人格とは何か?

人格の定義

ありがちな勘違い

人格は、「個人の心理面での特性」ではありません。また、「人柄」でもありません。
もしも「特性」とか「人柄」という言葉と同じ意味なら、わざわざ「人格」などと言う必要はありません。「特性」とか「人柄」と言っていればいいのです。「特性」や「人柄」という言葉では伝わらない極めて重要な中身があるからこそ、特別に「人格」という言葉が用意されているのです。
では、「人格」とは何でしょうか?

人格の定義

実はすでにオールポートという心理学者が人格の定義を分析して、過去に提出された50もの定義を示しています。これに私がつけ加えることは、ほぼ何もありません。
まあ、私個人の定義は、「人の人たる所以」としておきます。屋上屋を架すことになって、恐縮ではありますが。

とはいえ、この定義に至った真摯な経過がないわけではないので、以下、勉強と研究の一端を示しておきます。

人格を見る、3つの観点

人格という言葉の意味を掴みにくいのは、3つの観点からまったく異なる意味で使われているからです。その3つとは、
(1)実体的な人格(主に心理学が対象とする)
(2)仮想的な人格(主に法学や経済学が対象とする)
(3)実存的な人格(主に哲学や神学が対象とする)
です。
以下、それぞれの立場を確認していきましょう。

(1)実体的な人格

実体的な人格とは、主に心理学の分析対象となり、数字で評価できるものです。近年のパーソナリティ心理学ではBIG5と呼ばれる評価規準が設定され、数字によって人格特性を表現することができるようになっています。つまり、この立場では、人格は客観的に測定できる対象です。

が、このように人格を実体的に見ることに対しては、パーソナリティ心理学の立場からも批判が加えられています。

「しかし、客観的にみるかぎりでは、パーソナリティ(特性)は構成概念として考えるべきものであり、それ自体が実体として(脳のなかに)存在していると仮定することは妥当とは思われない。しかし、現在のパーソナリティ研究の多くは、依然として実在論的なパーソナリティ概念を暗黙の前提としている。」
若林明雄『パーソナリティとは何か その概念と理論』培風館、2009年、47頁

このような批判があるにも関わらず、学術研究の世界でも、人格を実体的に理解する立場は衰える様子を見せません。一般的にも、人格を実体的に理解する姿勢に極めて根強いものがあることは、間違いないところでしょう。

(2)仮想的な人格

実体的な人格理解に対して、「人格なんてものは現実には存在しない」と言い切るのが、次の立場です。この立場では、人格が現実に存在するなどという非科学的な戯言など、断じて認めません。実際、人格の存在は、どれだけ科学的に分析しても、証明することなどできません。
しかしこの立場は、いったん人格というものの物理的存在を否定した上で、仮想的に存在を認めます。なぜ仮想的に存在を認めるかというと、あたかも人格というものが存在しているかのように世の中を組み立てておいた方が、世の中がうまくいくからです。
具体的には、たとえば法学では、人格なんてものは現実には存在しないのだと見切りつつ、それでもあたかも存在しているかのように振る舞います。法学者の安藤馨は、こう言い切っています。

「個人の人格は、そこに天然自然のうちに存在しているものではなく、それがあると考えた方が人々の効用が増大する(=気持ちよくなる)から設定されたもの、あると考えられるようになったものであるに過ぎない。となれば、個人の人格を基礎とする自律という観念も、単にそう考えることによってもっとも社会全体における功利が増大するという理由によって正当化し得るものに過ぎないということになろう。」
安藤馨「統治と功利-人格亡きあとのリベラリズム」『創文』2007年1-2月号

実際、法律というものは、「人格」と「物件」の厳密な峻別を土台にして、全体が構成されています。もしも「人格」という概念を認めないと、法律の体系全体が崩壊します。しかし人格そのものはあくまでも仮説的に存在を認められたものであって、現実に物理的に存在するわけではありません。

また心理学研究者も、以下のように言っています。

「自我体験における「私1」は、私たち人間が生存している範囲内で、仮定として想定しているもの」
天谷祐子『私はなぜ私なのか―自我体験の発達心理学』ナカニシヤ出版、2011年、169頁

