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【要約と感想】中村敏子『トマス・ホッブズの母権論―国家の権力 家族の権力』

【要約】社会契約論に関して、国家権力の成立過程についての理屈を踏まえながら家族内での権力関係について精査すると、ホッブズの議論がもっとも性的に中立な観点から組み立てられています。キリスト教教父アウグスティヌスは聖書の原罪の記述から女性を劣った性とし、アリストテレスは生物学的に女性を劣った性と決めつけて、家族内では男性が権力を握るのが自然だと主張しました。キリスト教的な観点からアリストテレスを取り入れたトマス主義は、国家権力成立前の自然状態を想定しましたが、家族の成立については従来の家父長制的な考えのままでした。しかしホッブズは、伝統的なキリスト教の原罪による女性蔑視に陥らず、アリストテレスのような生物学的性差別も認めず、男女を対等な個人と前提して、国家成立以前の自然状態においては子どもに対する権力を持つのは子どもを実際に養育する母であるという「母権論」を展開しました。これは後のロックにも見られない顕著な特徴です。『法の原理』と『市民論』では、女性が合意によって共同関係に入る過程で男性に権力を譲り渡すことにより母権を失うという議論が展開します。そして『法の原理』や『市民論』で母権を論じたホッブズも、後の『リヴァイサン』では家庭の形成過程と権力構造について沈黙し、女性と子どもは知らないうちに家庭内権力に取り込まれてしまうことになります。
 ホッブズが言う家族内での男女の権力関係は、ローマ法におけるファミリアの議論を引き継いで、相続以外の点では女性の法的権利を前提としていましたが、しかしイギリスの伝統的なコモン・ローにおいては婚姻後の女性の法的権利(人格)を認めない「カバチャー」の論理が横行し、ロックの社会契約論を踏まえて作られた自由主義的国家内の家庭においても女性の無権利状態が続くことになりました。そんななか、自然状態において男女の差を認めなかったホッブズの権力理論は、別の可能性があることを示唆しています。

【感想】とてもおもしろく読んだ。ホッブズの社会契約論について、私は『リヴァイアサン』だけ読んで、家父長のみによる社会契約であって女性と子どもは法的権利を認められていないと即断していたが、実はそれ以前の『市民論』では家族内の権力関係とその発生の論理について丁寧に語られていたということだ。目から鱗だ。とても勉強になった。しかし一方で、ロックの言う社会契約が平等な個人による社会形成ではなく家父長のみの合意による「家の合同」であるという理解は正しいのであった。ともかく、どうやらホッブズは『リヴァイアサン』だけ読んでわかった気になってはいけないらしいことはよく分かった。
 また、結婚すると女性から法的権利(人格)が失われるという論理が、イギリスのコモン・ローに顕著な「カバチャー」という概念に基づいていて、中世後期から引き継がれていることも勉強になった。キーパーソンはジョン・フォーテスキュー(1394-1480)とウィリアム・ブラックストン(1723-1780)。気になるのは、ローマ法におけるファミリアの議論も踏まえると、婚姻により女性から「人格」が失われるという論理はイギリスのコモン・ローに特徴的なものだということだが、ヘーゲルも同じようなことを言っていたことは本書では触れられていない。

中村敏子『トマス・ホッブズの母権論―国家の権力 家族の権力』法政大学出版局、2017年

【要約と感想】田中浩『人と思想ホッブズ』

【要約】ホッブズは民主主義思想家の元祖ですが、日本では絶対君主主義の権化と誤解されています。ホッブズに至るイギリス政治思想史の研究を怠っているせいです。ホッブズが民主主義者であることを理解するためには、ピューリタン革命前夜のイギリス政治体制の矛盾と課題を正確に認識する必要があります。
 ホッブズの思想は古代エピクロスから決定的な影響を受けており、それが同時代の思想家と際立って異なっている理由です。またルネサンスと宗教改革の思想を体系化し、カトリックの伝統を振り切って、後のロックやルソーに連なる近代的な政治思想を確立しました。

