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【要約と感想】マキァヴェッリ『ディスコルシ―「ローマ史」論』

【要約】真の実力(ヴィルトゥ)を身につけて、運(フォルトゥナ)を乗り越えていこう!

【感想】代表作『君主論』と比較すると、こちらのほうが論の運びが丁寧で、実例も多く、視野も広い。が、その分、勢いには欠け、全体を通じての統一感は薄い。そして表面上、『君主論』のほうは君主制を称揚する一方、本書は共和政を重視しているように読める。また本書はローマ帝国の事例を豊富に扱っているだけあって、古典教養を重視する人文主義の傾向が強くなっている。
 とはいえ共通点ももちろん多く、まず解説でも指摘されているとおり「力(ヴィルトゥ)」への志向は一貫している。日本語ではいろいろな言葉に翻訳されているが、要するに、現実に影響を及ぼすことができる真の実力を意味している。偏差値や学力などのように相対的で潜在的な可能性を意味している言葉ではない。これがいわゆるマキアヴェリズム(目的のためなら手段を選ばない)に直接通じる傾向だ。
 そしてもう一つの共通点は、心理主義的な傾向だ。人々の行動の裏にある欲望や心情を推察し、その流れに乗ると何事もうまく運ぶし、逆らうと失敗する、と一貫して主張している。これは現代では当たり前のことなのだが、中世までは「こうあるべし」という規範を土台に据えた議論ばかりで、人間の欲望や心情を根本に据えて展開する議論にお目にかかることはない。この傾向が、いわゆるマキアヴェリズムの「手段」の説得力に関わってくる。
 ということで、「力への志向」と「心理主義」の二つが組み合わさって、目的のためなら手段を選ばないというマキアヴェリズムが成立するように思える。この2つとも中世までには見当たらないものだし、後の近代の傾向を先取りしているようにも思える。
 逆に言えば、「目的」についてはさほど大きな関心を持っていないように思える。『君主論』は確固たる君主制の実現を目指す方法を説き、『ディスコルシ』は国家を発展させるためには共和政のほうがよいと言っていて、表面上は矛盾しているわけだが、そもそも著者が「目的に関心を持っていない」と考えれば、辻褄が合ってしまう。いったん何かしらの目的を置いてしまえば、あとはそれを実現するための「手段」の考察に全力をかける、というわけだ。これは確かに「目的論の世界」にどっぷり浸かっていた中世から離陸した態度と言えるような気がする一方、アリストテレス(あるいはアヴェロエス主義)の姿勢を極端に推し進めたものとして中世から連続するものと考えてもよいような気もする。こうなると、マキアヴェッリが当時の「自然科学」からどの程度の影響を受けていたかが俄然気になってくるのであった。

【個人的な研究のための備忘録】マキアヴェッリにおける教育
 「教育」に関わる文章がそこかしこに出てきた。が、いま我々がイメージする「学校教育」を語っているわけではないことには注意する必要がある。

「英雄的な偉業は正しい教育のたまものであり、正しい教育はよき法律から生まれる。」42頁
「こうした連中が腐敗した都市に住みなれて、彼らの心に立派な人格を作る教育を受けていないような場合には、どんなささいなことにでも必ず異議を差し挟むものだ。」595頁
「このように好運に恵まれれば得意になり、逆境に沈めば意気消沈する態度は、君たちの生活態度とか、受けてきた教育から生ずるものなのである。教育が浅薄であれば、君たちはそれに似てくる。教育がそれと逆の行き方であれば、君たちは違った性質になる。」602頁
「同じような行為とはいうものの、地域によってその内容に優劣があるのは、それぞれの地域で教育の仕方が違うので、それにつれて異なった生活態度を掴み取るようになるからである。」642頁
「それぞれ異なった家風をもたらす原因は、教育差に基づくものである。なぜならば、若者は幼い時から、事の理非善悪をたたきこまれてはじめて、やがて必然的にこの印象がその人物の全生涯を通じて行動の規範となるからである。」649頁

 上記引用文で言及されている「教育」は、明らかに社会教育を含意している。子どもたちを一定期間教育施設に閉じ込めてもっぱらトレーニングを課す学校教育ではない。そして社会教育とは、「法律」を通じた人格形成を意味している。知識を脳味噌に詰め込むことではない。マキアヴェッリは本書を通じて「良い法律」の制定と遵守を極めて重視している。それは単に治安を維持するためだけでなく、それ以上に、ここで言及されているように「教育=人格形成」に対する効果を考慮してのことだ。「法律」を通じた平時の教育によって確固たる人格を形成することで、緊急時(主に戦争)においても毅然たる行動をとることが可能となる。
 このような「法律」を通じた教育は、なにもマキアヴェッリだけが主張しているわけではなく、プラトン(あるいはソクラテス)以来の伝統だ。またあるいは、「学校教育」による人工的な教育など近代になってから初めて登場したものであって、西洋だろうが東洋だろうが、「教育」と言えば法律を通じた社会教育を含意していたことには注意しておいていいのだろう。だからinstituteという言葉は、現在では「制度を設ける、制定する」という意味で理解されているが、中世までは「教育」を含意していた。(そういう観点から、上記引用部の「教育」の原語が何かは調べておいていいのかもしれない・・)

