【要約と感想】ガート・ビースタ『よい教育とはなにか』

【要約】「よい教育とはなにか」を考えずに、客観的な測定さえすれば教育問題が解決するかのような勘違いが蔓延しています。「エビデンスに基づいた教育」は効率性と効果性を追求しますが、「よい教育とはなにか」という疑問には一切答えてくれません。
教育とは「資格化/社会化/主体化」が交錯した地点で成立するものですが、「主体化」がどのように可能となるかが本書の関心です。現在は、「学習」の視点が強く打ち出されすぎており、この「教育=主体化」という課題が後退しています。原因は、新自由主義の蔓延によって、公共圏が私的領域と市場から挟み撃ちになって痩せ細っているからです。教育は消費者に対する「説明責任」を果すのではなく、代替不可能な「応答責任」を取り戻さなければなりません。
主体でないものを主体化するという教育の課題を達成するには、単に「主体化」を狙う働きかけをするのではうまくいきません。「資格化」や「社会化」を目指す途中で、局地的に限定された形で主体化(多様な世界への参入)へのきっかけが現れた時に、いったん教育を「中断」することが大事なのです。そしてその教育こそが、民主主義の本質と深く響き合うのです。

【感想】いやあ、なかなか読み応えのある本だった。論理的に明快で、すっきりした読後感だった。まあ、もともとの私の教育学的スタンスと同じ方向をむいている、という事情はあるのかもしれないけれど。

まず、「エビデンスに基づいた教育」に対する違和感について、過不足なく説明してくれているところが心強い。仮に「目的」が最初から決まっているなら、確かに「エビデンスに基づいた教育」にも意味がある。しかし逆に言えば、「エビデンスに基づいた教育」からは決して「教育の目的」を導き出すことはできない。どうしてもエビデンスとは完全に切り離された次元で「価値判断」が必要となる。このあたり、「エビデンスに基づく教育」を称揚する人々は、最初から価値判断を放棄している上に、放棄していることをまったく自覚していないところが気持ち悪いのであった。

そして、「エビデンスに基づいた教育」が跋扈している原因についても、私と意見を同じくする。というか、新自由主義的傾向が問題であることは、著者や私でなくとも指摘していることではあるが。

そして現状を踏まえた上で、論理的な視角として教育目的を「資格化/社会化/主体化」に区分した上で、「主体化=自由」を可能にする条件を探っていく。ここで真っ先にカントとデューイを参照するところは、私の教育観と合致するところだ。(同じようなタイトルで同じような関心から同じような試みをしている苫野一徳は、真っ先にカントとデューイではなくヘーゲルとフッサールを参照しているわけだが、個人的にはとても違和感がある)。
このカントのヒューマニズムが、本質的なアポリアを抱えているわけだ。私が従来から関心を持ってきた言葉で言えば、「自由でないものを強制的に自由にする」ことの可能性と正当性である。本書はこの問題に真正面から切り込んでいくのが、たいへんスリリングだった。

まず単なる「学習」では、「自由でないものを自由にする」ことはできない。「学習」は「資格化」や「社会化」を可能にしても、「主体化」には届かない。学校が消費者に対する説明責任を果すことは、仮に「資格化」や「社会化」には意味があるとしても、「主体化」とは何の関わりも持たない。「主体化」を果すためには、「学習」ではなく「教育」が、「説明責任」ではなく「応答責任」が求められる。
この場合の「教育」とは、learningでもなくinstructionでもなくinstituteでもなく、まさにeducationということになるのだろう。そしてそれは、真っ直ぐに「主体化」を目指す働きかけではなく、局地的な「中断」が可能にするという。つまり「自由でないものを強制的に自由にする」ことを目指さないのだ。なんらかの働きかけの途中で「自由になる」という契機が生じた時、働きかけを「中断」して、「応答責任」を果たすということなのだ。「自由でないものを自由にする」というとき、教師にできることとは、自由がはじまる時に「応答責任」を果たすことだけなのだ。
ああ、なるほどなあと。本質的なアポリアを解消するために、こんな形のアイデアがあるんだなあと。いやはや、恐れ入った。

