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文京学院大学

明日から所属先が変わります。文京学院大学には、6年の間たいへんお世話になりました。

帰り際に撮った写真。ふじみ野キャンパスの桜は、ようやく一分咲きというところです。週が明けたら見頃かな。

来年度からは週一回の非常勤講師ということで、またしばらくよろしくお願いします。

市民大学ふじみ野

市民大学ふじみ野」の運営協議会に出席してきました。

「市民大学ふじみ野」とは、埼玉県ふじみ野市が運営する市民のための教育機関です。昨年の11月に開校しました。学長を文京学院大学人間学部長の木村浩則先生が務めており、私は教育学の専門知識を持つ有識者として運営協議会のメンバーに加わることとなりました。
無事に第一期が終了したので、今日は実績報告と反省、そして来期に向けての計画と方針について議論しました。

運営側の意図としては、単なる趣味の教養講座に終わらせるつもりはなく、学んだことを実際の町づくりに活かすことのできる人材養成を目的として掲げています。

町づくりに関わる民間人材養成は、行政の側からも要請されています。町づくりに関して、市民の側からも積極的に参加してほしいという要望が繰り返し表明されています。この背景には、行政のスリム化に伴うサービスの縮小という事態とか、自治会など住民自治の担い手の高齢化とか、平成の大合併に伴う市民アイデンティティの再編成とか、様々な現代的課題が複雑に絡み合っています。ざっくりまとめると、20世紀型の福祉国家では課題に対応できないという認識です。

従来の福祉国家的発想ではカバーしきれない町づくりの仕事に自主的に参画する市民が求められているとき、市民大学に期待されるのは、そういう人材を養成し供給する場として機能することです。その目標を達成するには、町づくり構想とカリキュラム構成の整合性、単位修得後?の人材配置の仕組み、行政各部署との連携体制の組織化など、従来の教養講座にはなかったような取り組みが必要となってきます。

ともあれ、「市民大学ふじみ野」は昨年始まったばかりで、まずはやってみて初めて分かることが認識できたという点が重要な段階ではあります。よりよい学びが実現できるよう、私も微力ながら知恵を出していきたいと思います。
ふじみ野市民の方は、興味を持たれたら、ぜひ参加してください。

市民大学ふじみ野ホームページ



東京都品川区・大田区 如来寺と本門寺

 大井の養命院如来寺と池上の本門寺に行ってきました(2017年3/28訪問)。

 養命院如来寺はJR西大井駅から徒歩10分程度。こじんまりとした敷地を有効活用している様と、こまごまと微笑ましい布袋さま等の石像群と、亀やフクロウなどおもしろい形のベンチにはホッコリさせられますが、木造五智如来像は圧巻です。

 3メートルの如来像が5尊ならぶ光景は、なかなかの壮観。様々なお寺を見てきましたが、これは他にないユニークな空間のような気がします。

 池上本門寺は都営浅草線西馬込から徒歩15分くらい。浅草線の車両基地を眺めながら長い歩道橋を渡るコースがお奨めです。4年前までは散歩コースでしたが、引っ越してからは久しぶりの訪問です。
 本門寺には日蓮聖人入滅にまつわる物を中心に普通に見どころがたくさんありますが、個人的にはアントニオ猪木をモデルにして作られたという仁王像がお気に入りです。大半の観光客が気づかない所にひっそりと立っているのがもったいないので、もっと大々的に宣伝してもいいんじゃないかと思うなあ。

 プロレス関連では、もちろん力道山のお墓が有名です。こちらは案内版がたくさん立っていて、たくさんの人が訪れます。
 力道山の銅像の台座に寄付者?の名前が刻まれているのですが、三澤光晴の名前を見ると、少しホロリとしますね。
 今日見たら北野武の名前も刻んであったけど、たしか4年前に来たときにはなかったはず。梶原一騎とか天龍源一郎の名前には見覚えがあるので、そのとき北野武の名前がなかったのは間違いない。4年の間になにがあったのかな?

