【要約と感想】渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』

【要約】16世紀フランスで激動の人生を送った人物12人の小伝を軸に、現代にも通じる普遍的な「人間」の姿を描いています。人間は、何らかの目的に従属する歯車と化し、一足飛びに理想を実現しようとするとき、おかしなことになります。地道で丁寧で粘り強い批判精神こそが、本当の平和と安寧へ繋がっています。

【感想】落ち着いた言葉と静かな筆致の背後に膨大な教養と圧倒的な知性を感じさせる、読みやすいのに深く感じるところの多い、良い本だった。変化の激しい時代にこそ、軸足が定まり腰が落ち着いた教養と判断力が必要なことがよく分かる。16世紀フランスについては高校世界史レベルの知識しかなかったので、ものすごく勉強にもなった。
 一方、著者が人間一般の悲劇について繰り返し言及しているのも心に残る。現代日本サブカルチャー(アニメやなろう系小説)には、「闇落ち」という概念がある。本書で語られるカルヴァンやロヨラには、この「闇落ち」という概念がぴったり当てはまるのかもしれない。そして彼らをいつまでも批判した人文主義とその背景となる教養とは、まさに闇落ちを回避するために必要な光ということになるのだろう。

【要検討事項】ルネサンスとは?
 フランスのアナール派歴史家ジャック・ル=ゴフは、フランスのルネサンスに当たる何かは、フランソワ1世のイタリア遠征と1516年のレオナルド・ダ・ビンチ招聘に始まると言っていた。が、本書が言う「ルネサンス」は、ダ・ビンチやフランソワ1世を完全に視野の外に置いて展開する。本書が扱う「ルネサンス」は、1517年ルターによる95箇条の提題に始まり、1572年サン・バルテルミの虐殺で極点を迎える宗教戦争と対の概念となっている。こういうルネサンス概念は一般的だと考えていいのか、それとも著者独特の世界観に依拠するものか、あるいはイタリア以外の地域にそもそもルネサンスという言葉が適用できるものなのかどうか。

「《ルネサンス》というのは、フランス語で《よみがえり》という意味ですが、結局は、中世文化が一部の聖職者や神学者の思いあがりや怠惰から、ごく少数の人々の利益のためだけのものになり、文化や宗教の本来の使命を忘れた時、中世よりも更に昔に人間が発見し考え出した歪められない文化の精神と人間観とをよみがえらせて、それによって中世文化を訂正し、新文化を創造しようとした時期が、ルネサンス(よみがえり)時代になるといいてもよいでしょう。(中略)誤解のないように附記しますが、このルネサンス時代は、西暦何年から始まるというようなことは言えませんが、フランスの場合は、およそ十六世紀がその時期に当たります。中世文化のなかで多くのすぐれた人間が、徐々に迷いつつも自然に反省し研究し続けた結果から生まれたものが《ルネサンス》文化の母胎を作ったことになるわけです。」25頁

 この記述に見られる考え方は、いわゆるイタリア・ルネサンスを代表するとされるペトラルカとかダンテの傾向とはかなり異なる。同じ「ルネサンス」という言葉を用いていても、それがどういう雰囲気を醸し出すか、あるいは期待される効果については、14~15世紀イタリアと16世紀フランスでは大きく異なる。これを地域による違いと考えるか、宗教改革以前以後の違いと考えるか。ともかく、15世紀イタリアの明るいルネサンスと、16世紀フランスの昏いルネサンスの対比は、はっきりしている。

【今後の研究のための備忘録】ユマニスムの定義
 「ルネサンス」という言葉と絡んで、「ユマニスム」という言葉の定義も大きな問題になる。ユマニスムという言葉は、日本語に翻訳すると「人文主義」と呼ばれることが多いが、その中身を具体的に説明しようとすると、とたに多種多様な考え方が混在していることが目に見えて、一言でまとめるのが難しい。本書は以下のように、やはり奥歯にものが挟まったような形で説明している。

「この自由検討の精神は、思想などというむつかしいものではないと思っています。むしろ、思想を肉体に宿す人間が、心して自ら持つべき円滑油のごときもの、硬化防止剤のごときものとでも申したらよいかとも考えています。そして、この精神が、ルネサンス期において、早くから明らかに現れていたように考えられますのは、ギリシヤ・ラテンの異教時代の学芸研究を中心とした《もっと人間らしい学芸》に心をひそめて、キリスト教会制度の動脈硬化や歪められた聖書研究に対して批評を行った人々の業績だったように思われます。これらの人々は、通例ユマニスト(ヒューマニスト)と呼ばれます。そして、これらの人々を中心にして、単に神学や聖書学の分野のみならず、広く学芸一般において、自由検討の精神によって、歪められたものを正し、《人間不在》現象を衝いた人々の動きが、ユマニスム(ヒューマニズム)と呼ばれるようになったように聞いております。」18-19頁
ユマニスムとは、むしろ一つの精神、一つの知的態度、人間の霊魂の一つの状態なのであり、正義、自由、知識と寛裕、温厚と明朗とを包含するものです。」(トーマス・マン1936年ブダペスト国際知的協力委員会での発言)29頁
ユマニスムは、思想ではないようです。人間が人間の作った一切のもののために、ゆがめられていることを指摘し批判し通す心にほかなりません。従って、あらゆる思想のかたわらには、ユマニスムは、後見者として常についていなければならぬはずです。」281頁

 ここで言われている「ユマニスト」は、日本語で通常使用される「人文主義者」よりも、「知識人」という言葉の雰囲気に近いように感じる。おそらくそれは、ルネサンスの当時(あるいは共和制ローマ時代まで遡っても)、「雄弁家」と呼ばれていたものに近いのだろう。私も自分自身のことを「ユマニスト」だと自称してみようか(世間にはたぶんその意図は伝わらないだろうけれども)。

【今後の研究のための備忘録】エピクロス主義
 一般的にルネサンスや人文主義はプラトン(あるいはそれを受けたキケロ)やアリストテレス(あるいはそれを受けたアヴェロエスとそれに対する批判)を中心に展開すると考えられているのだが、実はひょっとしたらルネサンスの本丸はエピクロスにあるのかもしれない。特にエピクロスの無神論的な唯物論に絡んで、ルクレティウスの影響には気をつけておいた方がいいのだろう。本書も、エチエンヌ・ドレの書いたものに関して「キリスト教からの乖離、あるいはキリスト教の忘却であり、異教的な自然観、アヴェロエス流の異端思想」(160頁)、「決してキリスト教的ではなく、むしろルクレチウスやウェルギリウス風な異教主義が濃厚に感ぜられる」(161頁)と言及している。啓蒙期以降の社会契約論にまで射程距離が及ぶ可能性があるので、16世紀フランス・ルネサンスにも絡んでいたことをメモしておく。

渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』岩波文庫、1992年