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【要約と感想】古屋和久『「学び合う教室文化」をすべての教室に―子どもたちと共に創る教室文化』

【要約】子ども同士で学び合う環境さえ整っていれば、教師の授業が拙くても、子どもは成長します。学び合いの文化を定着させるために、友達の話を聞くことに熟達させたり、「分からない」ことを推奨したり、学習したことを自分の言葉で振り返ったりさせるなど、様々な工夫をしました。
そして教師こそ、文科省や学習指導要領に言われたことの下請け的な「消費者」に終始するのではなく、「生産者」として、よりよい実践を創っていく意識を持つべきです。

【感想】力強い実践の本だった。土台となる理論は佐藤学(学びの共同体)から得ているものの、数々の具体的な実践は現場での知恵と工夫から生まれている。とても感心しながら読んだ。仮に教師の授業が拙くても、教室の環境さえ「学び合い」を促進するようにデザインされていれば、子どもたちは自然と力を発揮していく。その通りだろうなと思う。
しかし今、新自由主義的な自己責任論が一般社会で蔓延する中、教育の世界でも、「学びの共同体」とは正反対の、自分さえ良ければいいという抜け駆け精神が目立っている。中学受験の流行が拍車をかけている。だからこそ「学び合う教室文化」を前面に打ち出す実践は、とても尊いと思う。

古屋和久『「学び合う教室文化」をすべての教室に―子どもたちと共に創る教室文化』世織書房、2018年

【要約と感想】長瀬拓也『ゼロから学べる授業づくり―若い教師のための授業デザイン入門』

【要約】主に新米教師向けの、授業づくり案内本です。常に自分の授業をゼロから見直し、先人から学び、新しいことにチャレンジし続けることが大事です。授業が上手くいかなかったときこそ、ゼロから考え直すチャンスです。楽しい授業を作る上で参考になる具体的な方策や事例をたくさん示しています。

【感想】理論と実践の往還を前面に打ち出しており、バランスがとれている本だと思った。理論だけでもダメだし、小手先のテクニックだけでもダメだというのは、ほんと、そのとおりだ。具体的な考え方や方策がたくさん例示されているので、迷っている人は、いろいろ試してみて、自分に合ったものを取り入れていけばいいんじゃないだろうか。参考文献が多いのも、初学者にとってはありがたいんじゃないかと思う。

長瀬拓也『ゼロから学べる授業づくり―若い教師のための授業デザイン入門』明治図書、2014年

【要約と感想】大村はま/苅谷剛彦・夏子『教えることの復権』

【要約】大村はまの国語教室で実際に受けた授業を振り返り、さらに教育学的に考察を加え、「教えること」の重要性を再確認します。近年のいわゆる「新学力観」によって、教えることを躊躇する教師が増えましたが、とんでもない間違いです。一方的な詰め込みも、ただの放任も、どちらも教育の本質を見失っています。
しっかりと「教える」ためには、目の前の一人一人の子どもの個性を理解し、それぞれに適した教材を用意し、「てびき」を作って「考える」ためのきっかけをお膳立てし、それぞれの躓きを把握するために適切な評価を行ない、さりげなく背中を押すことです。教師は楽をしてはいけません。

【感想】なかなか凄い組み合わせの本だ。奇跡的な繋がりと言ってもいいのかもしれない。(まあ、教育界隈にいる人じゃないと、どこがどう奇跡的なのか分からないとは思うけれども……)

著者の組み合わせから受ける期待に違わず、中身もエキサイティングであった。昨今(といってももう15年前か)の「新学力観」に真っ向から立ち向かい、実践面と理論面の両方からばったばったと薙ぎ倒していく様は、かなり痛快だ。まあその痛快さは、ブーメランのように自分自身に突き刺さってくることになるのだけれども。

ともかく「教育の本質」を考える上で、侮れない本であることは間違いないように思う。私自身も、いろいろ反省しなければならない。

「研究者という、考えることのプロであるはずの大学教師でさえ、教員養成課程の学生たちに考える力をつける授業ができているかどうか。生きる力が大事だというわりには、大学の授業も心許ない。」193頁
「「生きる力」を唱える教育学者の授業が、案外と学生たちに居考える力をつけさせない、退屈で一方的な授業にとどまっているという皮肉な例も少なくないようだ。」209頁

あいたたた。

【言質】
「個性」とか「自己実現」に関する多角的な言質を得た。

「夏子:もう一つ、子どもの自主性とか個性、創造力というのが、じょうずにてびきをしたぐらいで損なわれるかという問題があるかと思う。どう思いますか。私は自分では損なわれた気などしていないけれども。
大村:損なわれない。」124頁

「教育関係の審議会の答申などでも、教育は子どもたちの「自己実現」をめざすものだとか、教師の役割は、生徒の「自己実現」を支援するといったような文章が登場することが多い。」201頁
「これと似た例に、「個性」がある。教育の世界で多用される個性ということばは、実に多義的に使われている。いろいろな意味を帯びているのに、それでも会話が成立してしまう。ちょっと考えてみると、不思議ではないか。」204頁

苅谷は、「自己実現」や「個性」という言葉が、内実を伴わず、イメージと雰囲気で流通している様を浮き彫りにする。まあ、言うとおりなんだろう。が、個人的には、それを現象として認めた上で、さらに一歩本質的に先を行きたい気分ではあるのだった。

