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【東京都豊島区】豊島区立トキワ荘マンガミュージアム

豊島区にある「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」を見学してきました。2020年7/7にオープンしました。
手塚治虫や藤子不二雄や石森章太郎が住んでいた、マンガの聖地トキワ荘です。オリジナルは1982年に解体されましたが、2階建て木造アパートがほぼ完全に再現されています。外観から中身まで、完全にThe昭和です。

訪れたときはコロナウイルス対策のために、事前予約制となっていました。

玄関から入って、まず二階に上がります。
トキワ荘でマンガ家たちが住んでいたのは二階で、一階には一般の住民が住んでいました。編集者やアシスタントたちが日夜出入りして大騒ぎで、一階の住民たちは大変だったのではないかなと思いますが、証言はあるのかな。

廊下の幅はけっこう広いですね。
階段の先には共同トイレと共同炊事場があります。昭和は風呂どころかトイレ付きの個室も当たり前ではないわけで。
共同炊事場の再現度も凄いのですが、本当は臭いも凄かっただろうと思います。もちろん現在は綺麗なものです。

奥の流し台は、お風呂代わりになっていたようですね。

マンガ家たちが住んでいた部屋のいくつかも再現されています。水野英子の部屋には、伝説的なカウボーイの絵が飾ってあります。こんなのサラサラ描かれたら、たしかに仰天しますね。

石森章太郎の部屋では、入口脇に堆くディズニー映画のフィルム缶が積んであります。いまDVDを買うのとは比較にならないくらい、レアなものだったでしょうね。

一階部分では、関係作家の作品展示や企画展示が行なわれています。貴重な資料も多く、見応えがあります。

南長崎周辺にはマンガ家ゆかりの場所が多く残っている他、2015年からいろいろなモニュメントも作られています。トキワ荘にあやかって町全体を観光地化している感じです。

2009年には「記念碑トキワ荘のヒーローたち」が設置されました。

トキワ荘そのものがブロンズ像になって鎮座している様子は、ちょっと微笑ましくも滑稽な感じで、いいですね。

もともとトキワ荘があった跡地には、2012年にモニュメントが設置されました。

狭い路地から入ってちょっと奥まったところに、いきなりモニュメントが鎮座しています。

ちなみに表玄関があった場所ではなく、裏口の階段があった場所付近のようです。編集者が表から来たら手塚治虫が逃げるほうです。

また近くには「トキワ荘通りお休み処」も開いています。ミュージアムではお土産や出版物を販売していないので、こちらで求めることになります。
二階部分には寺田ヒロオの部屋が再現されている他、案内パネルや資料等も揃っています。コミュニケーションノートには、ゆかりのキャラクターがたくさん残されています。

またさらに近くには「トキワ荘マンガステーション」が設けられ、トキワ荘関連作家のマンガを読むことができます。しかも無料。なかなかレアな施設です。

そして、ラーメン大好き小池さんが通っていたであろう中華料理屋「松葉」が健在です。外観から中まで昭和です。

ラーメンは昔ながらの東京風ラーメンで、かなりの薄味でありました。

マンガの歴史について知るだけでなく、日本全体が若々しかった高度経済成長期の様子を知るミュージアムとして、たいへん充実していました。マンガに興味がある方もそうでない方も、一度は行っておいていい場所ではないかと思います。
(2020年9/19訪問)

【大阪市中央区】大阪城天守閣は微妙だが、大阪歴史博物館は素晴らしい

城マニアの間では、大阪城天守閣の評判はあまりよろしくありません。鉄筋コンクリートの復興天守であること自体は仕方がないとしても、外観はもうちょっとなんとかなったのではないかと。