 一方、「学校」に関して興味深い記述があった。

「市内の上流貴族の子弟が学んでいた学園の一教師が、カミルスとローマ軍の歓心を買おうと考えた。彼は城外において実習を行なうという口実を作って、カミルスの陣営へ生徒全員を連れて行った。そして生徒をカミルスに引き渡し、彼らを人質にすれば、この都市はあなたの手に落ちましょうと言った。だがカミルスは、贈り物を受け取らないばかりか、この教師をまる裸にして後手に縛りあげ、生徒の一人ひとりに鞭を渡し乱打させたあげく、生徒の手で市内に送り返した。」561頁

 街の外で「実習」を行なうということだが、いったいどんなカリキュラムでどんな実習を想定していたかがとても気になる。

【個人的な研究のための備忘録】昔はよく見える
 「昔はよかった」という語りをけちょんけちょんにやっつけている文章があったので、引用しておく。

「人間は、しばしば理由もなしに過ぎ去った昔を称え、現在を悪しざまに言う。このように古い時代に愛着をそそられがちな人びとは、歴史家が書き残した記録を手がかりとして知りうるような古い時代だけにとどまらず、すでに年をとった人びとがよくわるように、自分たちの若かった頃に見聞きした事柄までも褒めあげるものである。人びとのこんな考え方は、たいていの場合間違っていることが多い。」267頁

【個人的な研究のための備忘録】自由
 「自由な政体」のほうが軍事的にも経済的にも発展するという主張は、古代のトゥーキュディデース『戦史』にも見えるところだ。現代の中国やロシアは、果たしてどうなるか。

「国家が領土でもその経済力でも大をなしていくのは、必ずといってよいほどその国家が自由な政体のもとで運営されている場合に限られている」283頁

【個人的な研究のための備忘録】人格
 「人格」という言葉を見つけたのでメモしておく。原語が何かは未調査。

「当人の人格を侮辱すること」479頁
「この人物が立派な人格と力量とで」594頁

マキァヴェッリ『ディスコルシ―「ローマ史」論』永井三明訳、ちくま学芸文庫、2011年

【要約と感想】佐藤三夫『イタリア・ルネサンスにおける人間の尊厳』

【要約】「人間の尊厳」という考え方そのものは古代や中世からありましたが、ルネサンス期に至って「世界内超越」という形で決定的に新しい思想へと昇華します。具体的にはペトラルカ、マネッティ、ピコに関する先行研究を網羅した上で、原典に即して考察しました。

【感想】中世からルネサンスにかけての「人間の尊厳」の問題を考える上でのポイントはおそらく2つで、一つは「自然」に対する考え方、もう一つは「自由」に対する考え方だ。
 まず「自然」に関しては、アリストテレスの立場(そしてそれを極端に推し進めたアヴェロエス主義)を採用するか、それに反対するかだ。もしも仮にアリストテレス(あるいはアヴェロエス主義)のように自然科学の立場を推し進めて、ついには「魂の不死」を否定するに至れば、人間は他の獣などの被造物と同じような扱いとなり、「人間の尊厳」は否定される。だから「人間の尊厳」を称揚する立場は、アリストテレスを否定するところから生じてくることになる。そして伝統的なカトリック主義は、アリストテレス(そしてアヴェロエス主義)に徹底的に反対する。もちろん加えてエピクロスやルクレーティウスなどの唯物論も唾棄すべき敵となる。それはいわゆる「単一知性論」への反対となっても現れるし、また翻ってプラトン(加えてプロティノス)に対する好意としても表現される。この立場はペトラルカに典型的に見られる他、いわゆるキリスト教的人文主義におおむね共通する傾向だ。
 一方「自由」に関しては、人間の自由を一切認めないアウグスティヌスの恩寵主義に立てば、神の前では塵芥に過ぎない人間ごときに尊厳などありえない。だからルターやカルヴァンなど自由意志を否定して神の恩寵を強調する立場からは「人間の尊厳」を称揚する発言は出てくるはずがない。仮に人間を称揚するとしたら「神の似姿」として他の被造物とは一線を画するという意味合いであって、近代以降の「人間の尊厳」の考えとは発想が根本から異なる。しかしだからこそ逆に人間の「自由」を認める立場からは、自分の意志で善にも悪にもなることが可能な人間の「尊厳」が語られることになる。これはアウグスティヌスが徹底的に論駁を試みたベラギウス的異端に親和的な立場であり、ルターが「奴隷意志論」で徹底的に論駁を試みたエラスムスの「自由意志論」に親和的な立場だ。
 こうしてみると、「人間の尊厳」とは、極左的な立場(唯物主義的無神論=アヴェロエス主義やエピクロス)と、極右的な立場(神の恩寵主義=アウグスティヌスやルター)に挟まれた、中道的な立場から出てくる主張であることがよく分かる。だからかどうか、「人間の尊厳」のチャンピオンと見なされてるピコ・デラ・ミランドラは調和を旨とした折衷主義的な議論が持ち味だ。あるいは人文主義者のチャンピオンと見なされているエラスムスの優柔不断な態度を想起してもよい。
 こういう観点から考えてみると、例えばペトラルカの場合は、最初はカトリックの観点からアヴェロエス主義を批判するという「反左翼」という立場にあったものの、詩作(ポイエーシス)を通じて人間の「自由」を謳歌するという形で中庸的な立場を得ることになったように見える。また例えばピコの場合は、最初はアリストテレスに学びアヴェロエス主義に近い観点から「左翼」という立場ではあったものの、後にフィチーノを介してプラトンに近づき、カラバなど神秘思想に親しんで右側に傾いていくことで中庸の立場を得たような感じもする。そうなると、「反左翼」から中庸に至るか「左翼」から中庸に至るかで、「人間の尊厳」の中身も具体的にはかなり違ってきそうな印象もある。

