【要約と感想】納富信留『プラトン 哲学者とは何か』

【要約】安全地帯に留まったままプラトンから何か有益な知識を得ようと思っても、何も起きません。主体的にプラトンとソクラテスの謎に巻きこまれ、自分の生を問い直すことによって、初めてプラトンを相手にする意味が生じます。だから、従来の入門書が扱ってきた魂の三分説のようなトピックは敢えて無視しました。

【感想】テキストそのものに沈潜するのではなく、プラトンの個人史に寄り添いながら主張を噛み砕いていくという、思想史として王道のスタイル。だが、プラトンが相手では思想史の王道スタイルは成立しにくいらしく、多くの研究者は口を濁してテキストに耽溺するしかないと宣言する。本書は、いっさい言い訳じみた逃げ道を用意せず、敢えてドまんなかの王道で突き進んでいって、とても清々しい。

本書がプラトンを読み解く際、「ギャップ」という言葉がキーワードになっている。対話篇は、様々な登場人物たちの考え方のギャップを際立たせる手法となる。そのギャップから、哲学が立ち上がってくる。洒落た言い方をするなら、間主観性から意味が生まれる、なんて言うところだろうか。

このギャップは教育を成立させる条件でもある。教育とは、知識をモノのようにやりとりする技術のことではない。教育とは、真実の方向へ魂を向け換えることだ。そして人々が「政治」と呼んでいたものは実は「政治」と呼ぶに値するものではない。人々の魂を向け換えること、すなわち教育こそが「政治」と呼ばれるにふさわしい唯一の仕事となる。プラトンは人々が「教育」とか「政治」と呼んでいたものを、それぞれ偽物と見なした。

だから、プラトンの議論が「教育論なのか政治論なのか」と議論することそのものが見当外れとなる。それは世間の人々が言っているような俗論教育論でもなければ俗論政治論でもない、まったく別の何ものかだと言うより他ない。私の立場としては、その何ものかを敢えて「教育」と呼びたいわけだが。というのも、ギャップある対話者同士の間に成立している関係は、「政治」というよりも「教育」と呼ぶにふさわしいという直感があるからだ。この直感は、私が時間をかけて具体的な形にしていくしかない。

納富信留『プラトン 哲学者とは何か』NHK出版、2002年