【要約と感想】三好信浩『教育観の転換―よき仕事人を育てる―』

【要約】伝統的な講壇教育学は「教育」の目的を人格や教養という概念で語ってきましたが、それは現実と噛み合っておらず、様々な問題を引き起しています。江戸以来の日本人の仕事観を踏まえ、これまで傍系として軽視されてきた職業教育や産業教育を見直し、教育の目的を「よき仕事人を育てる」という観点から組み替えましょう。明治以降の工・農・商・医などの実業教育が担ってきた人作りの成果を踏まえ、現代の高等専門学校や専修学校や各種学校、あるいは企業内職業訓練等も含めて文科省管轄学校以外の人材育成機関が担っている大切な役割に改めて注目すると、現代の教育問題を解決するための様々な可能性が見えてきます。

【感想】著者御専門の教育史的事実を踏まえつつ、本来の守備範囲を大きく超えて現代教育の根本的な問題を突き、「教育」という概念そのものの規定に切り込んでいくことを企図している本だった。ところどころに自身の長年の仕事に対する誇りと責任を土台とした「教育学の徒」としての矜恃が垣間見えて、なかなか味わい深かった。
 気になるのは、職業教育とかキャリア教育に関して様々な研究を引用しているのだが、なぜか東大教育学(の史哲)を意図的にかどうなのか排除しているところだ。特にかつては乾彰夫先生(まさに「「学校から仕事へ」の変容と若者たち」という本を書いている)、近年では児美川先生が職業教育・あるいはキャリア教育についてなかなかの仕事をしているように思うのだが、まったく名前が出てこない。教育社会学系の本田由紀や苅谷剛彦の名前は出てくるので、東大系研究者を視野に入れていないというよりも、史哲系研究者を視野に入れていないという印象だ。まあパージの事実自体は特に構わないのだけれども、どういうことか理由は少々気になる。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 私自身は、教育学の徒として、教育の中核概念である(と信じるところの)「人格」について歴史的・哲学的に研究を続けているわけだが、本書は「仕事」という観点で以て「人格」概念を外堀から埋めるような作業をしている。

「現今の教育、特に学校教育では、「学力」とか「学歴」とか「知力」とか「科学技術力」とか、果ては、「教養」とか「人格」とかが目標とされているが、それらの諸力は、ひとかたまりとなって「仕事」の中で開花し、一人一人の「個性」となり、「生き甲斐」となる。仕事こそが、人間の学習の到達すべき花園である。」3頁
「教育とは、「よき仕事人を育てる」という一語に尽きる。この一語の中には、教育界で大切な目標とされてきた、「人格」とか、「教養」とか、「道徳」とか、「学力」とか、「創造力」とか、「実践力」などの諸概念を包み込める気がする。しかも、産業だけでなく、人間の営むあらゆる職業の教育にまで拡張して適合するのではないかと考える。」10頁

 私なりに解釈すれば。日本近代における「人格」概念は、伝統的な共同体から身も心も「個人」を切り離すモメントとして作用した。その作用は親族内の労働集約を前提とした伝統的な働き方から近代的な雇用労働への転換に親和的だったはずだ。あるいは逆に、伝統的共同体から切り離された近代的な雇用労働が現実的に可能となって初めて「人格」という概念に説得力が生じたと言えようか。本書が現代教育の基礎概念としてあげている「学力」も「教養」も「道徳」も「創造力」も「実践力」も、伝統的共同体では必要がなく、すべて近代的な資本主義社会で生きる「個人」として必要なものだ。おそらく「仕事」の意義というものは、伝統的な共同体から「個人」が引き剥がされたところで初めて意識されたり追求されたりするものだろう。(そういう意味で、江戸時代をおもしろく感じるのは、おそらく西洋近代的な文脈と関係ないところで、純粋に日本社会が資本主義へと離陸する過程で「個人」が抽出されつつあり、それが「仕事」の意義と響き合う条件を整えていったからではないか)
 とするなら、高度経済成長を経て既存の共同体が破壊され、「人格」を形成する努力をするまでもなく「個人」が剥き出しにされてしまうような現代社会においては、「人格」を形成する努力に何の意味(あるいは力)があったかが見失われ、それに伴って単刀直入に「仕事の意義」を追求する動機や欲求が浮上した、ということになるのではないか。著者が揶揄する(ように私には読める)戦後教育学の素朴な「人格形成」への熱意というものは、いまだに「個人」が伝統的な共同体に埋没しているところから「個人」を抽出しようとする意図と欲望に由来し、そして60年代後半からそれが機能不全を起こしているように見えるのは、その意図と欲望を支えていた現実そのものが高度経済成長によって失われたからなのではないか。

三好信浩『教育観の転換―よき仕事人を育てる―』風間書房、2023年