「歴史散歩」カテゴリーアーカイブ

【東京都の桜の名所2019】石神井川→飛鳥山公園→上野公園→千鳥ヶ淵→播磨坂

桜が咲いたので、東京都の桜の名所をぐるっと巡ってきました。(2019年3月29日)

飛鳥山公園まで自宅から歩いて行ける距離にあるので、まずは石神井川沿いをぶらぶらします。
途中に「音無もみじ緑地」という公園があるのですが、実は紅葉だけでなく桜も綺麗だったりします。

他に「音無さくら緑地」という公園もあるのですが、さくら緑地よりももみじ緑地の方が桜が綺麗な気がします。

飛鳥山公園は、江戸時代からの桜の名所だけあって、とても綺麗です。

午前中にも関わらず、そこかしこで既に宴会が始まっておりました。

飛鳥山公園(JR王子駅)から上野公園(JR上野駅)まで、京浜東北線で10分程度で行けます。

上野公園はお年寄りから子ども連れ、あるいは外国人の方々まで、大混雑の大賑わいでした。

上野公園から千鳥ヶ淵へ。千鳥ヶ淵は、個人的には半蔵門から九段下へ抜けるルートが好きです。

江戸城の西、内堀沿いに南北に広がる千鳥ヶ淵公園でも既に宴会が始まっておりました。

千鳥ヶ淵公園を抜けた後は、お堀の西側の千鳥ヶ淵緑道ではなく、お堀の東側の北の丸公園の方に向かいます。ボート乗り場がある千鳥ヶ淵緑道はめちゃめちゃ混んでいるのですが、北の丸公園の方は人が少なめで、少しゆっくりできます。

風情から言うと、やはり千鳥ヶ淵がいちばんいいなあ。

最後は播磨坂さくら並木へ。九段下駅から大手町を経由して茗荷谷駅で降ります。茗荷谷駅から東大植物園の方に向かう途中に、播磨坂さくら並木が続いています。

並木の下では酒盛りが始まっておりました。

薄曇りで肌寒かったのが多少残念ではありましたが、春の訪れをたっぷり満喫した一日でした。

【群馬県前橋市】上泉城と剣聖上泉伊勢守信綱のお墓

新陰流の創始者にして剣聖の名も高い、上泉伊勢守信綱ゆかりの地を訪れました。上泉城の跡地と、伊勢守のお墓がある西林寺です。

上泉城の跡地は、現在は自治会館となっています。伊勢守の銅像が鎮座しております。新影流の基本である「無形の位」という構えだそうです。かっこいい。

上泉城跡地を遠くから眺めると、こんな感じ。

このあたりが本丸と二の丸のようです。

城の全体像は、上泉駅近くの案内板で確認することができます。2012年に訪れたときは生誕500周年記念事業の一環として綺麗なパネルが設置されていましたが、2019年現在は風雨に曝されてボロボロになってしまっております。

地図を見ると、東と南を川に囲まれた、天然の要害であることが分かります。

さて、本丸の跡である自治会館の敷地には、生誕500年事業等の記念碑が並んでいます。

ちょっと驚いたのは、「剣聖・上泉伊勢守」という歌を作った上に、ボタンを押すと歌が流れるような装置が設置されていることです。

試しに押してみると、大音量で歌が鳴り響きます。素晴らしい演歌なのではありますが、真っ昼間の静かな住宅街に大音量で3番まで鳴り響くと、多少気まずい感じはいたします、はい。

ボタンは二個所あって、自治会館の壁には歌詞も展示されています。

2012年に訪れたときには歌のポスターも展示されていたのですが、2019年再訪時にはなくなっていました。日焼けして色落ちしてしまったのかもしれませんね。

さて、上泉城本丸跡地の自治会館から西へ向かうと、かつての「一の郭」であった西林寺に着きます。こちらには伊勢守のお墓があります。

ハカマイラーとしてはぜひとも訪れたいところです。
西林寺にも顕彰碑が建立されております。

こちらには伊勢守信綱の略譜も記されています。

お墓はとても質素な佇まいでした。なんとなく人柄が偲ばれるような気持ちがしました。

2012年に訪れたときには、自治会館にいらっしゃった方から記念冊子をいただいたり、居合わせた地元の政治家の方に車で駅まで送っていただいたりと、たいへん良くしていただきました。再訪できて、とても嬉しく思いました。また遊びに行きたいと思います。
(2012年訪問、2019年再訪)

【茨城県常陸太田市】太田城で、関東七名城全制覇

 常陸太田市にある太田城に行ってきました。これで「関東七名城」を全て制覇したことになります。

 とはいえ、太田城の遺構は破壊されてほとんど残っておらず、現在、本丸は小学校となっております。

 校門から覗くと、石碑が見えます。通りかかった学校の先生に声を掛けると「気の済むまでどうぞ」ということだったので、気の済むまで見学することにしました。

 石碑には「舞鶴城址」とあります。太田城の愛称が舞鶴城だったのですね。

 石碑の裏には、太田城の由緒が記されています。源平合戦の頃から関ヶ原の合戦まで、波瀾万丈の城であったことが分かります。

 本丸跡は学校敷地として整備されていて、城の遺構のようなものを確認することはできません。ただ、かなりまとまった広さの平地が広がっており、かなり大規模な城であったことが想像できます。

