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【要約と感想】竹田青嗣『プラトン入門』

【要約】現象学的な知見を踏まえてプラトン思想(特にイデア論)を捉え直してみると、よくあるプラトン解釈が間違っていることが分かります。

【感想】プラトンが諸イデアの頂点に置いたのが、「真のイデア」ではなく、「善のイデア」だったことは、イデア論を理解する上で決定的に重要な事実だ。世界は「真実」の体系ではなく、「価値=善さ」の体系である。世界は認識の対象ではなく、我々が善く生きることで本当の姿が明らかになるような何ものかである。著者は、こういうことを現象学の術語を用いながら表現していく。なるほどなあと思った。「善のイデア」という概念と現象学の相性は、とてもいいかもしれない。あるいは物語(ミュートス)という語り口と、本質直感という方法の相性とか。そこそこ現象学に関する予備知識を必要とするこの内容は、まあ、入門書ではないだろう。だが、それがいい。

そんなわけで、「入門」と名のつく本にありがちなわけだが、「入門」という体裁をアリバイとして、専門論文としては論証が難しそうな独創的な見解が、確固とした根拠なしに全面的に展開されている。だからというかなんというか、他のプラトン入門書の類では、本書は参考文献として言及されない。プラトン研究体系の中に位置づけるのが難しいのか、単にハブられてるだけか。

あと、本書では数々の思想家の名前が挙げられるけれども、名前の出なかったマックス・シェーラーはどう思われているのか、多少気になった。価値の体系という観点からは、言及が避けられない人なような気はする。

竹田青嗣『プラトン入門』ちくま新書、1999年

【要約と感想】納富信留『プラトン 哲学者とは何か』

【要約】安全地帯に留まったままプラトンから何か有益な知識を得ようと思っても、何も起きません。主体的にプラトンとソクラテスの謎に巻きこまれ、自分の生を問い直すことによって、初めてプラトンを相手にする意味が生じます。だから、従来の入門書が扱ってきた魂の三分説のようなトピックは敢えて無視しました。

【感想】テキストそのものに沈潜するのではなく、プラトンの個人史に寄り添いながら主張を噛み砕いていくという、思想史として王道のスタイル。だが、プラトンが相手では思想史の王道スタイルは成立しにくいらしく、多くの研究者は口を濁してテキストに耽溺するしかないと宣言する。本書は、いっさい言い訳じみた逃げ道を用意せず、敢えてドまんなかの王道で突き進んでいって、とても清々しい。

本書がプラトンを読み解く際、「ギャップ」という言葉がキーワードになっている。対話篇は、様々な登場人物たちの考え方のギャップを際立たせる手法となる。そのギャップから、哲学が立ち上がってくる。洒落た言い方をするなら、間主観性から意味が生まれる、なんて言うところだろうか。

このギャップは教育を成立させる条件でもある。教育とは、知識をモノのようにやりとりする技術のことではない。教育とは、真実の方向へ魂を向け換えることだ。そして人々が「政治」と呼んでいたものは実は「政治」と呼ぶに値するものではない。人々の魂を向け換えること、すなわち教育こそが「政治」と呼ばれるにふさわしい唯一の仕事となる。プラトンは人々が「教育」とか「政治」と呼んでいたものを、それぞれ偽物と見なした。

だから、プラトンの議論が「教育論なのか政治論なのか」と議論することそのものが見当外れとなる。それは世間の人々が言っているような俗論教育論でもなければ俗論政治論でもない、まったく別の何ものかだと言うより他ない。私の立場としては、その何ものかを敢えて「教育」と呼びたいわけだが。というのも、ギャップある対話者同士の間に成立している関係は、「政治」というよりも「教育」と呼ぶにふさわしいという直感があるからだ。この直感は、私が時間をかけて具体的な形にしていくしかない。

納富信留『プラトン 哲学者とは何か』NHK出版、2002年

【要約と感想】ジュリア・アナス『1冊でわかるプラトン』

【要約】プラトンを読む際には、「対話篇」という形式が持つ意味に着目する必要があります。プラトンは自分の哲学的見解を押しつけるのではなく、読者を対話そのものに巻き込むことを目論んでいます。なぜなら、知識とは、人から教えられて簡単に分かるものではなく、自分で真剣に努力して取り組んだ時に初めて理解できるようなものだからです。だから「イデア論」も、プラトンの最終論理として確定してしまうのは好ましくないでしょう。

