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【要約と感想】八木雄二『哲学の始原―ソクラテスはほんとうは何を伝えたかったのか』

【要約】西洋哲学には大きく分けて3つの流れがあります。すなわち、(1)ソクラテスによる「無知の自覚」(2)プラトン・アリストテレスの「感覚を超越した理性」(3)エピクロス等の「自然/倫理」の3つです。ヨーロッパ中世キリスト教が引き継いだのは「2」の流れだったため、日本人など「3」の伝統に馴染んでいる人々には分かりにくいものがあります。
で、問題は「1」のソクラテスが実際に何をやっていたかですが、単に個別の「無知」を扱ったのではなく、人間として避けられない普遍的な「無知」を扱ったところが、イエスや仏教の思想などと通底する、極めて重要な論点です。

【感想】哲学入門書と銘打ってはいるけれども、実際には本人が哲学しているような本だった。まあ、哲学入門書を銘打つ本にはよくあることではあるし、いいことだとも思う。入門書としての特徴は、キリスト教神学の形成など中世の入口の描写に厚みがある点だと思う。タレス~アリストテレスで終ってしまう概説書がけっこうあるけれども、本来ならその後の新プラトン主義とかアウグスティヌスまで行って、ようやく全体像が朧気ながら見えてくるように思う。

で、考察としての主要テーマは、ソクラテスの本質が「対話」ではなかったということろ。私もご多分に漏れずソクラテスの本質は「対話」にあるなどと思っているけれども、著者は素気なく否定する。「対話」を重要視するのは、プラトンがソクラテスの本質を誤解しているせいだと。
著者によれば、ソクラテスの本質は、人間にとって本質的な無知のあり方を自覚したところだ。努力すれば解消できるような無知ではなく、人間であるかぎり絶対に超えることができないような無知を見いだしたことだ。その絶対的な無知の前で、ひとは「あきらめる」ことしかできない。そうした「理性」を超えた「信仰」の領域で、「恩恵と賛美」が生じる。そしてこの本質は、イエスや仏教にも通底するという。まあ、そうかも。

【要検討事項】が、個人的にはしっくりこないところもある。本書ではあたかも「理性の限界」を自覚したのがソクラテスやイエスや仏教の固有性だと主張しているように読めるのだけれども、プラトンやアリストテレスだって、その程度のことは自覚しているように思う。本書では数学的世界の合理性は矛盾が起きないと言うけれども(151頁)、プラトン自身は『国家』で数学的世界の限界を明確に記述している。アリストテレスも『ニコマコス倫理学』で、数学も含めた論理的世界の限界について言及している。そしてプラトンとアリストテレスは、「理性の限界」を認識したところから、さらに理性を突き詰めて一歩前に出ようとしているところが凄いはずだ。本書の記述からは、そういった彼らの仕事を評価している様子はうかがえず、プラトンやアリストテレスを舐めているような印象を持ってしまう。本書は「理性の限界」を前にして「あきらめる」ことを称揚しているように読めるし、「恩恵と賛美」が生きていくうえで重要であることは確かだろうが、本当にそれだけが誠実な態度と言えるかどうか。プラトンやアリストテレスのように「理性の限界」すら理性的に捉えようとする営為から、最終的にはヴィトゲンシュタインやゲーデルのような仕事も生まれてくるはずだ。中世であれば、クザーヌスやエックハルトや否定神学などの仕事であろう。「理性の限界」について、結局は最終的にあきらめるにしても、もっともがいてからのほうが良かったのではないかという気がする。

八木雄二『哲学の始原―ソクラテスはほんとうは何を伝えたかったのか』春秋社、2016年

【要約と感想】『エピクロス―教説と手紙』

【要約】快楽主義を推進します。ただし注意してほしいのは、私が言う快楽とは肉体的な欲望を叶えるようなものではなく、精神的に平静をもたらすようなものです。

【感想】本屋で本書を見かけたとき、エピクロスの諸説が単体でまとまっているとはありがたい、などと思ったのだけど、実は内容はディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』10巻をまるまるシングルカットしただけのもので、既に読んでいたものだった。まあ、翻訳の仕方がそこそこ違って勉強になったのでよかったんだけれども。

で、エピクロスの特徴は、プラトンやアリストテレスと比べたとき、(1)唯物論(2)自由意志(3)社会契約論にあるように思う。そして個人的に思うのは、実はヨーロッパ近代思想(デカルトやホッブズ)に直接繋がっていくのは、プラトンやアリストテレスではなくて、エピクロスの思想ではないかということだ。

(1)唯物論に関しては、デモクリトスの原子説などを引き継いで、あらゆる現象を物質一元論で説明する。いま見ると「光」の説明なんかには思わず笑ってしまうわけだけれども、あらゆる現象を唯物的に説明し尽くそうとする姿勢は徹底している。これはプラトンやアリストテレスの体系よりも、近代自然科学の姿勢に親和的であるに思う。

(2)にもかかわらず、自由意志が発生する余地を残しているのも大きな特徴だ。まあ自由意志の源泉も唯物論的に説明しているわけだけれども、倫理が成立する根拠を「自由」に据えているのも間違いない。ここでデモクリトスなど他の唯物論者と一線を画し、自由意志に基づく倫理の世界についての記述が可能となる。
この唯物論と自由意志のスッキリしない関係は、ヨーロッパ近代思想に通じているような気がしてしまう。

(3)個人的に一番の見所は、社会契約論的な論理だ。
ソクラテスの時代に「ピュシス(自然の法)/ノモス(人為の法)」の分裂が問題になり出したことは、様々な論者が指摘している。ソクラテスの時代、ソフィストたちが跋扈して、ピュシス(自然の法)の権威を否定し、現実の正義は所詮はノモス(人為の法)なのだと喧伝し始める。その様子は、プラトンが描写するカリクレスやトラシュマコスの諸説に鮮やかに見出すことができる。
この流れのなか、エピクロスもまたピュシス(自然の法)を否定し、現実の正義はノモス(人為の法)であることを主張する。これは自然科学と倫理を断絶するエピクロスの立場からすれば、必然的な帰結ということかどうか。
そしてこの社会契約論的な発想は、もちろんホッブズに繋がっていく。

ということで、エピクロスが侮れないことを再確認するのであった。

個人的な研究のための備忘録

社会契約論を思わせる論説は、本書の見所の一つである。ただしもちろんこの時点では「自然権」と「自然法」の関係が論理的に整理されておらず、それがホッブズ以降の近代社会契約論との決定的な違いをもたらすように思う。

【個人的備忘録:社会契約論】
(31)自然の正は、互に加害したり加害されたりしないようにとの相互利益のための約定である。
(32)生物のうちで、互いに加害したり加害されないことにかんする契約を結ぶことのできないものどもにとっては、正も不正もないのである。このことは、互に加害したり加害されたりしないことにかんする契約を結ぶことができないか、もしくは、むすぶことを欲しない人間種族の場合でも、同様である。
(33)正義は、それ自体で存在する或るものではない。それはむしろ、いつどんな場所でにせよ、人間の相互的な交通のさいに、互に加害したり加害されたりしないことにかんして結ばれる一種の契約である。」p.83
(36)一般的にいえば、正はすべての人にとって同一である。なぜなら、それは、人間の相互的な交渉にさいしての一種の相互利益だらからである。しかし、地域的な特殊性、その他さまざまな原因によって、同一のことが、すべての人にとって正であるとはかぎらなくなる。
「主要教説」p.84

それから、「個性」に関する発言は、現代にも通じるものがあって、なかなか趣深い。

【個人的備忘録:個性に対する言及】
ちょうどわれわれが、自分自身に特有な性格を――それがすぐれていて、われわれが人々から賞められようと、あるいは、そうでなかろうと――尊重するように、そのように隣人の性格についても、かれらがわれわれに寛容であるかぎり、われわれはこれを尊重すべきである。「断片15」p.89

『エピクロス―教説と手紙』出隆・岩崎允胤訳、岩波文庫、1959年

【要約と感想】『アリストテレス詩学・ホラーティウス詩論』

【要約】アリストテレス「おもしろい物語を作る上で重要なのは、キャラクターよりもプロット」
ホラーティウス「なにより重要なのは、キャラ立ち」
アリストテレス「えっ」
ホラーティウス「えっ」