実証的な研究に取り組んできた心理学研究者が、人格に対して「仮定として想定しているもの」という結論を出しているのは、なかなか興味深いところです。

(3)実存的な人格

これらに対して、まったく別の観点から、人格が現実に存在していることを主張する立場があります。この立場では、仮説的に存在を認めるなどという生ぬるいことは言いません。しかし、(1)にように物理的に存在しているなどと言いたいわけではありません。この立場では、人格とは、精神的に存在するものです。もっと言えば、霊的に存在するものです。物理の世界を超越したところに、物体よりも遙かに存在感あるものとして存在していると主張します。
たとえば神学者の稲垣良典は、次のように述べています。

「私自身が根本的に前提としている「人間」理解と、聴講者たちの間で「自明の理」とされている常識的な人間観との間の著しい隔たりは、時がたつにつれて次第に重い問題として私に迫ってきたのである。
その隔たりとは、一言でいえば、常識的な人間観における「人格」概念の完全な欠如であった。(中略)
社会通念ともいえる人間観にひそんでいるこうした欠陥は、いずれも「人格」概念の不在――「人格」という言葉、あるいは「人格の尊厳」「人格の形成」という標語は広く流通しているにもかかわらず――に由来する、と私には思われた。なぜなら、この後の本論で詳細に論じられるように、われわれが「私」「自己」と呼んでいる存在を明確に認識し、その存在に固有な価値を基礎づけることができるのは、人間を「個人」あるいは「個」として捉える立場を超え出て、人間を明確に「人格」として経験し理解することによってだからである」
稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』創文社、2009年、vii頁

稲垣のこの言葉は、(1)の立場の批判であると同時に、(2)の立場に対する批判でもあります。(2)の立場とは、「人間を「個人」あるいは「個」として捉える立場」であって、その立場を成立させるために「人格」という観念を仮構したのでした。しかし稲垣は、これを批判して、「人格」とは仮構物などではなく、実際に「存在」するのだと主張しているわけです。
そしてここでいう「存在」とは、もちろん物理的に存在しているなどという通俗的な意味ではありません。稲垣は次のように述べます。

「このように、「人格」について語ることの難しさは、私が私自身に現存している「私」「自己」を認識し、それについて語ることの難しさであり、精神が精神自身に現存している「精神」を認識し、それについて語ることの難しさである。ということは、少し変った言い方になるが「人格」は自己自身に現存している「人格」を認識し、それについて語ることが難しい、ということであり「人格」とはそのような自己自身への現存という存在の仕方をするものである、ということである。言いかえると、「人格」「自己」「精神」などの名で呼ばれるものは、「存在する者」である限り「一」であるが、それは量的な「一」、数の単位とか点のような「一」ではなく、自己還帰的な「一」、すなわち同一のものが自己に現存し、自己へと立ち返るような仕方で「一」なのである。」
同上書6頁

つまり、「存在」という言葉の意味そのものが既に(1)や(2)の立場と異なっていることに注意しなければ、稲垣の言う「人格」の意味内容を捉えることはできません。人格とは、「存在」という言葉のもっとも純粋な意味において「存在」しているものです。

まとめ:3つの観点の噛み合わなさ

以上、3つの観点から人格という言葉の意味内容を確認してきました。そして確認したように、もはや絶望的に、まったく噛み合うところがありません。それぞれ、何も意味が重なっていません。そういうまったく違うものが、同じ一つの「人格」という言葉で呼ばれているために、「人格とは何か?」がまったく分からなくなり、混乱してしまうのです。
が、その混乱ぶりから、むしろ明確に分かることがあります。それは、「人格」という言葉の意味は、「世界」をどう見るかによってまったく変わるということです。逆に言えば、「世界をどう見るか」という観点が伴わないかぎり、「人格」という言葉だけを取りだして議論しても、あまり意味がないということです。
学問分野の違いによって「人格」に対する見方がまるで異なるということは、学問それぞれの世界観が異なっている以上、当然のことになります。

「人格の完成」とは何か?

では、教育学では、「人格」をどう捉えるべきでしょうか? 決定的に重要な事実は、教育基本法の第一条に、日本の教育の目的は「人格の完成」であると明記されていることです。人格の完成という教育の目的を達成するには、そもそも「人格とは何か?」が分かっていなければいけません。
ということで、「人格の完成」については、ページを改めて考えていきましょう。(つづく?)