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【要約と感想】桜井万里子・橋場弦編『古代オリンピック』

【要約】紀元前8世紀から1200年もの間、ギリシア山間の片田舎オリュンピアで競技大会が開かれ続けました。おそらく当初は地方的な祭典に過ぎませんでしたが、次第に全ギリシアを巻き込む一大イベントとして発展します。もともとギリシアに根づいていた競争の文化(アゴン)が要因かもしれません。さらにヘレニズム時代からローマ時代にかけて、ギリシア文化を崇敬するマケドニア王やローマ皇帝の支援を得て、ギリシア地方を超えて国際イベント化します。
隆盛を極めたオリンピックも、西ローマ帝国滅亡の過程で、キリスト教の影響などもあり、西ローマ帝国滅亡後は忘れ去られます。しかし18世紀のグランドツアー流行や19世紀の国民国家興隆に伴って西洋の起源としてのギリシア文化が見直され、オリュンピアの発掘調査が進行するとともに、近代オリンピックが復興します。
しかし近代オリンピックが目指すギリシア文化=アマチュア精神は後世になってから捏造されたものも多く、オリンピックがローマ期になってから拝金主義により衰退したという従来の見方は近代的なバイアスが色濃く反映している疑いがあります。

【感想】とてもおもしろく読んだ。古代オリンピックの歴史を通じて、ギリシアとローマの古典文化や当時の生活の具体的な有り様のみならず、ヨーロッパ近代が抱える認知の歪みまでも見透すような、一点突破全面展開のお手本のような歴史記述だと思った。ギリシア古典期→ヘレニズム→ローマ期の変遷過程についてはけっこう混乱することもあるのだが、オリンピックという具体例を通して見ると、とても理解しやすい。18世紀から19世紀にかけてローマ文化を貶めてギリシア文化を礼賛する傾向にあったのが、最近の研究の成果によって是正されつつあるという報告は、他の領域でも共通して見られる現象で、なかなか興味深い証言だ。
あと、マラソン競技の起源伝説が極めて怪しいという話は小耳に挟んではいたのだが、本書で学術的な根拠を仕入れたので、今後は積極的に発信していきたい。マラソン競技の起源を語る伝説は、デマですよ。

【今後の研究のための参照】

「古代オリンピックは、与えられたものとしてギリシア人が享受していた競技会ではなくて、人々の共同参加によって、分立する諸ポリスを統合する精神的支柱の役割を担うにいたった競技会であった。」15頁

この文章は「コミケ」にも当てはまる気がするね。コミケはいまや分立する諸ジャンルを統合する精神的支柱の役割を果たしているのだった。やはり周期的に発生する「場」というものは人間の団結にとってとても重要なのだろう。

桜井万里子・橋場弦編『古代オリンピック』岩波新書、2004年

【要約と感想】高野義郎『古代ギリシアの旅―創造の源をたずねて―』

【要約】小アジア→バルカン半島→ペロポネソス半島→イタリア南部と主要なギリシアのポリスを巡りながら、碁盤目型都市構造や聖数としての10、あるいは時計回りの理由といった普遍的な文化史に思いを巡らせます。通奏低音的なモチーフとして、ギリシア神話では何かと悪者にされる女神ヘラーの復権を試みる一方で、哲学的にはソフィスト等の活動を無視して自然科学的精神の発達に着目して記述しています。

【感想】本書の基本構想は、ヘラーやアテナ、アルテミス等のギリシア神話の女神たちがもともとは土着の地母神であったという直感に基づいている。その直感を保証する文字史料はまったくないので、エビデンスは考古学的な知見に求めるしかない。筆者は、神殿の柱の数や部屋の構成比率にピュータゴラース学派の聖数10の起源を見出したり、女神たちの神殿がもともとは低湿地に位置していたことなどを根拠に、かつての地母神たちに思いを馳せる。客観的な根拠は確かに薄いのだろうけれども、その直感に何らかの可能性を認めることに対して吝かではない。ギリシア文化に魅せられて熱心に現地に通った人だけが感じとることができる何かが、客観的には素直に認めがたい仮説の説得力を増していたのではないかと思う。静かな語り口の奥底に熱い情熱を感じる一冊だった。