【感想】それぞれ細部までおもしろく読んだけれども、今回は特に「性格」という言葉に注目した。「性格」とはギリシア語の「エートス」を翻訳した言葉だが、本来の「エートス」は現代日本語で「性格」と言った場合よりも広い範囲をカバーする言葉であることに注意が必要だ。さしあたってこの感想文では、「性格」のことを現代的に「キャラクター」とでも言いかえようか。

さて、まずアリストテレスは物語を構成する要素を6つ挙げ、そのうち「筋=ミュートス」をもっとも重視する。この「筋」とは、現代の感覚で言うと「プロット」のようなものだろう。マンガに詳しければ、「ネーム」と言ったほうがより正確に伝わるかもしれない。アリストテレスは物語を組み立てる骨格の出来こそが作品そのものの出来を左右すると考える。だから相対的に「性格=キャラクター」を軽視する。アリストテレスの立場では、仮にキャラクターが立っていなくても、プロットが優れていれば良い作品になる。
ただしもちろん、アリストテレスはキャラ立ちそのものを否定しているわけではなく、ホメロスのキャラ立てが巧妙なことを賞讃してもいる。

一方のホラーティウスは、キャラ立てにかなりこだわっている。物語が成功するかどうかは、キャラクターの首尾一貫性にかかっていると言う。そしてキャラクターを立てるために、しっかり現実から人間観察すべきことを主張している。

現代でも物語を作る場合、小説であれマンガであれ、「プロット」と「キャラクター」の関係はやはり問題となる。プロットを優先させるとご都合主義でキャラクターの動きが不自然になり、キャラクターを立てるとプロットが破綻するという、二律背反に陥る場合がある。アリストテレスは、キャラクターを立てるあまりにプロットが破綻すること(=機械仕掛けの神)をひどく嫌う。それに対しホラーティウスは、キャラクターの一貫性を重視する。
現代では、ホラーティウスの立場のほうに説得力があるように思える。たとえばマンガやライトノベルでは、プロットより先にまずキャラクターをしっかり作って、「キャラが勝手に動く」ような作品が結果的に成功しやすいように思う。アリストテレスが賞讃するような「プロットが巧妙な作品」は、現代では玄人受けはしても、一般受けはあまり望めないような気がする。だからだろう、アリストテレスは吐き捨てるように、「最近の読者はバカばかりで、つまらない作品が流行する。嘆かわしい」と何度も書きつけるのだった。うーん、こういうふうに「キャラ重視作品」をけなす人、今でもいますねえ。2300年前から変わらない光景なのだった。

今後の研究のための個人的メモ

この本は、現代的な観点からもなかなか見所が多い。たとえば、性格の首尾一貫性に関して、両者とも興味深いことを書き残している。

【個人的備忘録:性格の首尾一貫性】
「たとえ再現の対象とされる人物が首尾一貫しない性格をもっており、そのような首尾一貫しない性格が前提とされる場合においても、その人物は首尾一貫しない性格の点で首尾一貫していることが求められる。」アリストテレス1454a
「しかしこれまで試みられたことがないものを舞台にのせ、あえて新しい人物をつくり出すなら、それは最初舞台に現われたときの性格を最後まで保持し、己れに忠実でなければならない。」ホラーティウスpp.237-238

また、アリストテレスがホメロスのキャラ立ちを褒める文章も、現代的関心から見ても興味深い。

「これに反しホメーロスは、短い序歌を歌ってから、ただちに男または女、あるいはほかの役の人物を登場させる。しかも、彼らの一人として性格をもたないものはなく、めいめいがその性格をそなえている。」アリストテレス1460a

また、どのような人間が作家に向いているかについてのコメントは、現代にも通じるように思う。これが2000年前の文章かと思うと、なかなか怖いものがある。

「それゆえ、詩作は、恵まれた天分か、それとも狂気か、そのどちらかをもつ人がすることである。天分に恵まれた者は、さまざまな役割をこなすことができるし、狂気の者は自分を忘れることができるからである。」アリストテレス1455a
「称賛に値する歌ができるのは、生まれついた才能によるのか、それとも技術によるのか――これはよく尋ねられることだ。だが、いくら努力しても豊かな鉱脈がなければなんの役に立つのか、あるいは、いくら才能があっても磨かなければ何ができるのか、わたしには分からない。このように才能と努力は互いに相手の助力を求め、友好の契りをむすぶ。」ホラーティウスp.252

そして、演劇が自由によって栄えたにも関わらず、自由すぎて個人を中傷する表現が溢れ、あまりに表現が過激になりすぎた結果、法によって規制されたという記述は、現代の表現規制問題を思い起こさせ、なかなか考えさせるものがある。人間、2000年前から進歩しねえなあ。

「しかし自由は放縦に流れ、法の取りしまりを受けてもおかしくない暴力に堕した。法が布かれ、コロスは人を傷つける権利を奪われて沈黙したが、それは恥ずべきことであった。」ホラーティウスpp.246

『アリストテレス詩学/ホラーティウス詩論』松本仁助・岡道男訳、岩波文庫、1997年

ソクラテスの教育思想―魂の世話―

魂の世話

 このページでは、ソクラテスの教育について考えていきます。
 結論から示すと、ソクラテスの教育が目指しているのは、人々が「魂の世話」を心がけるようになることです。

プラトンが描いたソクラテス

 ということでさっそく内容の検討に入りたいところですが、しかしまず困るのは、ソクラテス自身が自分の教育について何も書き残していないことです。いちおう弟子のプラトンがソクラテスを主人公とした素晴らしい対話編をたくさん書き残してくれたおかげで、ソクラテスの言動を知る手がかりは豊富に与えられています。ただ、このプラトンの才能がありすぎて、むしろ困ってしまうわけです。才能がありすぎるプラトンは、師匠であるソクラテスの思想をさらに自分で突き詰めて考察を深め、最終的にオリジナリティ溢れる独創的な高みにまで上りつめます。逆に言えば、どこまでがソクラテスのオリジナルで、どこからプラトンが付け加えたものかが、分からなくなってしまっているわけですね。
 そんなわけで、私としては完全にオリジナルなソクラテスの再構成は最初から断念し、プラトンが書き残した対話編を通じて、大雑把にソクラテスの教育を捉えることに務めていくことにしたいと思います。
 で、「魂の世話」の中身を総合的に理解する上で重要な4つのキーワードがあります。「無知の知」「産婆術」「汝自身を知れ」「エロス」を順番に検討していきます。

無知の知

 まずは「無知の知」から確認していきましょう。「無知の知」とは、簡単に言えば、「自分が知らないということを自覚している」という意味です。が、もちろん「自分が勉強できないの、知ってる」なんて意味で「無知の知」と言っているわけではありません。『ソクラテスの弁明』の記述を参考に、「無知の知」について見ていきましょう。

「何」を知らないのか

 いちばん誤解していけないのは、「無知の知」と言った場合の「知らない」とは、「1+1=2」を知らないとか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」を知らないとか、そういうクイズ的な知識を知らないという意味などではない、ということです。知識がなくて学校のテストの点が悪いとか、そういうレベルの無知をテーマにしているわけではありません。ここを見誤ると、ソクラテスの主張が最初からまったく分からなくなります。
 ソクラテスが言う「知らない」とは、「命を賭けてでも知りたい価値のあるものについて、残念なことにそれが本当に何なのかを絶対に知ることができない」という意味です。「1+1=2」とか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」という知識は、他人から教えてもらえれば知ることができます。ソクラテスが取り組む知識とは、そういうふうに自分の外部から他人によってもたらされる知識ではありません。
 彼の言う知識とは、「自分の生き様」が間違っていないかどうか、確認できるような知識です。たとえば「正義とは何か」が本当に分かっているなら、自分の生き様が正義にかなっているかどうか、正確に判断することができるでしょう。しかし、この肝心の「正義とは何か?」が分からないから、自分の生き様が間違っていないかどうか、確認することができません。これがソクラテスの言う「知らない」という意味です。

