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【北海道札幌市】北海道開拓の村で教育と近代について考える

 北海道開拓の村に行ってきました。札幌駅からだいたい45分くらいで着きます。
 開拓の村は、歴史的建築物の復元展示をしている野外博物館です。愛知県にある明治村や、小金井にある江戸東京たてもの園と同様のコンセプトです。
 一日いても飽きない、たいへん素晴らしい空間でした。

 展示はたいへん充実していたのですが、私の仕事に絡めて教育関係だけ記録しておきます。

 北海中学校の校舎は、明治42(1909)年に建築されました。

 北海中学校は、札幌農学校へ優秀な人材を送り込むことを主目的とした私立中等教育機関でした。明治18(1885)年に北海英語学校として設立された時は、学校の名前に「英語」とついているとおり、英語の修得を主目的とする予備校でした。というのは、当時最先端の学問を日本語で学ぶことは不可能だったからです。札幌農学校で最先端の農業を修得するためには、その条件として英語を身につけていることが必須でした。

 校舎のスタイルは、木造と鉄筋コンクリートの違いがあるとはいえ、基本的には昭和まで引き継がれる形ですね。

 建物内には北海道の教育に関する展示が行なわれています。教育について考えるときは、ついつい無意識に東京を中心にしてしまいがちですが、北海道の事情は東京都はもちろんまるで違っていました。基本的に開拓事業が優先され、教育は後回しにされます。森有礼が明治19(1886)年に小学校令を出して現在の義務教育の基礎を作ったことはよく知られていますが、北海道では就学期間が短くてもよい「簡易小学校」を中心に展開することになります。
 初代北海道庁長官に就任した岩村通俊は、明治20年にわざわざ「教育ノ程度ヲ低フス」という施政方針演説を行なって、殖産工業重視の姿勢を強調しています。子どもは学校で勉強するのではなく、労働力として期待されています。

 他にも様々な違いがありますが、特にアイヌの存在は極めて重要でした。「母語ではない日本語」を教え込むというコロニアルな仕事が教育に課せられていたわけです。

 簡易小学校やアイヌの日本化が進められている一方で、この私立北海中学校は日本の近代化に貢献するエリートを養成するための学校として期待されていました。近代という時代の両極を感じられる、軽く目眩のする空間となっております。

 続いて下の写真の建物は、学生寮です。札幌農学校の寄宿舎「恵迪寮」です。

 なんだか馴染みのある佇まいだなあと思っら、東大駒場寮と雰囲気がよく似ているのでした。木造と鉄筋コンクリートの違いはありますが、形や雰囲気はよく似ているように思います。

 下の写真にある「畳ベッド」も、駒場寮にあった畳ベッドを彷彿とさせます。

 展示されている案内パネルもたいへん充実しており、見応えがありました。自治寮としての誇りを感じさせる内容となっております。「落書」はおもしろいですね。駒場寮の落書きもなかなかのものだったことを思い出します。

 他にもたくさん見所があるのですが、ボリュームが多すぎてまとめきれません。
 ともかく、同種の野外博物館との決定的な違いは、「近代の影」を垣間見ることができる点だろうと思いました。たとえば明治村は、文明開化に向かう若々しい高揚感を感じられる場所です。開拓の村でも、札幌市街を中心とした都市部の展示(写真館とか新聞社など)にはそういう若々しいエネルギーを感じることができます。
 が、開拓の村には辺境フィールドも設定されていて、ここが類似博物館との大きな違いとなっています。

 たとえば上の写真は「平造材部飯場」です。都内の飯場も同じような感じだったのでしょうが、北海道の厳しい自然環境の中で一人あたり畳一枚の生活は、さぞ大変だったことでしょう。
 また、下の写真は、入植者が最初に建てた「開拓小屋」です。

 寒風吹きすさぶ苛酷な北海道の自然をこれで切り抜けたかと思うと、かなり驚きます。近代国家として国土開発を進めるというとき、最前線はこうだったのかと。

 馬車鉄道が行き交う風景は、のんびりとしたものです。

 しかしこういう都市生活の裏で、最前線を支える人々の苛酷な仕事があったことが、よく分かる博物館です。そして実は現在もあまり変わっていないのでしょう。
(2018年5/21訪問)

