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【要約と感想】ヴィーヴェス『ルネッサンスの教育論』

【要約】(1531年出版『学問伝授論』の一部を訳出したものです。)
 人々の自分たちの生活を良くしようという努力と経験に、神から与えられた知性と好奇心が加わることで、学問(術知)は立ち上がってきました。学問を身につけるために優れた本を読みましょう。
 学校を建てる場所に気を付けて、教師には豊かな学識を持つことはもちろん人格的にも立派な人を採用しましょう。子どもは堕落しやすいので小さい時から厳しく躾けましょう。中には学問に向いていない子どももいるので、すぐに別の進路を与えましょう。
 教育課程では、ラテン語に精通すべきことはもちろんですが、各国語やアラビア語も学ぶべきです。ギリシャ語は後回しでかまいません。健康のためにスポーツもして、食事にも気をつけましょう。読む本は優れたものを精査しましょう。
 言語に習熟したら高等な学問として論理学と自然研究に進みましょう。自然の観察から確実な知識だけを得る姿勢を身につけたら、次に第一哲学(形而上学)と討論に進み、確実な知識から普遍的な真理を導き出しましょう。討論では名誉を追及するのではなく、真理の認識を心がけましょう。運動も忘れてはいけません。続いて修辞学を身につけ、数学を学びましょう。数学は根気強さや集中力を養います。
 一通りの術知を身につけたら、社会で役に立つ実学的な学びを深めましょう。もはや学びの場は学校ではなく、商店や工場でのインターンです。ちなみに教師は人間の霊魂(感覚・感情・理解・記憶・推理・判断)の作用についての洞察を深め、教育に役立たせましょう。自然観察は人々の生活をより良くし、食物研究は健康を増進し、医学は病から身を守ります。実践的な判断力は歴史や倫理哲学(家政学・政治学)や法律の研究によって養います。
 学者は謙虚な気持ちで研究に熱意を傾けましょう。あなたの力は神から与えられたものだということを忘れて高慢になってはいけません。金儲けや追従阿諛で学問を売ることなどもってのほかです。名声の追及も感心しません。学問的な成果を上げたら、本に書き残して、公共の福祉に還元しましょう。

【感想】なるほど、近代的で包括的な教育論の先駆けと評価されている理由がよく分かった。論旨は素朴でありつつ取っ散らかってまとまりもなく、読後直後は凄さにピンと来ていなかったが、こうやって感想をまとめようとして振り返っているうちにジワジワ来ている。これは確実に新しい。さすが巨匠エラスムスが一目置いた男だけのことはある。
 まず決定的に重要なのは自然科学的な手続きに関する意識的な言及だ。これは同時代の人文主義者たちにはまったく見られなかったものだ。いちおう帰納法の萌芽みたいなものは各所に散見されつつも、ここまで意識的に前面に打ち出したのは管見の限りではあるが本書が最初のような気がする。デカルトはもちろん、ガリレオやフランシス・ベーコンより早い。もちろん自然科学そのものは既に様々な形で展開しているわけだが、本書はその手法を教育論としてカリキュラムの中に位置づける試みを見せているところが画期的なように思う。このあたりは小林博英(1961)「ヴィーヴェスに於ける実学思想の発端」が勉強になる。
 また、14~15世紀の人文主義は日常生活に役立つ実学を徹底的に軽蔑して古典学習と雄弁術ばかりを推奨していたわけだが、本書は実学の価値を極めて高く評価している点が極めてユニークだ。しかも実学は学校で学ぶものではなくインターンで修得するのが良いとまで主張している。また、数学や歴史を現実的に役に立つ学問と理解しているところも新しい。このあたりは小池美穂(2018)「ルネサンスにおける学問の方法化 : 知識の「有用性」」が参考になる。この実学に対する理解の進展が果たしてヴィーヴェスの個人的資質によるものか、それとも新大陸発見が何かしらのインパクトを与えているのか、そこそこ気になるところだ。
 そして学者の人格に関する記述は、身につまされる。学問を金儲けの手段にするのはもってのほかだし、名誉を追及するのも感心せず、公共の福祉に貢献してナンボとか。いやはや、仰る通り。
 ともかく、一応ヴィーヴェスの名は西洋教育史の教科書にも出てきてそこそこ重要人物として扱われてはいるのだが、実際に読んでみるとなるほど、これは重要だと見なされて当然だ。一時代前のルネサンス教育論からは一線を画した出色の出来になっていることは間違いない。大きく一歩近代に踏み込んでいる。しかしそのヴィーヴェスにも「かけがえのない人格」という観念が見当たらないことも確認しておく。

【個人的な研究のための備忘録】
 最初のまとまった教育論ということで気になる表現は非常に多いのだが、まずは個人的関心に即してサンプリングしておきたい。

「人間がそこへ向けて造られた目的に各人が到達すること、これ以外に、人間の完成はないのである。(中略)各々の事物にとっては、それが創造された目的を達成することが結局そのものの完成であり、その全部分での仕上りでもある以上、疑いもなく敬神が人間完成の唯一の道である。」26頁
「しかし聖愛によって自己をより高く引き上げた人の敬神こそ完成なのである。」37頁
「実際、規範は完璧な形で自然の中にある。そして各人はその才能や熱心の度合に応じてこの規範に表現を与えるのであるから、ある者は他の者よりもりっぱに表現することはあっても、誰も充全かつ完全に表すことはないのである。」94頁

「完成」という観念そのものには独自性は認められず、同時代の一般的な使い方(キリスト教的目的論)をしている印象ではある。問題になるとすれば、このキリスト教的目的論の「完成」と、本書がこの後で記述する教育論の内容があまり噛み合っていないように見える点か。

「そして推理と観察とはほとんどすべてこの術知の発見に向けられていた。初めのうちは新規さに感嘆しながら、一つまた一つと獲得した経験を生活上の実益のために記録していった。知性はいくつかの個別的な実験から普遍的なものを集約し、さらにそれは引続いて多くの実験によって補強され、確認されて、確実なもの、確証されたものとして考えられるに至った。」28頁

 明らかに自然科学の経験主義的な手法を祖述している。ブルーノが生まれたのは本書出版から17年後、ガリレオが生まれたのは約30年後、またコペルニクスの主張が広く知られ出すのはほぼ同時期だから、やはり相当早い時期の表現だ。また単に自然科学の手法を叙述するだけでなく、教育課程に組み込んでいこうとする点で画期的なことは間違いないだろう。

「少年の天賦の才が何にもっとも適しているかは、肉親や親戚の者が探し当てることができるが、少年の方でも、自らの才能を示す兆候を多く顕わすものである。学問に適性がない場合は、学校では学科を遊んですごし、さらに学科以上に大切な時間を遊びで失ってしまうのであるから、もっと適していると判断され、したがってこれならば豊かな収穫を得て全うできるであろうと思われる方面へ、早い時期に移してやらなければならない。」77頁
「二カ月ないし三カ月に一度、教師たちは会合をもち、受けもっている生徒たちの才能について熟考し、父親の愛情と冷厳な判断力をもってこれを洞察しなければならない。そして各生徒が適性をもっていると思われる方へ送ってやらなければならない。」87-88頁
「この後、生徒のうちで誰が学問に精進するのに適し、誰が別の道に適しているかを吟味しなければならない。」91頁
「ともあれ術知を伝授する場合には、常にもっとも完全なもの、もっと完璧なものを提供しなければならないとはいえ、教える場合には、生徒の知能に適合した部分を術知から選んで提示してやらなければならない。」95頁
「このようなわけで、一人の青年の知性が結局どの分野に最も適しているかを周到に洞察することが必要である。」179頁
「もし青年が自分で模倣しようと決心したものを下手に描くようであれば、模倣することはやめさせ、自分自身の本来の傾きの方へと移してやり、他人のものではありえない、自分自身のものになるようにさせなければならない。」181頁
「まず初めに、自分はどのような事柄に関して才能があり、どの分野について書くのに適しているかを理解するために、自分自身を知り、自らの力を吟味しなければならない。」270頁

 教授に当たって子どもたちの生まれつきの才能に配慮すべきことは、繰り返し繰り返し、しつこいほどに主張される。この考え方自体はルネサンス期教育論に共通していてヴィーヴェス特有の論理というわけではないが、本書の場合はやはり教育課程に組み込まれる形で活用されている点がユニークなのだろう。そしてここでみられる個性観念が単に教授の有効性や進路の適性に関わって関心の対象になっていることも確認しておきたい。「かけがえのない人格」というニュアンスの表現は見当たらない。

