【要約と感想】ラ・ボエシ『自発的隷従論』

【要約】たった一人の権力者が多数の人々を支配できるのは一見道理に合いませんが、多数者が自発的に権力者に隷従したがっていると考えることで理解できます。

【感想】ラ・ボエシが書いた本文そのものは極めて分量が少なかった。そして個人的な感想だけでいえば、内容にもさほど感心しなかった。しかし本書に添えられた論文や解説は、やたらと褒めそやしている。個人的な感想では、著者ラ・ボエシの執筆意図を遙かに超えて読み込み過ぎだし、あるいは自分の意見を開陳したいばかりに意図的にありもしない裏を読んでいるような気がする。たとえば、後の「社会契約論」との関連は、(解説でも否定されているとおり)ないだろう。近代的な社会契約論は、個人的な見解ではエピクロスやルクレーティウスの唯物論的な流れから生じてくるが、ラ・ボエシはエピクロス派からの引用を一切していない。社会契約論をイメージして議論を展開しているようにはまったく読めない。また本書のテーマである「自由」についても、近代的な意味はなく、ヘロドトスから引用してきているとおり古代的な意味で使用しているに過ぎないだろう。
 それでも多くの人々が本書について語りたくなるのは、おそらくタイトルが極めて秀逸だからだ。おおげさに言ってしまえば、本文を読まなくても、「自発的隷従」というタイトルだけで何かしらのインスピレーションを受けることが可能だ。たとえば私の専門の教育については、「教育とは自発的に隷従させる営みである」という議論を即座に思い出す。subjectという単語は、名詞で「主体」とか「自我」という意味と同時に、形容詞で「従属する」とか「従うべき」という意味を持っている(ついでに言えば学校の「学科」という意味もある)。まさに学校とは、「従属することによって主体(自我)となる」ようなことを身につける場所だ。「自発的隷従」というタイトルを見ただけで、それくらいのことは一瞬で思い浮かぶ。
 ということでタイトルだけ見てそういう類の逆説的議論が展開されるだろうと予期して本文を読み始めたところ、期待したような鋭い話はまったく出てこなかったので、拍子抜けしたのだった。そこで改めて考えてみると、私が追究したい近代教育の逆説は「自発的隷従」ではなく「隷従的自発」だということに気がついた。それだけでも読んだ意味はあった。

【今後の研究のための備忘録】教育
 「教育」に関する言及があったのでサンプリングしておく。ただし、16世紀のフランス語でどう呼ばれていたかは原典で確認する必要がある。éducationではない可能性は十分にある。ちなみにさくっと英語で読めるものでは「trained」となっていた。個人的には「教育」ではなく「馴致」とか「仕込む」と訳したいところだ。

「たしかに人間の自然は、自由であること、あるいは自由を望むことにある。しかし同時に、教育によって与えられる性癖を自然に身につけてしまうということもまた、人間の自然なのである。
 よって、次のように言おう。人間においては、教育と習慣によって身につくあらゆることがらが自然と化すのであって、生来のものといえば、もとのままの本性が命じるわずかなことしかないのだ、と。したがって、自発的隷従の第一の原因は、習慣である。」43-44頁

 もしもこの「教育」の原語がéducationであったら、まさに近代の「隷従的自発」の逆説を説く文章に読めなくもない。しかしそれが「train」だったら、そこそこ凡庸なことしか言っていない。

【今後の研究のための備忘録】リテラシー
 当時のリテラシー教育のあり方を垣間見せてくれる文章があった。

「そのありさまは、彩色本の目にも鮮やかな挿絵を見たいばかりに読みかたを習う小さな子たちとくらべて、愚かさの点では同じくらいであった(攻略)」54頁

 16世紀半ばは、印刷術が発明されてから既に100年あまりが経過し、宗教改革絡みで両陣営がパンフレット出版に血道を上げていたこともあって、日常生活の中にも「彩色本」が出回っていただろうと推測できる。そこに描かれた挿絵が子どもたちがリテラシーを獲得するための誘因となっているのであれば、知識人ラ・ボエシが「愚か」と決めつけているとしても、それは大きく世界を変える出来事のように思えるのだった。

ラ・ボエシ/西谷修監修・山上浩嗣訳『自発的隷従論』ちくま学芸文庫、2013年