【要約と感想】柳父章『翻訳語成立事情』

【要約】翻訳とは、外国語の言葉の意味をそのまま日本語に移し替えることではありません。翻訳語は、日本固有の言葉の体系に組み込まれる過程で、新たな機能と役割を持ちます。それは、意味は分からないけど何か重要なことを言っているような雰囲気を醸し出すことです。
江戸から明治に切り替わるとき、日本固有の文化になかった概念がヨーロッパから大量にもたらされました。ヨーロッパ固有の概念をどのように日本語で表現するのか、先哲の様々な工夫と葛藤を追いながら、日本語そのものの変化を明らかにします。

【感想】とんでもない名著だと思っている。近代史を囓る人は必ず読むべき本だと思う。通読したのは今回で3回目だが、読むたびに新たな発見がある。おそらく私自身が成長して、別の視角から内容理解ができるようになっているのだと思う。もう40年近く前の本だが、決して古くなっていない。

以前は、前近代から近代への移行を端的に象徴する「社会」とか「個人」という言葉に興味があったわけだが、今回読んでみて、「存在」とか「自然」とか「彼、彼女」という言葉も実に味わい深いことが分かった。日本固有の言葉のセンスに意味内容が引っぱられていく過程がよく理解できた気がする。

これからも繰り返し読んでいきたい本だ。自宅にあった岩波新書の大半は捨てた(図書館で読めるから)が、この本はしっかり残っているのであった。

【個人的な研究のための備忘録】
含蓄のある記述が多い。ためになる。論文等で積極的に引用していきたい。

「意味内容が抽象的であるということは、意味が知識として入ってきて、具体的な用例が乏しいので、ことばの意味が乏しく、分かりにくい、ということである。
そして翻訳語は、こうして意味が乏しいにもかかわらず、漠然と肯定的な、いい意味をもつとされるために、ある時期、盛んに乱用され、流行語となる。」20頁

「あらゆる流行語がそうであるように、この「近代」もまた、その流行の渦中にある人でなければ容易に理解しにくいような、ある特別な意味を持っている。それは、ふつう言う「意味」ではない。ここで言われているような「特別な調子」である。特別な語感、特別な、ある言語活動上の「効果」である。
意味という点から言うならば、意味はむしろない、と言ったほうがよい。そして意味はないからこそ、かえって人々を惹きつけ、乱用され、流行するのである。」61頁

「実はよく意味が分らない、が重要な意味がそこにはこめられているに違いない。そういうことばから、天降り的に、演繹的に、深遠な意味が導き出され、論理を導くのである。」142頁

ここに引用した文章は、私が追跡している「人格」「個性」「自己実現」といった言葉に、そのままそっくり適用できるように思う。政策文書とか教科書とかいろいろ見ても、実は「人格」とか「個性」とか「自己実現」という概念を丁寧に解説しているものは、驚くほど少ない。あたかも意味内容が分かっているかのように書いているのだが、実は柳父が明らかにしたように、そこに意味などなく、「特別な調子」でもって、何らかの「効果」を発揮することが期待されているにすぎないことが多いように思うのだ。「意味はないからこそ、かえって人々を惹きつけ、乱用され、流行する」という言葉が、まさに当てはまっているように思うわけだ。

柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、1982年

【要約と感想】ガート・ビースタ『よい教育とはなにか』

【要約】「よい教育とはなにか」を考えずに、客観的な測定さえすれば教育問題が解決するかのような勘違いが蔓延しています。「エビデンスに基づいた教育」は効率性と効果性を追求しますが、「よい教育とはなにか」という疑問には一切答えてくれません。
教育とは「資格化/社会化/主体化」が交錯した地点で成立するものですが、「主体化」がどのように可能となるかが本書の関心です。現在は、「学習」の視点が強く打ち出されすぎており、この「教育=主体化」という課題が後退しています。原因は、新自由主義の蔓延によって、公共圏が私的領域と市場から挟み撃ちになって痩せ細っているからです。教育は消費者に対する「説明責任」を果すのではなく、代替不可能な「応答責任」を取り戻さなければなりません。
主体でないものを主体化するという教育の課題を達成するには、単に「主体化」を狙う働きかけをするのではうまくいきません。「資格化」や「社会化」を目指す途中で、局地的に限定された形で主体化(多様な世界への参入)へのきっかけが現れた時に、いったん教育を「中断」することが大事なのです。そしてその教育こそが、民主主義の本質と深く響き合うのです。

【感想】いやあ、なかなか読み応えのある本だった。論理的に明快で、すっきりした読後感だった。まあ、もともとの私の教育学的スタンスと同じ方向をむいている、という事情はあるのかもしれないけれど。