「子どもたちは遊びを通して訓練されなければならない。こうすること自体が子どもの知性の鋭敏さや生来の性格を顕わすものであるが、同じ位の年齢の者や同類の者の間では、虚飾はいっさい行われないし、すべてが自然のままに現れるからとりわけそうなのである。実際、競争というものは天賦の性質を引き出しかつ示すのであって、草や根や果実を温めると香りや生来の能力が引き出し示されるのとほとんど異ならないのである。」87頁

 遊びの重視も、エラスムスなどルネサンス期人文主義に共通する考え方で、特にヴィーヴェスに限った話ではない。が、ご多分に漏れずちゃんと重視しているということは確認しておく。というのは、人文主義一般とは異なる見解も多く示されているからだ。

「人々との対話や会合には節度を失うことなく親しみの心を込めて参加しなければならない。そしてこの悪臭を放つものから身を遠ざけるのではなく、慎重に品性を陶冶することによって能う限り自らを救うべきである。」107頁

 「品性」にはモールム、「陶冶」にはクルトウーラのルビがある。「陶冶」という概念はドイツ疾風怒濤で鍛えられたというのが一般的な理解だが、クルトウーラ(cutureの語源)の考古学については目配せしておいた方がいいのだろう。もちろんキケロが使っている。「Cultura animi philosophia est.」

「しかし、精神の病癖がつのると人間の知能の働きが圧迫されて鈍くなるものであるから、無分別な行動は抑制させ、言葉でたしなめたり、必要な場合は鞭に訴えてでも𠮟責して止めさせなければならない。つまり理性の働きが充分でない少年の場合には、動物的な行為を止めさせるのに苦痛を咥えることが必要なのである。」124頁

 そしてエラスムスをはじめとするルネサンス期人文主義者は共通して体罰を否定しており、その主張は古代のクインティリアヌスに遡るわけだが、なんとヴィーヴェスは体罰を許容している。後のロックやペスタロッチーも体罰を許容する言葉を残しているが、ここに何らかの教育学的論点を見出すべきところか。

「健康についての一切の配慮は、精神が健やかになり、かの詩人[ユニウス・ユヴェナリス]が神々に切に祈り求めたように、「健全な精神が健全な身体の中に住むように」というにつきるのである。」126頁

 「健全な精神は健全な身体に宿る」というスローガンはいろいろなところに繰り返し登場する(たとえばジョン・ロック)が、ここにも出てきたことはメモしておこう。

「第一哲学を教授する場合には、一種の廻り道をして進むべきで、ある箇所まで進んだら、そこからまたもときた同じ処へもどることが必要である。AからBに進み、また逆にBからAに戻るのである。というのは、このような事柄の探究においては、われわれは精神を「存在のあり方に従って」導くのではなく、多くの曲折を含む「感覚の働きに従って」導くからである。それゆえ、より単純なもの、より生のままのもの、つまりいっそう感覚に顕わに知られているものを先に捉えるよう、常に工夫をこらさなければならない。」168頁

 形而上学を後回しにして経験主義的な考え方を重視する主張だ。プラトンが聞いたら卒倒しそうな主張だが、どうもヴィーヴェスは実践的なクセノフォンのほうを重視しているような印象がある。そしてもちろんここで表現されている考え方を突き詰めていくとデカルトに至るわけだが、1531年のヴィーヴェスと1637年のデカルトの間に流れる百年の時間をどう理解するか。(もちろんフランシス・ベーコンはここに入って来るわけだが)

「こういうわけで、母国語で書くことがいっそう望ましいであろう。母国語においては民衆こそ自らの国の言葉の偉大な作者であり、教師であり、判定者だからである。」183頁

 母国語の重視は瞠目すべき主張だ。この時代ではもちろん学術用語としてのラテン語が圧倒的に優位にあり、ルネサンス期人文主義者の大半はラテン語でコミュニケーションを行っており、母国語の意義を主張した論者は他に見当たらない。17世紀初頭ラトケまで待つ必要がある。ただ、本書から母国語を尊重する理由を抽出することが難しいのは残念なところだ。理由として、たとえばヴィーヴェスがスペインで活動していたことが何らかの意味は持ったりするか。深堀するといろいろおもしろいことが出てきそうなところではある。

「しかしこういうこと(円環的知識)に関しては、キケロもいっているように、学校で博学の士が講義するよりも、古老がその仲間や集いの中ではるかにすぐれた知識を披露するものである。(中略)そうであるから、ここで必要なのは学校ではなく、聴きかつ知ろうとする激しい意欲なのである。商店や工場の中にまで入って行き、そこの職人たちから彼らの仕事について詳しく訊ね、教えてもらうことを恥かしく思わないだけの熱意がいるのである。」193頁

 まさにインターンを主張している。実学教育の祖と評価されているだけのことはある。ここはルネサンス期人文主義者には見られない主張、というか逆立ちしても言いそうにないことで、ヴィーヴェスのユニークさを際立たせている。この実学主義というか現実主義はどこから出て来るのだろう。新大陸発見に伴う世界観の転換に関わっていたりするだろうか。「円環的知識」の考古学を進めなければ全体像が見えてこなさそうではある。

「これに対して、人間の霊魂に関する考察研究はあらゆる学問分野に最大の援助をもたらしてくれるものである。なぜなら、ほとんどあらゆる事柄に関してわれわれが下す評価は、存在それ自体に基づくというよりは、霊魂の理解能力や把握力に依存するものだからである。」195頁

 本書の中で繰り返し現れる経験主義的な主張ではあるが、その根拠としてヴィーヴェス特有の教育心理学が大きな役割を果たしていることが理解できる。後のデカルトやカントのモノ自体、あるいはフッサール現象学にまで通底するような認識論は、プラトンにもアリストテレスにも見当たらず、どこから出てきたのか不思議な感じがする。ヴィーヴェスの創案だとしたらとんでもないことだが、そんなことあるのか。中世やルネサンス期になにかモトネタがあって、私の勉強が届いていないだけか。

「歴史がかしずくところ、子どもは大人に成長し、歴史なきところ、おとなは子どもになり下るのである。」213頁
「メガロポリスのポリビウスは「全人類史」を動物の完全な体にたといえ、他との関連から切り離して部分部分を叙述した場合は、四肢に分解された体となり、誰もこのように引き裂かれた部分からは、もとの体の相貌や美しさや力を推定することができないものとなることを指摘している。それゆえわれわれも、歴史の各肢体を、その各々の部分が、たとえ動物の身体のようではなくても、しっかり組み立てられている一つの建築物のように、一つの部分が他の多くの部分と結合しているものと見ることができるように、構成しなければならない。」220頁

 自然科学だけでなく歴史の教育的効果も重視しているのは、さすがに人文主義者らしいと評価すべきか、それとも法律や倫理にも活用できる学問だと見なしている点を新しい発想と見なすべきか。

「また国の道徳習慣が立派であれば、少しの法律で足りるか、ほとんど法律がなくてもよいくらいであり、逆に道徳習慣が腐敗していれば、法律がどんなに多くても充分ではないのである。それゆえ、共和国の訓令においてだけでなく、また人々がその権威を認めて非常に尊重している法律の命令によって児童の教育が汚れない、清廉なものであるように細心の注意を払わねばならない。」246頁
「「立派な子どもたちを持つにはどのようにしたらよいか」との質問に対して、「立派に治められている国で子どもたちを育てるならば」と答えた哲学者もこれに劣らぬ叡智の言葉を語っているのである。」247頁

 この部分の「教育」にはエドウカチオのルビがある。学校で行われる授業ではなく、社会の中で人格を形成するというイメージの言葉だ。適切な法律が立派に守られている社会でこそまっとうな人格が形成できるという考え方はプラトンから見られる。そういう観点から、翻訳で「教育」という言葉が出てきた時も、それがエドゥカティオなのか、それとも学校教育を想起させる言葉なのかには注意して読んでいく必要があるのだった。

「学問の諸分野は人文諸学と呼ばれている。それはわれわれを人間らしくさせるためのものだからである。」266頁

 人文主義の語源に触れたリアルに同時代の表現として、サンプリングしておきたい。

ヴィーヴェス、小林博英訳『ルネッサンスの教育論』明治図書世界教育学選集、1975年

【要約と感想】アルベルティ他『イタリア・ルネサンス期教育論』

【収録論文】
(1)ヴェルジェーリオ(1370-1444)「学芸について」
(2)ブルーニ(1370-1444)「諸学問ならびに文学について」
(3)アルベルティ(1404-72)「家庭教育論」
(4)ピッコローミニ(1405-64)「子どもの教育について」

