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【大阪市中央区】大阪城天守閣は微妙だが、大阪歴史博物館は素晴らしい

城マニアの間では、大阪城天守閣の評判はあまりよろしくありません。鉄筋コンクリートの復興天守であること自体は仕方がないとしても、外観はもうちょっとなんとかなったのではないかと。

というのは、豊臣の城なら黒くなければいけないはずなのです。松本城や熊本城の天守閣のように、黒いはずなのです。しかし大阪城は、中途半端に五層目だけ黒くて、四層目までは徳川の城のような白色となっております。白は、徳川の城のイメージカラーです。復興天守は、豊臣の城(黒漆)と徳川の城(白漆喰)とどっちにしたいのか、わけがわかりません。個人的には、どうせコンクリートの復興天守なのだから、豊臣の城として黒く統一したほうがよかったんじゃないかと思いますけどね。

まあ、そもそも現在の大阪城の縄張自体が豊臣期のものを反映していないことは、一般的にもよく知られている事実です。豊臣の臭いが残るものは大坂夏の陣の後で徹底的に破壊され、埋められて、その上に徳川家による大阪城が建て直されているわけです。

訪れたのは、ちょうど「大坂の陣400年」にあたる時期でした。

復興天守閣はともかく、石垣と堀はさすが、めちゃめちゃ立派です。圧倒的です。見応えがあります。

まあ、徳川家の普請なんですけどね。

大阪城の南西には「大阪歴史博物館」があります。その10階から大阪城を見下ろすことができます。実に大きい城です。

大阪歴史博物館の展示は、復元模型が豪華で、たいへん素晴らしく、見応えがあります。エレベーターで10階まで上って、最上階の古代から階を下るごとに現代に近づいてきます。

10階の古代でコーナーでは、難波宮に関する展示がとても素晴らしいです。窓の外に難波宮跡を見下ろせるのが、またすごい趣向ですね。

博物館地下には難波長柄豊碕宮の発掘調査跡がそのまま保存されています。難波長柄豊碕宮は、大化の改新の後に孝徳天皇によって造営された都です。たいへん立派な都で、実は大化の改新の中心人物は孝徳天皇だったのではないかという説(教科書的には中大兄皇子と中臣鎌足ということになっています)を唱える学者もいます。
地下遺構見学のとき学芸員さんに大化の改新についての見解を伺ったのですが、難波宮研究を踏まえたなかなか斬新な意見をお持ちの方で、スリリングでした。ともかく、大化の改新期には、大阪が日本の中心だったことに間違いはなさそうです。

復元した5世紀の倉庫を見学することもできます。

そんなわけで、大阪の歴史というと豊臣秀吉にスポットライトが当たりがちなのですが、歴史博物館ではきっちり古代における難波の重要性を強調していました。古代と言えば普通は奈良・京都とイメージしがちですが、実は大阪が内政的にも外交的にも極めて重要な鍵を握っていることは、もっと広く知られていていいように思いました。

また戦国期に関しても、秀吉以前の「石山本願寺」についての展示が充実していたのが印象的です。
大阪城が建つ前、同地には本願寺の本拠地である石山御坊が存在していました。織田信長が10年攻め続けても攻略できなかった大変な要塞です。海上からは信長包囲網に加わる毛利水軍の支援などもありました。大阪が南北に伸びた長い台地であり、その北端に石山本願寺(現大阪城)が建っていて、当時は台地の麓まで海が迫っていたことなど、よく分かる展示となっています。

石山本願寺推定地の碑が、大阪城公園内に立っています。

まあ豊臣徳川による土木工事で本願寺は徹底的に破壊されたので、ここに確実にあったという証拠はなく、大阪城一帯のどこかにあっただろうくらいではあります。

大阪がかつて宗教都市として栄えたことは、今や完全に忘れ去られてしまいました。

しかしまあ、豊臣秀吉は、考えれば考えるほどよく分からないキャラクターです。若いときのキレっぷりと晩年の老害っぷりの落差は、なかなか他に類を見ないように思います。
憎き徳川家康のイメージカラー白で輝いているコンクリート復興天守閣が、実は歴代天守の中で最も長持ちしていることに、秀吉は何を思うのでしょうか。
(2014年4/28訪問)

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