【要約と感想】プラトン『メノン』

【要約】「徳」は、「知恵」と「無知」の中間にある「正しい思わく」からももたらされるらしい。「思わく」なら神の恵みによって備わるかもしれない。そして本書の見どころは、「想起説」と「仮設法」。

【感想】「徳とは何か?」とか「徳は教えられうるか?」というテーマについて扱っている。『プロタゴラス』を引き継いだテーマと言える。まあ、いつもどおり消化不良ではある。とはいえ、『プロタゴラス』よりは生産的な方向に話が進んでいるような気はする。『プロタゴラス』では、結局のところ「徳」と「知」の関係は明らかにならなかった。本書でも相変わらず「徳とは何か」は分からないが、「知」でもなければ「無知」でもない中間であるところの「思わく」からも立派な行為がもたらされるという結論は出た。そしてそれは「知」でない以上は教えることができないものであり、神によって偶然に恵まれるものだ。

その結論とは直接関係なく、本書の見どころは論理的な手続きについて語られた「仮設法」と「想起説」にあるように思う。「仮設法」とは、蓋然的な命題を仮設して、そこから演繹的推論を重ねて出た結論を吟味し、仮設が正しかったかどうか確認するという手続きだ。しかしその手続きを重ねた結果、「徳とは知である」と「徳とは知でない」という仮設命題の両方が正しいことになってしまった。つまり仮設法は真の知へと至る確実な道ではなく、あくまでも便宜的な手続きに過ぎず、それはアンチノミーに陥ることが示唆される。これを解消するためには、仮設命題そのものの吟味が必要だ。つまり「徳とは知である」と言ったとき、「徳とは何か」と「知とは何か」が分かってなければ、本当の探求は始まらないということだ。

しかしそこで、「人は知っているものを探求する必要はないが、知らないものは何を探求すべきかも分からない」(80e)という詭弁にぶつかる。「徳とは何か」とは「知とは何か」などということについて、そもそも人は知りようがないのではないか?という疑問だ。我々はあらかじめ「徳」というものを分かっていなければ、「徳」について語りようがない。逆に、我々が「徳」について現実になにかしら語っているということは、我々はすでに「徳」というものを知っているはずだ。しかし改めて「徳とは何か」と聞いてみると、誰もそれを説明することができない。ソクラテスが求めているのは、我々があたかもあらかじめ知っているかのように「徳」というものを語っているが、どうしてそれを説明することができないのにあらかじめ知っているかのように語ることが可能なのか、その根拠だ。それは分析的な知でもなければ、アポステリオリな総合の知でもない。アプリオリな総合判断の根拠だ。プラトンはそれに対して「想起説」で応えた。生まれる前から「知っている」のだ。アプリオリに知っているのだ。我々は、だからあたかもあらかじめ知っているかのように語れるのだ。だがその根拠を説明できないのは、忘れているからだ。「学ぶ」というのは、その根拠を思い出すことだ。このように想起説をもちだすことで、「人は知っているものを探求する必要はないが、知らないものは何を探求すべきかも分からない」という詭弁をくつがえすことができる。アプリオリな総合判断とは「既に知っているにもかかわらず、その根拠を探求しなければならない」というものだ。

が、残念ながら、本書はアプリオリな総合判断の根拠を探求することへ向かうことはなかった。その解答は、『国家』を待たなくてはならない。

*9/18後記
このアプリオリな総合判断の根拠への探求は、眼鏡っ娘学の根本をなす動機でもある。我々はあたかも最初から「眼鏡っ娘」を知っているかのように、何らかのキャラを見て「あれは眼鏡っ娘だ」とか「あれは眼鏡っ娘ではない」などと判断している。だが、その判断の根拠を問われてみると、実は明確な言葉で定義して答えることができないという、困った事態に直面させられる。「単に眼鏡をかけている女のことを眼鏡っ娘と呼んでいいのかどうか」と問われれば、そんなに単純なもんじゃないと思う。「じゃあ誰が眼鏡っ娘なんだ」と問われれば、答えに窮するしかない。「知っているけれど説明できない」としか言えない。我々は確かに「あれは眼鏡っ娘だ」とか「あれは眼鏡っ娘ではない」と判断できるが、その判断の根拠を示すことはできない。これが「アプリオリな総合判断」というやつだ。「眼鏡っ娘とはなんだ?」という問いへの追究は、結局は「アプリオリな総合判断はどうして成立するか?」という人間の知への究極の問いを追究する行為と言える。そしてそれは、『饗宴』なり『パイドロス』で示されるように、「神がかり」とか「狂気」とか「エロス」というものが媒介することで成立するようなものなのだろう。

あるいは「萌え」という概念に一般化してもよい。我々は「萌え~」などと言えるが、どうして萌えるかの根拠や、そもそも「萌えとは何か」について答えることはできない。どれだけ分析しても、誰も納得しない。それはそもそも分析的な知ではないからだ。あるいはどれだけ萌えキャラをたくさん提示しても、誰も納得しない。それはアポステリオリな総合判断ではないからだ。それはアプリオリな総合判断であり、その根拠を提示しない限り人を納得させる回答とはならない。ソクラテスが「勇気」や「節制」に対する分析的な知やアポステリオリな総合判断に満足できなかったように、人々は「萌え」に対する分析的な知やアポステリオリな総合判断には満足しない。ではアプリオリな総合判断の根拠はいかに示されるのか。それはまさにソクラテス自身が示したように、もはや「神がかり」とか「狂気」とか「エロス」というものが媒介する形でしか示唆することはできない。だから小野寺浩二は正しい。彼こそ現代のソクラテスだ。賢者とも言う。

プラトン/藤沢令夫訳『メノン』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」