【要約】子どもたちが持つ本来の特性を見極めて、早期に善い習慣を身につけさせ、悪習を取り除き、自由諸学芸を学ばせましょう。歴史や修辞学、詩の古典などを幅広く学ばせ、特に雄弁術の修得を通じて徳を身につけさせましょう。教育は早く始めるに越したことはありません。体罰はだめです。

【感想】15世紀、イタリア・ルネサンスの教育論アンソロジーなわけだが、この周辺の事情は学部生向け教育学の教科書ではそうとう手薄い印象がある。私の基礎教養が欠けているのも学部の概論でしっかり学んでいないせいだ(ということにしておこう)。
 一般論としては、ペトラルカ以来のイタリア・ルネサンスによってギリシア・ローマの古典が暗黒の中世から甦り、人文主義(ヒューマニズム)が勃興・充実・発展して、現代のリベラル・アーツ(教養主義)にまで繋がることになっている。確かに本書に収められた諸論考はギリシア・ローマの古典からの引用に満ちている。特にキケロ、プルタルコス、クインティリアヌスからの引用は飽き飽きとするくらい大量だ。というか、教育に関する考え方そのものはクインティリアヌスからほとんど進歩していないようにすら見える。古代とルネサンスの距離は、論旨だけに注目すれば、極めて近い。つまりキリスト教による影響は目につかない。
 しかし一方、ルネサンス期教育論と近代的教育論との距離は、極めて遠いように思う。ルネサンスの教育論からは、ちっとも近代的な臭いがしない。体罰禁止という主張そのものには近代的な臭いを嗅ぎ取ることもできようが、禁止の根拠はまったく近代的ではない。ルネサンス期教育論と近代的教育論が似ていないと思うおそらく最も大きな原因は「雄弁術」の位置づけだろう。ルネサンス期ヒューマニストたちが雄弁術を最大限に称揚するのは、彼らの教育論の土台がクインティリアヌスにあるのだからまったく不思議ではないというか、当たり前ではある。しかし一方彼らが拝み奉る雄弁術なるものは、近代的教育論ではほぼ完全に抹殺されている。ルネサンス期人文主義を引き継いだとされる現代リベラル・アーツでも、雄弁術そのもののトレーニングなどしない。
 近代的な教育においては、任意のテーマについて雄弁に語るより、真実を見極めること(およびその手続き)の方が決定的に重要だ。もちろんそれはガリレオ、コペルニクス、ニュートン等による自然科学の仕事がベーコン、デカルト、カント等によって帰納的・論理的・理性的・科学的な思考法に定式化されて以降のことだ。現代のリベラル・アーツも、雄弁的な素養を身につけることよりも、論理的・理性的・科学的・批判的な思考を育むことを目指している。そういう近代的な観点からすると、自然科学革命以前のイタリア・ルネサンス期の教育論がやたらめったら雄弁術の重要性を前面に打ち出してくるのは、時代背景を踏まえれば理屈では分かるとしても、少なくともその雄弁術への情熱はどう頑張っても共有できない。近現代においては、雄弁術の教育的意義は地に落ちている(まあ福沢諭吉が「演説」の重要性を説いていたことは思い出しておいても損ではないか)。
 そして個人的な研究上の関心に焦点を絞ると、教育基本法第一条でいう「人格の完成」という旧制高等学校的観念が雄弁術とどういう関係にあるかが問題となる。言い換えれば、雄弁術の伝統がキケロ的古代からイタリア・ルネサンスを経て近代以降にどう引き継がれているか。あるいは仮説として、たとえば近代的合理主義の浄化作用によって「人格の完成」という古代的・ルネサンス的観念から雄弁術の伝統が漂白され、背景と文脈を失った単なる観念あるいは理念としてより純化した、と見なすべきか。ともかく、雄弁術がリアルに政治的・法的・文化的意味を担っていた時代(たとえばキケロ的古代)であれば具体的にイメージできただろう「人格の完成」というものは、近代合理主義を経て高度に抽象化してしまった結果、現代では内容を失ってただのお題目にしか聞こえない状況になっている。かつて「教養」と呼ばれていた何かが説得力を失っているのもそのせいかもしれない。
 ひるがえって。本書収録の諸論文は、科学革命以前(というか前夜)の、雄弁術がまだ大きな権威と説得力を維持していた段階における、具体的な「人格の完成」を当然の前提とするような教育論たちだ。現代的な「人格の完成」概念に至る道筋のヒントが何かないかと思って本書を手に取ったわけだが、結果として欲しかったもの(自分のストーリーに都合の良い言質)は手に入らなかった。というか、ますます混迷の度を深め、軽い眩暈に襲われているのであった。

【個人的な研究のための備忘録】個性
 欲しかったものの一つは「個性」という概念(の萌芽)だったが、「かけがえのない個人」というものを指し示すような言葉は皆無だった。モンテーニュの段階(16世紀後半のフランス)では明瞭に見いだせる「かけがえのない私」という観念は、15世紀イタリア・ルネサンスには見いだせない。むしろ14世紀ペトラルカのほうが近代的自我を彷彿とさせるくらいだ。まあ、「ルネサンス期にはかけがえのない私という個性観念は一般論としては成熟しなかった」と、しばらくはみなしておいていいのだろう。
 一方、「様々な特性を持った個体がある」という個性観念は極めて重要な論点として前面に打ち出されている。それは古代のクインティリアヌスにも明瞭に見られる考え方で、その論理をそのままそっくり引き継いだルネサンス期教育論が同じような見解を示しているのは当然と言えば当然ではある。まあ、まずは「様々な特性」という意味での個性観念がやたらめったら表明されていることは事実として押さえておく。(とはいえそれは西洋に特徴的な現象でもなく、東洋でも伊藤仁斎などが「性」概念を論究する際に盛んに主張していたことも忘れてはならない)。だから問題は、ここからどうやって近代的な「かけがえのない私」という個性観念に繋がるか、あるいは繋がらないかだ。具体的にはモンテーニュとの関係がポイントになるか。

「各人は生まれたときからその固有の才能をたいせつにしなければなりません。(中略)生来、生まれついているものがなんであるかを熱心に窮めることがすべての人にもっとも重要なこととなります。」(V.20頁)
「ある者にとっては、親たちの期待そのもの、あるいは幼児期からの習慣が障害となります。子どものころから慣れ親しんだことはおとなになってもたやすくおこないます。そして、そのゆえにこそ生み育ててくれた親たちの技術や職業を子どもはみずから選ぶのです。われわれの教育という仕事のもう一つの障害は、生まれた土地の流儀です。われわれは、そこで生活する人びとが承認し、おこなうことを純金の財宝でもあるかのように尊重するのです。そこで、人びとはその固有の人生の方向を選択することが、非常にむずかしくなっています。」(V.37-38頁)
「ところで、才能が多様な性質をもっていることは事実です。ある者は自分の思想を論証する論点と証明を、よういになにごとのなかにでも見いだします。ある者は、それとは反対に、そのようなことには時間をかけなければなりませんが、しかし判断においてはより深くかつすぐれております。(中略)また、ある者は才能にはめぐまれていながら、ことばがさわやかでないということもあります。(中略)ついで、抜群の記憶力をもった人びとがおります。」(V.53頁)
「思弁的で実務的な二重の才能にめぐまれている者は、いずれの方向に自分がより適しているかを各自が判断することによって、のぞましいとおもわれる学問研究に専念すべきです。ついで、才能のおとっている者、つまり法律用語でいう<土地につながれた者>は、普通にはなにごとにおいてもうまくいかないようにおもわれておりますが、しかしなにか一つのことで成功することを示しております。そして場合によってはかなりの力を発揮するものです。したがって当然のことではありますが、このような人びとは、彼らにもっともふさわしいある一つの教育に専念すべきです。」(V.54頁)
すべての学習者に画一的規則をもうけることはのぞましくないし、また各自が自分の能力の状態ならびにその程度を判断すべきであることをわたしはつけくわえたいとおもいます。」(V.57頁)

