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日本保育学会「関東地区研究集会」の個人的まとめ

2018年2/11にお茶の水女子大学で行われた日本保育学会「関東地区研究集会」に行ってきました。汐見稔幸先生の講演を聞きましたが、保育だけに限らず、新学習指導要領の背景を理解する上でも有益な内容だったと思うので、私が理解したことを書き留めます。

法令の改定を、世界史的な流れで理解する

研究集会のテーマは、「保育所保育指針」「幼稚園教育要領」「幼保連携型認定こども園教育・保育要領」(以下、三法令)の改訂に関してでした。そして汐見先生の話は、会場が期待していたような(?)具体的な保育実践に関わるものではなく、抽象的な理論の話でした。が、抽象的な理論の話でなければならなかった本質的な理由があったと思います。三法令改定の意味は、お上が命令するから逐条解釈するのだという姿勢では理解できず、世界史的な背景を踏まえて理解しなければならないというわけです。

この「世界史的な流れ」というのは、具体的には「20世紀型の教育から21世紀型教育へ」という動きです。この大きな流れを把握しておかないと、三法令の改定の意味がわからないということです。そして、この「20世紀型の教育から21世紀型教育へ」という世界史的動向は、いったん「19世紀型教育から20世紀型教育への転換」を振り返ると、分かりやすくなります。この19世紀型から20世紀型への教育の転換のことを、教育史では「新教育運動」と呼んでいます。

新教育運動:19世紀型教育から20世紀型教育へ

新教育運動を推進した人物として、教科書にはデューイ、キルパトリック、モンテッソーリといった名前が登場します。それぞれ個性的な教育を展開しましたが、古典的な教育とは異なる観点が共通して6点ほど挙げられます。
(1)子ども中心主義:興味関心をベースに
(2)活動主義:なすことによって学ぶ
(3)生活主義:生活の充実を目標とし、生活の中で豊かに学ぶ
(4)ホーリズム:人格全体、特に感情や自我の育ちを重視
(5)性善説・向善説:プロテスタンティズムの子ども観を転換
(6)民主主義の担い手育て:自分で自分を統治する教育

しかしこうした新教育運動の試みは、教養中心で主知主義的な19世紀型教育からは疑惑の目で見られることになります。20世紀の教育は、新教育と詰め込み教育が葛藤する100年となります。

20世紀教育の展開と限界

実際の20世紀の教育は、新教育が目指したものにはなりませんでした。現実には、産業化や工業化に必要な人材を大量に養成する教育となりました。産業至上主義に対応して選抜システムが洗練され、知能指数や学歴が信仰されるようになり、主知主義的で知識中心主義の教育が蔓延し、企業の中で駒として有能に働く能力の育成が追求されることになります。
こうした資本主義に適合する教育に対抗して、マカレンコ等の共産主義的教育が登場しましたが、それは結局は全体を優先する集団主義教育に過ぎませんでした。資本主義教育と共産主義教育の対立は、全体を優先して「個」を犠牲にするという意味では、結局は主知主義内での争いに過ぎませんでした。

しかし、20世紀後半に至り、こうした教育の限界が認識されるようになります。たとえば現在では、民間企業が率先して20世紀型教育を批判しています。20世紀型教育は指示された作業をこなす能力や枠に縛られたノウハウを育てることはできるものの、それ以上の価値を創造する力が弱く、民間から不満が噴出しています。国民の側も、不登校やいじめ、失業問題や環境問題等、教育が機能不全を起こしていることに不満を表明しています。同時に、情報機器の発展等によって学校以外の様々な教育機関が進展し、学校の相対的位置が低下しています。

こうして、20世紀型教育の限界が認識され、21世紀型教育への転換が叫ばれるようになっているわけです。

21世紀を見通したときに出てくる課題

さて、21世紀型教育が必要となるのは、これまでの教育では対応できないような課題に人類が直面しているからです。新たな課題は、主に3つあります。
(1)解決策がまだ見つかっていないが、解決していかないと地球自体がもたないという深刻な問題を解決するための力の養成。
(2)価値観の多様化と地球規模で人々が交流する時代にふさわしい知性の涵養。
(3)AI、ロボット、コンピュータがあらゆる生活に入り込んで情報処理をしてしまう社会での人間らしさの涵養。

これらに加えて、日本特有の課題もあります。
(1)日本の教育は、「個の充実」、特に「主体であること」の自覚と能力育成が弱く、組織の一員になるための教育へと偏っている。
(2)市民になる力の涵養、民主主義の担い手としての自覚とその力の教育の弱く、シティズンシップ教育が不足している。

20世紀教育の限界を突破する方策

こうした限界を突破するために、3つの方策が考えられます。
(1)すでに20世紀初頭に議論し実践してきた新教育運動の知恵からもう一度学び、必要な修正をしながら課題に対応する。
(2)この100年の実践、生活主義を引き継いで発展させる。
(3)シティズンシップ教育など新たな課題に対応する。