高野義郎『古代ギリシアの旅―創造の源をたずねて―』岩波新書、2002年

【要約と感想】河島英昭『ローマ散策』

【要約】ローマはどうして永遠の都となったのか。その理由をイタリア文学者の河島さんがブラブラ歩きながら、解き明かします。

【感想】豊富な知識と教養に裏打ちされた歴史・地理・文学の描写が有機的・立体的に織り合わさり、精緻でありながらダイナミックな文体が交響曲のように迫ってくる、なかなかの怪書だと思う。立体的に厚みを感じさせる文体になっているのは、複合的なモチーフが相互に重なりながら繰り返されつつ、全体的な統一感を織りなしていくからだろう。通奏低音を構成するのは、ローマ市街を構成する7つの丘、地下に張り巡らされた地下道と地上に現われる数々の噴水、14のオベリスクとそれらを繋ぐ街路だ。これら通奏低音が代わる代わる現われながら次第に統一されていく過程で主旋律を構成するのが、古代・ルネサンス・バロックを代表する建築・芸術と文学作品だ。そこに20世紀の著者の想いが幾重にも積み重なって、交響曲的な文体ができあがる。よく一つにまとまったなあと。ローマ2500年の歴史と著者の人生がソナタ形式(あるいは弁証法)のように止揚された著作だと見るのは、あまりにもドイツ的に図式的で、失礼な見方であろうか。

河島英昭『ローマ散策』岩波新書、2000年

【要約と感想】南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』

【要約】ローマの盛衰は、地中海地域だけ見ていても理解できません。ローマ帝国盛衰の本質は、ガリアやブリタニアなど従来「辺境」とされて見過ごされてきた地域支配の在り方と変容にあります。ローマが最も栄えていた頃は、辺境地域の優秀な人材をリクルートするシステムと、彼らを包括する「ローマ人」というアイデンティティが帝国の紐帯となっていました。「ローマ人」とは現在の偏狭な民族意識にもとづくものではなく、ローマ的価値を共有する意識が土台となっていたので、蛮族と呼ばれる人々も容易に「ローマ人」へ組み込むことができました。しかしローマ帝国崩壊の過程で「ローマ人」を緩やかに結びつけていたアイデンティティが崩壊し、偏狭なローマ人意識が台頭したのに応じて、いわゆる蛮族の人々が帝国から離脱します。これがローマ帝国崩壊の本質です。
本書はこの仮定を、皇帝や側近等を中心とした政治過程から明らかにしようとしています。

【要確認事項】「ローマ人というアイデンティティ」の崩壊がローマ帝国衰亡の決定的な要因だという著者の仮定が正しかったとして。でもだとしたら、いちばん決定的だったのは、ローマ帝国のアイデンティティの本質を構成していた多神教的価値観をキリスト教が破壊してしまったところにあったんじゃないの?と単純に思えてしまう。多神教的価値観と具体的な儀式を背景にして成立していた「ローマ人というアイデンティティ」は、キリスト教のような一神教によって本質的に変質してしまったのではないのか? その疑問に本書は答えてくれないどころか、「ローマ人というアイデンティティ」とキリスト教が両立することが前提で話が進んでいく。この論点を論証せずに話を進めて大丈夫なのか、ローマ史の専門家でない私には分からないところではある。
まあ門外漢の印象に過ぎないのではあるが、「アイデンティティ」という集団的心性を証明すべき課題の根幹として扱うにもかかわらず、宗教や文化といった集団的心性を形成する本質にほとんど触れることなく、権力闘争過程の叙述に終始するのでは、本質的に課題と方法が噛み合っていないのではないかと思ってしまう。果たして史料に即して権力闘争の過程を扱う政治史の手法だけで「アイデンティティ」というフワフワした得体の知れない対象を取り扱えるものだろうか? これは新書で紙幅が少ないとかそういう問題ではなく、本質的な「対象と方法」に関わってくる問題だと思う。