「父親は子どもたちに適したことをやらせて欲しいものです。「お前の性質や才能がお前をひき寄せるところに、熱心に従い、はげみなさい」と、キケロに答えたアポロンの神託をお聞きなさい」(A.101頁)
「彼等によって、息子たちがどんな修行や徳に向いているかということを知ることは、それほど困難なことではないでしょう。」(A.102頁)
「日々、子どもたちにどんな習慣が生じるか、どんな欲望が持続するか、彼らはどんなことにしばしば関心を示しているか、何に一番熱心なのか、そして、どんな悪い欲望にとらわれやすいかを、父親は注意深く観察して欲しいと思います。そうすれば、子どもたちの、多くの明瞭な特徴をひき出し、彼らを完全に認識することができるでしょう。」(A.103頁)
「子どもが生来の傾向を何がしか示しはじめる最初の日から、彼らがどんな性向を持っているかということにあなたは気がつくでしょう。」(A.104頁)
「父親は多くの場合、子どもがそれぞれ何にむいているか、かなりよく気がつくものです。」(A.105頁)
「私たちの子どもたちの漠然とした隠れた傾向に注意を払って認めた後で、天性にしたがって彼らがひかれていた傾向に反した、新しい他の道へ彼らを矯正し、導くことが、私たちにとって、非常に困難でほとんど不可能なことではないと思うのですか?」(A.122頁)
「多血質の人は憂うつ質のひとよりももちろん恋をしやすく、胆汁質の人は怒りっぽいということでもわかるように、本来、多かれ少なかれ人間の欲望には何らかの刺激が自然に付与されているということを、おそらく私は告白しなければならないでしょう。」(A.124頁)

天性は教育がなければ盲目であるように、教育は天性がなければ不具であります。両者とも訓練をしなければあまり役に立ちません。」(P.139頁)

【個人的な研究のための備忘録】習慣
 というわけで具体的な教育方法としては、特に幼少期は子どもの「個性」を見極めたうえで、悪い習慣を抑えて良い習慣を身につけさせることがポイントとなる。

「したがって、悪い習慣は大変ふさわしく、良く作られた天性をことごとく堕落させ、汚すと言うことができましょう。時を得た良い習慣は、理性的でない欲望や不備な理性をことごとく克服し、改めます。」(A.125頁)

 このあたりの理屈や筆運びはただちにジョン・ロックの教育論を想起させるところだ。自然科学革命を経た近代合理主義であっても、「習慣」という観念や教育上の意義について変更された気配は感じない。このあたりに「人格の完成」観念の連続性を考えるヒントがあったりするか。

【個人的な研究のための備忘録】体罰
 ちなみに体罰は徹底的に非難される。このルネサンスの伝統はエラスムスにまで引き継がれる。

殴打を用いるのではなく注意するべきです。たとえ、弟子を殴るのは許されることで、クリシップスがそれを非難しなかったとは言っても、そしてまた、「成人したアキレスが故郷の山で歌った時、彼はなお鞭をおそれていた」というユウェナリスの言葉がしばしば用いられても、私にとっては、クィンティリアヌスとプルタルコスの方がずっと重要であります。彼らによれば、子どもたちは、なぐったり、鞭をあてたりするのではなく、勧告や討論により、善い生活をするように導かなければなりません。殴打は奴隷にはよくても、自由人には適しません。」(P.141頁)
殴打からは憎悪が生まれ、おとなになっても残ります。学ぶ者にとっては教師に対する憎しみ以上に有害なものはありません。」(P.142頁)

 ただし、古代のクインティリアヌスが体罰を徹底的に非難しており、それを無批判に引き継いだルネサンス期教育論が体罰を否定するのも当然というところではある。ルネサンス期の具体的な状況から帰納的に体罰否定の論理が編み出されているわけではない印象だ。

【個人的な研究のための備忘録】自由諸学芸
 教育内容としては、もちろん自由諸学芸(人文主義)が全面的に推奨される。

「手職であれ商売であれ、あるいは財産の管理であれ、なりわいのもろもろのわざに専念している人びとは、自由学芸に没頭しながらもそれをいやしいなりわいにかえてしまっている人びとと同様に、実際にはすぐれた諸習慣とはまったく反対の事柄に専念しているのです。」(V.25頁)
「卑俗な諸技術がその目的としてかせぎを快楽とを目ざすように、徳と栄光とが自由諸学芸の目的となります。」(V.34頁)

 解説では以下のようになっている。

「これはヒューマニストたちの教育論の中心的テーマである。古典的人間教養研究Studia humanitatisは、完全で統合的な人間の形成をめざし、また人間を自由人とすることをめざす。Leonardo Bruniはhominem perficiunt(人間を完成する)という表現をしている。
 この定義については、セネカ、『書簡集』(Epistola 88, 2)参照。かれによれば「なぜ自由諸学芸とよばれるかといえば、それらが自由な人間にふさわしいものだからだ」。(Quare liberalia studia dicta sint, Vides: Quia honine libero digna sunt.)とされている。
 ヒューマニストたちが、自由諸学芸の教育的価値を重視していたことが注目されなければならない。それは、自由なる人間に装飾的なものとしてにつかわしいから、自由で人間的な学芸であるのではない。それが人間を人間たらしめ(古典的人間教養研究とよばれるのは人間を完成するからだ。Humanitatis studia nuncupantur quod hominem periciant.)、人間を形成し、光へみちびく古典文学lettereだからである。奴隷の状態から自由へといざなうのは古典文学研究によってである(人間を自由にするから、それゆえに自由なのである。idcirco est liberalis, quod liberos homines facit.)。」

 しかし率直に言って、現代的な感覚から言えば、「教養」なるものは単に「装飾的なもの」に過ぎず、それによって「人間を人間たらしめる」ようなものではない。おそらく、我々現代人には既に失われた何らかの前提を設定しなければ、自由諸学芸は「人間を完成する」ものにはならない。しかしその前提は、キケロを読んでもクインティリアヌスを読んでも、もちろんルネサンス期教育論にも見出すことはできない。その前提とは、たとえば奴隷の存在のようなものだ。ルネサンス期教育論は、学問を日常生活で役に立たせることを自由人に相応しくないことだと見なしている。日常生活に役に立たないことこそ人間を人間(自由人)たらしめる。そしてその具体的な内容は、政治や裁判の場で発揮される「雄弁」だ。政治や裁判の場で雄弁を発揮することだけが自由人(完成した人間)に相応しいと言われても、現代人にはもはや何のことやらサッパリだ。だから、現代においてリベラル・アーツなるものに権威と説得力を持たせようと思ったら、古代とルネサンスの遺産に頼るだけではうまくいかない。そんなわけで、古代とルネサンスで言われている「人間」とは、「奴隷」というものの存在を前提とすることで初めて理解できる概念だということを忘れてはいけないだろう。

【個人的な研究のための備忘録】大人と子どもの区別
 大人の嗜みとしては許されるが子どもからは遠ざけておくべきもの、という観念をいくつか見ることができた。

「舞踏や愛欲をテーマにした演劇から子どもを遠ざけておくことはのぞましいことです。」(V.28頁)
「子どもの時期には、特にブドー酒について子どもが節制するようにとわたくしは申しあげたいとおもいます。」(V.29頁)
「酒飲の傾向のある子どもほど不愉快なものはありません。」(P.147頁)

 淫猥な演劇やアルコールは子どもに相応しくないと見なされていて、「教育的配慮」の存在を確認できる。アリエスによればアンシャン・レジーム期にはなかった心性のはずだ。というわけで、アリエスが間違っていると見なすか、フランスがイタリアよりも2世紀ばかり田舎だと考えるか、というところだ。