方策(1)新教育運動の知恵

倉橋惣三らが世界新教育運動から学び取った知恵を、もう一度振り返ってみると、それらが21世紀的教育が求める「非認知能力」や「社会情動的スキル」と通じていることに気がつきます。新教育運動の人格主義的性格は、感情・意志・主体性等の育てを重視しており、これは21世紀教育が追求する「心情、意欲、態度」とリンクしています。社会情動的スキルという考えには、心理学や社会心理学における情動研究の進展が反映しており、これがアタッチメントの再評価に繋がってきています。これらが、三法令改定における「資質・能力」という概念に反映しています。
三法令が言う「資質・能力」という概念は、倉橋惣三の仕事をしっかり振り返ることで、明確になっていきます。倉橋の仕事を学び直し、引き継いで、必要な修正を施しながら発展させていくことが、21世紀型教育の確立に結びつきます。

方策(2)生活主義の引き継ぎ

生活の中で学ぶという考えを精緻にしたのはデューイで、それを日本に紹介したのは宮原誠一の仕事です。倉橋惣三が言う「生活を、生活で、生活へ」も、この考えに共鳴しています。

「生活」とは英語では「life」ですが、「life」とは「生命」でもあり「日々の営み」でもあり「人生」でもあり、それらを串刺しにした概念です。人間は生活=いのちの営みを充実させることで必要な文化を身につけ、教育はそれを手伝い、ときには少しコントロールし、社会に必要な市民として子供を育てる営みと言えます。

生活主義の根底には、子供は自ら育っていこうとする存在だという子ども観があります。それを宮原は「形成」という独特の言葉で総称しました。一方で「教育」のことを、「形成」への関わりであり、その首尾良い具体化のための援助であると定義しました。現代の日本では、形成を具体化するための援助のことを「環境づくり」と呼んで、環境を通じた教育を目指しています。倉橋惣三が言う「保育の四層構造=自己充実、充実指導、誘導保育、教導保育」も同じことを言っているわけです。

方針(3)シティズンシップ教育

新たな教育課題として特に市民教育が挙げられますが、具体的な実現を目指して導入されたのが総合教育でした。前回の学習指導要領改訂では総合教育が後退したように見えますが、今回の改訂は総合教育の再登場であり、さらに言えば乳幼児期からの開始という特徴があります。乳幼児期教育は、シティズンシップ教育という観点から小学校以降の総合教育と結びついていくことで大きな意義を発揮すると言えます。

総合教育を成功させるためには、教育の3つの層の統合を考えなければいけません。すなわち(1)個別知(2)実践知(3)人格知の統合されたものです。この統合を目指すために必要となるのが、「主体的・対話的で深い学び」というものです。これを単に「教える方法」だけに矮小化せず、「目的」そのものであることを理解する必要があります。

保育学会の役割

というわけで、保育という営みを、生涯にわたる教育という大きな枠の中に積極的に位置づけていくことが重要になってきます。保育とは乳幼児教育学に他なりません。この大きな背景を見失っては、具体的な保育の方針も見えてきません。
こういう観点を得ると、たとえば保育の五領域についても考え直していく必要が見えてきます。たとえば具体的には、ニュージーランドの教育指針「テファリキ」等と比較したとき、日本の五領域には将来の市民を育成していくという視点が弱いのではないかと思われます。生涯にわたる学習という視点が乏しいということでしょう。

学会は、そうしたことを議論していく場です。ラディカルな議論をしていきましょう。

そんなわけで、単に三法令の逐条理解なんかしても大した意味はありません。改訂の背景にある時代の流れを大きな観点から理解していかなくてはいけません。その理解を促進するためには、20世紀の新教育が目指したものを振り返って学び直すことが極めて重要になってくるわけです。

個人的感想

学習指導要領本文には、20世紀初頭の新教育運動について振り返るような記述はまったくありません。あるいは、宮原誠一や倉橋惣三が行った仕事をリスペクトしているような記述もまったくありません。だから、学習指導要領だけ読むと、先哲の仕事をいったいどう考えているのか、何を引き継ぎ何を発展させるかという問題意識があるのかどうか、たいへん不安になるわけです。
が、汐見先生の話を聞く限りでは、先哲の仕事を十分に踏まえ、その重要性を理解した上で、さらに新たな課題を見据えて修正し、学習指導要領なり保育所保育指針が構成されているだろうことが伺えます。逆に言えば、こういう話がなければ、学習指導要領や保育所保育指針が本当に何を目指しているかは見えてこないように思います。そういう意味で、この講演の内容は、逐条解説なんかよりも、はるかに本質的な理解に繋がる内容だったと思います。

(以上、あくまでも私が講演を聴いて理解し考えたことを私の観点からまとめたものであって、誤解があった場合は汐見先生の責任でないことは書き添えておきます。)