世界一の賢者ソクラテス

 ソクラテスは、自分がどんな生き方をするべきか絶対的に示してくれる確実な知識を「神の知」と呼び、求め憧れました。「1+1=2」とか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」のような、誰か他人から教えてもらえれば獲得できるような知識は、言ってみれば「人間レベルの知」です。ソクラテスは、いま自分が持っている知識など所詮は人間レベルのものであって、自分が心から求めている絶対的な「神の知」には指先すらかかっていないということを自覚していました。自分が「無知」であることを強烈に自覚して、自分なんて大したことがない奴だと思っていたわけです。
 が、ある日、友達のカイレポンがデルフォイの神殿に行って、ソクラテスこそが世界一の賢者であるというお告げを得てきます。それを聞いたソクラテスは、「ありえない」と思います。日頃から「神の知」を求めさまよい、見つからず、自分自身のことを「無知」だと自認しているソクラテスにとって、「世界一の賢者」のお告げは不可解極まりないものでした。しかし他ならない神様からいただいたお告げですから、「神の知」を求めてやまないソクラテスとしては無視するわけにもいきません。自分が世界一の賢者などとは信じられないものの、神様の言葉である以上は何かしら重大な意味があるだろうということで、ソクラテスはお告げが正しいのかどうか確かめようと試みます。

バカばっかり

 お告げが真実かどうか確かめるために、ソクラテスは頭がいい人たちと話をすることにしました。というのは、自分が知らないようなことを知っている人が一人でもいれば、少なくとも自分は二番目以下ということで、「世界一の賢者」ではないことが明らかになります。世間には「自分は何でも知っている」と豪語している人がたくさんいるので、一人くらいは本当に「神の知」を持っている人がいてもいいかもしれません。そしてさらに、そういう智者と話ができれば、自分が知りたいと願っている「神の知」を教えてもらえるかもしれない。ソクラテスはそう期待に胸を膨らませて、「自分は何でも知っている」という自称賢者たちと話をしに行きました。
 が、実際に話をしてみて分かったことは、賢者を自称する人々が、実は何も知らなかったということでした。「自分は何でも知っている」と豪語している人が本当に「神の知」を持っているのか、ソクラテスがあれこれ質問しながら吟味してみると、たちまち馬脚を現して、実際には何も知らなかったことが明らかになるのでした。
 確かに自称賢者たちは、「人間レベルの知」はたくさん持っているようでした。が、ソクラテスが求めていたのはそんな「人間レベルの知」ではありません。確実な生き様を認識できる絶対的な「神の知」こそが問題なのです。自称賢者たちは、誰一人として「神の知」を持っていないどころか、それを持っていないということすら自覚していないことが発覚するのでした。

所詮は人間の知

 「神の知」を示してもらえるのではないかと密かに期待していたソクラテスは、「人間レベルの知」で満足している相手のバカさ加減にガッカリしながら帰途につきます。帰り道で、ふと気がつきます。自分も相手も、「神の知に辿り着いていない」という点についてはまったく違いがありません。ただ、相手は「自分が知らないということすら知らない」のに対し、自分は少なくとも「自分が知らないということを知っている」のです。このわずかな自覚の違いで、自分は彼らより一歩先を行っているのだと、ソクラテスは気がつきます。デルフォイの神殿のお告げは、きっとこのことを言っていたのだなと、ソクラテスは思いました。
 しかしそれはもちろん、自分は本当に「世界一の智者」なのだと自信を持ったという意味ではありません。仮にお告げの言うとおり自分が「世界一の智者」であったとしても、そんな自分は相変わらず「神の知」に届いていません。ちっとも嬉しくありません。神様がお告げによって本当に伝えたかったことは、「人間界最高の智者ですら、神の知には指先すらも届かない」とういうことなんだとソクラテスは理解します。そして神様がわざわざ自分にお告げを与えたのは、「神の知に届いているなどと自称している人々が、実はまるで無知である上に、自分が無知であることにすら気づいていない大馬鹿野郎だ」ということを暴いて自覚させる、そういう使命を与えるためだったのだと理解します。自分の使命を自覚したソクラテスは、自称賢者たちの無知を次々と暴いていくことになります。
 そういうわけで、「無知の知」という言葉の意味は、単に「知らないことを知っている」ということにとどまりません。「人間の力では絶対に神の知に手が届かない」という理解が伴って、初めて意味を持つような言葉なのです。「自分が勉強ができないことを自覚しているから、無知の知」などという「人間レベル」で理解したつもりにならないようにしましょう。

産婆術

 さて、そんなふうに自分は何も知らないと公言しているソクラテスなのですが、なぜか若者たちは喜んでソクラテスと話をしました。ソクラテスと話をすると、自分が成長したように感じるからです。それまで自分が知らなかったような知を獲得できた気になるからです。
 これはとても不思議な現象です。なぜなら、ソクラテスは「何も知らない」からです。常識的に考えれば、何も知らない人が、相手に「知」を与えることなどできません。自分の持っていないものを相手に与えることなど不可能です。それにも関わらず、ソクラテスの対話相手は、知を獲得することができました。知を持っていないソクラテスが誰かに知を与えられるはずがないのに、ソクラテスと対話している相手がいつの間にか知を獲得してしまう。このような技術を「産婆術」と呼びます。
 産婆術については、『テアイテトス』という本に詳しく書いてあります。こちらを参照しながら、産婆術について見ていきましょう。(ちなみに『テアイテトス』に記述された産婆術は、現代的な視点から見るとちょっとグロいのと、プラトンの数学偏重的立場が混入されてオリジナルを歪めているように思えるので、以下の祖述には私なりのアレンジが相当程度加えられていることをあらかじめお断りしておきます。)

「知」はどこから来るのか

 さて、ソクラテスは知を持っていないにも関わらず、対話を続けているうちに、いつのまにか対話相手の若者は知を獲得します。この「知」は、いったいどこからやってきたのでしょうか?
 何も存在しないところから「知」がいきなり出現するわけはありません。「知」はどこかにあったはずです。そしてソクラテスは「知」を持っていません。だとしたら、残る可能性はただ一つ、対話相手の若者がもともと持っていたのだと考える以外にありません。しかしそうだとしたら、若者は「知」を持っていたにも関わらず、それを自分自身では自覚できていなかったということになります。きっと「知」は若者自身から見えないところにあったはずです。たとえば、お腹の中にあったとしたらどうでしょう。もしも自分のお腹の中に「知」があったとしたら、自分の目からは見えないので、自分が持っていることに気がつかなくても仕方ありません。しかし持っていることに気がつかなくとも、お腹の中に何かあったら、なにかしら違和感が生じます。お腹がもぞもぞして、気分が悪くなります。出産したくなります。自分のお腹に異変を感じた若者は、なんとかそれを処理しようと、助けを求めてソクラテスのもとにやってきます。ソクラテスは若者を診てやります。ソクラテスが診てやると、若者は自分のお腹の中にあった「知」を産み出します。いったん産んでしまえば、自分の体の外に出た「知」は、自分の目で見えるようになります。「あ、知だ!」と分かります。そしてその「知」はもともと自分のお腹の中にあったものであって、ソクラテスから与えられたものではありません。ソクラテスは、ただ診てやっただけです。

産婆は出産の手伝いをするだけ

 このソクラテスの対話技術が「産婆」の技術とよく似ているので、この一連の行為を「産婆術」と呼んでいます。「産婆」とは、女性が子供を出産するときにサポートする人のことです。近年は病院で出産することが増えたので「産婆」の出番はなかなかありませんが、かつては自宅で出産することが多く、妊婦さんが産気づくと産婆さんを呼んで手伝ってもらっていました。
 子供を産むのは、あくまでもお母さんの行為です。当たり前のことですが、産婆自身が子供を産むわけではありません。産婆さんは出産の「お手伝い」をするだけです。産婆さんの仕事は、お母さんのお腹をさすったり、お母さんの息を整えたり姿勢を直してやったり、洗い桶や綺麗な布など環境を整えたり、生まれた赤ん坊を綺麗に拭いてやったりすることです。産婆さんの手助けがあって、お母さんは無事に子供を産むことができます。こうやって産婆さんが妊婦さんを励ましたり応援したりしながら出産を手伝う様子が、ソクラテスの教育法によく似ているわけです。
 というのも。知を産むのは、あくまでも若者の行為です。当たり前のことですが、ソクラテス自身が知を産むわけではありません。ソクラテスは出産の「お手伝い」をするだけです。ソクラテスの仕事は、若者が何か言いたいのを励ましてやったり、発言に適切な質問を加えて議論を展開させたり、考察に必要な概念や具体例を持ってきてやったり、生まれた知識を綺麗に拭いてやったりすることです。ソクラテスの手助けがあって、若者は無事に知を産むことができます。
 こうして若者は、自分自身の中にもともとあった知を産み出すことができたのですが、いま一度確認すると、若者がソクラテスから知を分け与えてもらったわけではありません。というか、そもそも「無知」であるソクラテスが誰かに知を与えることなど最初からできるわけがありません。彼は「対話」の力によって、若者の内部から知を引き出します。