【個人的な研究のための備忘録】歴史的背景
 解説の記述について考えてみたい。

「人間の個性ならびに能力の発達をうながす条件は、中世的秩序の崩壊にともなう不安定の意識の高まりにくわうるに都市生活そのものによっても準備されることになる。」(200頁)
「都市の独自の発展に由来する地方主義regionalismの伝統と意識は今日でも顕著にみられる。イタリア人としての民族的自覚よりもさきにナポリ人でありフィレンツェ人であるとする郷土意識は、都市的伝統にもとづくものだ。これは諸都市の独自性を前提とする意識であり、また都市内部においてはそれをささえ構成する市民たちの個性が尊重された。したがって文化的諸成果も市民による個性的能力のあかしとなるものであった。」(201-202頁)
「いじょうにみたようにルネサンス期イタリア都市はそこに展開される諸現実をその所与性、一面性においてうけいれるのでなく、むしろ現実との格闘をとおしてそれをつくりかえ、選択し、展望をきりひらくように、市民たちにせまったのである。そのような環境のもとで、市民たちはその運命にかかわる自己決定や独立独歩の精神を容赦なくせまられることとなり、それを主体的につちかわざるをえなかった。そしてその反映と興亡がそこで生活する市民たちの努力と資質にかかわる都市において、市民たちの多様な個性と諸能力が社会的に重視され、またその発達を可能とするような土壌の準備がなされたことはけだしとうぜんというべきであろう。」(202頁)
「ルネッサンス期も後半にいたるとペダントリーと古代作家の模倣の現象があらわれる。しかし、これはヒューマニズムの思想からすればあくまでも派生的現象であって、けっしてその本質ではない。その理想に個性的で創造的な、しかも実践的な人間の形成がかかげられるいじょう、模倣や衒学は自己撞着であり、その否定こそヒューマニズムのもとめてきたものだったからである。つまり、キケロを読むのは外面的にキケロに似ることのためではなく、自分自身のなかにキケロいじょうの個性と可能性とを発見することをめざしたからであった。」(205頁)

 都市国家形成を重要な契機と見る視点は教科書的な記述としては問題がないのだろうが、気になるのは古代との直接的な連続性である。たとえばピレンヌテーゼによれば西ヨーロッパがローマ文化を喪失したのは7世紀中盤のイスラムによる地中海封鎖によるが、イタリア半島だけはビザンツ帝国との繋がりを保ちながらローマ文化を一定程度保存できている。また12世紀シチリア王国がイスラムやビザンツとの交流の中で文化的に栄えていたこともよく知られている。だとしたら、イタリア・ルネサンスに見られる人文主義的伝統は、解説が言うような都市国家形成と市民階級の勃興を待つまでもなく、直接的にローマ帝国からの連続性を保っていたと考えることも可能だ。
 あるいは、人文主義が中世のスコラ学とも近代のサイエンスとも異なるユニークな教育論を持っていたことにも留意したほうがいいのだろう。たとえば日本で言う本居宣長の国学のようなものだと理解したらどうなるだろうか。本居宣長は市井の活動の中から中世の漢学とも近代の洋学とも異なる別のストーリを打ち立てた。一定の平和と安定と経済的余裕という前提の下、郷土的意識という土台に立ち、学問に対する熱意と情熱が既存の制度の外にユニークな学統を打ち立てた。そういう観点から言ってしまうと、人文主義と翻訳調で呼ぶより、イタリアで「ローマ学」が流行したと考える方が個人的には落ち着いたりする。

「これ[中世スコラ学]にたいして、ひとしく古代の著作をとりあげ過去にモデルをもとめながらも、非歴史的態度におちいることなくまさに歴史を動かす主体としての自覚から未来へ目をむけたのがヒューマニストたちである。この歴史における主人公としての意識から、古典研究は人間形成、つまり教育の問題としてとらえられることになった。」(204頁)
「基本テーマはあくまで人間形成の問題であり、とくに重要なのは教育における人間の多面的把握の必要の強調とその視点である。教育における人間の本来的自然の重要性が強調され、そこから出発して具体的な個々の子どもの個性と人間としての可能性との調和的均衡的な発達の人間形成にしめる役割がくりかえしのべられている。」(205頁)

 私の読解では、ルネサンス期教育論から「歴史における主人公の意識」を読み取ることはできない。確かに「具体的な個々の子供の個性」に対する関心は極めて高いのであるが、それが「教育における人間の多面的把握」かと言われると首を傾げざるを得ない。そう見えてしまうのは、私の勉強不足が原因なのかどうか。

アルベルティ他『イタリア・ルネサンス期教育論』前之園幸一郎・田辺敬子訳、明治図書世界教育学選集81、1975年

【要約と感想】モンテーニュ『エセー』

【要約】無理せず、自然体でまったりと生きていきましょう。どうせ私は私以外の何かになれないし、別の何かになろうと思ったら必ず不幸になります。金や名誉なんかは追い求めず、手の届く日常生活の幸せを噛みしめて、平凡に生きていきましょう。無学であったとしても、善良であるのが一番です。もちろん快楽を否定してもいいことはありません。たっぷり楽しみましょう。えへへ。

【感想】怪作といって言いのだろう。長く古典として読み継がれてきた理由が、実際に読んでみればよく分かる。飽きずに最後まで読めた。
 随所に見られる「自分語り」は同時代では類がないし、ところどころのコメントが妙に現代の状況にマッチしてドキリとさせられる。最初の方は人文主義的な教養を前面に押し出しているが、やはり本領を発揮して苦笑いを誘うユーモアが増えて来るあたりからがおもしろい。「近代的自我」の萌芽を見たくなる。

【個人的な研究のための備忘録】教育と自己同一
 本編の話題は多岐に渡って興味は尽きないのだが、私の個人的な仕事に関わる教育や子育てに関わる記述はかなり多いので、これを中心にサンプリングしておきたい。当時の状況を具体的に理解する上でも貴重な証言が多いように思う。また世紀の自己語りだけあって、「自己同一」に関わる洞察も興味深い。一緒にサンプリングしておきたい。

「われわれのもっとも大きな悪徳はもっとも若年の頃につくものであるから、もっとも大事な躾けは乳母の手中にあると私は思う。子供が雛の顎をひねったり犬や猫を傷つけたりして、はしゃぐのを見て喜ぶ母親たちがある。また、ある父親は愚かにも、自分の子供が無抵抗の百姓や召使を不当になぐるのを見て、男らしい魂の兆だと思ったり、あるいはその仲間を何かの意地悪い裏切やごまかしでだますのを見て、利発だと思ったりする。だが、これこそまさに残酷や、横暴や、裏切の種となり、根となるものである。」第1巻第23章

 幼少期の教育を重視する姿勢は、エラスムスなどルネサンス期の人文主義者に共通して見られる。第1巻の段階ではモンテーニュ独自の考えというより、人文主義者に共通する観点が示されているような印象だ。

「私は子供の頃、イタリア喜劇の中で、学校の教師がいつも道化役にされ、先生という名前がわれわれの間ではほとんど尊敬の意味をもたないことをしばしば残念に思った。(中略)いや、この習慣は昔からある。現に、プルタルコスも、ローマ人の間では、ギリシア人とか学校の先生とかいう語は非難と軽蔑を意味した、と言っている」第1巻第25章
「私はあの最初の理由を捨てる。そしてこの欠陥は彼らの学問に対する態度が間違っていることに由来するというほうがよいと思う。また、いまの教育法では生徒も教師も、より物識りにはなっても、より有能にならないのは不思議ではないというほうがよいと思う。本当に、われわれの父親たちの心遣いと出費は、われわれの頭に知識を詰め込むことだけを狙って、判断や徳操のことを少しも問題にしない。(中略)われわれがたずねるべきことは、誰がもっともよく知っているかであって、誰がもっとも多く知っているかではない。」第1巻第25章
「われわれは他人の知識で物識りにはなれるが、少なくとも賢くなるには、我々自身の知恵によるしかない。」第1巻第25章
「わが国の高等法院のあるものは、法官を採用するに当たって、知識だけを試験する。また、別の高等法院はそれ以外に、何かの訴訟の判決をさせてみて、良識の試験をする。私は後者の方法がずっとすぐれていると思う。」第1巻第25章

 詰め込み教育を批判して判断力や道徳性を養う教育を推奨する上に実技的入試方法を評価するところなど、現代の状況を想起せざるを得ない記述だ。このあたりから一般的な人文主義者と袂を分かっていく感じか。この姿勢は次の世紀のジョン・ロックで明確な表現を持つようになる。
 ただ、モンテーニュがキリスト教的な反知性主義の伝統を引き継いでいるだろうことも間違いない。トマス・ア・ケンピスとかイグナチオ・デ・ロヨラなどガチンコのキリスト教反知性主義の他にも、ルネサンスの元祖ペトラルカやエラスムスにも似たような姿勢を確認できる。モンテーニュが16世紀当時の状況を踏まえて実践的に考え付いたことなのか、あるいはペトラルカやエラスムスの範に従った修辞学に過ぎないのかの評価は、なかなか難しい。