【感想】初心者向けの本である割には、繊細な論点に対して大胆に断定が下されていて、そのぶん話は分かりやすくなっているのだろうけれども、眉に唾をつけながら読む必要もありそうだ。たとえばピューリタン革命については、それを「市民革命の元祖」と見なすかどうか以前に、そもそも「革命」と見なすのかどうかですら議論がある(単なる「内乱」という見解もある)わけだが、そういう論点はバッサリと切り捨てられ、完全に「市民革命の元祖」と見なして話が進む。そういう歴史の単純化は、もちろんホッブズを「民主主義者」と理解する上で決定的な背景となる。逆に言えば、その背景がなくなれば、ホッブズを「民主主義者」とは考えられなくなるかもしれない。
 かつて日本では「日本資本主義発達史論争」というものがあり、明治維新を絶対主義段階と見なす講座派と独占段階にあると見なす労農派に分かれて激しい議論が繰り広げられたわけだが、同じようにイギリスのピューリタン革命(1642年)も、国王処刑という見た目のド派手さに目を奪われて「市民革命」と言いたくなるところ、実質的には伝統的に弱いイギリス王権が大陸の30年戦争に感化されて宗教政策で強権的に出た挙句に貴族層・ジェントリ層からカウンターを食らっただけであって、実は内乱進行の過程においてスコットランド・ウェールズ・アイルランドに対する支配は強化されるなど、むしろ国権の方は伸長しているように見える。これを本当に「市民革命」と評価してよいのか(まあ、民権と国権の伸長は理論的にも実践的にも矛盾するものではないが)。ホッブズにしても、やりたい放題の貴族層や教会勢力の無軌道ぶりの方を「秩序維持」の観点から苦々しく思っていて、貴族と教会の両方をいっぺんに無効化することを目指して神を必要としない「合意」によって権力の基盤を理論づけ、結果として「絶対王政」を正当化する理屈を打ち出しているように見える。仮に結果としては本書の言うような「民主主義」の論理として機能したとしても、ホッブズの本来の意図としてはそうだったようには思えない。そういう意味では、本書はピューリタン革命に関して労農派で、私は講座派という感じだ。まあこのあたり、ヘンリー8世の治世をどう評価するかとか、ジェントリ層の勃興をどう考えるかとか、本書でも丁寧に検討しているコモン・ローの伝統をどう理解するかとか、考えるべき要素が多すぎて、単純化するのが危険なことは自覚しておいて。
 さてしかしもちろんそういう歴史的経緯に対する関心は、ホッブズの時代を超える思想的評価を左右するものではない。近代政治思想史において極めて重要な役割を果たしていることそのものは間違いない。ホッブズ本人の意図として絶対王政の確立を仮に目指していたとしても、その理屈として貴族と教会の支配を排除して「一つの主権」を民衆の「合意」から積み上げて理論化したことは、近代民主政確立のための大きな一歩となった。また本書ではエピクロスとの関係について詳しく書いてあって、勉強になった。特にメルセンヌのサロンにおけるガッサンディとの関係は、類書では言及されることがなく、様々なインスピレーションが湧いてくる。

【個人的な研究のための備忘録】古代エピクロスの影響
  著者の卒論がエピクロスとの関係を扱ったもののようで、本書でもかなり詳しくエピクロスからの影響について語られる。やはりルクレティウスを経由していることなど含めて、なかなか勉強になる。

「われわれが西洋哲学史の著名な教授たち(中略)の著作を読むと、そこにはいずれも、ホッブズの政治思想にはエピクロスの影響がある、という指摘がみられる。(中略)
「人間論」から「社会契約論」を通じて「国家の設立」までを説明するホッブズの政治思想には、エピクロスの政治思想の影響が決定的なものであることがわかる。」118-119頁
「そこ(メルセンヌのサロン)でホッブズは、古代ギリシア・ローマの歴史や哲学にくわしいガッサンディと意気投合し、恐らく、かれから、エピクロスの唯物論や哲学思想を詩の形で書いたルクレティウスの『事物の本性について』という本を紹介され、それが、ホッブズが、母国の危機にさいして、国家論や政治論を各時の貴重な知的財産として用いられたのではないかと思われる。」121頁
「こうした人間論(「認識論」)からはじめて「道徳哲学」、「社会哲学」、「政治哲学」へと積みあげていく体系的手法の創始者は、近代においては、ほかならぬホッブズその人であったが、そのホッブズにヒントを与えたのが、エピクロスであった。エピクロスを発見したこと、それがホッブズを、世界の大思想家へと押し上げた理由であった。」124頁

【個人的な研究のための備忘録】ルネサンスと宗教改革
 ルネサンス及び宗教改革との関係も、順接的なものとして評価されている。そしてこの場合のルネサンスとは一般的なプラトン・アリストテレスの再評価ではなく、「エピクロスの発見」だということは忘れない方がいいのだろう(からメモしておく)。一方、宗教改革との関連については、ルターやカルヴァンの考え方を引き継いだというよりは、30年戦争のような宗教戦争が巻き起こす大混乱を目の当たりにしてドン引きしていたというのが本当のところではないのか。宗教に対しては確かに聖書主義的なアプローチを見せているが、聖書至上主義のルターやカルヴァンよりも、単に都合の良い言質を引き出す源泉として合理的に聖書を使うエラスムスやモンテーニュのほう(つまり人文主義)に似ていると思う。