【ポイントとなる著作】
・ペトラルカ(1304-1374)『秘密』
・アントーニオ・デ・フェッラリイス「人類の高貴さと区別について」
・バルトロメオ・ファーチョ(1400-1457)『人間の優越と卓越について』
・ジャンノッツォ・マネッティ(1396-1459)『人間の尊厳と優越について』
・マルスィーリオ・フィチーノ(1433-1499)『人間の尊厳と悲惨についての手紙』
・ジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラ(1463-1494)『人間の尊厳について』1486

【今後の研究のための備忘録】ルネサンス
  著者は一貫して中世主義者に対しても近代主義者に対しても批判を加えて距離を取り、ルネサンス特有の性格を浮き彫りに使用と努力している。

「イタリア・ルネサンス文化とフランスを中心とした中世文化とは、ある程度並行的に共存したことになる。しかもフランス文化が遅まきながらイタリア文化に影響した結果、イタリア文化は十三世紀の末頃になってその内部に同時にスコラ主義とヒューマニズムという二重の伝統をはらむことになった」22頁
ルネサンスを直線的な時間の経過において、「中世の秋」あるいは「近代の初め」、さらには中世から近代への単なる「過渡期」として捉える見方に対しては、われわれは批判的にならざるをえないであろう。」22頁

 このルネサンス特有の位置は単に時間的・空間的な区分ではなく、「中世カトリックの恩寵主義に対する自由主義」に加えて「近代の自然科学主義(アリストテレス・アヴェロエス主義的)に対する人文主義」という思想内在的な位置から主張される。こうなると、「人間の尊厳」がルネサンスに位置づくのも論理必然的ということになる。

【今後の研究のための備忘録】人間の尊厳
 「人間の尊厳」について、先行研究の見解をコンパクトにまとめた上で原典をほぼそのまま紹介してくれているので、めちゃめちゃ勉強になる。

「それ(自由学芸artes liberales))を市民のサルターティやブルーニが「人文学研究」studia humanitatisと読んだのは、その学芸を学ぶことによって人間としての限りにおいて人間を完成させる(hominem perficiant)研究とみなしたからである。つまり人間を尊厳ならしめる学芸という意味でそう呼んだのである。」50頁

「通称イル・ガラテオと呼ばれたアントーニオ・デ・フェッラリイスは、その「人類の高貴さと区別について」という書簡の中で、人々の間の基本的区別を、社会的身分によってではなく、むしろ人々を動物から区別する特徴そのもの、すなわち悟性と理性に基づけている。」60頁