 満開のしだれ桜も青空に映え、風がないせいで花粉も少なく、なかなか楽しい散歩日和でした。本門寺の展望台から富士山が見えなかったのが残念だったくらいかな。

鵜殿の野望【第一章】鵜殿城という城がある

 鵜殿一族は、紀伊半島の熊野地方出身の、海賊でした。吉川英治『新・平家物語』では、屋島の合戦の時に鵜殿氏が義経に協力する姿が描かれていて、NHK人形劇でもしっかり登場していたりします(新・平家物語「紀伊の巨鯨」(NHK))。ただし、ちゃんとした歴史的史料は確認できておりません。
 鵜殿氏が海賊として活躍していた痕跡は、鵜殿城に見ることができます。鵜殿城は、熊野川の河口、北側にあります。熊野川は三重県と和歌山県の県境を流れていて、鵜殿城の対岸に新宮城があります。

 JR鵜殿駅を降りてから、徒歩15分くらいで鵜殿城に着きます。本丸までは、基本的にただの山登りです。
 下の写真が、鵜殿城の本丸です。

鵜殿城本丸

 うーん、何もありません。というのも、400年前には廃城になっているのです。大坂夏の陣で紀伊の鵜殿一族は豊臣方に付いてしまったせいで滅びてしまい、お城も400年のあいだ野ざらしになっていた模様です。

 が、城マニアの目からはいろいろ重要な痕跡が見えてくるはずです。堀切や土塁跡など、遺構を比較的良好に観察することができて、大興奮です。

 水軍の城ということで、本丸からは熊野川と太平洋がよく見えます。どこから敵が攻めてきてもすぐに発見することができます。なかなか良い立地条件です。

鵜殿城本丸から太平洋を臨む

 右側に見えるのが熊野川の河口です。訪問日には川の水が茶色く濁って見えましたが、たぶん前日の雨のせいで上流から大量の土砂を運んできたためでしょう。遙か彼方に見えるのが熊野灘の水平線です。真ん中に見えるのは製紙工場。

 本丸には、鵜殿城の案内看板が立っています。鵜殿一族の経歴も分かります。

鵜殿城の案内版

 夏の日差しが強すぎて、写真では看板の一部が読めませんが…。

 書いてあることをまとめると。
 鵜殿一族は、平安時代末期から南北朝期にかけて、この城を中心として活動します。室町時代には海を渡って三河に移り、蒲郡を中心に勢力を拡大することになります。紀伊半島と蒲郡は、今の感覚でいうと遠い気もしますが、当時は陸よりも海上交通が重要だったことを考えると、実は直接的に繋がっているのです。
 しかし、蒲郡に移った鵜殿氏は桶狭間の後に徳川家康に敗れて衰亡し(1562年)、熊野に残った鵜殿氏は大阪夏の陣(1615年)でまたもや徳川家康によって滅亡します。徳川家康に2回もやられるとは、断固許すまじ。

 実は2016年の大河ドラマ『真田丸』では裏で熊野鵜殿氏が滅亡していて、2017年の大河ドラマ『おんな城主』では裏で蒲郡鵜殿氏が滅亡していたのでした。鵜殿の野望は夢半ばにして潰えたのでありました。残念無念でありました。
(鵜殿城には2016年8月訪問)

鵜殿の野望シリーズ

【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。

【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。

【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。

【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。

【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。

【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。

さらに続く。刮目して待て??

【要約と感想】エレン・ケイ『児童の世紀』

【要約】20世紀を児童の世紀にしたいなら、まず大人の責任と女性の立場についてしっかり考えましょう。

【感想】新教育を代表する著作として名高く、教育史の教科書には必ず登場する古典中の古典。しかし実際に読んでみると、教科書の記述とは相当に異なる印象を受ける。

まず「児童」そのものについて書かれている部分が、想像していたよりもかなり少ない。女性解放運動や、労働問題や、宗教批判や、優生学についての記述など、19世紀末の社会問題が全面的に論じられる中で、子どもについての言及が埋め込まれている。逆に言えば、子どもを考えるということが、社会すべての問題を考えることに通じているということでもある。だからこの本を「子ども」そのものだけに特化していると読むと、問題の本質を見誤る。特に進化論に関わる記述は、キリスト教に対する激しい攻撃とも関わって、本書のライトモチーフともなっている。時代背景を踏まえて理解する必要があるだろう。

