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【感想】Bunkamuraザ・ミュージアム「みんなのミュシャ」

「みんなのミュシャ」展(Bunkamuraザ・ミュージアム)を観てきました。

いやあ、圧倒的。
印刷物やテレビ番組等で作品自体を目にすることは多いのだけれど、実際のポスターはとても大きくて、迫力があります。繊細な線に、惚れ惚れとします。情報量が多くて、いつまでも見ていられる感じ。

眼福だったのはともかく、個人的な研究を豊かにする2つの目的があって観に行きました。一つは「装飾芸術」の位置づけ、もう一つは「ナショナリズム」の観点です。

ヨーロッパは伝統的に「装飾芸術」を低く見て、古典的な絵画と彫刻のみを上級の「美術」とみなす傾向がありました。が、19世紀末からジャポニズムの影響やラスキンやモリスの主張等もあり、装飾芸術の地位が高まっていくことになります。そして注目されるのは、装飾芸術の復権が民族的意匠の再発見を伴っていることです。具体的には日本や中国の造形美術に対する高い評価の他、東欧(ハンガリーなど)の民族的意匠が注目されていきます。
ミュシャに対する評価はこういう19世紀末ヨーロッパの空気と関係しているのかな、という関心がありました。そしてミュシャ自身がデザインサンプルを大量に残していることに、確かに時代の空気を感じてきたのでした。図録でも「ミュシャの装飾文様と日本の七宝について」(38-39頁)で、民族的意匠との関連が指摘されているところです。

もう一つの「ナショナリズム」に関しては、ミュシャ自身の「スラブ叙事詩」ほどではないですが、なかなか興味深い作品が展示されていました。
こちら、写真撮影OKのスペースに展示されていたので、撮ってきました。

黒い眼帯をしているのは、チェコの英雄ヤン・ジシュカです。最近はマンガでも大活躍しているので、多少は知名度が上がった人物かもしれません。→大西巷一『乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ』
ヤン・フスについては私の大学での授業「教育原論」でも触れています。なぜなら、教員採用試験に必ず出てくる教育思想家コメニウスと深い関係があるからです。また、ルターの宗教改革との比較でも触れることになります。
ヤン・フスやコメニウスについて触れるとき、ミュシャの作品は学生たちに具体的なイメージを喚起させるのに、とても役に立ちます。
さて、この作品に付された解説パネルには以下のような説明がありました。

やはり「チェコ人の戦う魂の象徴」ということです。ミュシャは19世紀末から20世紀初頭の「ナショナリズム」の勃興を体現している人で、間違いないわけです。図録でも「チェコ復興運動の機運が高まる」とか「画家として祖国復興に貢献することを目指していた」(41頁)とか「熱心な汎スラブ主義者だったミュシャ」(42頁)などと書かれているところです。

しかしそんな民族主義者ミュシャの絵が、遠い極東日本に大きな影響を与えているという不思議さ。
会場にはミュシャに影響を受けた現代日本作家の作品も展示されていました。私の世代にはお馴染みの天野喜孝(FF)や出渕裕(ディー土リット)の作品があって、眼福でした。少女マンガでは、水野英子、花郁悠紀子、波津彬子、山岸凉子、松苗あけみというラインナップ。
ミュシャの作品は、民族主義を突きつめるとかえって普遍的になっていくという、ひとつの好運な例なのかもしれません。本展覧会の名前自体が「みんなのミュシャ」という。「スラヴのミュシャ」を自認していたミュシャ本人(ムハと呼ぶべきか?)は、どう思ってますかね。

平日の昼なのに大混雑で、みんなミュシャが好きなんだなあと再確認した展覧会でした。

【感想】サントリー美術館「遊びの流儀 遊楽図の系譜」

サントリー美術館で開催中の「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展を見てきました。

「遊び」というと、近代以降では子どもの専売特許のような印象を持ちがちなのですが、かつては大人も子どもも一緒になって全力で遊ぶものでした。大人も一緒に遊ぶ様子がよく分かる展覧会だったように思います。

たとえば中世では、蹴鞠や貝合という遊びは貴族の嗜みでした。梁塵秘抄に記された「遊びをせんとや生れけん」とは、後白河法皇が愛した今様に由来します。中世以降は、中国の士大夫層の嗜みであった「琴棋書画」がアレンジされて、屏風や襖絵が描かれることになります。遊んでいるのは大半がいい大人です。近世初期に描かれた風俗図や遊楽図でも、全力で踊っているのは、大人です。子どもも描かれてはいますが、授乳されていたり、手を引かれていたりするのが目立つくらいで、遊びの主役であるようには見えません。囲碁や将棋や双六の盤は、豪華な蒔絵を施された嫁入り道具にもなっており、単なる子どもの遊び道具とは扱われていません。総合的に見て、「遊びは子どものもの」という意識を確認することはできません。