【今後の研究のための個人的備忘録】
「自由でないものを自由にする」ことを巡っての言及は、いろいろと参考になる。

「カントの教育的介入について最も重要なことは―そして、だからこそ、我々は、彼の仕事が近代教育の始まりのしるしとなると言いうるのだが―、彼が、教育と人間的自由の間のつながりを確立したことである。カントは他律的決定と自己決定の間に区別を設けることによって、そして教育は究極的には前者ではなくて、後者と関係があると主張することによって、人間の自由に関する問いを近代教育の中心問題にした。したがってある意味で、社会化と主体化の間で区別することが可能になったのは、カント以降のみであった。」(114頁)
「しかし、もっと重要なことは、近代教育の基礎づけであるカントの表現における閉鎖もまた気づかれなかったということだ。というのも、人間存在の目的(telos)についてのこの定義から排除された人々―理性的でない、もしくはまだ理性的になっていないと考えられていた(子どもたちのような)人々―が彼ら自身の排除に対する抵抗の声を欠いていたからである。そして彼らがこの声を欠いているのは、まさしく、人間であるということが何を意味するのかについての特定の定義のためである。言い換えれば、彼らは、話すことさえできず、あるいは話す能力があると認められることさえなく、排除されていた。」(115頁)
「教育的な観点からすれば、ヒューマニズムのこの形式で問題になるのは、それが、人間性の「実例」の実際の明示の前に、人間であるとは何を意味するのかについての基準を明記するということである。それは、子どもや生徒や新参者が何にならなければならないのかを、彼らが何者であり、何者になり得るのかを示す機会を彼らに与える前に、明記している。したがって、ヒューマニズムのこの形式は、新参者が人間であるとは何を意味するのかについての我々の理解を根本的に変えるかもしれない、という可能性を閉ざしているように思われる。その結末とは、そのとき、教育は(再び)社会化の形式になるということだ。」(118頁)

私個人の直感としては、「近代」という時代を支える根底の土台とは、「大人/子ども」の峻別だ。「労働/教育」の峻別や「自由/保護」の峻別など、近代社会を支える原理のすべてが「大人/子ども」の峻別に由来する。そして「大人/子ども」を架橋するという本来的に不可能な役割を負わされたものこそが教育であり、だから教育には近代社会の矛盾が集中して現れることになるわけだ(と私は理解している)。本書は、この矛盾に直接ぶちあたっていくわけだ。
そしてその矛盾を解決するために著者は「中断の教育学」という新しい概念を持ち出す。

「中断の教育学は「強い」教育学ではない。つまりそれはどんな意味においてもその「成果」を保証しうる教育学ではないのだ。それはむしろ、主体化の問いに向き合っている教育の基本的な弱さを承認する教育学である。教育のこの存在論的な弱さは、まさに同時にその実存的な強さである。なぜなら、独自性が世界に表れるために空間が開くかもしれないのは、人間の主体化がある方法で教育的に生み出されうるという理念を我々が諦めたときだけだからである。」(134頁)

いやあ、なかなかすごいことを言っているように思う。「弱さ」とか「諦めた」とか。実感的には、よく分かるのだ。「主体」なんて、作り出そうと意図して作り出せるものではない。この本来的に無理な注文を率直に「無理だ」というところから、そしてそれにも関わらず諦めないところから、新しい教育学は始まるのかもしれない。
諦めなかった結果、次のような結論が出てくる。

「子どもや若い人々を「よい民主主義者」になるように教育する代わりに―それは、私の見方では、基本的にポリス的秩序のなかにとどまるという戦略である―、教育者には当然、民主主義化が「生じる」無数の瞬間瞬間に学習する機会を利用し支援するという演じるべき役割がある。」(179頁)

うわあ、たいへんだなあ。が、これが「応答責任」というやつなんだろう。私も日々の実践のなかで忘れないように「応答」していきたいとは思う。できるかどうかは、さてはて。

ガート・ビースタ/藤井啓之・玉木博章訳『よい教育とはなにか―倫理・政治・民主主義』白澤社、2016年