というのは、豊臣の城なら黒くなければいけないはずなのです。松本城や熊本城の天守閣のように、黒いはずなのです。しかし大阪城は、中途半端に五層目だけ黒くて、四層目までは徳川の城のような白色となっております。白は、徳川の城のイメージカラーです。復興天守は、豊臣の城(黒漆)と徳川の城(白漆喰)とどっちにしたいのか、わけがわかりません。個人的には、どうせコンクリートの復興天守なのだから、豊臣の城として黒く統一したほうがよかったんじゃないかと思いますけどね。

まあ、そもそも現在の大阪城の縄張自体が豊臣期のものを反映していないことは、一般的にもよく知られている事実です。豊臣の臭いが残るものは大坂夏の陣の後で徹底的に破壊され、埋められて、その上に徳川家による大阪城が建て直されているわけです。

訪れたのは、ちょうど「大坂の陣400年」にあたる時期でした。

復興天守閣はともかく、石垣と堀はさすが、めちゃめちゃ立派です。圧倒的です。見応えがあります。

まあ、徳川家の普請なんですけどね。

大阪城の南西には「大阪歴史博物館」があります。その10階から大阪城を見下ろすことができます。実に大きい城です。

大阪歴史博物館の展示は、復元模型が豪華で、たいへん素晴らしく、見応えがあります。エレベーターで10階まで上って、最上階の古代から階を下るごとに現代に近づいてきます。

10階の古代でコーナーでは、難波宮に関する展示がとても素晴らしいです。窓の外に難波宮跡を見下ろせるのが、またすごい趣向ですね。

博物館地下には難波長柄豊碕宮の発掘調査跡がそのまま保存されています。難波長柄豊碕宮は、大化の改新の後に孝徳天皇によって造営された都です。たいへん立派な都で、実は大化の改新の中心人物は孝徳天皇だったのではないかという説(教科書的には中大兄皇子と中臣鎌足ということになっています)を唱える学者もいます。
地下遺構見学のとき学芸員さんに大化の改新についての見解を伺ったのですが、難波宮研究を踏まえたなかなか斬新な意見をお持ちの方で、スリリングでした。ともかく、大化の改新期には、大阪が日本の中心だったことに間違いはなさそうです。

復元した5世紀の倉庫を見学することもできます。

そんなわけで、大阪の歴史というと豊臣秀吉にスポットライトが当たりがちなのですが、歴史博物館ではきっちり古代における難波の重要性を強調していました。古代と言えば普通は奈良・京都とイメージしがちですが、実は大阪が内政的にも外交的にも極めて重要な鍵を握っていることは、もっと広く知られていていいように思いました。

また戦国期に関しても、秀吉以前の「石山本願寺」についての展示が充実していたのが印象的です。
大阪城が建つ前、同地には本願寺の本拠地である石山御坊が存在していました。織田信長が10年攻め続けても攻略できなかった大変な要塞です。海上からは信長包囲網に加わる毛利水軍の支援などもありました。大阪が南北に伸びた長い台地であり、その北端に石山本願寺(現大阪城)が建っていて、当時は台地の麓まで海が迫っていたことなど、よく分かる展示となっています。

石山本願寺推定地の碑が、大阪城公園内に立っています。

まあ豊臣徳川による土木工事で本願寺は徹底的に破壊されたので、ここに確実にあったという証拠はなく、大阪城一帯のどこかにあっただろうくらいではあります。

大阪がかつて宗教都市として栄えたことは、今や完全に忘れ去られてしまいました。

しかしまあ、豊臣秀吉は、考えれば考えるほどよく分からないキャラクターです。若いときのキレっぷりと晩年の老害っぷりの落差は、なかなか他に類を見ないように思います。
憎き徳川家康のイメージカラー白で輝いているコンクリート復興天守閣が、実は歴代天守の中で最も長持ちしていることに、秀吉は何を思うのでしょうか。
(2014年4/28訪問)

ブロトピ:国内旅行

【北海道札幌市】北海道開拓の村で教育と近代について考える

 北海道開拓の村に行ってきました。札幌駅からだいたい45分くらいで着きます。
 開拓の村は、歴史的建築物の復元展示をしている野外博物館です。愛知県にある明治村や、小金井にある江戸東京たてもの園と同様のコンセプトです。
 一日いても飽きない、たいへん素晴らしい空間でした。