対話

 若者の内側から知を引き出す際、ソクラテスが実際に行っている作業は「対話」です。巧妙な「対話」を通じて、若者の内側から知が湧き上がってきます。産婆術とは、具体的には「相手の内部から知を引き出す対話の技術」と言い直すことができるでしょう。対話相手から知を引き出すためには、相手の言葉に辛抱強く耳を傾け、断片的な言葉と未熟な論理から相手が本当に主張したい論点を把握し、間違っている論理は間違っていると指摘したり、有望な論理が出てきたら褒めて励ましてさらに思考の展開を促したり、言いたいことを的確に表現するための適切な言葉を見つけるのを手伝ったり、気づきのきっかけを作ったり、議論の筋道を整理したり論点や到達点をまとめたりするなどの様々な手助けが必要となります。
 しかし、この姿勢がなかなか難しいわけです。まず難しいのは、相手の話を「傾聴」するということかもしれません。いわゆる「先生」と呼ばれる職業に就いている人たちは、なにかと教えたがる傾向にあり、なかなか相手の話を黙って聴くことがありません。まず、対話相手をバカにせず、しっかりと話を聴いて、相手の主張を尊重すること、これが産婆術の基本中の基本になるでしょう。そしてソクラテスが極めて謙虚に相手の話を聞くことができるのは、根底に「無知の知」があるからだということは言うまでもありません。自分が何も知らないと自覚しているからこそ、相手の話を先入観なしで聞いたり、忌憚なく質問したり確認したり、正しく理解し論理的に判断したりすることができるわけです。

汝自身を知れ

 さてところで、そうやって対話相手から引き出される「知」の中身とはどのようなものでしょうか。もちろん、「1+1=2」とか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」というような知識であるはずがありません。産婆術でもたらされる「知」の中身については、デルフォイ神殿の入口に刻まれていたという標語、「汝自身を知れ」が重要な手がかりとなりそうです。以下、ソクラテスの言う「知」の中身を検討していきます。(ただし、プラトンのテキストそのものから読み取れる内容からは大きく逸れて、私個人の見解を反映した記述に向かうことはあらかじめお断りしておきます。)

自分のお腹の中にある「知」とは何か?

 さて、ソクラテスが産婆術で引き出したのは、対話相手のお腹の中に潜んでいた知でした。外から与えてもらわないのに、もともと自分のお腹の中に潜んでいた知とは、具体的にはどのようなものでしょうか? もちろん「ドラえもんの声優は大山のぶ代」という知識のはずがありません。そういう知識は、もともと自分の中に潜んでいるわけがなく、外から与えてもらわないと身につけることができないようなものです。
 が、「1+1=2」という知はどうでしょう? まあ確かに「1+1=2」なら教えてもらわないと分からないかもしれませんが、たとえば「53+69=122」ならどうでしょうか? おそらく「53+69」の答えが「122」だと教えてもらったことがなくとも、「53+69=122」が正しいことは分かると思います。数学の正解というものは、外から教えてもらわなくとも、基本的な原理原則さえ押さえていれば自分の中から引き出すことができます。
 数学に限らず、論理的な手続きを経て結論に至るような知識であれば、確かに外から新しい知識を付け加えなくとも、自分の内部で適切な情報処理を繰返していけば最終的に正しい結論に辿り着くことができます。この様子は『メノン』に鮮やかに描かれています。『メノン』に示されたプラトンの記述をそのまま受けとめれば、産婆術とは論理的な手続きを正確に踏んでいく対話の技術です。

理性によって知る

 数学に典型的に見られるように、論理的な手続きを正確に踏めば、外部から新しい知識を付け加えなくとも最終的に正しい結論に辿り着けるのは何故かというと、すべての人間が平等に「理性」を備えているためです。数学など論理的な問題に対しては、「理性」を正確に働かせることさえできれば、すべての人間は間違いなく共通の結論に辿り着きます。逆に言えば、生まれたときから自分の内部に備わっている「理性」を正確に運用できるなら、外部から知識を与えてもらう必要などないということです。プラトンの記述に従えば、産婆術が目指しているのは、理性を正確に運用して確実な知識に辿り着く手続きです。
 ここまでくると、デルフォイ神殿に刻まれた標語「汝自身を知れ」とは、「すべての人間に平等に備わった理性を追究せよ」という意味であると解釈することができそうです。「汝」とは、神様がわれわれ人間に向けて呼びかけた複数二人称ということになります。プラトン『メノン』や『テアイテトス』の記述を辿る限りは、そう解釈できそうです。

理性の限界を知る

 しかし、プラトンの初期著作に登場するソクラテスの言動を見ると、簡単にそう断言していいかどうか疑問も生じます。というのは、ソクラテス本人が数学を重視していた形跡がまったく見当たらないからです。実はプラトンは、中期対話篇を書く頃にピュタゴラス派と接触し、数学に傾倒したと考えられています。ですので、中期対話篇である『メノン』や『テアイテトス』にはオリジナルなソクラテスの姿が描かれているというより、ピュタゴラス派に影響を受けたあとのプラトンの思想が反映していると見るほうがよさそうに思われます。
 初期の対話篇でソクラテスが関心を示していたのは、数学ではなく、「善く生きる」とはどういうことか?というテーマでした。ただ単に「生きる」のではなく、「善く生きる」ということがテーマでした。そのために、「善い生き方とは何か?」を徹底的に追究しました。この「神の知」に数学が関わってくる余地は、あまりなさそうな気がします。
 そもそも思い返してみれば、ソクラテス自身が確実に知っていたのは、「自分は何も知らない」ということでした。そして様々な自称賢者たちと話をして確認できたのは、「自分だけが何も知らない」のではなく、「人間であれば誰もが絶対に知ることができない」ようなものがあるということでした。人間というあり方に本質的につきまとう「絶対的な無知」について知ることが「無知の知」です。単に「自分は知らないが、他の誰かは知っている」ようなものを「無知の知」とは絶対に呼んではいけません。
そういうわけで、ソクラテスの言動に即して考えれば、「汝自身を知れ」とは「すべての人間に平等に備わった理性を追究する」ことなどではなく、まったく逆に、「人間理性では絶対に到達できないものがあることを知り、理性の限界を自覚する」ということであり、「神の知の前では謙虚になるしかない」ということになります。プラトンとソクラテスでは、言っていることがまるで違ってくるわけです。
 (ただし、プラトンも数学的理性の限界には気がついていました。数学的理性の限界を超えて真の知識に辿り着く手段として、プラトンは「哲学的対話法」を持ち出しています。そして「哲学的対話法」の中身は、厳密には分かっていません。ひょっとしたら、プラトンの「哲学的対話法」も、ソクラテスが言うような「人間理性では絶対に到達できないものがあることを知り、理性の限界を自覚する」ための手続きかもしれません。が、今となっては、プラトンが本当に何を考えていたかは、謎のままです。)

わたしはどう生きるか?

 さらに、教育学に携わる者の関心が、テキストには書いていないところにまで飛躍することを許してもらえれば。ソクラテス本人が人間に共通する「理性の限界」を問題にしていたとしても、ソクラテスに話を聞いてもらっていた若者の受け取り方は、また違っていたかもしれません。
 たとえば。ソクラテスは実際の対話では、「正義」や「美」や、そして「善」を問題としました。ソクラテスにとっては、これらは共通して「理性の限界」を超えているものだったのでしょう。実際にソクラテス初期対話編では、問いに対する答えが出ずに消化不良のまま対話が終了し、「理性の限界」が示されます。ソクラテス本人にとっては「いちおう頑張ってみたけど、やっぱり人間の理性では答えは出ないよね。そりゃそうだよね」というふうに、改めて「無知の知」を確認した機会ということでいいでしょう。しかし対話を聞いていた若者たちに対しては、おそらくまったく違う効果があったと思われます。というのは、確かに、「正義」や「美」や、あるいは「善」というものには、一つの決まった答えがあるわけではありません。逆に言えば、「正義とは何か?」という問いは、「正義とはこういうもの」などと客観的な答えを出すべき数学的な問いではなく、ひとりひとりの主観的な「生き様」を問うような倫理的な問題として迫ってくることになります。評論家的な態度では絶対に答えは出ないけれども、当事者として必ず何かしらの見解を示さなければならないような、そういう人生観が問われるものとして迫ってきます。他人事ではなく、「わたしはこう考える」とか「わたしはこう生きる」とか、自分事としてどう「生きる」かが問われているような、そういう問題として迫ってきます。自分の外部に答えがあるのではなく、自分の内部にしか答えがないような、そういう問いとして迫ってきます。
 若者ひとりひとりが「どう生きるか」は、ソクラテスにとっては知ったことではありません。というか、ソクラテスが知るわけもありません。「無知」です。若者が「どう生きるか」については、ソクラテスが外側から何なかの「知」を若者に付け加えてやることはできません。若者が「どう生きるか」は、自分の内側から産み出さなければならない知です。そしてそれこそが、他の何よりも重要な知であるはずです。「わたしはどう生きるべきか」という問いに対する答えは、「1+1=2」だとか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」などという知よりも、圧倒的に決定的に重要な、人生に関わる知です。