「けれども実を言うと、私がここで申し上げたいのは、人間の学問のうちでもっとも困難で重大な問題は子供の養育と教育にある、ということにほかなりません。」第1巻第26章
「この世界こそは、われわれが自分を正しく知るために自分を写して見なければならぬ鏡であります。要するに私は、これが生徒であるお子様の教科書であるようにと望むのです。」第1巻第26章
「なおまた、この教育は優しさの中に厳しさをこめておこなわれるべきであります。普通、学校でおこなわれているようではいけません。学校では子供たちを学問へ誘うかわりに、実際には恐怖と残酷を与えるだけです。暴力と強制をやめてください。」第1巻第26章
「まず勉強の意欲と興味をそそることにまさるものはありません。さもないと書物をむやみに背負わされた驢馬が出来上がるだけです。」第1巻第26章

 モンテーニュは暴力一般に対する嫌悪感を前面に打ち出しおり、もちろん子どもに対する体罰も厳しく批判する。これもエラスムスなどルネサンス期人文主義の教育論に共通している。また意欲と興味を重視する観点も共有している。
 しかし教育課程に対する考え方については人文主義と大きく異なっているように思う。人文主義がギリシャ語やラテン語などの教養を最大限重要視するのに対し、モンテーニュは現実世界の在り様を重視する。その根拠については全編を通じても明らかにできないが、なんとなく自然科学の発展(コペルニクスへの言及はある)と新大陸発見(何か所かに言及がある)が関係しているような気はする。目の前で世界の在り方が大きく急激に変化している最中に、古典語よりも目の前の「世界」そのものを注視しようとする姿勢が説得力を持つはずではある。

「けれどもわれわれの習慣や意見が本性上、不定であることを考えると、私にはしばしば、すぐれた著者たちまでが人間について恒常不変な性格を打ち樹てようとやっきになるのは間違いであるように思われた。(中略)私にとっては、人間の恒常を信ずることほど難しいものはないし、人間の不定を信ずることほど易しいものはないように思われる。」第2巻第1章

 後に自分自身は恒常であると主張するモンテーニュだが、第二巻ではむしろ変化の方に傾いている。まあ、そもそもエセーは矛盾だらけの本だ。

「われわれは人を誉めるのに、子供の教育に熱心なことを取り上げはしない。いくら正しいことでも、当たり前のことだからである。」第2巻第7章

 どうやら16世紀には「子供の教育に熱心」なことは「当たり前のこと」だったようだ。重要な証言だ。

「たとえば、いま話している事柄についてもそうですが、生まれたばかりの子供を抱きしめる愛情というものが、私には理解できません。生まれたばかりの子供は、心の動きも体の形も見分けがつかず、どこにも可愛いと思わせるものをもたないからです。(c)ですから私は、彼らが私のそばで育てられることを喜びませんでした。(a)本当の正しい規律ある愛情は、われわれが子供たちを理解するのと同時に生まれて増大すべきものであります。」第2巻第8章
「私は、幼い精神を名誉と自由に鍛えようとする教育においては、あらゆる暴力を非難いたします。厳格と強制には何かしら奴隷的なものがあります。また、理性と知恵と巧妙によってなしえないものは、暴力によってはけっしてなしえないと考えます。」第2巻第8章

 子どもが可愛くないという主張は、実はキリスト教的原罪観からすれば不思議でもないし、中世に同じように子どもをクサすような詩があったことがホイジンガ『中世の秋』でも報告されているが、現代的な観点からは少々意表を突かれる。
 また改めて体罰を否定している。よほど嫌いなのだろう。

「同じ学校と同じ教育からでさえ、これよりも画一で一様な行為が出て来ることがありうるだろうか。」第2巻第12章
「最後まで徹底的に戦う闘技士を訓練する厳しい学校では、次のような宣誓をさせるのがきまりだった。(中略)それでもある年にはこの学校に入って命を失った者が一万人もあった。」第2巻第12章
「人間を害する病毒は、人間が自ら知識があると思うことである。だからこそ無知はわれわれの宗教によって、信仰と服従にふさわしい特性として、あれほどに讃えられたのである。」第2巻第12章
「神の知恵を知るのは知識よりもむしろ無知を介してである。」第2巻第12章
「ある人々は、「ある一つの、母体のように大きな、普遍的な精神があって、すべての個別的な精神はそこから出て行き、そこに帰り、この普遍的なものと常にまじり合う」と言った。」第2巻第12章
「三千年もの間、天と星とが地球のまわりを運行し、皆もそう信じていた。(中略)今日ではコペルニクスがこの説を立派に根拠づけて、あらゆる天文学の結論に正しく利用している。われわれがここから学ぶべきことは、二つの説のどちらが正しいかなどと頭を悩ましてはならないということではないだろうか。それに、これから千年後に第三の説が出て前の二つの説を覆さないとはだれにも保証できないのである、」第2巻第12章
「ところが、今世紀になって、一つの島とか一つの地域とかいうものでなく、われわれの知っている大陸とほとんど同じくらい広い、果てしもなく大きな大陸が発見されたではないか。」第2巻第12章
「われわれは愚かにもある一つの死を恐れているが、すでに多くの死を通過し、また別の多くの死を通過しつつあるのである。実際、ヘラクレイトスが言ったように、火の死滅は空気の誕生であり、空気の死滅は水の誕生であるばかりでなく、同じことはもっと明白にわれわれ自身の中に見ることができるのである。花の盛りの成年期が死んで過ぎ去ると、老年期がやって来る。青年期が終わると盛りの成年期になり、少年期が終わると青年期になり、幼年期が死ぬと少年期になり、昨日が死んで今日になり、今日が死んで明日になる。何一つとして同一のままでいるものはない。」第2巻第12章

 エセー中最大の分量を誇る「レーモン・スボンの弁護」の章だ。一般的に懐疑主義の観点で言及されることが多く、確かに懐疑派セクストゥス・エンピリコスからの引用も見られる。東洋的な無常観の表現も目立つが、これは古代ローマのオイディウスにも見られる考え方だし、実際にモンテーニュも引用している。またルクレティウスが極めて頻繁に引用されていることも目を引く。ルクレティウスはエピクロス派の唯物論者だ。また通奏低音としてキリスト教的反知性主義の考えが響いている。このあたりがモンテーニュの死の4年後に生まれるデカルトの懐疑に引き継がれているかどうかは興味深いところだ。
 教育学的な観点からは、アリストテレス的権威とか人文主義的全能感から完全に距離を置いているところが注目か。この懐疑の姿勢は、エセー全編で繰り返される日常生活に関わる実践的な道徳性を重視する姿勢と響き合っていて、まだデカルト懐疑的な科学主義には繋がっていかない。

「さて、我が国の教育が愚劣であるという問題に戻ろう。わが国の教育はわれわれを善良で賢明にすることではなく、物知りにすることを目指して、その目的に到達した。われわれに徳と知恵を追いかけ、抱きしめることを教えずに、それらの語の派生と語源をたたき込んだ。」第2巻第17章

 全編を通じて見られる教育に対する考え方がここでも繰り返されている。モンテーニュは知識の詰込みを批判し、日常生活を豊かにする道徳性を重視する。

「われわれの肉体の病気や状態は、国家や政体の中にも見られ、王国や共和国も、われわれと同じように、生まれ、花咲き、年老いてしぼむ。」第2巻第23章

 有機体論的国家観の表現があったのでサンプリングしておく。

「(a)プルタルコスはいたるところがすばらしいが、人間の行為を判断しているところは、とくにすばらしい。リュクルゴスとヌマを比較した箇所で、子供の教育と監督を父親に任せておくことがきわめて愚かであると言ったのは見事である。(c)アリストテレスも言っているように、たいていの国家は、キュクロプスたちのように、妻や子供の指導を、男の愚かで無分別な気まぐれに任せている。子供の教育を法律で規定したのは、せいぜい、ラケダイモンとクレタ島の国民くらいである。(a)国家のすべては子供の教育と養育の如何にかかっていることを知らない者があるだろうか。にもかかわらず、人々はこれを実に無分別にも、親の気ままに任せている。親がどんなに愚かで悪者でも一向にお構いなしである。」第2巻第31章

 「じゃあ誰に子どもの教育を任せるんだ」という疑問にモンテーニュは答えてくれない。この章は「怒り」について扱っていて、教育の話は冒頭に出て来るだけだ。とはいえ、教育を「法律で規定」することが良いことだと考えているらしいことまでは伺うことができる。

「だが、われわれの精神や学問や技術が考え出したものに対しては不信をいだいている。われわれはそれの肩を持つあまり、自然と自然の掟を捨て去って、節度と限度を守ることができなくなっている。」第2巻第37章