A級順位戦とC級2組順位戦

C級2組順位戦で藤井四段が勝ち、C1への昇級を決めました。一期抜けで、すごいなあ。あとは、増田五段も勝って自力昇級の目が復活したので、こちらも注目。

で、世間の耳目はC2に集まっているようだけれども、個人的に興奮しているのは、同日に行われたA級順位戦。なんと豊島八段が負けて、名人挑戦の目が6人に残るという大混戦になったのだった。6人が6勝4敗で並んだら、パラマス方式のプレーオフになるわけですが。豊島八段が6人のパラマス方式プレーオフから5人抜きで挑戦者になるのが、個人的には一番盛り上がる展開だけれども。羽生竜王が名人挑戦というのも胸熱だし。はてさて、どうなるのか、とても楽しみ。

そして気になるのが、A級順位戦の降級者。一人は残念ながら屋敷九段に決まってしまったのだけれども、もう二人の枠が大問題。最終戦に因縁(?)の渡辺棋王-三浦九段の直接対決が組まれていて、負けた方が降級する可能性が極めて高いという、ものすごい緊迫感(降級が決まるかどうかは深浦九段の勝敗にもよる)。

将棋界の一番長い日は、本当に長い一日になりそうです。

朝日新聞の「公立小中、独自配置の教員1万人」記事に対して、教育学者として思うあれこれ

朝日新聞DIGITALの記事で、「公立小中、独自配置の教員1万人 多忙化解消など図る」という記事が配信されたが、強い違和感を抱いたので、思ったことを記す。

教員加配は多忙化解消のためなのか?

記事では、「各教委が国の定数では不十分だと判断し、独自の予算で定数を超える教員を配置している」と言っている。それ自体は事実としても、理由の説明に疑問がある。記事では教員数を増やすのは「教員の多忙化」のためだと言っているが、私はそう聞いていない。私が聞いた理由は、「少人数学級の実現」だったり「特別の配慮を必要とする生徒への対応」だったり「教育困難校対策」だったり「習熟度別指導」の実施だったりした。「多忙化」への対応というのは、最近打ち出された「働き方改革」に伴って出てきた理由だろうが、その前からずっと教員加配は行われてきた。多忙化解消という理由は、ミスリードの可能性が高い。
そして、この記事のミスリードが問題になるのは、事態の本質が見えなくなるからだ。

人件費の国庫負担が3分の1ということ

記事中では、しれっと「人件費も3分の1を国庫で負担している」と書いているが、実はここに問題の焦点があることに触れないといけない。15年ほど前は、国の負担は2分の1だった。残りの2分の1は、各自治体が負担していた。ところが、小泉改革の「三位一体改革」によって、教育的な効果についての議論がほとんどされることもないまま、国の負担が3分の1に切り下げられた。地方の負担が3分の2に増えた。
差し引き6分の1だとバカにしてはいけない。地方財政を最も圧迫しているのは、公教育費なのだ。公教育費負担が6分の1増えると、ただでさえ貧窮していた地方財政を破綻に追い込みかねない額になる。
もちろん、政府もそんなことは承知していて、代わりに「地方交付税交付金を増やす」と約束していた。だから地方は「義務教育費国庫負担が減っても、代わりに交付金が増えるから問題ない」と考えていた。が、ふたを開けてみたら、地方交付金は増えなかった。2000年に総額21.4億円あった地方交付税は、2016年には20.5億円となっている。地方交付税交付金は増えず、義務教育費の補助金が減っただけだった。
が、もちろん政府もそんなことは承知していて、「税源を地方に移す」と約束していた。これが「三位一体」というやつだ。というわけで、2007年から所得税が減り、住民税が増えることとなった。そして地方は「ふるさと納税」をめぐって熾烈な争いを繰り広げ始めた。税源を確保して潤う自治体も出てきた。しかし一方、破綻したり破綻寸前の自治体も出てくることになる。一般的に言って、地方財政は大赤字に追い込まれていく。今日配信の記事「「誰も関心がない」自治体財政で、今何が起きているか」を読むと、複雑な気分になる。

自治体の格差拡大が、義務教育を壊す

簡単にまとめると、小泉改革の結果、金持ちの自治体と貧乏の自治体で、格差がかなり広がった。この貧富の差が教育の質を直撃する。国の決めた定数を超えてさらに教員数を増やすことができるのは、もちろん金持ちの自治体だ。貧乏な自治体は国の補助金を当てにできない以上、教員を増やすことはできない。だから、地方ごとに教育の質に差が出始める。全国一律平等だった日本の義務教育の基盤が崩れつつある。それを見越した裕福な親は、公立学校から脱出して、子どもを私立学校に入れたがるようになる。私立学校に行く裕福な家庭の子供と、公立学校から脱出できない子どもの学力格差が広がっていく。
つまり、教員数の問題は、もともと「教員の多忙化」とかそういうレベルの話ではなく、税金と結びついた制度の問題として把握されなければならないのだ。義務教育の危機として理解されなければならない問題だ。(いま義務教育が持ちこたえているとしたら、様々な圧力を受けながらも公立学校の先生たちが頑張っているおかげだ。それこそ多忙を極めながら)