「注意すべきことが三つある。第一は、「人間の尊厳」ということだけが一般的に問題であるならば、すでにギリシアの文学や哲学の中にも認められるし、旧約聖書の創世記にも記されているところであって、ルネサンス・ヒューマニスト固有の問題とは言えないことである。第二には、「ストゥディア・フマニタティス」についてルネサンスにおいて最初に語ったサルターティは、それを「ストゥディア・ディヴィニタティス」すなわち神学と対比して問題に下。それゆえ「ストゥディア・フマニタティス」から結果する「人間の尊厳」に関しては、人間としての限りにおける人間の尊厳、言いかえれば世俗的人間の尊厳が問題であることである。第三に「人間の尊厳」の問題は、トリンカウスが指摘しているように、中世における「人間の状態」の問題と関連しており、それゆえ中世的伝統のある概念であって、それにも拘らずルネサンス・ヒューマニストが自分たちの固有の問題として「人間の尊厳」を強調したのには、その概念の中世的伝統以上の何ものかが強調されているということである。」68-69頁
「中世の思想の特徴がもっぱら「世の蔑視」あるいは「人間の悲惨」であって、ルネサンスになってようやく「人間の尊厳と優越」が発見あるいは回復されたとみなす通俗の見解は、誤りであると言わなければならない。つまり、中世の初めからすでに「世の蔑視」は「人間の尊厳」と盾の裏表のように密接に関連づけられて問題にされてきたのである。」87-88頁
「「世の蔑視」の精神は、それゆえ教父の時代とこの修道生活改革時代においてその典型を見出すことができるであろう。それは愛による神との一致の中に最高の人間の尊厳を見出す、禁欲的神秘主義であると言えよう。」89頁

「この「人間の尊厳」観を先ず問題にした代表者のひとりがペトラルカであった。」50頁
「ペトラルカが多くの頁を割いて自然主義的探究に対して「ストゥディア・フマニタティス」(人文学研究)を対立させている」(57頁)
「「新しき人間homo novusなるものは真に存在するか」という問いを発するジュゼッペ・トッファーニンにとって、ルネサンスの人間観を中世の人間観から根本的に区別することは疑わしいことのように思われる。対立は中世の人間観とルネサンスのそれとの間にあるのではなくして、むしろペトラルカが定式化したように、霊魂としての人間の科学(真の知恵つまりフマニタス)と自然としての人間の不毛な科学との間にあるのであり、精神的な価値と科学的な価値との間にあるのである。つまりはアヴェロエス主義的な科学的人間観と、古典文学的人間観との対立が問題である。そしてヒューマニズムは教会と同様にギリシア・ローマ・カトリック的なものとみなされる。」85頁
「死すべき人間にとって自分の生命を受け継ぎながら独立の人格を担った作品を生み出すことは、永遠へ橋をかけることである。ペトラルカはこうして死すべきものと自覚しつつ、「世界内超越」の有意義性を『秘密』のアウグスティヌスに主張して譲らないのである。そしてかかる「世界内超越」こそは、固有の意味でルネサンス的な「人間の尊厳」を特徴づけるものである。それゆえペトラルカは、その詩作を通してルネサンスの地平をひらいたと言いうるであろう。」96頁

ジャンノッツォ・マネッティ『人間の尊厳と優越について』
「ペトラルカにおいては受動的防禦の姿勢で弁明されていた「世界内超越」の思想が、今やマネッティにおいて積極的攻撃の姿勢で宣言される。その意味でまさにマネッティのこの論著は、ルネサンス的人間観および世界観のマニフェストであると言えよう。」101頁
「こうして「世界内超越」による「人間の尊厳」の概念が確立される。ペトラルカにとってこの超越は何より詩的なものであったが、マネッティにとってそれはむしろ道徳的なものである。そして両者の「人間の尊厳」の概念には共通して一種の個人的貴族主義が見られる。「個人的」というのは、「貴族が貴いのは血統による」という考え方ではなく、むしろ「個人的ヴィルトゥvirtuによる」とみなすからである。こうした個人的貴族主義こそは、ルネサンス独自の貴族主義である。」102頁

「フィチーノにおける「人間の尊厳」の問題にとって最も重要なことは、理性的霊魂が自然の初段階を結合するきずなであるということである。」

ディ・ナポリによればバルトロメオ・ファツィオ(15世紀のヒューマニスト)『人間の優越と卓越について』は「修辞学的小論」であり「その作品において、人間の偉大さは、聖書の語っているかの『神の像にして似姿』に関わっていた。反アヴェロエス的命題を強調しながら、ファツィオは、人間はまさに不死ということに関して神に同一視されるのだと言明する。かかる不死ということが、人間のすべての偉大さにとって基本的にして根源的なテーマとして、『霊魂の神性』について語ることを得しめる。」167-168頁

「中世においても近代においても、「人間の尊厳」が問題になったとしてもそれは二義的な意味においてであった。ところがルネサンス・ヒューマニズムにとって「人間の尊厳」はまさに第一義的な主題をなしていた。人間はかれ自信のヴィルトゥ(virtu能力)によって評価され、「より大なる自己の名誉のために」世の中に出ようとした。つまり尊厳の問題は、人間がこの世において自分のヴィルトゥによって凡俗の世間を超え出て永遠の名誉をかち得ることであり、このようにして「世界内超越」の問題であった。」119頁
「このようにしてルネサンスの世界観・人生観は、多少ともベラギウス的異端に近くなり、多少とも主体性を重視する創造的な人間主義となった。」120頁