わたし自身を知る

 「わたしはどういう人間か?」とか「わたしには何ができるか?」とか「わたしは何をしなければならないか?」とか「わたしはどうしたら幸せになれるか?」とか、つまり「わたしはどう生きるか?」という問いは、自分にとって最も重要な問いです。そして、自分以外の人間からは絶対にもたらされない知です。自分自身の内側から産み出さなければならない知です。しかし、こんなに難しいことはありません。「1+1=2」だとか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」のように、他人から正解が与えられるような知識であれば、身につけることは簡単です。知っている人に聞けばいいだけです。しかし自分がいちばん知りたいこと、「私はどう生きるべきか」という問いに対する答えを他人が与えてくれることは、絶対にありません。どうしても自分自身で産み出さなければなりません。他人から与えられることが絶対にないのに、どうしても自分自身の内側から産み出さなければらない知。それこそが「汝自身を知れ」という箴言の本当の意味なのかもしれません。
 だとすれば、実はソクラテスの「産婆術」は、どう生きればいいのか途方に暮れて悩んでいた若者たちが「自分を知る」ために、大きな手助けとなっていたのではないでしょうか。悩んで、迷って、苦しんで、話を聞いてもらいたくてソクラテスのもとにやってきた若者に対し、ソクラテスは外部から知識を与えてやるわけでもなく、ただ若者の話に耳を傾け、間違っているところは間違っていると指摘し、議論を整理し、よかったところは褒め、到達点をまとめてくれるだけです。あくまでも答えは若者自身が出さなくてはなりません。が、ソクラテスのように真摯に対話相手になってくれる人がいるだけで、どれだけ救いになることでしょうか。ソクラテスとの対話を通じて、自分の内側に自分なりの答えを見つけた若者もいたことでしょう。
 (以上の見解は、プラトンが残したテキストから直接に読み取れるものではありません。教育学的想像力の産物とでも言えるものだということは、いちおう記しておきます。)

エロス

 そうやって、迷って、悩んで、苦しんだ若者たちがソクラテスのもとにやってきて、ソクラテスも喜んで若者たちの話に耳を傾けて、ひとりひとりがそれぞれの「生き方」を見つけていく。それはそれで美しい光景です。が、そうやってソクラテスのもとにやってくる若者はいいのですが、やってこない人たちはどうなるのでしょうか?

陣痛を起こす力

 プラトンはそういう事情を「陣痛」という言葉で表現しています。陣痛が起った若者は、自分の内側にある何者かを産み出す必要に迫られて、産婆術の達人ソクラテスのもとにやってきます。しかし陣痛が起こっていない者には、そもそも産婆は必要ありません。産婆術の出番もありません。
 が、『テアイテトス』の中でソクラテスはなかなか凄いことを言っています。彼には対話相手に「陣痛」を引き起す力があるようなのです。つまり、相手の内側に何かを生じさせる力があるようなのです。『テアイテトス』では、プラトンの数学趣味によって本来のソクラテスの姿が失われている恐れがあるので、他の著作も合わせて総合的にソクラテスの「陣痛を起こす力」を考えてみましょう。たとえば『饗宴』と『パイドロス』に記されたエロスの話は、このテーマを考える上で、なかなか興味深いものです。

恋愛の達人ソクラテス

 『パイドロス』の中で、ソクラテスは恋愛についてよく知っていると言っています。何も知らないと自称している割には、恋愛については自信があるようです。結論だけ先に示すと、ソクラテスは恋愛を「美しいものの内部で出産を願う」ことだと言っています。この「出産」という言葉に注目しましょう。「出産」するためには、そのまえに「陣痛」が起こらなければいけません。逆に言えば、陣痛さえ起これば、あとは産婆術の領域です。恋愛→陣痛→産婆術→出産という順番を踏まえると、産婆術の領域に相手を引き込むには、相手を「恋愛」に巻き込めばいいことが分かります。ソクラテスの「陣痛を起こす力がある(テアイテトス)」という証言と「恋愛はよく知っている(パイドロス)」という証言を合わせて解釈すれば、彼には相手の心の中に恋心を引き起すことで結果的に産婆術の世界に引き入れる技術があったと考えてよさそうです。

恋の対象

 とはいえ、もちろんソクラテスが言う恋愛は、世間一般で言う「恋愛」とはかなり意味が違っています。特に重要なのは、ソクラテスの言う「恋愛」には肉体的な欲望が伴っていないということです。実際に『饗宴』では、肉体的な欲望を強靱な精神力で押さえつけるソクラテスの姿が描かれています。
 ソクラテスの言う「恋愛」とは、「精神的な恋愛」を意味しています(世間的にはこれを「プラトンの恋愛=プラトニック・ラブ」と呼んでいるようです)。われわれは、美しく、素晴らしい、価値あるものに対して、心惹かれます。そしてその美しいものとは、目に見える美しさもあるでしょうが、心の目で見えるような美しさにはよりいっそう魅力を感じます。そういう価値あるものに、われわれは近づきたいと願い、求め、行動します。そうやって人々を価値ある美しいものに向かわせる動きを、ソクラテスは「エロス」と呼んでいます。エロス自身は美しいものではありません。なぜなら自分自身が完全に美しいものであったら、自分自身に留まって、敢えて外部の美しいものに向かおうとはしないだろうからです。自分自身が美しいものではないから、美しいものに惹かれるわけです。そしてまた完全に醜いものではありません。完全に醜いものは、美しいものの素晴らしさに気がつかないだろうからです。だからエロスとは、美しいものと醜いものの中間(メディア)です。
 ソクラテスは、究極に美しいものは「神」だけだと言います。そして「エロス」の働きによって、われわれのような不完全な人間が完全なる神に憧れるのだと言います。われわれは何も知らない無知な存在ではあるけれども、エロスの働きによって完全な美である神に向かっていきます。ソクラテスが人間の身でありながら「神の知」を求めてやまないのも、エロスの働きによるものです。

マニア=狂気こそが神に到達する

 ソクラテスが「エロス」というものを完全なる神と不完全なる人間の「中間=メディア=媒介物」だとしていることは、教育学的に重要な示唆だと思います。完全性への憧れを芽生えさせる「媒介物」は、ソクラテスの文脈で言えば「美しいもの」となるわけですが、おそらく人の興味関心をかき立てるようなものであればなんでも構わないに思われます。たとえば、「鉄道」でも、「切手収集」でも、「アニメ」でもいいでしょう。
 というのは、ソクラテスが言うには、人間の身でありながら神の領域に到達する奇跡を起こすには、尋常の常識的努力では絶対不可能で、「狂気」に陥って人間を超える必要があります。そしてこの「狂気」とは、ギリシア語では「マニア」です。「マニア」になった者だけが、人間の常識を遙かに超えて、神の領域へと到達することができます。「鉄道マニア」も「切手収集マニア」も狂気=マニアに陥っているという点では同じわけですが、このとき鉄道マニアや切手収集マニアは、その「媒介物=メディア」を通じて、憧れの「神の領域=真善美そのもの」に到達しているということです。
 逆に言えば、「媒介物=メディア」を工夫することによって、人々を「狂気=マニア」の世界へと誘い、「神の領域=真善美そのもの」への憧れを掻き立てることができるということです。子供たちを「狂気=マニア」に陥らせるような「教材=メディア」を提供できれば、子供たちの中に「神の領域=真善美そのもの」への憧れを生み出せるかもしれません。
 そうやっていったん「神の領域=真善美そのもの」への憧れ=エロスさえ芽生えれば、時間が経てば自然に陣痛が起こり、あとは産婆術の領域の話になります。逆に言えば、この憧れが生じなかった者には、陣痛が起こらず、産婆術は何の役にも立ちません。「エロス」は、教育を可能とするエネルギーなのです。