【個人的研究のための備忘録】
「学力」に関する言及も、メモしておく。もちろん、新学力観を批判する文脈である。

「学習のための条件ともいえる「関心、意欲、態度」を、「学力」の一部に組み入れたことで、目的と手段との関係はあいまいになってしまった。」188頁

大村はま/苅谷剛彦・夏子『教えることの復権』ちくま新書、2003年

【要約と感想】大村はま『教室に魅力を』

【要約】教室にいる子ども全員が実力を発揮して伸び、成長を実感できるのが、魅力ある教室です。現在の学校では、遅れた子どものケアばかりに集中し、優秀な子どもがほったらかしにされているのが問題です。
子どもの自主性に任せるだけでは、子どもは伸びません。教師が適切に背中を押していく必要があります。それをしないのは、教師の怠慢です。
魅力的な教室を作るためには、子ども一人一人を知り、教師が楽をしないことが重要です。

【感想】圧倒的な実践者である。生半可な覚悟では、この人に対して何も言うことができない。ものすごい迫力だ。

技術的には、もちろん「単元学習」から学ぶべきものが極めて多い。現代のいわゆる総合学習の先駆けのような実践である。
しかし単に子どもの興味関心に寄りかかって教師が何もしないのではなく、適切な指導が入るところが特徴だ。一人一人の子どもの個性を理解し、適切な教材を用意し、授業中にはさりげなく背中を押し、子どもの学力実態を把握するための適切な評価を行なう。抽象的にまとめるとこうなるが、具体的な実践を目の前の子どもに合わせて積み重ねてきた過程が極めて尊い。

「同じ教材、同じ方法、これがいちばんまずいと思います。スタートラインが一緒で、同じ教材で、同じ方法でしたら、同時にゴールにはいらないのが、あたりまえです。」30頁

いま、イエナプランのような個別学習が流行の兆しを見せている。まあ外国の魅力的な実践を参照することは確かに大切ではあるのだが、それと同時に、日本には大村はまがいたことを知ることも大事なはずだ。

大村はま『教室に魅力を』国土社、2005年<1988年

【要約と感想】小西正雄『君は自分と通話できるケータイを持っているか』

【要約】答えを知っている者(教師)が答えを知らない者(学生)に質問する形の授業では、本来の学びが促進されません。学生たちの「解釈フィルター」と「活用エンジン」を活性化させることが大切です。そう考えると、現在の授業研究には危機感を抱かざるを得ません。
理性には限界があるので、理性的な対象を想定した授業研究は、生きる力の活性化には意味がありません。一回性こそが尊いのです。

【感想】学校で語られがちな「キレイゴト」の数々に鋭いツッコミを入れていく。なるほどなあ、と思うことも多い。「こうやって論点をズラすのね」と、教養の深さと視野の広さに感心するところもあったりする。
とはいえ個人的には、著者がとりあげなかった問題にこそ、問題の本質があると思ってしまうところでもある。具体的には、本書は「資本主義の本質」に切り込んでいくような論点を意図的に避けているように見えた。いわゆる進歩主義的教育が言いがちなキレイゴトに対する論評が鋭いだけに、現実そのものに切り込んでいかない態度に対しては釈然としない違和感を抱えてしまうところではある。
まあ、本書では「理性」の限界を示しながら「非合理」や「矛盾」に耐えることを推奨しているところなので、こういう非合理な姿勢も受け容れて、学べるところだけ学ぶのであった。一回性が尊いことについては、私も教育に携わる者として、意見を同じくする。本書との邂逅も、実に一回性のなせる業である。いやはや。

【言質】近代と学校の関係に関する言質を得た。大雑把に言えば「近代の終わり」に対する言及だ。

「近代国家は、整備された統治組織と独立を維持するための軍隊とそして一つの国家のもとにつどう国民の存在を必要とした。その国民を創出するために、学校教育という近代公教育がスタートする。すなわち学校は軍隊と同じ使命のものち編み出されてきた近代化のための装置であったのである。」183頁
「近代の荒波に船出していくには、学校という強制の場に子供たちを集め、一定の到達目標を掲げて「国民」を育成していくことは避けて通れない道であった。」184頁
「したがって、近代教育と近代工業はほとんどアナロジーが可能である。」185頁
「近代国家、軍隊と学校、近代科学、近代工業は、たがいに影響しあいながらそれぞれの発展の道をたどってきた。それは、合理、分析、規格、統制などをキーワードとする壮大な歴史絵巻とも言える現象であった。」186頁
「いじめや不登校などのいわゆる教育問題のそれぞれにはそれぞれの背景はあろうが、巨視的にみた場合、教育問題なるものは、近代の装置としての学校と眼前の子供が生きる「現代」とのミスマッチが、もはや限界に達していることの現れである。」186頁

学校と「近代」の密接不可分な関連性を明らかにした上で、脱近代化された「現代」においては学校はもはや不必要になってきたという、いわゆる脱学校論の文脈で理解できる文章である。
このミスマッチに対する解答は、高知で行なわれた「脱藩」という取り組みを具体例として、「一回性」というキーワードで示される。

「すべてのことが一回性である。「一回だけこれっきり」ということはすばらしいことなのだという発想に立たなければ「脱藩」の意義は読み解けない。近代教育学に縛られているかぎり読み解けない。」187頁
「教育というのは本来再現可能性などなくてもよいのではないか。子供を学校という教育空間に囲い込み、必ず再現できる事どもだけを与えていくというのは、むしろ貧しい発想ではないのか。」

うむ。ディルタイが100年前には指摘していることである。ボルノウの仕事は60年ほど前か。いずれにせよ、思いのほか近代学校の息は長いのであった。

小西正雄『君は自分と通話できるケータイを持っているか―「現代の諸課題と学校教育」講義』東信堂、2012年