 展示はたいへん充実していたのですが、私の仕事に絡めて教育関係だけ記録しておきます。

 北海中学校の校舎は、明治42(1909)年に建築されました。

 北海中学校は、札幌農学校へ優秀な人材を送り込むことを主目的とした私立中等教育機関でした。明治18(1885)年に北海英語学校として設立された時は、学校の名前に「英語」とついているとおり、英語の修得を主目的とする予備校でした。というのは、当時最先端の学問を日本語で学ぶことは不可能だったからです。札幌農学校で最先端の農業を修得するためには、その条件として英語を身につけていることが必須でした。

 校舎のスタイルは、木造と鉄筋コンクリートの違いがあるとはいえ、基本的には昭和まで引き継がれる形ですね。

 建物内には北海道の教育に関する展示が行なわれています。教育について考えるときは、ついつい無意識に東京を中心にしてしまいがちですが、北海道の事情は東京都はもちろんまるで違っていました。基本的に開拓事業が優先され、教育は後回しにされます。森有礼が明治19(1886)年に小学校令を出して現在の義務教育の基礎を作ったことはよく知られていますが、北海道では就学期間が短くてもよい「簡易小学校」を中心に展開することになります。
 初代北海道庁長官に就任した岩村通俊は、明治20年にわざわざ「教育ノ程度ヲ低フス」という施政方針演説を行なって、殖産工業重視の姿勢を強調しています。子どもは学校で勉強するのではなく、労働力として期待されています。

 他にも様々な違いがありますが、特にアイヌの存在は極めて重要でした。「母語ではない日本語」を教え込むというコロニアルな仕事が教育に課せられていたわけです。

 簡易小学校やアイヌの日本化が進められている一方で、この私立北海中学校は日本の近代化に貢献するエリートを養成するための学校として期待されていました。近代という時代の両極を感じられる、軽く目眩のする空間となっております。

 続いて下の写真の建物は、学生寮です。札幌農学校の寄宿舎「恵迪寮」です。

 なんだか馴染みのある佇まいだなあと思っら、東大駒場寮と雰囲気がよく似ているのでした。木造と鉄筋コンクリートの違いはありますが、形や雰囲気はよく似ているように思います。

 下の写真にある「畳ベッド」も、駒場寮にあった畳ベッドを彷彿とさせます。

 展示されている案内パネルもたいへん充実しており、見応えがありました。自治寮としての誇りを感じさせる内容となっております。「落書」はおもしろいですね。駒場寮の落書きもなかなかのものだったことを思い出します。

 他にもたくさん見所があるのですが、ボリュームが多すぎてまとめきれません。
 ともかく、同種の野外博物館との決定的な違いは、「近代の影」を垣間見ることができる点だろうと思いました。たとえば明治村は、文明開化に向かう若々しい高揚感を感じられる場所です。開拓の村でも、札幌市街を中心とした都市部の展示(写真館とか新聞社など)にはそういう若々しいエネルギーを感じることができます。
 が、開拓の村には辺境フィールドも設定されていて、ここが類似博物館との大きな違いとなっています。

 たとえば上の写真は「平造材部飯場」です。都内の飯場も同じような感じだったのでしょうが、北海道の厳しい自然環境の中で一人あたり畳一枚の生活は、さぞ大変だったことでしょう。
 また、下の写真は、入植者が最初に建てた「開拓小屋」です。

 寒風吹きすさぶ苛酷な北海道の自然をこれで切り抜けたかと思うと、かなり驚きます。近代国家として国土開発を進めるというとき、最前線はこうだったのかと。

 馬車鉄道が行き交う風景は、のんびりとしたものです。

 しかしこういう都市生活の裏で、最前線を支える人々の苛酷な仕事があったことが、よく分かる博物館です。そして実は現在もあまり変わっていないのでしょう。
(2018年5/21訪問)