【まとめ】魂の世話

 こうしてソクラテスは、「無知の知」の自覚のもと、若者たちの「エロス」を芽生えさせ、「産婆術」を駆使して、「汝自身を知れ」という神の教えを実践するために、「魂の世話」を勧めて回りました。

ソクラテスの処刑

 ソクラテスが見るところ、人々は、人生で大切なものについて大きな勘違いをしていました。お金とか、名誉とか、そんなものを皆が大事にしています。しかし「無知の知」の自覚のもとで吟味してみれば、お金や名誉などというものが人生で最重要なテーマになるわけがないことが分かります。大事なことは、「神の知」に辿り着くことができなくとも、それに憧れて向かって行くことです。それは、自分自身の中にたったひとつだけある「魂」を大事にすることです。しかしその最も大切なものであるはずの「魂」を、誰もがないがしろにしています。ソクラテスは、そんなことでは絶対に幸せになることができないと確信し、人々に「魂の世話」をするように説いて回りました。人生で本当に大切な「汝自身」に気づくための「産婆術」であり、手助けを可能とするための「エロス」なのです。
 しかしそんなソクラテスが、裁判にかけられ、処刑されます。紀元前399年のことです。ソクラテスは町の有力者たちから憎まれていました。町の有力者たちは、「自分は何でも知っている」と豪語していましたが、ことごとくソクラテスによって「実はバカ」だったことを暴かれていました。恥をかかされた有力者たちは、ソクラテスを憎むようになっていたのです。ソクラテスを亡き者にしてやろうと狙っていた人々は、ついにデタラメな言いがかりをつけて、処刑に追い込んだのでした。

死ぬことは怖くない

 しかし死刑に処されるソクラテスの態度は、極めて堂々としていました。まるで「死」を恐れていないようでした。実際、ソクラテスは「死」を恐れていませんでした。なぜなら、ソクラテスが言うには、死んだ後のことは誰も知らないからです。「死」が本当に嫌なものかどうか、確かめた人は一人もいないのです、それを知っているのは「神」だけです。自分が知らないようなものについて考えても仕方ありません。ひょっとしたら、「死」というものはとても素晴らしいものかもしれません。「知らないものは知らない」と認める、だから「死」は怖くない。これこそがソクラテスの「無知の知」の真骨頂です。
 いやまあ、理屈はそうかもしれません。が、実際に自分が処刑されるまさにその瞬間ですら、そういう態度でいられるなんて、ちょっと信じられない凄さです。凄い。発言と行動が一致している様子を表す「言行一致」という言葉がありますが、まさにソクラテスは言行一致の人物でした。いや、言行一致なんて言葉でも生ぬるい気がします。「言」と「行」がまったく分離していない、そういう本物の「神の知」を最後の最後まで追究し続けた人物でした。
 この態度こそが、彼の言葉に圧倒的な説得力を持たせています。彼は本当に最後まで自分の「魂」の世話を大切にしていたのでした。

参考文献:ソクラテス教育の先行研究

林竹二著作集1『知識による救い―ソクラテス論考』
 ソクラテスの教育について原理的に興味深い考察を加えているだけでなく、さらにその理論をもとにして実際の対話的授業を作り上げており、著者本人の生き方もソクラテスのような言行一致なところが凄い。

村井実『ソクラテスの思想と教育』
 単にソクラテスの教育を客観的に理解しようとするだけでなく、そこから得た知見を自分の教育学体系全体に行き渡らせるような、主体的に対象を捉える渾身の研究姿勢が、凄い。

稲富栄次郎著作集2『ソクラテス、プラトンの教育思想』
 この領域の開拓者として敬意を払うべき研究。

北畠知量『ソクラテス―魂の教育について』
 独創的な研究だとは思うけれど、個人的には違和感が残る。自分をいくつかに分割するのって、ソクラテスの本意かどうか。

参考文献:ソクラテスに関する先行研究

稲富栄次郎『ソクラテスのエロスと死』
田中美知太郎『ソクラテス』
岩田靖夫『増補ソクラテス』
F.M.コーンフォード『ソクラテス以前以後』

→参考:研究ノート『プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法―』

プラトンの教育思想―善のイデアを見る哲学的対話法―

ソクラテスは教育で、プラトンは教育「論」

 このページでは、プラトンの教育論について考えていきます。
 ちなみに、ソクラテスについては彼の行った「教育」について考えるのに対し、プラトンについては彼が語った教育【論】について考えます。「教育」と「教育論」では、考えるべきことは全然違ってきます。というのは、「教育」は現実に行われた取り組みを指しますが、「教育論」の方は現実に行われるかどうかに関係なく頭のなかで考えられた思想を指すからです。実際に行われた「教育」と、頭のなかで構想された「教育論」では、評価する観点がまったく変わってきます。

ソクラテスの教育との比較

 ソクラテスとの比較で、まず事実として重要なのは、ソクラテス本人が自分の「教育論」をなに一つ残していないということです。ソクラテスは文章を書き残していないので、彼が何を考えていたかを本人の口から聞くことは、残念ながら絶対にできません。ただし、彼が実行したことについては、他の人が書き残した記録から推測することができます。特にプラトンが書き残した記録には、ソクラテスの言動が活き活きと描写されています。ソクラテスの人となりまで眼前にまざまざと思い浮かべることができるような、超一級品の文学作品です。プラトンの作家としての力量がズバ抜けていたことが分かります。が、逆に言えば、どこまでが実際にソクラテスが行ったことでどこからがプラトンの創作なのか、見極めることはとても難しいわけです。

プラトンの教育と、教育論

 一方、プラトンが実際に行った「教育」についても、そこそこ記録が残っています。プラトンは「アカデメイア」という学園を作り、そこで弟子たちを育成しました。プラトンが亡くなった後もアカデメイアは存続します。様々な史料が残され、そこで実際に行われていた教育の姿をある程度は再構成することができます。
 が、このページではアカデメイアで行われていた教育については直接触れません。考察の対象にするのは、プラトンが実際に行った「教育」ではなく、彼が構想した「教育論」です。

プラトンの教育論(本筋)

 そんなわけで、さっそくプラトンの教育論について確認していきましょう。プラトンはたくさんの本を書き残していますが、教育論に関しては、特に『国家』という本と『法律』という本が重要です。ただし、内容を精査すると、お互いに矛盾するような記述も多く、全体的・統一的・総合的に理解するのはなかなか厄介です。ということで、細かい矛盾には目をつぶって、まずは大雑把にプラトンが本当に言いたいことを理解することに努めてみましょう。

教育とは知識の獲得ではない

 まずプラトンは、教育に関して世間の人々が抱いている勘違いを糾弾します。世間の人々は、教育を「知識の獲得」と勘違いしています。当時、ギリシアでは自分を教師と称して、お金をとって教育をする人々が活躍していました。彼ら自称教師のことを「ソフィスト」と呼びますが、プラトンは彼らの教育を徹底的に批判します。ソフィストたちがやっているような、人間の外側から知識を注入しようとする試みを、プラトンは断じて「教育」だとは認めません(518B)。では、プラトンが主張する本物の教育とは何でしょうか?