「古典的精神は、例えばマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で述べられたような精神とは基本的に異なっている。ウェーバーやトレルチの言うように近代文化がルネサンスからではなく、プロテスタンティズムから生まれたとするならば、ひとはなぜ近代文化のもとで人間の自己疎外が展開したのかをよく理解するであろう。」まえがき2頁
「実際、もし人間が神の奴婢であったり、あるいは反対に、ニーチェのいう末人der letzte Menschであったりしたならば、「人間の尊厳と優越」についてどうしてひとは語りえようか。つまりその意味では、中世人も近代人も、「人間の尊厳と優越」について語る資格を喪失していると言えるのではなかろうか。それゆえ、ルネサンスにおける「人間の尊厳と優越」について、われわれは、メディーヴァリストや近代主義者のような超越的な仕方ではなく、ルネサンス文化の固有性に内在的に即しながら再評価することが必要であるように思う。」179頁

 ナルホド、というところだ。

【今後の研究のための備忘録】人格
 ジャンノッツォ・マネッティ(1396-1459)『人間の尊厳と優越について』について述べるところで、「人格」という言葉がよく出てくる。

「それらのうち第一の理由は、初めの三巻で述べられた人間の身体と霊魂の全ての天賦、および全的人間のすべての特権が、あならのまことに気高く見事な人格の中に、いかに豊かに群がり集うているかを、この序文によって示さんとしたことであった、」180頁
「わたしが著作全体を四巻に分けたのは、わけもなく偶然によってではなく、ある独特の特別な考察によってである。すなわち、人体において、次いでその霊魂において、また全人格において、ある程度まで明らかになっている長所の各々をわたしは入念に性格に考察したので(攻略)」181頁
「つづいて、人間の全人格と人間生活について、不名誉なこと、非難さるべきこと、また呪わしいことの理由が、若干の有能な著作家たちによって言及されたことを、手短に考察することへと進もう」186頁

 ここで語られる「人格」が「人間の尊厳」の概念と論理内在的な関係にあるのかどうかは、よく分からない。さしあたって、ルネサンス期に「人格」の用例があることは記憶しておきたい。

【今後の研究のための備忘録】教育機関
 本書の趣旨と直接関係するわけではないが、間接的には実はけっこう重要なことかもしれない。

「マルスィーリオ・フィチーノのアカデミア・プラトニカにしても、いわゆる大学のような教育機関でもなければ、後世の学会のような規則的な集会がなされる公式な機関とも異なっていた。」45頁

 ここから「台頭しつつあった市民階級の人間観を代弁する」(50頁)ものとして「人文学研究(studia humanitatis)」が立ち上がる。「人間の尊厳」の観念が生まれたのは公的な教育機関からではなく、私的な学問サークルのようなものからだった。ルネサンスのいわゆる「人文主義」が、中世大学のスコラ学の外から出てきていることには注意しておく必要がある。日本における鎌倉時代の金沢文庫、近世の伊藤仁斎「古義堂」や本居宣長「鈴屋」を想起していいかもしれない。公的なアカデミアにはない「自由なポイエーシス」から生まれる何ものかがある、ということだ。今のマンガやアニメやゲームのようなものにも、同じような可能性がある。

【今後の研究のための備忘録】子ども観
 本筋とは関係ないが、「子ども観」についてメモしておきたい一文があった。

フィチーノの「「人間性について」と題されたトンマーソ・ミネルベッティに宛てた手紙においては、「子供たちが老人たちよりも、狂人たちが賢明な者たちよりも、愚鈍な者たちが才能のある者たちよりも、なぜいっそう残酷なのであるか。なぜなら、前者は他の者たちほど言わば人間でないからである。」」109頁

 「子供たち」が「人間でない」ということで、身も蓋もない。

佐藤三夫『イタリア・ルネサンスにおける人間の尊厳』有信堂高文社、1981年

【要約と感想】渡辺一夫『フランス・ユマニスムの成立』

【要約】人々が本質を見失って人間性を喪失しそうになるとき、ユマニスムは「それは人間であることと何の関係があるのか?」と問います。その営みが始まったのはフランスでは16世紀のことで、当初はキリスト教の本義から外れて枝葉末節にこだわる形式主義的な儀式や議論に対して発する「それはキリストと何の関係があるのか?」という問いでした。その問いはギリシア・ラテンの古典語・古典文学の研究によって洗練され、必然的に旧態依然のローマ・カトリック教会に対する批判となり、宗教改革と密接に結びつきます。しかしカトリック批判が先鋭化した結果、むしろ宗教改革側のほう(特にカルヴァン)が当初の目的を見失って本義から外れてしまい、「それはキリストと何の関係があるのか?」という問いがブーメランのように返ってくることになりました。ユマニスムと宗教改革は袂を分かつことになりますが、それは常に批判されるべき対象に「もっと……であるように」「もっと……でないように」と臨み続けるユマニスムの態度がもたらす必然的な帰結です。