【感想】イデア論を確定的な理論と認めるべきでないという見解には、かなり共感する。一般的な教科書では、『国家』とか『パイドロス』で見られるような確固としたイデア論こそがプラトン固有の見解であると確定的に言及されることが多いけれども。個人的にはなかなか同意しがたいものがあった。思うに、ただ一つ確実なことは、プラトンが「正真正銘本物の善は絶対にある」と信じていたことくらいだろう。で、実際のところそれが何なのかということについては様々な角度からの探求の過程が続けられ、イデア論は中でも有力な仮説ではあったものの、最後まで決着はついていないと考える方が正確だろう。逆に、イデア論がなくとも、「正真正銘本物の善は絶対にある」という信念は成立する。

それを指示する証拠が、プラトンが徹底的にこだわった「対話篇」という著述形式となる。正真正銘本物の善には、ディアレクティケーという哲学固有の方法でしかたどり着かない。その方法論に対する信念が対話篇という具体的な形になって現れている。とすれば、プラトンを読み解く上で唯一確実な土台となるべきは「対話篇という形式」そのものであって、イデア論という確定的な形で言及されたわけではないような考えではない。読者は、プラトンから確固とした知識を教えてもらう客体ではなく、ディアレクティケーに巻き込まれながら自分自身で善を見出す主体となることが期待されている。そのときにはプラトンそのものも客体ではなくなっているだろう。

ほか、本書はプラトンとジェンダー論という、なかなか他では見ないような主題も前景化されていて、単なる初心者向けの案内を越えているような感じがした。

ジュリア・アナス『1冊でわかるプラトン』岩波書店、2008年

【要約と感想】ポール・ストラザーン『90分でわかるプラトン』

【要約】ユーモアとウィットに溢れる俺様が、プラトンを面白おかしくブッた斬ってやったぜ。

【感想】読む価値なかった。基本的なテクスト・クリティークが行われた形跡もなし。先行研究に対する敬意が払われている様子もなし。百科事典でも読んでまとめたような、出来損ないの学生レポートレベル。そもそもプラトンに向かって、「90分でわかる」って、笑えないギャグなんだが。おまえはどこのポロスかと。まず「わかる」ってどういうことか、そこから説明してみてくれるかな。

ポール・ストラザーン『90分でわかるプラトン』青山出版社、1997年

【要約と感想】斎藤忍随『プラトン』講談社学術文庫

【要約】近年の研究ではプラトン中期と後期を峻別して、後期にはイデア論を放棄したと主張する意見が強くなってきていますが、著者は大反対です。後期にもイデア論は成立しています。

【感想】もっとも熱が入っているのは、もともと後期著作と思われていた『ティマイオス』が実は中期の著作ではないかという議論に対する検討だ。これが著者にとって大問題となるのは、イデア論放棄問題が関わってくるからだ。

後期入口の著作である『パルメニデス』では、イデア論に対して論理的な批判が加えられている。そしてその後に書かれる後期著作においては、エレア派の影響が強くなっており、表面的にはイデア論は背後に退いている。これを以て、多くの研究者が「イデア論放棄」と考えているわけだが、著者はイデア論は維持されていると考える。イデア論が維持されていると考えるのは、著者が「本質的なイデア論」(著者の言葉では「典型イデア」)と「応用的なイデア論」(著者の言葉では「あずかりイデア」)を区別して考えるからだ。確かに応用的なイデア論の方には論理的な難点を認めたが、本質的なイデア論のほうは維持されていると考えるわけだ。

個人的にも、その考え方にはある程度の説得力があると思う。イデア論を無際限に現実のモノに適用していくと、話は当然おかしな方向に向かっていく。しかしそのような批判と、「正真正銘本物の知識(ドクサ=思い込みとは異なる何か)」というものがどこかに必ず存在しているはずだという信念を抱くことは、必ずしも矛盾するわけではない。この「正真正銘本物の知識」を著者が「典型イデア」と呼んでいるのであれば、私の個人的な感想と大きくズレるものではないだろうと思う。(さらに言うと、「正真正銘本物の知識」という信念が有効なのは、人がどう生きるかという「価値」の領域に限るが)

ところで、本書は前半部で概説、後半部で主要著作からの抜粋翻訳が掲載されているわけだが、この翻訳がとても読みやすい。岩波文庫版で分からなかったところが、かなり明確に分かったような気になる。ありがたい。抜粋部分には「否定神学」へと発展していく箇所を前面に打ち出してあったような気がする。「否定」というものの積極的な意義を打ち出す西洋哲学の伝統がプラトン以来のものだと改めて確認できた。

斎藤忍随『プラトン』講談社学術文庫、1997年