哲学的対話法

 結論だけ示しておくと、プラトンが言う本物の教育とは、「哲学的問答法」です。この学問だけが人間を「確実な知識」へと導いてくれます。他の学問では、「確実な知識」へと辿り着くことは絶対にできません。
 しかし問題は、この教育の真の姿である「哲学的問答法」というものが具体的にどのようなものであるかが、プラトンの記述そのものからは分からないというところにあります。手がかりはたくさん与えられているので、少しずつ確認していきましょう。

「確実な知識」を求めて

 まず、先に「哲学的問答法だけが人間を確実な知識へと導いてくれる」と書いたわけですが、そもそも「確実な知識」とはどういうものでしょうか。実はプラトンは「確実な知識とは何か?」という問題に徹底的にこだわっていて、まずはこれを明らかにしないと彼の教育論そのものを理解することができません。
 まずプラトンが否定するのは「感覚」です。感覚を通じて「確実な知識」に到達することは絶対に不可能だと、繰り返し主張しています。例えば同じ対象を見るにしても、見る人の精神的状態が違っていたり、あるいは部屋の明るさなど環境が異なれば、人に与えられる感覚はまったく違ってきます。条件が違えば変わってしまうような曖昧なものを「確実な知識」と呼ぶわけにはいきません。
 つまりプラトンが言う「確実な知識」とは、どんなに環境や条件が変わろうが、場所や時代が違っていようが、絶対に変わることのない知識のことです。平安時代だろうが江戸時代だろうが平成だろうが変わらない知識、アメリカだろうが北朝鮮だろうが日本だろうが変わらない知識こそが、追い求めるべき「確実な知識」です。

数学の重要性

 そんな時代や場所によって変わらないような「確実な知識」が本当にあるのか?と聞かれたら、自信を持って「ある」と言いましょう。たとえば、「三角形の内角の和は二直角と等しい」という事実は、平安時代だろうが江戸時代だろうが平成だろうが変わりませんし、アメリカだろうが北朝鮮だろうが日本だろうが変わりません。「数学」の知識は、場所や時代によって変わることがないものと言えそうです。ということで、プラトンは「数学」を極めて重要視し、最終目的である「哲学的問答法」に到達する前に必ず「数学」を修得するべきことを主張しました。プラトンの言うことに従うなら、数学が理解できない人に学問をする資格はありません。
 (そして、このようにプラトンが数学を重視することに対して、ピュタゴラス派が極めて大きな影響を与えただろうことが指摘されています。たぶん、そうでしょう。が、このページでは検証しません。)

数学に足りないもの

 しかしプラトンは、数学では最終的な「確実な知識」には手が届かないと言います。確かに数学的な手続きを踏んでいけば、一つの決まったゴールに辿り着くことができます。数学の「手続き」や「ゴール」にはまったく問題がありません。問題は、「スタート」にあります。どうしてその「スタート」で良いのか、数学そのものは決して答えてくれません。確かに、いったん「スタート」が正しいと認めてしまえば、あとは決められた手続きに従えば一つの答えを出すことができます。が、しかし、その「スタート」そのものが正しいかどうかは、数学そのものの手続きでは決して分からないのです。
 たとえばユークリッド幾何学は、まずいくつかの定義と公準と公理を無条件に承認するところからスタートします。いったん定義と公準と公理を認めてしまえば、あとは手続きに従っていけば必ず一つの決まった答えに辿り着くことができます。しかしそもそも最初に承認した定義と公準と公理が本当に正しいかどうかは、ユークリッド幾何学の手続きでは確認することができません。そこは無条件に「信仰」するしかありません。プラトンはそれを問題視したわけです。本当に正しいかどうかを自分で確認してもいないものなんか、無条件に信じることなどできない、ということです。

演繹と前提さかのぼり法

 数学の方法とは、「演繹」です。ある前提が与えられると、そこから論理的な手続きを正確に辿りさえすれば、確実に真理を導き出すことができます。真理を導く手続きに「感覚」の手を借りる必要は一切ありません。「感覚」を必要とせずに真理を導き出せるところに、数学の素晴らしさがあったわけです。ところがこの「演繹」という手続きを進めるためには、まず何らかの前提が必要となります。まずは前提が与えられなければ、演繹という手続きを始めることすらできません。無条件な「前提」を必要とすることが数学の弱点だと、プラトンは見なします。「本物の知識」に辿り着くためには、「前提」そのものが正しいかどうかを確認するために、数学の「演繹」とは違う手続きが必要となります。その手続きをプラトンは「仮設廃棄」と呼びます。
 数学は何かを「仮設」するところから議論を始めるけれども、しかし本物の知識に辿り着くためには、その仮設を廃棄して、さらに根源的な仮設へと遡っていく必要があります。そうやって次々と仮設を廃棄していって、もうこれ以上は遡れないというところまで辿り着いた時、そこが究極的な出発点となるはずです。これは「演繹」という手続きとは、まったく反対の手続きです。一般的には「演繹」の反対は「帰納」ということになっていますが、プラトンには通用しません。プラトンにとっては、「演繹」の反対は「仮設廃棄」です。私個人は「仮設廃棄」という言葉よりも「前提をさかのぼる」と言ったほうが分かりやすいので、そう呼びます。「演繹」という言葉も分かりにくいので、「前提から引き出す」とでも呼びましょうか。

善のイデア

 このように、前提から結論を引き出す数学の手続きとはまったく反対に、前提をさかのぼっていくのが哲学的対話法という手続きです。そしていったん遡りはじめたら、究極的な始原に辿り着くまで遡りつづけなければなりません。プラトンの言うところによれば、この究極的な始原こそが「善のイデア」ということになります。
 ということで、結論だけ言えば「善のイデア」を認識することが教育の目的ということになるわけです。が、どのように具体的な哲学的対話を通じて「善のイデア」に到達するのか、それはプラトンの著作そのものから端的に引用することはできません。ここは、プラトンの著作の全体から総合的に感得すべきものということになるでしょう。事ここに至れば、もはや、プラトンの著作すべてが総合的に「教育」なのだと言うしかないところであります、恐縮です。

国家の存在意義としての教育

 ここまでして教育に注意しなければならないのは、プラトンにとっては、教育こそが国家が存在する理由だからです。国家は、ただ人々を生存させるために存在しているわけではありません。人々を善い人生へと向かわせるために存在しています。教育をしない国家は、国家としての存在価値がないわけです。
 しばしばプラトンの著書『国家』の主題は何かについて議論されることがありますが、私に言わせれば、その主題は「教育」で間違いありません。なぜなら、理想の国家について論じることはすなわち理想の教育について論じることだからです。教育に触れずに国家について語ることなど、プラトンには想像もできないことです。国家のあり方と教育のあり方は一体となって構想されなければいけません。その姿勢は最晩年の著作であろう『法律』でもまったく変わっていません。

プラトンの教育論(脇筋)

 さて、以上、プラトン教育論の本筋を確認したわけですが、この本筋から様々な教育的見解が派生します。脇筋とはいえ、教育論として無視できない内容が満載ですので、確認していきましょう。

体育と音楽・文芸

 さて、プラトンが数学を重視していたことはすでに確認しましたが、数学を学習する前の小さな子供たちには、まず体育と音楽・文芸を課すことを提唱しています。まず最重要ポイントは、「体育」といっても、体力を養うことを目的としていないということです。プラトンが「体育」を重視するのは、それが体力や健康の増進に役立つからではなく、「魂」を養うことに大きな意味があるからです。
 プラトンによれば、人間の魂は3つの部分が組み合わさってできています。すなわち、「理知的/気概的/欲望的」な部分です。この魂の部分のうち、「欲望的」な部分が突出するとケダモノのようなダメ人間になってしまいます。「理知的」な部分と「気概的」な部分が協力して「欲望的」な部分を押さえつけることで、立派な人間になることができます。そして数学は「理知的」な部分を成長させるのに大きな役割を果たすのですが、小さな子供にはまだ数学を理解することは不可能です。そこで、まずは「気概的」な部分を成長させ、これに「欲望的」な部分を押さえ込ませようとするわけです。この「気概的」な部分を成長させるために必要なのが、「体育」ということになります。だから「体育」とは体力や健康のために課すのではなく、魂の「気概的」な部分の成長のために課すべきものとなるわけです。
 しかし「気概」的な部分が突出して成長すると、単に粗野で乱暴な人間になってしまいます。これはプラトンの望むところではありません。そこで、「気概」的な部分を穏やかに落ち着かせるために、「音楽・文芸」を課すことにします。というわけで、この「音楽・文芸」も、単に子供を趣味人にするために課すわけではなく、「魂」の調和のために必要な学科ということになります。
 プラトンは、子供たちの魂の調和を図るために、まず「音楽・文芸」を課して気概的部分を手懐け、その後に「体育」によって気概的部分を発達させようと主張します。こうして気概的部分が調和的に発達して欲望的部分を押さえつけることに成功した後に、満を持して数学の勉強に入ろうというわけです。