「「自己保存」という「理性の哲学」(自然法)と「聖書」(啓示)にもとづいて宗教を論じたホッブズの学問的方法は、別の言葉で言えば古代ギリシア・初期ローマの思想にもとづいたルネサンス的思考とルターやカルヴァンなどの宗教改革的思想とを組み合わせた思想的大建築物である、ということができよう。(中略)ホッブズこそが、「ルネサンスと宗教改革の精神」を近代において最初に体系化し、それによって、かれは、その政治思想体系をのちのロックやルソーの近代政治思想へとつなぐことができたのである。」143-144頁

田中浩『人と思想ホッブズ』清水書院、2006年

【要約と感想】加藤節『ジョン・ロック―神と人間との間』

【要約】日本ではジョン・ロックの思想が誤解されているのですが、それは合理的な近代性や自由主義という一面のみ見ているからです。最先端の研究では、ロックの矛盾や挫折から、総合的にロックの思想を理解しようという試みが進んでいます。ロックの「生」に深く根ざした「神学的パラダイム」を踏まえることで、経験主義的な認識論にせよ、社会契約論的な政治論にせよ、実は宗教(プロテスタント)的な道徳への信念が土台となっていることが分かり、一見すると矛盾に満ちて錯綜としたロックの思想構造の全体を掴むことができます。

【感想】さしあたって、著者の言うように世間の教科書的なロック理解が世俗的で自由主義的であるとしても、いちおう私個人としてはロックの思想が宗教によって貫かれていることは既知の基本情報ではあった。たとえばロック『教育に関する考察』の訳者である服部知文は解説で以下のように言っているが、それはもう50年以上前のことだ。

「ロックの体系の主要部をなす認識論、宗教論、政治論の三者が、彼の宗教思想によって貫かれていることが明らかになると思われる。この「教育論」についても、その中心の眼目となるものは、その顕著な世俗主義にも拘わらず、やはり彼の宗教思想を根底とした道徳的性格形成の主張であろう。」『教育に関する考察』351頁

逆に言えば、専門家の間ではロックの思想を「宗教思想」を土台として理解しようと姿勢が少なくとも50年以上前からあったにも関わらず、教科書的な理解はいっこうに変わらなかったということでもある。私が専門とする教育学の世界でも、やはりロックといえば相変わらず「市民革命の世俗主義を背景とするタブラ・ラサと紳士教育」であって、その宗教性にスポットライトが当たることはないのであった。いやはや。

【今後の個人的研究のためのメモ】
さてところで、私の研究の興味関心からいえば、本書でかなり詳しくつっこんでいるところの「プロパティ」概念がとてもおもしろかった。プロパティとは現在では「財産」とか「所有権」という程度の意味ではあるが、ロックはその言葉をもっと広い意味で使用しているとのことだった。

「私有と共有との関係や、法と私的所有との関係を主要論点とする「プロパティ」論の十七世紀的文脈のなかで、「プロパティ」は、動産や不動産のようなモノとしての資産やそれに対する各人の所有権を意味するものとされていた。それに対して、ロックのいう「プロパティ」は、十七世紀の用法よりもはるかに広い意味をあたえられていた。それは、「資産」のほかに、人間の身体や人格にかかわる「生命、健康、自由」までをふくむものとされていたからである。」87頁
「ロックの「プロパティ」は、それなしに人間が神への義務をはたすことができないもの、伝統的な哲学用語を使えば、人間が神に対して負った全義務の基礎をなす「基体」そのものであったからである。」88頁
「まず注意すべきことは、ロック独自の用語法で、「プロパティ」が「神の作品」としての人間に「固有のもの」、人間とそれ以外の被造物とを分かつ人間の全属性を意味していたことである。(……)ロックにおける「プロパティ」の概念は、人格と存在、精神と身体、「不死なる魂と現世的な生」を持って創造された人間の全局面にあきらかにかかわるものであったからである。」88頁

この文脈で「人格」という日本語が出てきて、赤字にしてしまっているが、ハッとしたわけだ。ちなみに私がこだわっている「personality」という言葉は、私個人の印象ではホッブズあたりから現在のような意味で使われ始めたような感じがする。そしてロックの時代には(あるいはその後の英米系思想全体において)、それほどこなれた形で使用されるには至っていない。逆にロックが使う「property」とは、今で言うところの「personality」とか「冒すべからざる人格の尊厳」というような概念を何とか言い表そうとする中で発せられた言葉であるような感じを受けたわけだ。
しかしそういう意味で言うと、現在のコンピュータ界隈で使用される「property」という言葉の意味は、なかなか興味深いかもしれない。たとえばWindowsのシステム関連で使用されるpropertyという言葉には、ただの「所有物」とか「属性」という意味では捉えきれない、もう少し深い何かを言っている感じがするのだ。
「人格」という言葉の意味を捉える上でも、ロックやWindowsの言う「property」は、補助線として極めて有効なのかもしれない。

