【要約と感想】プラトン『ゴルギアス』

【要約】大衆に迎合するための経験を積み重ねるより、確かな理論に基づいた知識と技術を学びましょう。大衆に迎合して不正に生きるよりも、真実に基づいて正しく生きる方が圧倒的に幸福です。

【感想】プラトンが厳密に区別した「技術/経験」概念の相違は、現代でも様々な論争の場面で見ることができる。具体的に、プラトンは「医術/料理術」「体育/化粧術」「立法/ソフィスト」「司法/弁論術」を区別した上で、前者を確かな知識と理論に基づいた「技術」とし、後者を単に大衆に迎合しただけの「経験」とした。現代では、たとえば絵を描くときにデッサンや遠近法をしっかり身につけるのは「技術」であって、大衆受けする萌え絵のスタイルを身につけるのは「経験」ということになるだろう。しばしば、大衆迎合的な萌え絵に対して「技術」の側から苦言が呈せられることがあったが、それは遠くギリシア時代からの伝統を保つ感覚といえよう。

一方、最先端のAI開発に関して、名人を倒した将棋ソフトの開発者が「人工知能と黒魔術」という知見を示した。記事によると、現代のAI開発は、プラトン的な意味ではもはや「技術」とは呼べず、「経験」の集積に過ぎない。ソフトが強くなった理由を理論的に説明できず、勘とコツとしてしか表現できないからだ。そういう意味で、それは確かに「科学」とは呼べない。しかし、AI開発の場面で、それはもはや問題とは考えられない。名人を倒すという目的に理論の積み重ねでは到達できないのに対し、経験の積み重ねでは到達できるのだ。

近代は、反プラトン主義として展開していくように見える。社会契約論にしろ、経験主義的科学にしろ、「快」と「善」の同一視にしろ、民主制にしろ、すべてソクラテスに対抗する者が2400年前に既に主張していたことだ。「経験」が「理論」を超える黒魔術も、またしかり。こういう現実を視野に入れたとき、今、どのようにプラトンを読むべきなのか。単に萌え絵を大衆迎合的と非難するだけでは、悲しすぎる。

プラトン/加来彰俊訳『ゴルギアス』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」