エリート主義

 しかし、気概的部分が調和的に発達すれば問題ありませんが、うまくいかない場合もあるのではないでしょうか? プラトンは、うまく成長しなかった子供は、どんどん教育から脱落させていきます。欲望的部分が優位になってしまった人間は、それに相応しい低レベルな仕事に従事させればいいのであって、さらに高度な勉強をさせる必要はないというわけです。
 そんなわけで、プラトンの教育とは、万人に平等に与えられるものなどではなく、落ちこぼれを次々と排除して、最終的にエリートを選抜するものです。恐ろしいことに、この落ちこぼれの排除は、赤ん坊の誕生直後どころか、男女の結婚の過程から開始されます。赤ん坊は、誕生直後に精査され、ダメな赤ん坊は無慈悲に排除されます。ダメな赤ん坊が生まれてこないように、男女の結婚や性交渉も厳しく制限されます。プラトンの教育は、「優生主義」を背景にして成立しています。だから「数学なんてわかんない」なんてプラトンに言おうものなら、人間失格扱いになること間違いありません。

男女平等

 しかし逆に言えば、体育と音楽・文芸によって気概的部分を手懐け、さらに数学の学習にも素質を示すようであれば、男女の性差など問題になりません。優秀な女性は、とうぜん男性と混ざって高等教育を受けるべきだという話になります。プラトンが「理性」という観点から男女を完全に対等な存在と見ていることは、彼の教育論を考える上で重要な論点となります。

有害な物語の排除

 さて、小さな子供たちの教育を、まず音楽・文芸から始めるべきことは先ほど確認しました。どのような音楽・文芸を子供に与えるべきかについて、プラトンは極めて長い議論をしています。簡単にまとめると、教育にとって有害な物語は子供たちから遠ざけるべきだという議論です。人生経験が豊富な大人にとっては娯楽的作品であっても、何でも素直に受けとってしまう子供に対しては有害な影響を与えてしまうことがあると、プラトンは言います。具体的には、神々に関する物語が問題となります。
 このように有害な物語を排除しようとするプラトンの姿勢は、もちろん後の人々から批判の対象となりますが、彼の教育論を考える上で一つの重要な論点となります。

自由と遊び

 さて、音楽・文芸と体育の課程を終えて素質があると認められた子供たちは、次に数学の勉強をすることになるわけですが、ここでプラトンは学習を強制するべきではないと主張します。子供たちの自発性に任せて、遊ぶように学習させるべきだと言います。理由は主に二つあって、一つは強制的に学習させられても身につかないという実践的な理由です。もう一つは、最終的に哲学的対話法を身につけなければならない人間にとって、強制されて学習するなどということはあってはならないという理念的な理由です。このあたりは、近年の学習指導要領の「新学力観」にも通じる論理で、彼の教育論を考える上で一つの論点となります。

実用主義の排除

 そうして子供たちは数学の学習を始めますが、プラトンが注意するのは、その数学が実用的なものではあってはならないということです。具体的には、商売に役立つために数学を身につけるわけではないということです。数学はあくまでも普遍的な知識への到達を目指し、魂を向上させるために身につけるべきものです。
この姿勢は最晩年の著作『法律』まで貫かれていて、数学だけに限った話ではなく、プラトンにとっての教育とは決して職業に就くための知識や技術を身につけるものではなく、「人間」となるための「普通教育」です。
 この実用主義・職業教育の排除は、近代的な普通教育の理念を考える上でも一つの論点となります。

学問の総合

 これまで「数学」と無造作に言ってきましたが、プラトンの言う数学は我々の考える数学とは範囲や内容が少しズレているかもしれません。プラトンは数学を、(1)算術(2)幾何学(3)立体幾何学(4)天文学というふうに発展していくものと構想しています。これは単純に見れば、一次元→二次元→三次元→円運動というカリキュラム構想となっています。
 そしてすべての課程を終えた際には、それらの学問をバラバラで雑多な知識として考えるのではなく、統一的・総合的に学問を把握することを求めています。単なる知識の習得ではなく、原理の理解を要求していると言えるでしょう。そうでなければ、次のステップである哲学的問答法を始めることなどできません。
 この論点は、学習指導要領の言う「深い学び」という言葉にも通じるものであり、彼の教育を考える上でも一つの論点となります。

まとめ:ソクラテスの教育との違い

 以上、プラトンの教育論について確認してきました。私が個人的に思うところでは、重要なのは、枝葉末節にとらわれず、まず論理の根幹をしっかりと把握することです。決定的に重要なのは、「善のイデア」に対する理解です。そして、それを踏まえると、雑多に伸びているようにしか見えない枝や葉についても理解することは容易であるように思います。逆に言えば、「善のイデア」について把握する前に細々とした論点に手を出しても、おそらく何も分からずに終わります。
 ちなみに、「善のイデア」の理解とは、教科書に書いてあることを頭で理解するような、そんなレベルの話ではありません。最終的には「生き様」の問題となります。ささっとレポートを書くためにインターネットを検索しまくっている限り、一生かかっても「善のイデア」を理解することはないでしょう。(まあ、理解しなかったところで、日常生活では何の問題もありませんけどね。なぜなら、プラトンの理屈では、理解するのは一握りのエリートだけで充分なのだから…)

ソクラテスとの比較

 で、ここがソクラテスと決定的に違ってくるところかもしれません。ソクラテスの行動を見る限り、彼にはエリート主義というものが見当たりません。老若男女、どんな人間に対しても分け隔てることなく接しているように見えます。ソクラテスは、誰でも必ず「人間並の知」には辿り着くことができると考えているように見えます。ただし、ソクラテスは「人間の知」と「神の知」を厳密に分けて、我々が到達できるのはしょせんは「人間の知」に過ぎないと自覚すべきことを唱えます。ソクラテスが言う「人間並みの知=無知の知」は、知ろうと思えば知ることができるような知識について語っているのではなく、人間の力では絶対に到達することが不可能であるような、原理的で絶対的な「無知」を相手にしています。人間がたどり着ける最高の知とは、「どんなに頑張っても絶対に知り得ないことがある」ということを知っているということです。
 それに対してプラトンは、「神の知」にまで到達しようと試みているように見えます。哲学的問答法は、そのための手段です。しかし問題は、本当に我々の力で「神の知」に到達できるかということです。これがおそらくソクラテスの言うとおり原理的に不可能であったことは、20世紀になってヒルベルトやフレーゲやラッセルやゲーデルら数学者の仕事によって明らかになっていくことでしょう(ただし「人間の知」を「有限の立場」と同じと見なすかどうかなど、なかなか厄介な話ではありますが……)。

参考文献:プラトン教育論の先行研究

稲富栄次郎著作集2『ソクラテス、プラトンの教育思想』
 プラトン『国家』の主題が教育にあると断じており、とてもありがたい本。著者は日本の道徳教育を作り上げる際にも大きな役割を果たしており、その理論的な土台としても注目される。

稲富栄次郎著作集9『人間形成と道徳』
 プラトンの教育論をどのように実際の道徳教育に活かすかという課題に果敢に挑戦している。

ネトゥルシップ『プラトンの教育論』
 プラトン『国家』の中に雑多に散らばっている教育論を統一的に理解しようとしている。

参考文献:プラトンの著作

 教育に直接関係するのは特に『国家』と『法律』だが、教育が主要テーマでないものであっても、その対話形式自体がすでに教育だったりするので侮れない。また内容的にも一貫して「知識とは何か」がテーマになっており、著作すべてが教育に関係しているとも言える。中でも『ゴルギアス』『プロタゴラス』『メノン』は、ソフィストを相手にしながら「本物の知識」とは何かを追究しており、教育論を考える上では外せない。さらに『テアイテトス』は産婆術についてのまとまった記述があり、プラトンの教育論を考える上でも重要な本となっている。まあ、全部読んでおこうということだな。

『ソクラテスの弁明・クリトン』
『パイドン』
『饗宴』
『ゴルギアス』
『プロタゴラス』
『パイドロス』
『メノン』
『国家』
『テアイテトス』
『法律』

参考文献:プラトンに関する先行研究

 『国家』はプラトンの著作の中でも特に重要なものと衆目が一致しており、先行研究も多い。そして『国家』の本質を教育論と見なさない立場であっても、もちろん教育を無視して『国家』を語れるわけがない。以下の文献は、教育そのものを追究課題としているわけではないものの、プラトンの教育論を考える上で参考になるような様々な視点を与えてくれる。

内山勝利『対話という思想』
納富信留『プラトン 理想国の現在』
納富信留『ソフィストとは誰か』
サイモン・ブラックバーン『プラトンの『国家』』

→参考:研究ノート「ソクラテスの教育―魂の世話―」