非正規雇用教員の増加

そして同時に問題なのは、各自治体が単に教員定数を超えて「独自配置」をしているわけではないということだ。実際には、正規教員の数を削って、非常勤や臨時採用といった非正規雇用の数を増やしているに過ぎない場合が多いはずだ。たとえば正規教員を2人雇うお金で非正規教員を3人雇えるという場合、正規を切って非正規にすれば、見かけ上の教員数は一人増えるわけだ。記事では、このカラクリがまったく見えてこない。
確かに、各自治体が教育予算を独自に付け加えて正規雇用を増やしているのであれば、教育の質にとってはとても良いことだろう。しかし実際は、「少人数学級の実現」や「教育困難校対策」や「習熟度別指導」の実施を目指して行われた教員数増加は、だいたい非正規採用枠の増加によってまかなわれた。あるいは、正規教員の給料切り下げによって財源が確保された。馳浩が2009年の参議院文部科学委員会で指摘したとおりだ。(馳浩は、教育の金を確保するために、かなり頑張って仕事をしているように思う)。

問題の本質は、時間ではなく、金

そんなわけで、この問題を取りあげる場合、「時間」に焦点を当てるのは、100%間違っているというわけではないが、問題の本質に目を覆う結果になる恐れが強い。問題の本質は、「金」にある。誰が誰に金を払っているのか、という問題だ。「誰が」については、国と地方の責任のあり方の問題になる。義務教育費国庫負担を3分の1に切り下げたのは、果たして正解だったか。ややもすれば世間は学力低下を「ゆとり教育」のせいにしがちだが、実は「教育に金を出すのを渋った」のが本質的な原因だった可能性を疑っていいのではないか。「誰に」については、正規雇用と非正規雇用の問題になる。非正規雇用の増加とその悲哀の実態は、「教室を覆う格差と貧困」を参照だ。
確かに「教員の多忙化」が解決すべき大きな問題であることに間違いはないが、それは「独自配置1万人」とは別種の問題である可能性が高いわけだ。

 

※1/22追記 同じような趣旨の批判記事がアップされていた。妹尾昌俊「先生の数が多少増えても、学校は忙しいままだ

阪大の出題ミスについて教育学者として思うあれこれ

2018年1/6、大阪大学が「平成 29 年度大阪大学一般入試(前期日程)等の理科(物理)における出題及び採点の誤りについて」を公表した。 この問題に対する反応が、物理学者と教育学者とでかなり異なったことが気になったので、思ったことをつらつら記す。

大学関係者として

まず、不利益を被った学生たちは、本当にかわいそうだ。大学側として誠実な対応をするのは当然だと思う。再発防止のための取組みも真剣にしていかなければならない。
そしてこれは阪大だけの問題ではない。「他山の石」という言葉もあるが、全ての大学関係者が気持ちを引き締めなければならないと思う。

尾木直樹の発言に対する違和感

それはそうとして、気になったのは物理学者と教育学者で、問題に対する反応がかなり違ったことだ。まあ、教育学者と言ってもサンプルは尾木直樹だけではあるが。彼は「被害学生には何の落ち度もない」と言っていて、それ自体はその通りだと思う。私もそう思う。ただ、阪大の対応が「初歩的」で「杜撰」で「謙虚さが欠落」と言っているのには、違和感を持つ。なぜなら、本当にそう言い切れるためには、出題をなぜミスしたかの具体的な検討が必要なはずだが、彼はその作業をまったく行っていないからだ。内容そのものを完全にスルーして、「形式的」な問題指摘に終始している。この態度でも、確かに一般的で形式的な教訓を引き出すことはできる。しかし逆に、この問題だけに固有の事象を捉えることは放棄する態度と言える。
一方、物理学者たちはさっそく当該問題そのものの具体的な検討に入った。この問題を単に一般的・形式的な出題ミス問題にとどめず、どのような固有の事情があるかを突き止めようとしたのだ。固有の内容を突き止めようとする物理学者たちの態度と、形式的で一般的な批判で終わる教育学者の態度の違いは、どこから生じるのか。ここが私が持った違和感である。

実際に問題を解いてみよう

まず、教育学者に欠けているのは、当該の物理問題を実際に解いてみようとする態度である。というわけで、私は実際に問題に取り組んでみた。(問題そのものを知らない人は、阪大の公式見解pdfをご確認ください)
問題を見た瞬間、正直、「めちゃめちゃ簡単な問題だなあ」と思った。こんな簡単な問題で解答が3つもあるとは、にわかには信じがたい。数式を使わなくとも、10秒もあれば答えは出る。と思った。