【宮城県柴田町】船岡城には樅ノ木が残っていた

 宮城県柴田町の船岡城に行ってきました。
 2015年には三の丸と樅の木デッキにしか行けなかったのですが、今回は二の丸と本丸にもしっかり足を踏み入れることができました。

 かつての大手門付近には、現在は地域学習施設や歴史博物館「しばたの郷土館」が建っています。

 郷土館の常設展示では、旧石器時代から近世までの歴史や古民具が展示されています。特に充実しているのは、頼朝の奥州征伐との関わりや、寛文伊達騒動についてです。

 船岡城は急峻な山に築かれています。麓から急勾配を登ると、まず三の丸に出ます。

 三の丸には冠木門らしきものが建てられていますが、うーん、これ、どうなんでしょうね。ちょっと中途半端かなあ。

 三の丸の案内パネルに船岡城の概要が記されています。

 考えてみれば、船岡城が江戸時代の一国一城令にも関わらず存続していたのは、そこそこ不思議ではあります。仙台藩は他にも白石城とか例外的に城を構えていたりするのが、なかなか興味深いところです。「城」と呼ばずに「要害」と呼べば問題ないってことなのかなあ?

 三の丸と二の丸の間は、現在では駐車場として整備されているほか、観光物産交流館「さくらの里」が営業しています。

 地元の野菜など名産品が売っている他、食堂もあります。ナスがとても安くて魅力的だったのですが、持って帰るのが大変そうなので断念して、ソフトクリームをいただいてきました。

 で、三の丸から本丸までは、かなりきつい坂になっています。足で登るのは大変なのですが、ありがたいことにスロープカーが用意されてます。

 スロープカー、本来は15分間隔で営業しているようなのですが、私が訪れたときには他に観光客もなく、いきなり一人だけで乗せてくれました。眼下にいろいとりどりの花が咲き誇り、とても楽しい行程です。桜の季節は、とても賑わいそうです。

 本丸には、寛文伊達騒動の中心人物の供養塔があります。

 しかしこの寛文伊達騒動、博物館で各種資料を読むだけでは、経過自体は分かる気がするけれども、事件の核心はまったく見えてこないんですね。

 いやほんと、どうして伊達藩が取りつぶしにならなかったのか、不思議で仕方がないところです。

 本丸には、巨大な観音像も鎮座しております。

 人はどうして巨大観音を作りたがるんでしょうかね? かつては中に入って展望することができたらしいのですが、東日本大震災の影響で、現在は立ち入り禁止となっております。

 観音様に頼らなくとも、本丸からの眺めはとても素晴らしいです。東を見やると、はるか彼方に太平洋が見えます。

 南北から山が迫ってボトルネックの地形になっていることが分かります。福島から仙台に抜けるためにはどうしても船岡を通過しなければならず、交通・軍事の要衝でした。城を作るには絶好のポイントです。
 現在は季節を感じる花々で城全体が彩られていて、血生臭い歴史を感じさせるものは微塵も残っておりません。

 城の北側、三の丸とは別の尾根筋には、「樅の木は残った展望デッキ」があります。

 寛文伊達騒動を題材に取った小説、山本周五郎「樅ノ木は残った」を記念する碑と、樅の木が鎮座しております。

 うーん、説明を読んでも、やはり何が問題なのかピンと来ないぞ。ちゃんと小説を読まなきゃだめそうですね。

 展望デッキからは、白石川沿いに立ち並ぶ桜並木を見下ろすことができます。千本桜、春はさぞかし壮観なことでしょう。桜の季節に訪れたいけど、きっと凄い人出なんだろうなあ。
(2015年5/31、2018年8月訪問)