 坂を下りて台地の中腹から学校を見上げると、かなりの比高差が確認できます。

 関東の城なので石垣はもちろん確認できないのですが、この造成ぶりを見るだけでも、土の城として相当の規模を誇っていただろうことが推測されます。

 Googleマップの航空写真で見ても、かなり大規模で堅固な城であっただろうことが分かります。

 上の地図に赤線を引っぱったラインは断崖となっているところです。太田城は西も東も断崖で囲まれた要害であったことが分かります。通常は舌状台地の先端に本丸を築くことが多いように思うのですが、太田城は台地の中程に本丸を構えています。西と東は断崖となっているので、南からの攻撃に備えた作りになっている感じです。

 本丸の南側を守る二の丸は、現在は若宮八幡宮になっています。

 南と西が断崖となっている、守りの要衝です。本丸(現在は小学校)との間には、人の手が入っているであろう堀切っぽい痕跡に道路が通っています。

 八幡宮なので、戦いの神が祀られているわけですね。

 由緒書にも太田城二の丸であったことが記されています。

 南側には階段があり、坂の下に降りてみます。これだけでも相当の比高差で、土塁が残っていたらかなりの迫力だっただろうことが想像されます。

 ところで、太田城本丸(小学校)から北に500mほどのところ、Googleマップに「金砂山城跡」の印がありましたので、「?」と思いながら寄ってみました。

 現在は小さな祠が残っているだけで、城についての説明板も何もありません。祠には「金砂神社」という名前がついておりますが、特に由緒書きもないので、どういう神様が祀られているかはよく分かりません。

 というか、いわゆる金砂合戦等で著名な金砂山城は、太田城からはずいぶん北にある西金砂神社だと認識していたので、ここにある「金砂神社」が「金砂山城跡」とされるのには、ちょっと腑に落ちないところがあります。Googleマップには嘘が多いのではありますが、この金砂山城がどういう根拠に基づいているのか、気になるところです。

 近くの郷土資料館は月曜日で閉まっていたので、もう一度訪問して事情を確認しようと思い、太田城を後にするのでした。
(2019年2月訪問)

【茨城県大子町】袋田の滝に行ったら、ぜひ月居城にも登りたい

 茨城県の「袋田の滝」に行き、ついでに月居城に登ってきました。

 まず月居城を目指します。というのは、袋田の滝から月居城へは急激な上り坂で、行くのがとても大変だからです。月居城から滝へは下り道が多く、らくちんなのです。
 で、袋田の駅から、月居城の登山道入口までタクシーで向かいます。1,500円くらいかな。登山道入口は旧道にあって、旧道入口に「通行止め」と書かれた車止めがあったのですが、タクシーの運転手は気にせずに車止めの脇をすり抜けて旧道をがりがり登り、登山道入口まで連れて行ってくれました。

 登山道入口まで車で来られると、かなり楽です。行程をGoogleマップで確認すると上図のような感じで、駅で配布していたハイキングマップでは下図のような感じです。地図下部の「月居山登山口」までタクシーで、その先の緑色の部分が今回の徒歩行程部分です。

 登山口から緩やかな道を北東方面に登ると、まず「月居峠のたたかい」があった場所に出ます。

 水戸天狗党はここで敗れて西へ向かったということか。月居峠の戦いの様子は、こちらの記事「天狗党西上大子で戦う」に詳しいですね。
 現在の峠には、当時を偲ぶよすがは何も残っておりません。

 峠を越えると少し広い場所に出て、月居観音堂が見えます。ここから道が四方向に分かれ、袋田の滝に繋がる道と月居城に向かう道がありますが、まずは城に向かいます。

 三叉路には城の説明板が立っております。

 うっすらと雪の残る道を上ると、崖が迫ってきます。足だけで登ることはできず、ロープを頼りに登っていくこととなります。足を踏み外すと、えらいことになります。鎧を着たまま、どうやって登ったんだ?