ということで、出した答えは「d=1/2nλ-1/4λ」。両辺を2倍すれば、阪大の当初の模範解答となる。
が、しかし。まさかこんな簡単な問題で紛れがあるはずがない。どこに落とし穴があるかと改めて考え直してみると、私が「音」というものの性質を見落としていることに気づいた。単純に「音=波」と考えてはダメで、波は波でも音は「粗密波」であることを考慮しなければならない。音が「粗密波」であり、音源から360度放射されているを考えると、音叉から出る音はy軸上の正と負で同位相になっているだろう。ということで、改めて考え直すと。

どう見ても答えは「2d=nλ」となる。つまり最初の回答はまちがっていたことになる。
と思った瞬間に、さらに「あれ?」となる。というのは、壁で波が反射する時、粗密波は位相が反転するんだっけ?というのに確信を持てなくなったからだ。位相が反転するなら「2d=nλ」でいいのだが、反転しないなら位相をズラす必要があって、答えは「2d=nλ-1/2λ」とならなければならない。「-1/2λ」をつけるかつけないかを決めるのは、単に波の性質を一般的に知っているだけでは不十分で、「波としての音の本質」というものを理解していなければならないのだ。
ここまで来て、当初抱いた「なんて簡単な問題だ」という感想は見事に裏切られる。実は「音の本質」を聞いてくる、なかなか要点を突いた問題のように見えてきたからだ。実際に問題を解いてみれば、教育学者の方もひょっとしたら違った感想になったかもしれない(変わらないかもしれない)。

では、どこが問題だったのか?

じゃあ、実際のところ、この問題の何が間違っていたのか。それはもはや25年前に受験物理を囓っただけのシロウトには荷が重い。物理学者たちの解説を傾聴するしかない。たいへん参考になったのは、藤平氏の解説である。解説はこちら
正直言ってもはや細かい説明にはついて行けてないのだが、いちおう「点音源」という表現に問題の核心がありそうだということだけは掴んだ気がする。そして「音叉」というものが、理想音源として扱うには地獄のようなものだということも。
つまり、私の理解が正確なら、事は単純な「物理の問題」ではなく、「世界設定」の問題だ。むしろ、単純な「物理の問題」であったら、常識的に考えれば、解決までこんなに時間がかかるわけがない。「世界設定」の問題だったからこそ、解決まで様々な紆余曲折を経なければならなかった可能性はあると思う。いやまあ、教育学者の言うように、単に「杜撰」で「謙虚さが欠落」していた可能性もゼロではないけれども。

物理の日本語問題

ここまで考えて思い出したのが、AIとして東大受験を目指し、偏差値57.1まで行ったという「東ロボくん」のことだ。(参照「「東ロボくん」が偏差値57で東大受験を諦めた理由」)
意外なことに、東ロボくんは数学や物理がけっこう苦手だという。AIなんだから計算は得意だろうと思っていたら、どうやら事はそう単純ではないようだ。AIにとって、日本語問題文の読み取りと理解が、特に物理ではかなり難しいらしい。物理では、問題を解く前に「世界設定」を理解する必要がある。あるいは暗黙の世界設定に乗っかって問題を解く必要がある。どうやら現在のAIでは、この世界設定というものにまだついてこられないようなのだ。ディープラーニングによって地理や歴史の穴埋め問題には簡単に対応できるAIも、世界設定を理解した上で問題に取り組むレベルには届いていないらしい。
となると、「物理」という世界は、人々の一般的なイメージとはかなり異なり、実はあまりにも人間くさい領域ということすら言える。だって、「世界設定」ができるのは人間だけなのだから。私が尾木直樹の発言に抱いた違和感の源は、ここにあるのかもしれない。彼は、なんとなく「物理なんだから答えは一つで間違えるわけないでしょ。指摘されても間違いを認められなかったのは担当者が傲慢だったせいだ」と考えているように見えるのだが、私から見ればそう断言できる根拠はない。これは、AIではまだ理解できない「人間くさい」領域だからこそ起きた問題だったのではないかと思えてくるのだ。
だからといって、もちろん阪大のミスが免罪されるわけではない。再発防止のために、阪大だけでなく、すべての関係者が気を引き締めていかなければならないところだ。

ところで、この問題を受けて。大学入試改革に伴って導入される「思考力・判断力」を問うような「人間くささ」を前面に打ち出した新テストにおいて、どのように評価の 客観性を確保するかは、極めて困難な課題であることが分かる。新テスト導入にはたいへんな混乱が起こることが容易に予想できるわけだが、さて、文部科学省はどう対応するのだろう。人ごとではないので、さらに動向に注意して、しっかり対応していきたい。