【感想】ルネサンス期の人文主義について深めようと思って本を探したわけだが、イタリア(ペトラルカ、ダンテからピコあたり)や北方(エラスムスやトマス・モア)に関しては最近の文献が出てくるものの、フランスに関しては65年前の本書が筆頭に上がってくる。少し後のラブレーやモンテーニュに関しては深まっている様子が伺えるが、16世紀初頭(ビュデなど)の研究については時間が止まっている感がある。(まあ専門的な論文は出ていて、私が知らないだけなのだろう……。)
 まあ、本書はとてもおもしろく読めて、人文主義と宗教改革の関係についてそうとう分かった気にさせてくれた。人文主義がカトリックを批判することで宗教改革が始まったものの、宗教改革がやりすぎてしまったことで今度は逆に人文主義が宗教改革を批判し始める、という構図。これは残念ながら現代にも当てはまる構図のようにも見えてしまう。たとえばリベラリズムとポリティカル・コレクトネスのような。(まあ本書が書かれた1950年代後半の当時は、60年安保闘争も絡んで、まさに資本主義とマルクス主義の対立が念頭にあったのだろう)。そういう観点からは、ルネサンス期のユマニスムは中道右派的な位置を占めていたということかもしれない。だから左派(カルヴィニスト)からも右派(カトリック)からも批判され、敵と見なされる。本書が強調する「もっと……であるように」という言葉は、頑迷な教条主義に陥らないための呪文のようなものなのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】ユマニスムとルネサンス
 ユマニスムがルネサンス期に成立したかどうかについて、奥歯にものが挟まったような慎重な言い回しに終始しているが、それだけ繊細な話題ということだ。浅学の徒としては、断片的な知識でいい加減なことを言ってはいけない領域だという警戒感を持っておくことにしたい。

「フランスにおいてユマニスムという語は、ルネサンス期にはなかったけれど、この語の内容となる思潮乃至態度は存在していたし、この思潮乃至態度は、それ以前の中世から糸を引くとは言え、ルネサンス期になると、既に近代的な意味内容を、即ち近代用語であるユマニスムという語の内容を持っていた」1頁
ユマニスムは、先に記した通り、ルネサンス期以前の中世から糸を引く思潮ではあるが、単なる”古典語・古典文学の研究”以外の目的と意識とを、ルネサンス期に、新たに獲得したとは言えないまでも、改めて鮮やかに自覚したように思われる。」2-3頁

 個人的な研究の関心では、「人格」とか「個性」という概念が浮上してきたかどうかが問題となる。ルネサンスの文脈では「人間の尊厳」の概念が極めて重要だ。本書は慎重な言い回しに終始しているものの、この「人間の尊厳」という観念がルネサンス期にほぼ近代的な意味内容で登場してくることを仄めかしている。碩学が到達した境地として尊重したいと思う。

【個人的な研究のための備忘録】ルキアノスとエピクロス

「カルヴァンは、更に、”ルキヤノスやエピクロスの徒、即ち、神を蔑ろにする人々は悉く、福音に従うふりをしながらも、その心中に於いては、これを侮り、寓話ほどにもこれを重要視していないが、私は、ここでこのような連中について語ることを欲しなかった”と記している。このルキヤノスやエピクロスの徒とは、誰のことを指すものか不明ではあるが、この”連中”のなかに、フランソワ・ラブレーが這入っているのではないかという推定がなされている。」159頁

 ルキアノスはローマ帝政期の風刺作家で、現代では名前を聞くこともあまりないが、ルネサンスの当時はエラスムスやトマス・モアにも極めて甚大な影響を与える人気作家だったらしい。ここでカルヴァンがエピクロスと並べて名前を挙げているのは、けっこう気にかかる。エピクロスは現代では単なる快楽主義者として知られているが、中世では唯物主義の無神論者として最大限の警戒が向けられていたはずだ。エピクロスは素朴な形ながら社会契約論のアイデアも示していて、後のフランス革命のことを視野に入れると、かなり重要な役割を果たしていた可能性を考慮する必要がある。

渡辺一夫『フランス・ユマニスムの成立』岩波書店、1958年

【要約と感想】ダンテ『新生』

【要約】愛した女性のためにたくさん愛の歌を詠んだけど、死んじゃったので死にたくなるほど悲しい。ということを後になって回想したら、その女性がほとんど神だということに気がつきました。

