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【要約と感想】西研『ルソー・エミール―自分のために生き、みんなのために生きる』

【要約】ルソー『エミール』は、人が自由に生きるために必要なことを考えた本です。そのために、どのような社会が理想的で、どのような人間がそれに相応しいかを徹底的に考え抜きました。

【感想】とてもいい解説書だと思った。『社会契約論』との論理的関係を丁寧に解説してあって、分かりやすいのではないかと感じた。特に、通常の読者に分かりにくいのは「一般意志」の概念なのだが、「公共」の概念と絡めてうまく説明している。「公共」概念の重要性も丁寧に述べられている。読みやすかったのは、まあ、私の思想的方向とよく似ているというのも、あるのだろうけど。

100分de名著」は、伊集院光のナビゲーションも良くて好きなテレビ番組の一つだ。このエミールの回もテレビで見た。が、テレビ番組で見るのと、この「NHK100分de名著ブックス」で読むのとは、印象がかなり違う。どちらがいいということではない。やはり伊集院光の合いの手は絶品ではあるが、論理的にまとまった本の形で読むのも良い。総合的に、なかなか得がたいユニークな番組であることが再確認できるのであった。

【個人的研究のための備忘録】
「自由」に関して、いろいろ興味深いことが書いてある本だった。

自由な活動ができるためには依存が必要だ」59頁

「きみ自身の支配者(ton propre maitre)」という言葉は「自分自身の主人」とも訳されますが、ルソー独特の表現で「自由」を意味します。自分で自分をコントロールするときにこそ自由がある、という思想がそこには含まれています。」115頁

自分が自分であるときこそが幸福であり自由であるという思想は、ソクラテス以来のものであるようには思う。が、これを国家構成の原理(主権)にまで鍛え上げたのは社会契約論の思想なのだろう。(そしてプラトンは社会契約論に真っ向から対立するという)。私が追っている「人格」概念を考える上でも、「自由」はきわめて重要な補助線を引いてくれる。

西研『NHK「100分de名著」ブックス ルソー「エミール」自分のために生き、みんなのために生きる』NHK出版、2017年

【要約と感想】大澤真幸『自由という牢獄』

【要約】無際限に自由になったかと思われるときほど、実は自由ではない。なんでも選択できることによって、逆に自由を可能にする前提が崩壊しているからだ。自由を可能にするためには、「他でもありえた」という根源的な偶有性に開かれ、逆に「まさにこの私」という責任を引き受けなければならない。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=郵便的を経た後も、否定神学全開。

【感想】宮台真司は「偶発性」といい、大澤真幸は「偶有性」という。「偶然性」から自己のかけがえのなさを追究した九鬼周造からどれだけ隔てられているのか、というところは気になる。そんなに変わっていない気はする。

しかしこの偶有性という概念は、「排中律」を無効化して、超えていく理屈にはならないのかしらん。大澤は偶有性のことを「必然性と不可能性の双方の否定によって定義できる様相」と言っているけど、そうだとしたら、偶有性を認める世界では、大澤得意の否定神学的理論は使えないはずだ。あるいは、「否定の否定」が過剰さを産出してしまうという否定神学的な操作を成立させているのは、「否定」という操作をする際に、「必然性と不可能性」を都合良く認めたり認めなかったりしているからじゃないのか。「必然性と不可能性」の間を認めない「排中律」が成立しているのなら、「否定の否定」は、「ただの肯定」になるはずだ。「否定の否定」という操作が過剰さを産出するためには、「必然性と不可能性」の間に「排中律」が成立していてはいけない。だとすれば、「人格」や「自由」といった概念に過剰さをもたらしているのは、否定神学的操作そのものではなく、「排中律の破れ」ということになる。「否定の否定」によって過剰さがもたらされるのではなく、否定神学的操作を加えることによって、もともとあった「排中律の破れ」という事態があからさまに暴露されるということではないか。

【眼鏡論に使える】本書では「根源的偶有性」という概念を軸に、アリストテレスのいう「潜勢態」の議論に展開する。眼鏡的に言えば「眼鏡をかけている」と「眼鏡をかけていない」が偶有的であることを考えてみると、新城カズマが提唱した「未がねっ娘」という概念の重要性が際立つ。未がねっ娘とは、眼鏡っ娘という「現勢態=現実性」から純粋に独立した、「潜勢態(潜在的可能性)としての存在」である。それは「眼鏡をかけない」という可能性、つまり「眼鏡をしないでいる」という、己の内なる受動性のことである。アリストテレスの議論の含意は、「眼鏡っ娘への自由」は、それをなさない受動性を、つまり「未がねっ娘」を、超越論的な条件としている。こうした根源的偶有性を暴露する属性というのは、眼鏡くらいのものではないか。

大澤真幸『自由という牢獄――責任・公共性・資本主義』岩波書店、2015年

【要約と感想】篠原一『市民の政治学』

【要約】16世紀西洋に始まった「第一の近代」は、20世紀には「第二の近代」へと変容しました。第一の近代が揺らいでいる現在、新しいデモクラシーの形が必要とされています。その鍵が「討議」です。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=近代の始まりと終わりについての簡潔な見解。近代への道は中世後期(10世紀)から徐々に用意されていたが、16世紀に初期近代が開始され、18世紀半ばに本格的に確立した。まあ、教科書的にはこれで特に問題ない見解と言えますよね、という確認。ルネサンスに近代性を見るか中世性を見るかなんて、マニアックな関心だよなあ。

「ポストモダン」論のように近代が完全に終焉したと極論するのではなく、「第二の近代」というふうに近代を段階的な展開過程として捉える見方。注目する事象そのものは諸々のポストモダン論とそう変わらないけれど、断定口調で時代の断絶を煽るようなポストモダン論とは異なっていて。「第二の近代」と理解する方が、漸進的に議論を積み重ねていこうとする実践的な知恵に優れているように思う。

■図らずも得た知識=日本において「市民社会」概念が議論されていたこと。市民社会論の系譜を辿りつつ、「私」とも「公」とも異なる「公共」という第三の領域を際立たせるという論の運びっぷりは、抽象的に鮮やかで、とても参考になった。真似する。

【感想】今から13年前に出版された本だけど、ものすごく古く感じてしまうのは、現実の変化が早すぎるからなのか。イギリスのEU離脱とトランプ大統領誕生を目の当たりにすると、本書の内容は残念ながら牧歌的に見えてしまう。仕方ない。
筆者が推奨している「討議的デモクラシー」の概念にしても、twitter等でろくに相手の文章も吟味せずに短絡的に「敵-味方」感覚だけで条件反射で吹き上がっている人々を見ると、異なる価値観の人々の間での合理的な討議なんてものが可能かどうか、つい短絡的に悲観してしまう。いや、言葉を発せるだけ、まだマシなのかもしれない。誰の視界からも消えているような、左にも右にもなれない声なき人々の残念な姿を見ると、デモクラシーなんて言っている場合か、と意気消沈してしまう。日本はサバルタンだらけですよ。

短絡的には悲観的になっちゃうにしても、10年スパンで大局的に見たときには、まだ本書が言うところの「楽観主義」は有効であり得る。それを信じて、少なくとも自分の声が届く範囲では、合理的かつ誠実な言葉を吐き続けるしかない。

篠原一『市民の政治学―討議デモクラシーとは何か』岩波新書、2004年