さらに、ロンブー淳の青学受験に対し、教育学者として思うあれこれ

有益な批判と温かいアドバイスをたくさんの方々からいただいたので、ありがたく参考にして、改めて書き起こしてみました。

(1)敬称について

結論から言うと「さん」づけはしません。が、それは決して無礼な振る舞いを意図的にしてやろうというわけではないことは、ご理解いただきたいなあと思います。「さん」づけしてなくても必ずしも無礼には当たらないという形式的な理由については、このページの末尾で説明します。
が、より重要なのは本質的な理由です。思ったのは、単に「さん」づけすればいいのかというと、それで納得されるはずがないだろうということです。本当に心がこもっていないのに、表面的に「さん」をつけて誤魔化すのでは、まったく意味がありません。逆に「さん」づけしてなくても、ちゃんとリスペクトしていることが伝わりさえすれば、問題は起きないし、起きなかったはずです。
ですから、本質的な問題は、私が彼をリスペクトしているかどうかについて大きな疑問が持たれているということであって、形式的に「さん」がついているかどうかではありません。で、読み直してみると、いちおう私が彼をリスペクトしていることはちゃんと、しつこいほどしっかり書かれていましたが、ただ抽象的な表現に終始していたことが大きな問題であるように理解しました。そこで、まずそこを抽象的ではなく、具体的な表現で書き起こすのがいいかなと。

ちなみに、それとは別に、漢字を間違えるのは最悪だ! 不快に思われた方々におかれましては、たいへんなご無礼を働いたこと、重ね重ね申し訳ありません。謹んで謝罪申し上げます。
というか、みっともないし恥ずかしい! 大反省。

(2)リスペクト

さて、彼の臨機応変なトーク力や、出演者の持ち味を引き出す司会力、どんな企画にも対応する適応力など、持っている様々な「力」については、ここで改めて私が繰り返すまでもないでしょう。ちなみにこの様々な「力」は、いま教育界で大きなテーマになっている「21世紀型スキル」とか「ソフトスキル」と呼ばれているものを考える上で大きなヒントになります。が、それは後に考えるとして、まず、世間ではあまり言われていないけれども、私が特に素晴らしいと思っている点を明らかにしておきます。
個人的に素晴らしいと思っているのは、城! 城であります。城を前にしたときのはしゃぎっぷりや、武将について語っているときの嬉しそうな顔は、ほんと、人を幸せにします。素晴らしい。特に私のような城マニアにとっては、彼が強調する「守る側の視点」というのが、実に素敵です。城好きはだんだん増えてきたけれど、多くは「攻める側の視点」から城のことを考えます。だいたい城に行く時は、しばしば「攻める」という動詞を使いますしね。ですから、彼の言う「守る側の視点」というのは、なかなか一般の人に理解される姿勢ではありません。けれども、これが分かると城というものが一気におもしろくなるわけですよ。こういう重要ポイントが分かっている人とは、ぜひ一緒に城を歩きたい。楽しいに決まっている。
そもそも我々が「城」って言ったとき、世間一般の人が思い浮かべる「城」のことを言ってませんからね。世間一般の人が思い浮かべるのは「城」ではなく、ほぼただの「天守閣」に過ぎません。我々が「城」と呼んでいるのは、ただの「天守閣」なんかではなく、広大な縄張りが張り巡らせられた構造物全体や、あるいはその周辺の城下町や街道をも含めた地域全体を指しているわけですよ。建物なんてもちろん一切ないし、石垣すらなく、土塁や堀などの土木工事のわずかな痕跡しか残っていないような「城」の数々。世間の人は「それ、城じゃなくて、城跡じゃね?」とか聞き返してくるけれど、違うんです。それが我々の言う「城」なんです。
そんな城の魅力を語りながら一緒に歩きたいと思わせる芸能人は、彼の他には春風亭昇太と中島卓偉などの名前を挙げられます。彼らと一緒に行くなら、特に鉢形城とか杉山城あたりが盛り上がるんじゃないかな。杉山城の土塁の屏風折りなんて見たら、絶対にみんなで大はしゃぎだ。超楽しそう。そして彼なら、こういう城の魅力を、ブラタモリ的に、世間の人々にわかりやすく伝えられるんじゃないか。池の水をぜんぶ抜く番組の魅力だって、まあ企画の力が一番ではあるけれども、それに加えて彼が純粋に楽しそうにやっているからたくさんの人に伝わるわけで。そういう資質は、本当にピカ一だ。そういう資質を、城の魅力を伝える仕事に使って欲しいと、心から願ってるわけですよ。

でもそんな彼が受験チャレンジを発表し、受ける大学が青山学院大学だって聞いたとき、「?」ですよ。「?」。なんで青学?