まず、「エビデンスに基づいた教育」に対する違和感について、過不足なく説明してくれているところが心強い。仮に「目的」が最初から決まっているなら、確かに「エビデンスに基づいた教育」にも意味がある。しかし逆に言えば、「エビデンスに基づいた教育」からは決して「教育の目的」を導き出すことはできない。どうしてもエビデンスとは完全に切り離された次元で「価値判断」が必要となる。このあたり、「エビデンスに基づく教育」を称揚する人々は、最初から価値判断を放棄している上に、放棄していることをまったく自覚していないところが気持ち悪いのであった。

そして、「エビデンスに基づいた教育」が跋扈している原因についても、私と意見を同じくする。というか、新自由主義的傾向が問題であることは、著者や私でなくとも指摘していることではあるが。

そして現状を踏まえた上で、論理的な視角として教育目的を「資格化/社会化/主体化」に区分した上で、「主体化=自由」を可能にする条件を探っていく。ここで真っ先にカントとデューイを参照するところは、私の教育観と合致するところだ。(同じようなタイトルで同じような関心から同じような試みをしている苫野一徳は、真っ先にカントとデューイではなくヘーゲルとフッサールを参照しているわけだが、個人的にはとても違和感がある)。
このカントのヒューマニズムが、本質的なアポリアを抱えているわけだ。私が従来から関心を持ってきた言葉で言えば、「自由でないものを強制的に自由にする」ことの可能性と正当性である。本書はこの問題に真正面から切り込んでいくのが、たいへんスリリングだった。

まず単なる「学習」では、「自由でないものを自由にする」ことはできない。「学習」は「資格化」や「社会化」を可能にしても、「主体化」には届かない。学校が消費者に対する説明責任を果すことは、仮に「資格化」や「社会化」には意味があるとしても、「主体化」とは何の関わりも持たない。「主体化」を果すためには、「学習」ではなく「教育」が、「説明責任」ではなく「応答責任」が求められる。
この場合の「教育」とは、learningでもなくinstructionでもなくinstituteでもなく、まさにeducationということになるのだろう。そしてそれは、真っ直ぐに「主体化」を目指す働きかけではなく、局地的な「中断」が可能にするという。つまり「自由でないものを強制的に自由にする」ことを目指さないのだ。なんらかの働きかけの途中で「自由になる」という契機が生じた時、働きかけを「中断」して、「応答責任」を果たすということなのだ。「自由でないものを自由にする」というとき、教師にできることとは、自由がはじまる時に「応答責任」を果たすことだけなのだ。
ああ、なるほどなあと。本質的なアポリアを解消するために、こんな形のアイデアがあるんだなあと。いやはや、恐れ入った。

【今後の研究のための個人的備忘録】
「自由でないものを自由にする」ことを巡っての言及は、いろいろと参考になる。

「カントの教育的介入について最も重要なことは―そして、だからこそ、我々は、彼の仕事が近代教育の始まりのしるしとなると言いうるのだが―、彼が、教育と人間的自由の間のつながりを確立したことである。カントは他律的決定と自己決定の間に区別を設けることによって、そして教育は究極的には前者ではなくて、後者と関係があると主張することによって、人間の自由に関する問いを近代教育の中心問題にした。したがってある意味で、社会化と主体化の間で区別することが可能になったのは、カント以降のみであった。」(114頁)
「しかし、もっと重要なことは、近代教育の基礎づけであるカントの表現における閉鎖もまた気づかれなかったということだ。というのも、人間存在の目的(telos)についてのこの定義から排除された人々―理性的でない、もしくはまだ理性的になっていないと考えられていた(子どもたちのような)人々―が彼ら自身の排除に対する抵抗の声を欠いていたからである。そして彼らがこの声を欠いているのは、まさしく、人間であるということが何を意味するのかについての特定の定義のためである。言い換えれば、彼らは、話すことさえできず、あるいは話す能力があると認められることさえなく、排除されていた。」(115頁)
「教育的な観点からすれば、ヒューマニズムのこの形式で問題になるのは、それが、人間性の「実例」の実際の明示の前に、人間であるとは何を意味するのかについての基準を明記するということである。それは、子どもや生徒や新参者が何にならなければならないのかを、彼らが何者であり、何者になり得るのかを示す機会を彼らに与える前に、明記している。したがって、ヒューマニズムのこの形式は、新参者が人間であるとは何を意味するのかについての我々の理解を根本的に変えるかもしれない、という可能性を閉ざしているように思われる。その結末とは、そのとき、教育は(再び)社会化の形式になるということだ。」(118頁)