 この表現は即座にルソーの学問芸術論や自然主義教育を想起させる。モンテーニュがルソーにどの程度の影響を与えているかも気になるところだ。

「すべてのものがたえず動いている。台地も、コーカサスの岩も、エジプトのピラミッドも、世界全体の運動とそれ自身の運動で動いている。恒常不変ということさえ、やや緩慢な動揺にすぎない。私は私の対象[である自己]を確定することができない。それは生れつき酔っ払って、朦朧と、よろめきながら歩いている。」第3巻第2章
「世の著者たちは自分を何かの特別な珍しいしるしによって人々に知らせる。私は、私の全存在によって、文法家とか、詩人とか、法曹家としてでなく、ミシェル・ド・モンテーニュとして、人々に自分を示す最初の人間である。」第3巻第2章
生れつきの傾向は、教育によって、助長され強化されるが、改変され克服されることはほとんどない。今日でも、何千という性質が、反対の教育の手をすりぬけて、あるいは徳へ、あるいは不徳へと走っていった。」
「もしも、自分自身に耳を傾けるならば、自分の中のある特有な支配的な本性が、教育に対し、あるいは、この本性に反する様々な感情の嵐に対して、戦っているのを発見しない人はない。」第3巻第2章
私の判断は、いわば誕生以来、常に同一で、同一の傾向と同一の道筋と同一の力をもっているからである。世間一般の意見については、私は子供のときから、常に私の留まるべき場所に落ち着いている。」第3巻第2章
「うぬぼれるわけではないが、同じような状況の下では、私はいつでも同一であろう。」第3巻第2章

 ここに見られる描写は、もう個人的には「近代的自我」と呼んでみたくなる。肩書きなどには左右されない、一貫した性格としてのわたし。
 そして私の一貫性に対して、教育なるものが無力であるという描写にも注目すべきか。いわゆる「氏か育ちか」論争で、モンテーニュは氏の方に軍配を上げている様子だ。ただし似たような考えはクィンティリアヌスにも見られる。

「われわれは女性を子供のときから恋愛に奉仕するようにと仕立てる。彼女らの魅力や衣装や知識や言葉等、すべての躾けはこの目的だけを目指している。彼女らを躾ける女の家庭教師たちは、恋愛に対して嫌悪の念をいだかせようと絶えず言いきかせながら、かえって恋愛の姿だけを心に刻み込む。」第3巻第5章
「さて、書物を離れて、実質的に、単純に語るならば、恋とは結局、(c)望ましいと思う人を(b)享楽しようとする渇きにほかならない。(中略)ソクラテスにとっては恋愛は美を仲介とする生殖の欲望である。」第3巻第5章

 「恋愛」に対する即物的な見解が示される章だ。ここで表現されている「恋愛」の中身が近代的な自由恋愛を指しているかどうかについては十分な注意を要する。さすがルクレティウスの徒だ、とでも言っておくべきところか。隠語として「ウェヌス」を使い、連発するところは、なかなか滑稽だ。

「われわれは大砲や印刷術の発明を奇跡だなどと叫んでいたが、世界の別の端の支那では別の人々が千年も前からそれを使っていたのである。もしもわれわれが世界について見ていないのと同じ分量だけのものを見ることができたら、おそらく、事物が絶えず増加し変化することを認めるにちがいない。自然にとって唯一のもの、稀有なものは一つもない。」第3巻第6章

 物事が常に変化するというオイディウス的なものの見方が繰り返されている描写だが、「印刷術」というテクノロジーに対する見解が示されているところなのでサンプリングしておく。

「アテナイ人は、いや、ローマ人もそうだが、学校で話合いの練習をすることを大いに重んじた。現代ではイタリア人がいくらかその跡をとどめ、それで大いに得をしている。」第3巻第8章

 第3巻第8章「話し合う方法について」は、論破を良しとする現在の風潮に対しても有効な見解を示しているが、もちろんモンテーニュにとっては宗教改革に伴う世界の分断が念頭にあるだろう。ともかく人間は進歩しない。

「子供のない境遇にもそれなりの幸福はある。子供というものは、それほど強く欲するのに値しないものの一つである。特に子供を立派に育てることがきわめてむずかしい現代ではそうである。(中略)(b)だがそれでも、一度子供を得たあとに失くした人にとって、それが哀惜に値するのは当然である。」第3巻第9章

 なんだか現代のSNSに書いてあっても違和感のない表現ではある。が、モンテーニュが同時代を「子供を立派に育てることがきわめてむずかしい」と理解していたことには注目しておきたい。知識中心主義の詰込み教育によって日常生活を豊かにする道徳教育がないがしろにされている風潮を憂いていると考えていいところか。

ソクラテスについて「彼はまた常に同一であった。一時の衝動からではなく、性格から、もっとも逞しい人間性にまで自己を高めた。いや、もっと正しく言えば、何も高めなかった。むしろ、すべての強さ、激しさ、困難さを、自分の本来の自然の程度にまで引きおろして服従させたのである。」第3巻第12章
「われわれが安穏に生きるためにはほとんど学問を必要としないソクラテスも、学問がわれわれ自身の中にあること、それの見いだし方と用い方を教えている。自然にそなわる能力を超えた能力はすべて、むなしいよけいなものだと言ってよい。」第3巻第12章

 このソクラテスは、プラトンの描くソクラテスではなく、クセノフォンの描くソクラテスだ。政治家としての業績もある実践的なモンテーニュは、観照的なプラトンよりも実践的なクセノフォンんのほうに親和的なのだろう。一方、ここで同一(アイデンティティ)の表現が現れることにも注意しておきたい。

「子供らを育てる仕事は自分で引き受けてはいけない。いわんや、妻になどまかせてはいけない。庶民の、自然の掟の下で、運命が子供らを作り上げてくれるのに任せるがよい。習慣が粗食と艱難に鍛えてくれるのに任せるがよい。」第3巻第13章

 これも直ちにルソーの自然主義教育を想起させる表現だ。というか、『エミール』の要約みたいになっている。ルソーが影響を受けたかどうかだけでなく、モンテーニュによって読者層の側にルソーを受け入れる準備が整っていた可能性も考えていいのかもしれない。

モンテーニュ、原二郎訳『エセー(一)』岩波文庫、1965年
モンテーニュ、原二郎訳『エセー(二)』岩波文庫、1965年
モンテーニュ、原二郎訳『エセー(三)』岩波文庫、1966年
モンテーニュ、原二郎訳『エセー(四)』岩波文庫、1966年
モンテーニュ、原二郎訳『エセー(五)』岩波文庫、1967年
モンテーニュ、原二郎訳『エセー(六)』岩波文庫、1967年

【要約と感想】ボイス・ペンローズ『大航海時代―旅と発見の二世紀』

【要約】15世紀前半ポルトガルの航海王エンリケ王子による西アフリカ航路の開拓から、コロンブス、バスコ・ダ・ガマ、マジェランの三大就航を経て、17世紀前半の北米植民までの、2世紀に渡る発見と開拓と征服と植民と交易と旅と海賊行為と希望と挫折、さらに科学的な地理学や地図製作の進展をコンパクト(といっても分量は780頁)に概観します。

【感想】原典は70年前の出版ということで、もはや古典に属する。オリエンタリズム批判を経た今日の目から見たら如何なものかと思うような無邪気な記述も散見される。そういう難点を脇においておけば、大航海時代の全体像を理解するための最低限の知識をコンパクトに吸収するにはうってつけの本なのだろう。訳も非常にこなれていて、というかそもそも日本語として極めて達者で、楽しく読める。

 そしてやはり気にかかるのは、大航海時代がこれほどの巨大なインパクトを西欧世界に与えているにも関わらず、少なくとも本書からは人文主義や宗教改革との内的関連がまったく見いだせないところだ。かろうじてエラスムスやトマス・モアの名前が出てくるものの、表面をかすった程度の関係にしか見えない。フランソワ1世やヘンリー8世やローマ教皇が海外雄飛に大きな関心を寄せているのに対し、エラスムスやモアやマキアヴェッリやルターは無関心のように見える。大航海時代・宗教改革・ルネサンスはまったく同時代の出来事であるにもかかわらず、お互いに無関係に進行しているようだ。
 たとえばそれは、未来の人が1969年の世界を見たときに、アポロ11号(科学技術の発展)と学生紛争(教育)と「男はつらいよ」公開(芸能)という出来事がそれぞれまったく無関係に見えるのと同じようなものと考えていいのか。
 ともかく、私の本業の教育史に関して、ルネサンス期の人文主義の展開と性格を考える際には、人文主義者たちが「大航海時代に冷淡だった」という事情を頭の片隅に置いておく必要がある。ルネサンスが「古代世界の復活」であるのに対し、大航海時代とは「古代世界の否定」だ。古代の文献の探索(人文主義)では絶対に辿り着けない新しい知識と経験と技術を、大航海時代はヨーロッパにもたらした。プトレマイオス(人文主義的教養)の知識は、大航海時代(最新のテクノロジー)の経験によって覆った。人文主義者たちはカトリック教会に対する改革者としての役割を果たす一方で、サイエンスに対してはむしろ反動者として機能したのではないか。ルネサンス期人文主義というものを考えるときには、大航海時代という補助線を一本引くだけで、ずいぶん世界の見え方が変わるように感じる。