(3)オードリー春日との比較

たとえばロンブー淳の大学受験チャレンジが発表されたとき、
「さあ、果たして淳はどこの大学を受けるのか?」
「奈良大学の受験を決意しました。」
「えっ? 何で?」
「なぜなら城郭研究の第一人者、千田嘉博教授がいる大学だからです。」
だったら、「なるほど、城ね」で、すごく分かりやすいわけです。が、実際は奈良大学じゃなくて、青学でした。なんで青学なのか、その理由は、今に至るまでよくわかりません。まさか、奇妙な走り方を矯正してもらうために原晋監督に教えを請いに行くとかじゃないわけでしょう。しかし、オードリー春日が東大受験を発表して、しかもけっこう多くの人が彼のチャレンジと春日のチャレンジの比較をして、しかもネット民たちが平気で「春日の方がすごい」とか言いだし始めたときに、私のモヤモヤ感の源が明らかになりました。
確かに、偏差値だけで比べるのなら、東大受験を目指す春日の方がすごいかもしれません。でも春日の場合は、東大に入って能力を伸ばすのが目的ではなく、ビディビルや潜水と同じで、ある決まったルールと基準に則って自分の限界に挑戦することが目的になっています。東大に入ることそのものが目的なのではなく、「入れるかどうかを試す」ことが目的になっています。でも、ロンブー淳の場合、大学受験の目的は、そういうただの「力試し」でしたっけ? 違うでしょと。彼の場合、ただの「力試し」がしたいわけじゃなくて、本気で学びたいと思ったわけでしょ? 「力試し」で東大を受けるのと、「本気で学びたい」から青学を受けるのでは、まるで意味合いが違うのだから、本来は比較不可能なチャレンジのはずです。比べちゃいけないし、そもそも比べられないもののはずです。それなのに、多くのネット民が彼と春日を比較した。あるいは、本来は比較できないはずのものが、簡単に比較できてしまった。ここに違和感の源があります。

(4)数字で比べられない力

そもそも、淳の持ち味は、世間的なモノサシでは測ることができず、数字に変換なんかできない力にあるわけですよ。たとえば、二人を走らせたら、確実に春日が勝つでしょう。おそらくあらゆる身体能力の数値では春日の方が上でしょう。勉強させても、春日が勝つでしょう。数字に変換できるスペックで言えば、春日の方が上なわけです。じゃあ、だからといって、今の淳のポジションを春日に代えれば、番組はもっとおもしろくなるのか? と聞けば、誰だってそのおかしさに気が付きます。彼らの価値は、そもそも数字に変換できるものではないからです。
まあ、芸能界は、あらゆる能力を視聴率という数に変換して、一律のモノサシで評価を下す世界でもあるわけですが、少なくとも彼らはその世界での競争を、身体能力とか偏差値などという数字上の優劣で勝ち上がってきたわけではないはずです。自分の個性や持ち味は何で、自分はどんな武器を持っていて、その武器をどこでどう使ったらいいかという、そういう工夫を重ねて、努力を積んで、知恵を絞って、自分を信じてキャリアを積み上げてきたはずです。そしてその力は、これからの不確かな時代を生き抜くのに絶対に必要な力であり、芸能界だけではなく全ての人に必要な力です。
一流大学を出さえすれば人生バラ色だなんて時代は、とっくに終わっています。いまや、誰もが身体能力とか偏差値とかいう比較可能な数字ではなく、自分だけが持っている武器を磨きながら戦うことが必要な時代になっています。わかりやすい数字に変換できる力に頼ることができず、自分だけが持っている武器を自覚して磨き上げることで今のキャリアを築きあげた彼の才能と知恵と努力は、変化の激しい21世紀を我々が生き抜くための極めて優れたモデルになるはずです。そんな力を持っている人間が、細々とした知識を持っていないくらいで、自分の子供の教育を見てあげられないなんてことは、ありません。英単語の一つや二つを知っているよりも、はるかに人生で重要なことを彼は知っているはずだからです。自分を信じて戦っている父親の背中を見て、子供が何も感じないわけがありません。

(5)教育の本質

「教育の本質」とは何かということについて、古来ギリシア時代から「その人が本来もっている可能性を引き出すこと」と考えられてきました。しかし今、教育とは、人間が持つ多様な力を数字で比較できるもの(学力とか偏差値とか呼ばれる何か)にせっせと変換し、本来は比べられなかったものを比較可能なものに落とし込み、優劣をつけて選別するものと考えられています。ただそれは本来「選抜」と呼ばれる機能に過ぎず、教育の本質とは違っているものです。「選抜」の発想に取り付かれた人は、彼と春日を簡単に比較します。しかし教育を「その人が本来もっている可能性を引き出すこと」という本質的な観点から考える人は、彼と春日のチャレンジを比較することをバカバカしいと思うはずです。
が、私が違和感を持ったのは、今回の受験チャレンジが、本来は誰とも比較できない個性を持っていた彼を、わざわざ人と比べられるフィールドに引っ張り出しただけに過ぎないのではないかというところです。比べてはいけないものを、わざわざ比べられるものに変換しているだけではないかということです。彼を単なる「選抜」の世界に押し込んだだけで、教育の本質が見失われているのではないかという危惧です。
彼本人の「学びたい」という気持ちは尊いもので、それを否定したいわけではないことは、もう分かってもらえていると思います。私が言いたいのは、同じ「学ぶ」にしても、単に「選抜」の世界に押し込めるのと、教育の本質を大切にするのとでは、まるで意味が違うということです。仮に同じように受験にチャレンジするにしても、さらにそのプロセスをバラエティ番組として編成するにしても、もっと彼の個性や持ち味を大いに発揮できるようなやり方があるはずです。そして私は教育学という学問をやっているので、その可能性がかなり明瞭に見えた気がしました。しかもその可能性は、他の多くの若者が抱える課題をも明らかにしてくれます。だから、見解を述べたわけですが、その内容は前の文章に過不足なく書かれているから、繰り返しません。