【宮城県塩竈市】塩竈神社と日本三大奇の御釜

 塩竈神社と、その末社の御釜神社に参拝してきました。
 塩竈神社の鳥居から本殿まで、200段超の階段が続いております。麓から見上げたらすごい高さです。ひえ~っと思いましたが、実は一段一段の段差がそれほどでもないので、思っていたよりは楽に登れました。

 この鳥居からの階段、戊辰戦争で榎本武揚と共に函館に向かうフランス軍事顧問官ブリュネが、塩竈寄港時に美しい水彩画として描きとめていて、そのときからほとんど景観が変わっておらず、なかなか感慨深いものがあります。

 塩竈神社の鳥居には、誇らしげに「陸奥国一宮」の額が掲げられています。たいへん由緒ある神社です。

 敷地もたいへん広大です。
 案内板を見ると、志波彦神社や御釜神社の境内も描き込まれています。

 由緒書きによれば、塩竈神社の祭神は、盬土老翁神(しおつちおぢのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)の三柱です。

 タケミカヅチとフツヌシは、日本神話では天孫降臨のときに大活躍する戦の神としてよく知られている二柱です。タケミカヅチは常陸一宮の鹿島神宮、フツヌシは下総一宮の香取神宮に鎮座しております。
 この戦の神が蝦夷討伐の最前線に呼び出されていること自体が、興味をかき立てます。そもそもおそらく、かつて日本に文字もなかった頃、ヤマト勢力の最前線は下総の香取神宮と常陸の鹿島神宮ラインにあっただろうと想像します。そこから前線が塩竈の地まで押し上がり、タケミカヅチとフツヌシが招請されたのだろうなあと。
 かつてこの地で繰り広げられていただろうヤマト勢力の蝦夷との争いを、祭神に感じます。

 が、現在はそんな物騒なことは微塵も感じさせず、境内には静寂な空間が広がっています。

 本殿は極めて珍しい作りになっていて、拝殿が二棟、本殿が三棟となっています。タケミカヅチとフツヌシの本殿がひとつの拝殿にまとまっています。写真で言うと、左がタケミカヅチとフツヌシの拝殿で、右側が盬土老翁神の拝殿になっています。

 ということで、三回お賽銭を投げてきました。

 境内には、「塩竈神社博物館」もあります。この博物館の展示が、ちょっと想像と違っていて、なかなかおもしろかったです。

 まず期待通りだったのは、歴代支配者による安堵書状が数多く保存されていたところです。奥州鎮守府将軍となった北畠顕家の書状など、感慨深いものがあります。
 予想外だったのは、まず仙台藩歴代藩主が奉納した見事な刀剣の数々です。それから、林子平関連の史料もまとまっていて、おもしろかったです。そして二階が自然史博物館になっていて、古代の製塩や漁業に関する展示が充実してたいたのが意表を突かれて、とてもおもしろかったです。

 さて、参道を逆にたどると、神社が建つ台地の先端部分が勝画楼という施設になっています。案内パネルによると、ここは歴代仙台藩主が塩竈神社に参拝する際に身を清めた場所のようです。

 幽美な雰囲気を漂わせる場所で、奥に入ってみたかったのですが、残念ながら立ち入り禁止になっておりました。

 勝画楼から100メートルほどのところに、御釜神社があります。塩竈神社の末社となっています。

 由緒書きによると、日本での製塩起源の地ということのようです。重要な場所です。

 境内には「日本三大奇」の一つとされる御釜があります。とても不思議で霊験あらたかな御釜らしいのですが、ふらっと来て見られるものではなかったようで、残念ながらこの日は外から拝むだけでした。また来よう。

 御釜神社から道路を挟んで向かい側には、「はれま」というオシャレな街角古民家カフェがあります。

 とても雰囲気のいい古民家カフェでした。塩竈ジェラート三点盛りとコーヒーのセットをいただきました。その名の通り、ほのかに上品な塩味が利いた甘さが引き立つジェラートで、おいしくいただきました。
(2018年8月訪問)