【感想】愛を歌う詩に、作者自身の解説がついている。作詩の教科書として利用されることを狙ったもののようにも勘ぐる。特に「愛」を擬人化して表現した描写について、その意図や狙いを細かく説明しているところなどは、詩の初学者向けの案内のように感じる。
 肝心の詩の内容はとにかく「愛している」ということは強く伝わってくるものの、一方で極めて抽象度が高く、具体性に乏しい。髪の色とか仕草など、現代の散文で描かれるような描写がほとんどない。ベアトリーチェの個性や特徴が浮き彫りになるような表現はまったく見あたらず、極度に一般化された「美」と「徳」への賛美と傾倒に終始する。そういう意味では、やはり分析的思考の近代ではなく、どっぷり象徴的思考に浸かった中世ということなのだろう。やたら「9」という数にこだわるのも、中世の象徴的思考の表れだろう。(ちなみにいちおう、つまらないということではない。)

【個人的な研究のための備忘録】俗語

「昔は俗語で愛を歌つた者はなく、ただラテン語で愛を歌つた詩人だけがいくたりかあつた(中略)。即ち我等のうちでは(おそらく他の人々のうちにも同じ事が、たとへばギリシヤに於ける如く、昔あつたのみならず今もあるであらうが)俗語詩人でなく雅語詩人がこれらの詩材を取扱つたのである。そしてこれら俗語詩人(韻を踏んで俗語で歌ふのは、ある範囲内では韻律によつてラテン語で歌ふのに等しい)が始めて現れたのは久しい以前のことでない。久しくないといふしるしには、オコの国語やシの国語に求むるに、今より百五十年以前のその先には何等の作品も見当らない。ある拙い人たちが詩家たるの名を得た理由は、かれらがシの国語で歌つたいはば最初の者であつたからである。また俗語詩人として歌ひはじめた最初の人がさうするやうになつたのは、ラテン語の詩をよく理解しえない一婦人に自分の言葉を理解させようとの心からであつた。そしてこれが愛以外の詩材を捉へて韻文を作る人達にとつては不利なのである。かかる表現の方法はもともと愛を歌ふために見出されたものであるから。」84頁

 このダンテの認識は、解説でも指摘されているように、事実としては間違いだらけだ。まず俗語の詩作が始まったのは、ダンテの言うように「百五十年」ではない。さらに100年は遡る。また詩材が恋愛に限られるという認識も誤っている。
 ただしだからといって無意味な記述ではない。当時超一流の詩人の認識が素直に現れている言質として、事実誤認そのものも含めてとても価値がある。特に、俗語で詩作することに対して、ダンテが誇りを持っているらしいことが表現されているところが貴重だ。
 たとえば日本でも、漢詩から和歌への切り替わりのタイミングで、古今和歌集の仮名序のように、「敢えて和歌を詠うことの意味」を表明するものが現れる。俗語で歌を詠むことが「芸術に価するかどうか」について、なんらかのためらいが存在し、それを意識的に打ち破る必要があった、ということだ。
 ダンテの場合、詩の内容として「愛」を扱うことが詩の形式として「俗語」を採用することの決定的な理由だ、というところが重要だ。歴史的には間違っているが、14世紀初頭の超一流詩人がそう理解していた、ということが重要だ。
 日本でも、愛の歌は漢詩ではなく和歌で扱われた。「俗語」を尊重する動きに関しては国民国家形成との絡みがよく指摘されるところだし、実際に重要な論点だとは思うものの、個人的には恋愛の観点もとても重要だと思うのだ。

ダンテ『新生』山川丙三郎訳、岩波文庫、1948年

【要約と感想】И.Н.オシノフスキー『トマス・モアとヒューマニズム』

【要約】ソ連時代の歴史学者の研究書で、トマス・モアをコミュニストとして高く評価します。モアは16世紀イギリスの政治・経済の状況を的確に理解した上で、封建君主制だけでなく初期ブルジョワジーをも批判し、形成されつつあった労働者階級に共感しながら私有財産制の問題を追及していることが決定的に重要です。モアを反宗教改革的なカトリック知識人として理解しようとするブルジョア学者は致命的に誤っています。しかし16世紀前半の段階では機械制工業が成熟しておらず、時代的な制約もあって、空想的社会主義の段階に留まっています。