(6)春日に対するフォロー

ちなみに春日も、彼が持っている自分だけの武器を磨きながら戦っているのであって、そしてそこが彼の魅力だと認識されているはずで、単なる数字に変換されるような能力だけで評価されているわけではないはずです。彼の場合は、ナンバーワンを目指すことを通じてオンリーワンを掴もうとするという、なかなか困難な道を進もうとしています。それは純粋に凄いなあと思います。が、まあ、彼が合格すると他の受験生が不合格になってしまうという受験の場合は、彼一人だけを応援するわけにはいきませんけれども。

(7)青学に対するフォロー

青学の史学科の先生方も立派な業績の方ばかりで、別に奈良大学に劣るということを言いたいのではありません。ただ、近世農漁村史や中世交通史の専門家の方も城郭研究についての指導は問題なくできるでしょうが、それでも城郭研究の第一人者につくのとはやはり違うわけです。数字で比べて優劣がどうこうという話ではなく、個性とマッチングしているかどうかという話です。
まあ、中世交通史を通じて、たとえば武田信玄や上杉謙信の軍道について詳しくなるのも、おもしろそうではあります。

 

 

(補足)「さん」づけしなくても礼儀を欠いていない理由

で、「さん」づけに関してですが。以下、やや学術的な記述になることをお断りしておきます。
まずポイントは、言葉というものは2種類にわけられるということです。W.J.オングによれば「話しことば/書きことば」という区別。あるいはバーンステインによれば「限定コード/精密コード」という区別です。結論から言えば、「話しことば」とか「限定コード」を使ってコミュニケーションしているときは間違いなく「さん」づけをするべきでしょうが、「書きことば」とか「精密コード」を使ってコミュニケーションしているときには、むしろ「さん」づけをすることは多くの場合で不適切になります。で、問題になった文章は、徹底的に「精密コード」で読まれることを前提とされた文章です。ですから、そこで「さん」づけをするわけにはいきません。
だから、「精密コード」に慣れている人は、私の文章に「さん」がついていないことをまったく問題にしないわけです。いっぽう「限定コード」でコミュニケーションが行われていると認識している人にとっては、同じ文章を見ているにもかかわらず、許しがたい無礼と傲慢に見えるわけです。
この態度の違いが出てくるのは、「文脈」の中で「人格」というものをどう扱うかということに関する違いが理由となってきます。「限定コード」においては、目の前にいる人格とコミュニケーションする際に、言語以外のあらゆる情報(表情や身振りなど)を活用し、「文脈」を形成していきます。言葉はコミュニケーション全体の中で、ごく一部でしかありません。コミュニケーションを成立させるためには、自分と相手の表情や身振りなども含めた全人格的なリソースを尊重する態度が必要になります。目の前の人格を全体的に尊重していることを示すために、「さん」づけは効果があります。
しかし一方、「精密コード」においては、相手の身振りや表情などのリソースを利用することを一切期待せず、ただ言語と論理の積み重ねによって、具体的文脈に依拠しない客観的な記述を作り上げます。その際には、相手の人格を論理展開に巻き込まないような配慮が必要となります。名前は、行為や言葉が帰属するラベルのようなものとして、基本的に人格とは切り離されて流通する必要があります。そういうとき、具体的には、「さん」づけをしないことが、相手の人格への配慮となります。行為や言動に対する客観的記述が、ダイレクトに人格の評価へと結びつかないための配慮です。
しかし、私が「精密コード」としてコミュニケーションされることを期待して「さん」を抜いた文章は、「限定コード」として読まれたときには、無礼で傲慢で上から目線のものだと理解されることになります。
というわけで、あの文章は、「精密コード」の様式について馴染みがない人からは憤慨される可能性が極めて高いということになります。じゃあ、「限定コード」に変えればいいかというと、話はそういう問題ではありません。「精密コード」でコミュニケーションするべきか「限定コード」でコミュニケーションするべきかは、「何を伝えるか」という内容に依存します。あの内容は、どうしても「精密コード」で書かれなければならないのです。そんなわけで、憤慨されるリスクを認識しながらも、それでも決して「さん」づけするわけにはいかないのです。

で、ここまで書いても、精密コードに馴染みのない方の違和感は拭えていないはずです。しかし精密コードに慣れている人は、なんでこんなに分かりきった当たり前のことを言うのかと思っているはずです。そういうものなんです。分からない方々には、「私にはさっぱり理解できないけれども、そういう世界もあるんですね」という感じで受け取ってもらうことを期待するしかありません。言ってみれば、宗教が違えば何を正しい礼儀とするかの基準が違ってくるようなもので、私にとってはあの文体が最大限の礼儀を尽くしているのだとしか説明のしようがないんです。恐れ入ります。