【個人的な研究のための備忘録】時代区分
 大航海時代の観点からは1515年頃が大きな区切りだという知見を得た。

「一五〇〇年当時、ヨーロッパの読書界が持っていた新発見に関する知識は、印刷物または地図のいずれによるにせよ、真に微々たるものでしかなかった。例えばコロンブスの第一次航海にしても単に彼の『手紙』の様々な版があるだけで、しかもそれは精々のところスケッチ程度の代物に過ぎず、そこから新発見の土地に関する本当の概念を得ることは不可能であったに違いない。(中略)。一般的に言えば一五〇〇年頃の古典地理学者達は、事態の進行と地球の姿の発展形式については大して判っていなかったのである。」674-675頁
「一五一五年までには事情は一変してしまう。というのは、この新しい世紀の最初の一五年間は他に類を見ない期間であって、史上最大級の地理知識の拡大が起きた時期なのである。(中略)。実にこの期間たるや比類を絶する地理思想の大革命時代であったと言ってよい。」675-676頁

 ちなみに人文主義の観点からは、1516年が奇跡の年とされている。というのは、この年にエラスムス『校訂版新約聖書』、トマス・モア『ユートピア』(これだけ色濃く新大陸の影響が確認できる)、マキアヴェッリ『君主論』(刊行は後)が現れるからだ。そしてもちろん翌1517年にはルター「95箇条の提題」が控えている。これに対し、大航海時代は1515年が大きな画期になるということだが、この符合の一致(そしてそれにも関わらず両者の没交渉)は何を意味しているのか。

ボイス・ペンローズ/荒尾克己訳『大航海時代―旅と発見の二世紀』ちくま学芸文庫、2020年

【要約と感想】フランチェスカ・トリヴェッラート『世界をつくった貿易商人―地中海経済と交易ディアスポラ』

【要約】イタリア発の歴史学ミクロヒストリアが果たすべき役割は、マクロヒストリーとの関係から考えれば極めて重要です。具体的には商業資本主義の発展過程について決定的に重要な知見を与えてくれます。たとえばマクロヒストリーの文脈では、ユダヤ人とアルメニア人は祖国を追われて世界中に離散(ディアスポラ)しつつ民族的一体性を土台に世界的商業の発展に貢献してきたと理解されてきましたが、ミクロヒストリアの知見からすれば婚姻や契約の形態のような内部的な構造の違いが大きく、乱暴に結論を出すべきではないということが分かります。

【感想】誤字が多くて訳もこなれておらず少々読みにくかったけれども、巧遅よりも拙速を重んじるべき分野と内容のようにも感じたのでこれでいいのかもしれない。

 本書を手に取ったのはルネサンスと資本主義(あるいは民主主義)の関係を深めたい(イタリア都市が果たした役割など)という理由からで、その期待には予想以上に応える内容だった。資本主義といっても産業資本主義ではなく商業資本主義に限られるが、レビューが豊富でヨーロッパの経済史の最前線動向が分かったような気になっている。さすがに最先端の経済史的議論の内容にはついていけてないが、この領域で何を具体的な問題としているかは仄かに理解した。
 伝統的には、資本主義の離陸・発達は家族的経営(親密な関係を前提とする)から企業的経営(自由な契約を基本とする)への転換が鍵を握っていると理解されているが、その問題意識は現代でも引き継がれている。そこで具体的には合名会社(原始的な無限責任)から合資会社(有限責任によって自由な契約を促進)への発展過程が検討の対象となり、ルネサンス期イタリア商業都市が格好の史料を提供する。合名会社から合資会社へ転換しているとすれば、親密性を前提とした経営から自由な契約へと脱皮している証拠となり、資本主義が発達している指標となる。特に祖国を失って世界各地に離散(ディアスポラ)したユダヤ人が組織的に発展させたと考えられてきた。
 が、著者はそのストーリーに異議を申し立てる。商業書簡という具体的な資料を用いて、実はルネサンス期のユダヤ人たちも完全に自由な契約を活用して商売を繰り広げていたわけではなく、「信頼」を確認・確保するために前近代的な手段に依拠していたことが明らかになる。ユダヤ人たちが法的なサンクションを利用できない(つまり民法的な自由契約を全面的に採用できない)ことが側面からの支援となる。ということで、ルネサンス期イタリア商業都市に資本主義の萌芽を見ることについては、一定の留保をつける必要がある、ということになる。

 となると、ここからは教育学に関心を寄せる個人的な感想に過ぎないが、やはりルネサンスは近代というよりは中世的な枠組みで捉えておいたほうが無難ということになるかもしれない。というのは、本書の知見を踏まえれば、自由な契約を土台とした経済発展は「民法による契約の保護」が確保されているところでしかありえず、それはつまり「国民国家の後ろ盾」が重要であることを示唆する。中世において国民国家の保護がないところでサンクションを発動する仕組みは主に地方領主権力と教会権力に頼っていたのだろうが、世界を股にかける自由貿易では頼りなさすぎる。近代国民国家は商業的なサンクションを保障する期待を担って膨張してきた感がある。だとしたら民法・商法の整備が極めて重要な話になってきて、西欧の場合はもちろんフランス革命およびナポレオン法典が分水嶺となる。イタリア・ルネサンスは、各都市の軍事力を背景としてサンクションを保障しており、それが前近代的地中海貿易の規模では機能していたとしても、果たして大航海時代後の大西洋貿易や産業資本主義の規模には対応できたか。
 それを踏まえると、イタリア・ルネサンスの「人文主義」についても、宗教から人間を解放した近代性(世俗性)を見るよりは、むしろ科学的な唯物論に対する反動として理解するほうが適切なのかもしれない。問題は「ラテン語」の扱いになる。もちろんイタリア(ペトラルカやダンテ)であればラテン語はただの古語なので馴染み深いだろうが、エラスムスのようにオランダを根拠としたインターナショナルな学者がラテン語で書かなければいけない本質的な理由はなんなのか。エラスムスなどルネサンス期人文主義者が大航海時代の時代的熱狂に対して冷淡に見えるのはどういうことか。また本書は人文主義者がオスマン・トルコに剝き出しの敵意を示していたことを強調しているが、それは彼らが世俗性に対して反動的だったことの証拠になるのかどうか。
 しかしそれはもちろん即座に人文主義が中世的ということを意味しない。本質的には大航海時代がもたらした広範な俗物主義的堕落に対するカウンターとして、従来の宗教的禁欲主義に期待することができず、新たな対抗馬として「人文主義的」な高踏性を持ち出してきたということなのではないか。プラトンやキケロ―は、キリスト教がなかった時代にも俗物主義に陥らず高踏性を保ったところが尊かった、とみなされたのではないか。そうなると「科学的唯物主義」と「人文主義」の関係は、脱宗教の共犯者というよりは、近代におけるライバルとみなすべきものとなる。そうなればペトラルカやエラスムスがアリストテレス主義(科学的唯物主義)に対して冷淡だったのも首肯できる。逆にアリストテレス主義(もっと言えばエピクロスの徒)にとっては、宗教勢力だけでなく人文主義も敵陣営に属していることになる。しかし宗教勢力にとってみれば、人文主義はかつての自分たちのポジションを奪いかねない強力なライバルということになる。人文主義の内部にしても、宗教に近いか世俗主義に近いかで立ち位置はまったく変わってくるのだろう。

 まあ本書とは関係ないことをいろいろ考えたが、インスピレーションが湧いてくる本だった、ということだ。

フランチェスカ・トリヴェッラート『世界をつくった貿易商人―地中海経済と交易ディアスポラ』玉木俊明訳、ちくま学芸文庫、2022年