子どもと大人の遊びが明確に分裂し、「遊びは子どものもの」という意識が作られていくのは、近世中期以降のことでしょうかね。この時期に作られた児童用玩具が大量に発掘されているのを思い出します。
近世中期は、子どもに対する教育の意図が明確に目立ち始める時期でもあります。「子ども=遊ぶもの/大人=働くもの」の分離プロセスについて、想像力が喚起される展覧会でした。

【感想】クリムト展―ウィーンと日本1900(東京都美術館)

東京都美術館で開催されている「クリムト展―ウィーンと日本1900」に行ってきました。

とても面白く観てきました。やはり有名な「ユディトⅠ」の生は圧巻でした。図版で見ている時は気づかなかったのですが、生で見ると、額縁も含めた立体的な装飾技術が素晴らしいのに驚きます。平面的な装飾美術と立体的な装飾美術の総合が、他にない独特の雰囲気を作り出しているような感じがしました。人物表現の立体性(顔と乳房)と平面性(頭髪と衣服)の落差に対する衝撃も、全体的な装飾技術の立体性と平面性の落差によってさらに際立っている気がします。見入ってしまいました。凄いです。

あと不勉強にして知らなかったのですが、「ベートーヴェン・フリーズ」は圧巻でした。わけの分からない執拗な迫力に満ちております。お腹とか、垂れた乳房とか、膝の描写とか、病的で、衝撃を受けます。この病的な感じに対して、なんとなく宮西計三とか大矢ちきとか山岸凉子とか楠本まきとかを思い出してしまうわけですが、もちろんクリムトのほうが先ですね。

個人的な研究に関して、もちろん私は美術の専門ではないわけですけれども、かねてから気になっていたのは19世紀後半から20世紀初頭にかけて先鋭化していったように見える「純粋芸術/装飾美術」=「普遍主義/民族主義」の展開過程です。先行研究でもジャポニズムの流行と絡めて議論が進んでいるところだと思います。クリムトが活躍した多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国でも、大ドイツ主義の挫折とも絡んで、芸術概念の再編成とナショナリズム意識の錯綜とした展開があっただろうと思います。チェコのアルフォンス・ミュシャとは異なって明示的な民族主義は見られないものの、ジャポニズムの影響を受けつつ「純粋芸術」に対する「分離」を志向したクリムトにも、何らかの時代精神が反映しているのではないかと注目しながら見たわけではあります。が、まあ、私の現在の実力では、よく分かりませんでした。そういう観念的なものよりも、「退廃」や「官能」や、あるいは「死」の臭いの方が圧倒的に濃厚でした。敢えてやるとすれば、同時代のベルグソンとかディルタイとか、「生」という観念から接近する方が相応しいのでしょうが……

「接吻」とか「ダナエ」とか「人生は戦いなり」がなかったのは少し残念ですが、まあ、また別のところでぜひ。

【感想】ルーベンス展(国立西洋美術館)