 厳しい斜面をなんとか登りきると、本丸に出ます。

 山頂には月居城の由緒を示したモニュメントが建っています。佐竹氏の部下が治めていた城でしたが、佐竹氏の秋田転封に従って廃城となった模様です。
 曲輪の跡は比較的良好に残っているように見えました。

 上の写真は、二の丸から本丸を見た図です。本丸が少し高く造成されているのが分かります。周囲は絶壁となっていて、そうとう守りは固かったように思います。

 さて、城跡を満喫したら、もと来た絶壁を恐る恐る降りて、袋田の滝に向かいます。途中で「月居観音堂」に登ります。

 階段等が朽ち果てておりますが、眺めは良好です。絶景。
 ここから袋田の滝への道が、けっこうな急峻です。下りが多いのですが、勾配が急なので、翌日は筋肉痛になりました。袋田の滝から月居城に向かうのは、登りばかりで、かなり大変だと思います。

 途中で「生瀬の滝」に向かう分かれ道があります。せっかくなので寄っていきましょう。

 まるで蜀の桟道のようです。

 遠くに「生瀬の滝」が見えます。秋はとても良さそうですね。

 袋田の滝に向かう道の途中で、大岸壁が目に入ります。袋田の滝の対面側にある石壁です。袋田の滝からは見えない景色で、このハイキングコースを通る人だけが堪能することができます。いやあ、すごい景色なのですが、写真だと凄さが分からないなあ。あの絶壁具合は、なかなか他で見ることはできない気がします。

 しばらく行くと、袋田の滝を上から眺め下ろす場所に出ます。こちらも写真では凄さが伝わりにくいのですが、たいへん良い景色です。

 天狗岩等の景勝地も抜け、袋田の滝の麓まで来ました。この時点で既に他に類のない景色となっておりますが、まだまだ序の口です。

 トンネルを通ってエレベーターで昇って観瀑台に出ると、まさにセンス・オブ・ワンダー。絶景が広がります。いやあ、すごい。このパノラマ感は、写真だと絶対に伝わりませんね。日本には他で見られない、ここだけの特別な光景です。

 袋田の滝はテレビの映像などでも何度も見ていて「こんなもんだろう」と先入観がありましたが、ぜんぜん違います。これは生で見てみないと分からない凄さですね。圧倒的です。

 さて、袋田から電車でひとつ北の駅が常陸大子ですが、改札から出て右手に銅像が建っています。根本正という人の銅像です。

 地元の人でもどんな人か認識していなかったのですが、明治教育史を専門的にやっていると、ちょくちょく出くわす人です。国会議員となって教育法制に尽力した人で、未成年者飲酒禁止法や未成年者喫煙禁止法の成立に貢献しています。明治初期は、子どももけっこう平気で酒を飲んだり煙草を吸ったりしていたのですが、この人の活躍で法的に禁止されるようになったんですね。他にも国語改革など、教育関係の国会議論ではよく顔を出します。

 地元では、「水郡線開通の功労者」として顕彰されているんですね。

 そんなわけで自然の美と人間の仕事を堪能して、常陸大子をあとにするのでした。紅葉の綺麗な季節にまた来たいですね。
(2019年2月訪問)

【千葉県印西市】小林城と巴御前の墓(伝)

千葉県印西市の小林城と巴御前の墓(伝)に行ってきました。

小林城は南北朝初期に作られ、戦国時代に大規模な改修が行なわれ、秀吉の小田原征伐で滅びたもののようです。もちろん戦国期には北条家に従っていたのでしょうけれども、関東戦国史ファンとしては南北朝初期にどのように情勢に絡んでいたのかが気になるところです。
城の由緒は小林市NPO法人の記事「小林城について」に詳しいです。先土器時代からの遺物が発掘されたとのことで、古来から人が住みやすい場所だったんでしょうね。美濃や常滑の焼き物が出土しているところからも、そこそこ有力な武将が治めていただろうことが推測されます。

が、城山を道路が掘削してしまっていて、当時の面影は全然のこっておりません。

上の写真は城山を東から見たところで、ド真ん中を道路が突っ切っておりますが、本来ならここはお城の山があったところです。いやあ、もったいない。
道路面の崖には「登らないで」という看板が立っていて、山の中に入ることはできません。

城山の西側に回ってみると、なんとなく人の手が入った跡は確認できますが、いつ手が入ったものかは定かではないですね。こちらからも山に入ることはできません。鬱蒼とした藪となっております。

城山の南斜面は墓地になっております。南側は昔からの道になっていて、当時の地形は残されているように思います。舌状台地の端に城が築かれており、けっこうな比高差があることも分かります。

真西から城山を見晴らすと、上のような感じ。なかなかいいロケーションに築かれているように見えます。

城山の北西に公園があって、そこに「小林城跡」の標柱が建てられています。が、ここが小林城の何だったのかは、まったく分かりません。城山の方が城の本体だって案内板くらい建ててもいいんじゃないかなあと思ったり。

さて、小林城跡から西に2kmほど行くと、「巴塚」があります。治承寿永の乱で、木曽義仲の愛妾だった巴御前のお墓だという言い伝えがあるところです。

本当に小さな塚と石碑が残されているだけですけれども。

しかし巴御前の墓と呼ばれているものは全国にいくつも残されています。滋賀、富山、長野、新潟、栃木、神奈川などの他、千葉県内でも佐原にもあったりします。全国的に巴御前人気があったことがうかがえますね。
まあ、小林市の墓が本物かどうかを疑ってかかるのは、野暮というものかもしれません。

(2019年2月訪問)