【感想】まあ、とはいえ、国家の在り方の本質が地方行政の具体相に現われるという点については、丁寧に書かれていたように思う。というか、「アイデンティティ」などと論証困難なフワフワした観念に頼らずとも、地方行政の有り様を丁寧に論証していけば、普通にローマ帝国衰亡の過程は描けるような感じがする。特に個人的には幕末明治期の国家制度に詳しいわけだが、やはり国家の在り方の本質は地方制度の具体相に現われる。山県有朋の市制町村制などに典型的だ。本書でも、従来の研究では見逃されていたガリアやブリタニアにおける地方行政の具体相がけっこう丁寧に描かれており、「アイデンティティ」という媒介項など必要とせず、そのままローマ帝国衰退を説明する根拠となるように見えてくるのだ。
特に重要なのは、おそらく地方名望家層の扱いと現地人のリクルート及び出世のシステムだ。日本の幕末維新期の課題も、地方名望家層の体制への取り込みと有能な人材のリクルートシステムの確立だった。これが上手くいったから、日本は近代化へ向けて舵を切ることができた。逆に言えば、ローマ帝国では地方名望家層の離脱とリクルートシステムの機能不全が本質的な問題だったのであって、アイデンティティは後から付いてくる類いの些末な問題だった可能性はないのだろうか。
現代の日本が抱える問題も、「日本人のアイデンティティ」という得体の知れないフワフワしたところに本質があるのではなく、地方行政の具体相に根幹があるような気がするのだった。

南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』岩波新書、2013年

【要約と感想】吉村忠典『古代ローマ帝国―その支配の実像―』

【要約】紀元前70年、共和政ローマ末期にシチリア総督となって強大な権力を握ったウェレスは、暴虐の限りを尽くして現地人から搾取を繰り返しましたが、最終的には正義の訴追人キケロに悪事のすべてを暴かれ、政治の表舞台から姿を消します。
が、しかし、その裁判記録を現代的な観点からよくよく精査してみると、キケロも単純に正義を体現しているわけではなく、政治的経済的な利害関係の中にいることも分かります。単純に勧善懲悪として理解するのは、危険かもしれません。
実際に行なわれた裁判の具体的過程を通じて、共和政末期ローマの権力構造や世界観が浮き彫りにされます。

【感想】ケース・スタディを徹底することによって時代と地域の性質を包括的に明らかにする上に、普遍的な人間と国家のあり方までも考えさせるという、一点突破全面展開のお手本のような良書だと思う。現在のわれわれの常識からは、古代に「主権」というものがなく権力の極が複数存在することについて理解が及びにくいわけだが、本書は具体的に古代権力のあり方について分からせてくれる。そしてその作業は同時に、近代的な「主権国家」の有り様そのものを相対化させる視点も浮かび上がらせる。おもしろかった。

またキケロの胡散臭さもよく分かる。彼は莫大な資産を持つ「名望家層」を代弁して「寡頭制」を支持する立場にあった。共和制末期ローマの価値観として、キケロの立場は代表的なものだったようには思われる。が、もちろん民主制の現代的価値観からは、直ちに首肯できるものではない。個人的には、むしろキケロが口汚く罵るグラックス兄弟やカエサルなど民衆派のほうに親近感を覚える。『老年について』や『キケロー書簡集』にも、キケロが民主主義的な立場に対して真っ向から反対する意見を散見することができる。『キケロー書簡集』等には「よき人々」という言葉が盛んに用いられているが、これは道徳的に優れた人々という意味ではなく、資産を持った金持ち連中のことと理解しなければならないだろう。彼の政治観・正義観・道徳観は、「寡頭制」を支持する立場という前提から理解される必要がある。
とすれば、本書で扱われたウェレス裁判も、同様に「寡頭制」を支持する立場から行なわれたものと理解する必要があるし、本書もそう仄めかしている。ウェレスの行なった数々の野蛮な行為が仮に事実であったとしても、ひょっとしたらそれらは「寡頭制」が説得力を失って「名望家層」が没落する過程で必然的に発生する運命にあった不幸な出来事であり、単にキケロが保守的な価値観で以て断罪しただけのことかもしれないわけだ。後にキケロがカエサル等民衆派を立場の違いというだけで口汚く罵っているのを見ると、このウェレス裁判の内容も素直に聞くわけにはいかないように思えてくる。さらには後にキケロのライバルとなるカティリーナの弾劾に対しても。

まあ、いずれにせよ、権力というものがいかに恐ろしいか、思いを新たにする。権力者の指先一つで、われわれの生活は一瞬で台無しにされてしまうのだ。税金を食い物にして恥じない権力者がデカい顔をしているのは、2000年前も今も変わりがない。

吉村忠典『古代ローマ帝国―その支配の実像―』岩波新書、1997年