある。しかしまだ代わりとなる「説明のシステム」は見えてこない。おそらく「持続可能」とか「共生」といった言葉が重要だろうことまでは分かるのだが。

堀越孝一『中世ヨーロッパの歴史』講談社学術文庫、2006年<1977年

【要約と感想】R.W.B.ルイス『ダンテ』

【要約】初期ルネサンス期イタリアの詩人ダンテの伝記で、主著『神曲』の概要も紹介します。

【感想】「ルネサンス」という概念について思案するための材料を得ることを期待して手に取ったけれども、そういう期待に直接応えるような本ではなく、堅実にダンテの生涯と著書の概要をまとめた本だった。それはそれで勉強になったからいいのだけれど。
 まあ改めて、フィレンツェという街が13世紀後半あたりから何かおかしなことになっていることは理解した。トスカーナ方言という「俗語」で文学を著すこと、そしてそういう著書が印刷術発明前にも関わらず速やかに流布すること。他の地域では不可能だったことが、どうしてフィレンツェ(あるいはトスカーナ)で可能だったのか。いわゆる12世紀ルネサンス(特にイスラムと融合したシチリア周辺の文化)との関係はどうだったのか。そのあたりの事情に対する具体的な理解が、いわゆる「ルネサンス」という概念を掴む(あるいは却下する)には不可欠のようだ。

R.W.B.ルイス『ペンギン評伝双書 ダンテ』三好みゆき訳、岩波書店、2005年

【要約と感想】M.I.フィンリー『オデュッセウスの世界』

【要約】ホメロスが描いた『イリアス』『オデュッセイア』の形式と内容からは、トロイア戦争が本当にあったかどうかを確認することはできませんが、成立当時の社会状況一般を理解するための情報を取り出すことは可能です。さらに最新の文化人類学や社会学の知見(モースやマリノフスキー)を援用すると、紀元前10世紀のギリシアにはまだ国家(一元的で継続的な権力構造)と呼べるものは萌芽すらなく、家父長を中心とした拡大家族が婚姻と「贈与」を通じて結びついた世界が広がっていたことが分かります。ホメロスが歴史の真実を語っていると主張している人たちは、バカです。

【感想】ヨーロッパで「ホメロスは虚構だ」と主張するのは、日本で「日本書紀は虚構だ」と主張するのと同じく、踏んではいけない虎の尻尾のようなものなのだろう、著者の言い訳と苛立ちが一番の読みどころだ。

【研究のための備忘録】命の危険を顧みずに武具を剥ぐ行為
 『イリアス』を読んでいて「バカだなあ」と思うことはたくさんあるのだが、中でも倒した相手の武具を剥がしている最中に槍で刺されて命を落とす阿呆が極めて多いことには誰でも気がつくだろう。どうしてこんなにアホなのか、本書に説明がある。

「ところが戦利品は、必要な時にはいつでも見せびらかすことのできる永遠の証拠である。もっと未開の民族の間では犠牲者の首がその名誉ある役割を果たしたが、ホメロスのギリシアでは武具が首にとって代わった。英雄たちがくり返し、大きな危険が身に迫っているときにすら、戦闘を中断して殺した敵の武具を剥ぎとろうとするのはそのためである。戦闘それ自体から見るとそんな行動は愚の骨頂であり、遠征全体を危機に陥れかねなかった。しかしながら、名誉なき勝利が受け入れがたいのであれば、そもそも戦闘の終結を最終目標と見なすことが間違いなのである。公式の勝利宣言なしに名誉はありえなかったし、戦利品という証拠なしに世間の評判となることもありえなかったのである。」227頁

 ということで、まあ事情は分からなくもないけれど、それで死んじゃうのはやっぱりアホだよなあ。

【研究のための備忘録】戦利品としての女
 で、『イリアス』を読んでいてさらにアホだなと思うのは、女性をモノとして扱って一向に恥じるところがないところなわけだが、それもこれも「女が賞品」という文化が徹底しているからなのだった。

「若く美しい女奴隷の方が年老いた女よりも名誉ある賞品であり、そしてそれが全てだった。」230頁

 逆に、女を賞品として見なくなるようになるのはどのタイミングで、どういう背景があるのかは気になるところだ。本書では明らかにしてくれない。
 で、おそらくそういう文化とも深く関連するだろうが、いま我々がイメージする「家族」というものが存在しなかったことについて言及している。

「ギリシア語には、「帰って家族と一緒に暮らしたい」というような意味での、小家族に当たる言葉が存在しなかった。」245頁

 こういう純然たる家父長制を背景に、「女が賞品」という文化が根付いていたのだろう。小家族の制度が確立すると、こういう野蛮な考え方は通用しなくなるだろう。

【研究のための備忘録】ヘラの位置づけ
 ゼウスの正妻であるヘラについて、気になる記述があった。

「彼女(アテナ:引用者)は処女神であった。彼女はゼウスの頭から跳び出したのだから、女から生まれたのですらなかった――これは女性全体への侮辱であり、ヘラはこのことについて決して夫であるゼウスを赦さなかった。ヘラこそ最も女らしい女であって、オデュッセウスの時代から神々の黄昏に至るまで、ギリシア人はこの女神を少々畏れはしたが全然好きになれなかった。」251頁

 たしかに現代的観点からすればヘラを好きになる人は多くないだろう。が、文化人類学的な観点からの知見では、もともとギリシア地域に根付いていたのは大地母神信仰であって、後に征服者が殺到して以降にゼウスを首班に頂く現在の神話体系ができたという。そしてヘラは、大地母神信仰を代表する神格だったらしい。だとすれば、家父長的ギリシア人たちにヘラが嫌われているとすれば、野蛮な征服活動によって家父長制が成立する以前の大地母神信仰を想起させるからではないのか。あるいは、ヘラに嫌な性格を押しつけていったのは、家父長制にとって都合が悪い存在や価値だったからではないのか。本書のここの記述については、50年前という時代的な制約があるのではあるが、疑義なしとはしない。

M.I.フィンリー『オデュッセウスの世界』下田立行訳、岩波文庫、1994年