【感想】ルネサンス期の人文主義(ヒューマニズム)について勉強しはじめた時、日本ではトマス・モアに関する研究が分厚い一方、エラスムスはほとんど顧みられないという話を読んで意外に思ったのだが、その理由が本書でよく分かった。モアの仕事が共産主義の重要な論点に関わっていたからだ。特に、単に私有財産制の放棄を空想的に主張しただけでなく、いわゆる「囲い込み」の実態について具体的に言及しながら16世紀イギリスの政治経済史を描写し、原始蓄積の経過について理解する上で決定的に重要な史料の一つを提供しているところが極めて重要だ。エラスムスの方は聖書研究などキリスト教的文脈から見れば大きな仕事をしたものの、日本人の関心から視界に入りにくいのは仕方がない。
 そんなわけでルネサンス期の人文主義者の中でも共産主義陣営から極めて高く評価されるモアなのだが、一方、私有財産放棄の主張だけであれば、実はヨーロッパはプラトン以来の長い伝統を持っている。だからモアの画期性を論理的に主張するためには、まずプラトンとの違いを浮かび上がらせる必要がある。もちろんモア自身はヒューマニスト(人文主義者)の名に恥じずプラトンをしっかり勉強して影響も受けているのだが、決定的な違いは、プラトンが奴隷制を前提とした社会を構想しているのに対し、モアが「平等」な社会制度を構想しているところだ。もちろんプラトンの思想が単に劣っているということではなく、歴史的な発展段階を踏まえれば、プラトンの生きた紀元前の社会では不可能だった生産が、モアの時代には可能になっていたということではある。
 そして問題の焦点は、その生産様式の発展が、「囲い込み」に代表されるような原始蓄積の収奪を伴って展開していたことだ。この初期資本主義の発展段階の様子を的確に描写できたのがルネサンスの当時にあってモアただ一人であり、それがエラスムスやマキアヴェッリやルターなど同時代の知識人とは決定的に異なる特徴ということになる。19世紀以降の科学的社会主義(あるいは日本の人文社会科学)がモアに注目するのも、もちろんこの論点に関わっている。
 思い返してみれば、ルネサンスが開始された14世紀イタリア(特にフィレンツェ)は、地中海貿易を基礎とした商業資本で栄えた地域だった。人文主義の王者エラスムスを輩出したフランドルも、ハンザ同盟以降バルト海貿易を中心に商業資本で栄えた地域だった。フィレンツェやフランドルは原材料(羊毛)を輸入して、製品に加工し、輸出することで財を蓄えていた。だからフィレンツェの人文主義者(ペトラルカ・ダンテ・ボッカッチョ)やフランドルの人文主義者(エラスムス)は、製品加工や商業資本を土台とした初期資本主義の上澄み部分を実地経験している一方、しかし原材料(羊毛)を供給する地域の原始蓄積過程については間接的にしか理解できない。こういう商業資本を土台として栄えたルネサンスの中心地から見ると、モアが活動したイングランドは辺境の後進地域に見える。しかしそういう辺境だからこそ、「原材料の供給地」としての特徴がはっきりと浮かび上がっていたということかもしれない。モアが目の当たりにしていたのは、テューダー朝の絶対主義王権が確立する過程に伴って進行する原始蓄積の凄惨な収奪現場であり、その現実こそがフィレンツェやフランドルの知識人の視野に入らなかったリアルな歴史だったのだろう。というようなことが経済史家等によって追及された結果、日本ではエラスムスが一向に顧みられなかったのに対し、モアが盛んに研究対象となったわけだ。個人的には、ものすごく納得する。
(そして、だとすると、資本主義の離陸に向かう原始蓄積の過程にとってプロテスタンティズムは何も関係ないので、ヴェーバー『プロ倫』は戯言ということになりそうだが、どうなのか。)
(あるいは、こういう恥知らずな囲い込み的私有財産制を積極的に擁護したのがジョン・ロックということになるとすれば、プロ倫の言うことにも一理あるか。)

【今後の研究のための備忘録】ジョン・コレット
 トマス・モアの人文主義の仲間として登場するジョン・コレット(1467-1519)が教育史的にはどうやら極めて重要な位置を占めるらしいことを理解したので、メモしておく。論文も発見したので、勉強を進める所存。本書では20-22ページに言及がある。

【今後の研究のための備忘録】エピクロス主義
 エピクロス主義は、単なる快楽主義という観点からのみならず、唯物論的な科学志向や社会契約論的な論理からも注目する必要を感じている。本書もトマス・モアがエピクロスから影響を受けていたことに言及している。

「たとえば、ユートピア的理想社会の倫理に注目すれば、モアはエピクロスの教義やストア哲学を知っていたことが明らかになる。エピクロスやストア哲学の要素がユートピアにおける倫理概念に含まれていることは疑いない。とくに、人間の存在目的としての快楽、満足に関する教義、真理および虚偽の満足に対する認識においてそうである。」218頁

 とはいえ、モアの段階では唯物論や社会契約論的な傾向は見えない気がする。ホッブズを待たないといけないか。

И.Н.オシノフスキー『トマス・モアとヒューマニズム―16世紀イギリスの社会経済と思想』稲垣敏夫訳・亀山潔監訳、新評論、1990年