また、本書では、私が気にしている「人格的同一性」とか「アイデンティティ」という言葉が頻出する。なかなかおもしろい言い回しが多く、感心しながら読んだ。

「ロック自身がいうように「意識が人格的同一性をつくる」とすれば、思考する存在としての自己意識は、ロックがその後の人生において揺らぐことなく持ちつづけたアイデンティティの根底をなすものであった。」9頁
「変容し、矛盾をふくみつつも、全体としては自己同一性を保ちつづけた点にロックの思索の構造的な特質があった」45頁
「論理的な非一貫性や亀裂の存在がかえって思想の自己同一性を暗示するという逆説のうちに、ロックにおける発展する精神の謎を解く鍵がひそんでいる」45頁
「ロックも用いたスコラ哲学の伝統的な概念を使っていいかえれば、それは多面的なロックの思想を個性的な同一性を持つロックの思想それ自体にした「個体化の原理」にほかならなかった。」57頁

絶対矛盾的自己同一という(これは個人的には決して西田幾多郎の専売特許ではないと思っているわけだが)、私の問題関心の核心に触れるものではあった。実は終章で著者が語る「ロックの現代的意義」にはピンとくるものがまったくなかったが、そうでない部分は極めて現代的な意義で溢れているように感じた。おもしろく読んだ。

加藤節『ジョン・ロック―神と人間との間』岩波新書、2018年

【要約と感想】桑瀬章二郎編『ルソーを学ぶ人のために』

【要約】ルソー特有の矛盾は、ものごとを論理的に突き詰めた末に、論理の限界に突き当たったことに由来する。ルソーを学ぶということは、まずルソーの自己言及の輪に絡め取られることだ。ルソーが「自伝」ジャンルの確立者ということは、そういうことだ。

■図らずも知ったこと=ルソーは「音楽辞典」で、「趣味」とは「理性には眼鏡の役割をする」と言っている。つまり眼鏡とは、理性にとって趣味のようなものだったのだ。

【感想】「自分が主人だと錯覚しながら教師に従う」とか「自由への強制」とか「自分で自分に法を与える」とか、なるほど自己言及性の問題だ。「一般意志」というものも、民主主義的な手続きの問題というより、再帰的な自己というふうに捉えれば、論理的に説明できそう。そしてその論理は自己実現という教育的概念にも反映する。「告白」という自己言及的制度も、そうか。

桑瀬章二郎編『ルソーを学ぶ人のために』世界思想社、2010年

【要約と感想】仲正昌樹『今こそルソーを読み直す』

【要約】ルソーの政治社会思想に焦点を当て、現代政治哲学の成果も交えながら、特に「一般意志」について詳しく解説してくれる教養本。自然的自由を市民的自由へと変換してしまう道筋が、社会契約論の醍醐味。しかしルソーの思想は多義的で矛盾を含むものであって、一貫的な体系性はもともと期待してはいけない。「人間」と「市民」という先鋭化した両極でブレまくる姿こそ、我々がルソーに求めているものかもしれない。

【感想】個人的には、「一般意志」を、あらゆる具体的な属性を剥ぎ取られた理念人の持つ意志というふうに考えるのが、一番落ち着く。男でもなく女でもなく、金持ちでも貧乏でもなく、年寄りでも若者でもなく、手があるのでもないのでもなく、健康でも病気でもなく、日本人でもインド人でもない、そんなふうに具体的な属性を全て喪失した、理念的な「点」としての人間。そういう理念人が持つであろう意志を「一般意志」とすると、誰にでも普遍的に当てはまるような抽象的な共通点が見つかる。その普遍的で抽象的な共通点を憲法として構成した上で、あとは属性を元に戻してやって、多数決で具体的な法律を決めていくという感じ。まあ、ロールズの手続きとほぼ同じだけど。

具体的な人々の個人差を放置したままで集合的人格を構成するには、アクロバティックな飛躍が必要になる。ルソーの言う一般意志は、そのあたりの手続きがかなり杜撰な気はする。いったん個人差を解除するような手続きが挟まれば、多少はハードルが下がりそう。

とはいえ、「自然的自由」を「市民的自由」へ転換するという論理が、強烈な発明なのは間違いない。わがままで自分勝手だからこそ、進んで協力する。日本や中国やインドからはこんな発想は出てこない。近代ヨーロッパの面目躍如だ。

仲正昌樹『今こそルソーを読み直す』NHK出版 生活人新書、2010年