国立西洋美術館で開催中の「ルーベンス展―バロックの誕生」に行ってきました。特に、フランドル出身のルーベンスとイタリア美術との関連に焦点をあてた展覧会です。

第一印象は、とにかく「躍動感に溢れている」ということです。やはり人物のポージングがポイントなのでしょう。真っ直ぐに突っ立っている人物はほとんどおらず、ほぼ必ず首と腰をひねって、肩を押しだし、太ももを振り上げ膝を曲げて重心を傾けています。「ひねり」と「重心の傾き」から動きに対する予感が芽生え、躍動感が生じます。前日見たフェルメール描く人物はまったく腰をひねっておらず、ほぼ真っ直ぐ静謐に突っ立ち、躍動感の欠片もなく、時間が止まっていて、ルーベンスとのあまりの違いに、これが同じフランドルのバロック作家かと愕然とします。ルーベンスが死んだ8年前にフェルメールが生まれているらしく、二人が生きていた時代はかろうじて被っているはずなのですが、題材のチョイスから、人物のポージングから、筆遣いから、なにもかもが異なっていることに驚きます。この間のオランダの歴史的激動(独立戦争や三十年戦争など)や宗教改革がどのように影響しているのかどうか、歴史屋としては興味あるところではあります。
しかし素人として素朴に思うのは、デッサンが狂ってる絵があるんじゃないかという疑惑です。特に女性の裸体画で違和感が著しく、首から背中にかけての肉の付き方や首と頭の接続が異常に見えます。まあ、デッサンが狂っていることがそのまま絵の稚拙さを表わすわけではなく、現代萌え絵にも見られるとおり「鑑賞者からの見栄えを優先して故意にデッサンを歪める」ことも表現技法の一つであって、ルーベンスの裸体像に見られる個人的違和感も、当時に固有の表現技法に由来するのかもしれません。いや、デッサンが狂ってると私ごときが決めつけるのも巨匠に対して失礼な話ではありますが、まあ、率直に言えば、ルーベンスが描く肉々しい女体からは感情が沸き立ちませんし、家に飾りたいとも思いません(もちろん仮に欲しかったとしても手に入るわけはないのですが)。
一方、「パエトンの墜落」など躍動感溢れる群像表現には、素直に感嘆の情が沸き起こってきます。凄いです。見入ってしまいます。会場で売っていた図録は表紙が2種類あったのですが、迷わず「パエトンの墜落」のほうを購入です。馬がお尻を見せながら落ちていく構図(しかも墜ちていくパエトンの視線が馬の尻の割れ目にむいている)とか、凄すぎるでしょ。強烈です。これだけでも見に行く価値はあるんじゃないかなと、個人的には思ったり(いや、むろん、他の作品も凄いんですが)。

しかし作品を見ながら思い出したのは、教員採用試験の一般教養や小学校全科で美術関連の問題が出るとき、西洋絵画ではルネサンス期と印象派及び続印象派ばかりが出題されて、ルーベンスとかレンブラントとかバロック芸術が完全無視されているという事実です。学生たちに試験対策を施すとき、「筋肉マッチョを見たらミケランジェロ、丸くて柔らかかったらラファエロ、感情が見えない機械的な絵だったらダ・ビンチ」などと教えてきたわけですが、ルネサンスの三巨匠が必須教養として扱われているのに対してバロックが完全無視されているのは、思い返してみれば変な気がします。学校教育のこの偏りが何に由来するのか気になりながら、上野を後にするのでした。

【感想】フェルメール展(上野の森美術館)

上野の森美術館で開催されている「フェルメール展」に行ってきました。

生で見てまず思うのは、「緻密だなあ」ということです。筆の跡がぜんぜん見えませんし、絵の具の盛り上がりもない薄塗りで、横から見てものっぺりしています。生で絵を見るとき、印刷等では知覚できない立体性に生々しさを感じることが多いのですが、フェルメールにはそういう現実感がまったくありません。印刷で見るのと同じく、つるっとしています。奇妙な絵です。会場にはフェルメール以外の17世紀オランダの巨匠たちの作品も展示されていて比較できるのですが、やはりこちらも生々しさが排除された「つるっと」した感じが強いです。「写実主義」が極まったらこうなるということなのでしょうか。西洋美術館で開催されているルーベンスの肉感あふれるバロック的な生々しさとは受ける印象が随分ちがいます。
キャッチフレーズとしては「光の魔術師」ということですが、光の使い方はレンブラントのようなスポットライト式の「上から」の光ではなく、部屋の窓から入ってくる「横から」の光であることが印象的です。横からの光であることによって鼻の陰影がくっきりと浮かび上がったりしますが、全体的な印象としては、個人的な感想だけ言わせてもらえれば、ポリゴンにテクスチャーを貼ったような絵に仕上がっていると思います。特に「手紙を書く婦人と召使い」は全体的にポリゴン感が強い作品ですが、それは横からの光の具合が関係しているように見えます。同一面を面として均一に捉えて色彩の明度を決定する演算的技術の高さゆえに、ポリゴン感が強まっているのかもしれません。素人だと光が当たる場所の色の彩度を思わず上げてしまいがちなわけですが、フェルメールの作品では彩度の抑制を効かせて明度を計算しているように感じました。それが「光の魔術師」と呼ばれる所以なのかどうかは、素人なのでよく分からないところですが。
で、個人的な感情としては、「凄い」とは思いつつ、部屋に飾りたいとは思わないというのが正直なところかもしれません。いや、飾りたいと思っても買えるわけないのですけれども。まあ、見る目が肥えてくればもっと芸術的感情が沸き立つかもしれないので、しっかり経験を積んで目を鍛えて、次の機会に再チャレンジです。とりあえず「本物を自分の目で見た」という満足感にはしっかり浸って、上野を後にするのでした。