また、教科書や教員採用試験では、ルソーとの関係で語られることが多いが、実際に読んでみると疑問が残るところだ。むしろJ.S.ミルや、特にスペンサーといった19世紀末の自由主義との関係で捉える方がわかりやすいのではないか。19世紀の自由主義が「白人男性」に対してのみ適用されるものだったとすれば、本書の主張は、それを女性と子どもにも拡大するべきだという主張のように思える。それは「恋愛の自由」や個性尊重への主張に端的に表れているように思う。

「古典」というものは教科書等で知ったつもりになるかもしれないが、本当のところは実際に読んでみないとわからないという典型みたいな本かもしれない。

研究のための備忘録

【個人的備忘録】恋愛の至高性
「恋愛が日常当り前の信念となり、祭日の祈りの献身的態度をとるとき、また、絶え間ない精神の目覚めに守られ、不断の人格向上――古い美辞、「神聖化」を用いてもよいが――をもたらすとき、初めて恋愛は偉大になる。」(32頁)

恋愛至上主義的な姿勢が「人格の向上」という観念を伴いながら浮上してきたことは、記憶されてよいかもしれない。女性が家父長制の呪縛から逃れ、かけがえのない「人格」として独立しようとするとき、恋愛というものに極めて大きな期待がこめられていたことが分かる。

【個人的備忘録】家事の市場化についての予言
「もちろん、醸造やパン焼や屠殺や蝋燭づくりや裁縫が、だんだん家庭から去っていくように、いまのところまだ家事労働の最大部分をなしている多くの労働、たとえば、食事の準備や洗濯や衣類の繕いや掃除などが、だんだん集団化し、または電気や機械の助けを借りるようになるものとわたしは信じている。しかしわたしは、人間の個人尊重の傾向が、非人格的単一型の集団生活へ向う傾向に打克つことを希望している。」(111頁)

「家事」というものは、世間で思われているような雑事ではなく、「いまだ市場化されていない労働」のことだ。という社会学の常識的な考え方が、実はすでにエレン・ケイによって提出されていたことは記憶されてよいかもしれない。そしてエレン・ケイが、家事の市場化傾向に対して「個人尊重」を対抗させたことも。

【個人的備忘録】個性の尊重
「子どもを社会的な人間に仕立て上げる際、唯一の正しい出発点は、子どもを社会的な人間として取扱い、同時に子どもが個性ある人間になるように勇気づけることである。」
「多くの新しい思想家たちは、わたしがすでに述べたとおり、個性について語っている。だが、この人たちの子どもが、他の全部の子どもたちと同じでない場合、または、子どもが自分の子孫として、社会の要求するあらゆる道徳を身につけないとか完成を示さない場合、この人たちは絶望する。」(150頁)
「教育者の最大の誤りは、子どもの個性に関するあらゆる現代の論説とは裏腹に、子どもを「子ども」という抽象観念によって取扱うことである。これでは子どもは教育者の手のうちで成形され、また変形される無機物であり、非人格的な一つの物体にすぎない。」(170頁)
「何が子どもにとって最高のものであるか。ゲーテは答えている。地上の子どもにとって最高の幸福は個性を認められることにつきる」(243頁)

引用した「個性」に関する物言いは、現在ではむしろ陳腐な部類に属するかもしれない。が、このような表現は、この時点ではかなり新しかったように思う。19世紀的な思考形態からは出てきにくい表現のように思う。こういう表現の数々が、本書を20世紀の幕開けを代表するものに押し上げているのかもしれない。

【個人的備忘録】人格の尊重
「時代は「人格」を求めて呼びかけている。しかし、わたしたちが子どもを人格あるものとして生かし、学ばせ、自分の意志と思想をもって自分の知識を得るために働かせ、自分の判断力を養成させるまでは、時代がいくら叫んでも無駄である。一言でいえば、わたしたちが学校における人格的素質の殺害をやめるまでは、人格を生活のなかに見出そうとする期待は、無駄というものであろう。」(295-296頁)

「個性」と並んで、「人格」に関する表現も、実に20世紀的と言える。19世紀的な「人格」の用法とは、ずいぶん異なっているように感じる。ちなみに、これがはたしてエレン・ケイの思想に固有のものか、単なる翻訳の問題に過ぎないかは、私は検討していないので、各自調べていただきたい。

エレン・ケイ『児童の世紀』小野寺信・小野寺百合子訳、冨山房百科文庫 24、1979年