【愛知県名古屋市緑区】桶狭間古戦場はどっちだ

 桶狭間古戦場に行ってきました。とはいえ、野戦だったため、もちろん戦場は大高の東方丘陵地の広範囲に渡り、今川義元が討ち取られた正確な場所などは特定されておりません。有力な場所は2箇所あります。

 まず名鉄中京競馬場前駅を北に出るとすぐ目の前に「桶狭間古戦場伝説地」あります。

 現在は公園として整備されていてのどかなものですが、国指定の史跡になったのは昭和12(1937)年のことで、盧溝橋事件によって本格的に日中戦争が始まった年です。

 江戸時代の石碑が7本ほど立っておりますが、最初の石碑が立ったのは1771年のことで、桶狭間の合戦から200年以上経ってからのことです。どうやら戦死者を葬った塚がこのあたりにたくさんあったようで、今川義元の塚も含まれているという判断だったのでしょう。「桶狭間弔古碑」が立ったのは1809年。
 18世紀半ばから19世紀前半は日本全国各藩で観光地の整備をしていた時期でもあり、東海道の脇に石碑が立ちまくるというのは、学問的な根拠があってのものというよりは、なんとなく金の匂いがするような気もします。

 1771年の一号碑の脇にある塚が「今川治部大輔義元の墓」とされています。が、明治9(1876)年になってから地元民によって作られたものです。

 公園から道を挟んだ向かい側の高徳院には、今川義元公本陣跡の石碑が立っています。

 一段と高いところにあるので、丘の上に陣を構えていたということであれば、死亡地の真上に本陣があったのは自然ではありますが、しかし信長公記で義元が本陣を構えていたとされる「おけはざま山」は、ここから西に500mばかり離れたところにあったりします。
 緩やかな坂を登っていくと、住宅地のど真ん中に「おけはざま山」の石碑が立っていて、「今川義元本陣跡」となっています。

 500メートルを隔てて「今川義元本陣跡」が2箇所あるわけですが、どっちが正確な位置だったかは分かりません。個人的な感想だけで言うと、中京競馬場前の石碑群には江戸時代の金の匂いと日中戦争に絡む恣意的な国家意思を感じるのに対し、おけはざま山の方には信長公記という資料的根拠があるので、こちらの方が分が良い気はします。が、まあ信長公記そのものの信憑性の問題もあったりして、断定するのは難しいところです。

 おけはざま山の石碑の周辺は、現在は何の変哲もない坂道の住宅街になっていますが、坂を下りたところにある「桶狭間古戦場公園」に当時の写真を掲載した案内パネルがあります。

 おけはざま山のふもと、いわゆる「田楽坪」と比定される場所が「桶狭間古戦場公園」として整備されています。

 信長と義元の銅像も並び立っています。義元の方は公家の姿で描かれることが多いのですが、ここでは甲冑をまとっていて格好いいです。

 公園内には今川義元の墓もあります。公園の南側にある長福寺では義元の首を検分したとされています。

 公園内の案内パネルで、桶狭間の戦いの解説をしています。案内パネルの地図の大高城には鵜殿長照が配置されていますが、義元討ち死にの瞬間に大高城に入っていたのは兵糧入れのミッションを終えた徳川家康(当時は松平元康)だったはずです。

 桶狭間の後の家康の行動は大樹寺の記録などでよく分かっていますが、鵜殿長照が大高城の守備交代後に何をしていたかはまったく分かっていません。鵜殿長照が今川義元の本陣に合流していたら桶狭間の結果はまるで変わっていたかもしれません。
 個人的な感想では、鵜殿軍が大高城から本領の蒲郡上ノ郷城に帰る際、水軍を使って知多半島を回った可能性があると考えています。というのは、陸路で大高から蒲郡に向かうとしたら、義元の本陣に合流しないはずがないからです。そしてそうなっていたら、桶狭間の合戦そのものに参加していたはずです。しかし鵜殿軍が桶狭間の合戦に参加した様子は見当たりません。だとしたら、桶狭間の合戦の時には、鵜殿軍は伊勢湾に浮かんでいたということです。義元が大高城に入るのを、海から援護しようとしていたということです。しかし義元は大高城の手前、東方3kmほどの田楽坪で討ち取られました。鵜殿軍はその報を聞いてから、陸に戻ることなく、知多半島を回って蒲郡に帰ったのでしょう。なんの物的証拠もありませんが、個人的にはそう思います。さて、2023年の大河ドラマ『どうする家康』ではどう描かれるでしょうか。
(2011.5.2訪問、2023.1.5訪問)