私個人の直感としては、「近代」という時代を支える根底の土台とは、「大人/子ども」の峻別だ。「労働/教育」の峻別や「自由/保護」の峻別など、近代社会を支える原理のすべてが「大人/子ども」の峻別に由来する。そして「大人/子ども」を架橋するという本来的に不可能な役割を負わされたものこそが教育であり、だから教育には近代社会の矛盾が集中して現れることになるわけだ(と私は理解している)。本書は、この矛盾に直接ぶちあたっていくわけだ。
そしてその矛盾を解決するために著者は「中断の教育学」という新しい概念を持ち出す。

「中断の教育学は「強い」教育学ではない。つまりそれはどんな意味においてもその「成果」を保証しうる教育学ではないのだ。それはむしろ、主体化の問いに向き合っている教育の基本的な弱さを承認する教育学である。教育のこの存在論的な弱さは、まさに同時にその実存的な強さである。なぜなら、独自性が世界に表れるために空間が開くかもしれないのは、人間の主体化がある方法で教育的に生み出されうるという理念を我々が諦めたときだけだからである。」(134頁)

いやあ、なかなかすごいことを言っているように思う。「弱さ」とか「諦めた」とか。実感的には、よく分かるのだ。「主体」なんて、作り出そうと意図して作り出せるものではない。この本来的に無理な注文を率直に「無理だ」というところから、そしてそれにも関わらず諦めないところから、新しい教育学は始まるのかもしれない。
諦めなかった結果、次のような結論が出てくる。

「子どもや若い人々を「よい民主主義者」になるように教育する代わりに―それは、私の見方では、基本的にポリス的秩序のなかにとどまるという戦略である―、教育者には当然、民主主義化が「生じる」無数の瞬間瞬間に学習する機会を利用し支援するという演じるべき役割がある。」(179頁)

うわあ、たいへんだなあ。が、これが「応答責任」というやつなんだろう。私も日々の実践のなかで忘れないように「応答」していきたいとは思う。できるかどうかは、さてはて。

ガート・ビースタ/藤井啓之・玉木博章訳『よい教育とはなにか―倫理・政治・民主主義』白澤社、2016年

【感想】クリムト展―ウィーンと日本1900(東京都美術館)

東京都美術館で開催されている「クリムト展―ウィーンと日本1900」に行ってきました。

とても面白く観てきました。やはり有名な「ユディトⅠ」の生は圧巻でした。図版で見ている時は気づかなかったのですが、生で見ると、額縁も含めた立体的な装飾技術が素晴らしいのに驚きます。平面的な装飾美術と立体的な装飾美術の総合が、他にない独特の雰囲気を作り出しているような感じがしました。人物表現の立体性(顔と乳房)と平面性(頭髪と衣服)の落差に対する衝撃も、全体的な装飾技術の立体性と平面性の落差によってさらに際立っている気がします。見入ってしまいました。凄いです。

あと不勉強にして知らなかったのですが、「ベートーヴェン・フリーズ」は圧巻でした。わけの分からない執拗な迫力に満ちております。お腹とか、垂れた乳房とか、膝の描写とか、病的で、衝撃を受けます。この病的な感じに対して、なんとなく宮西計三とか大矢ちきとか山岸凉子とか楠本まきとかを思い出してしまうわけですが、もちろんクリムトのほうが先ですね。

個人的な研究に関して、もちろん私は美術の専門ではないわけですけれども、かねてから気になっていたのは19世紀後半から20世紀初頭にかけて先鋭化していったように見える「純粋芸術/装飾美術」=「普遍主義/民族主義」の展開過程です。先行研究でもジャポニズムの流行と絡めて議論が進んでいるところだと思います。クリムトが活躍した多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国でも、大ドイツ主義の挫折とも絡んで、芸術概念の再編成とナショナリズム意識の錯綜とした展開があっただろうと思います。チェコのアルフォンス・ミュシャとは異なって明示的な民族主義は見られないものの、ジャポニズムの影響を受けつつ「純粋芸術」に対する「分離」を志向したクリムトにも、何らかの時代精神が反映しているのではないかと注目しながら見たわけではあります。が、まあ、私の現在の実力では、よく分かりませんでした。そういう観念的なものよりも、「退廃」や「官能」や、あるいは「死」の臭いの方が圧倒的に濃厚でした。敢えてやるとすれば、同時代のベルグソンとかディルタイとか、「生」という観念から接近する方が相応しいのでしょうが……

「接吻」とか「ダナエ」とか「人生は戦いなり」がなかったのは少し残念ですが、まあ、また別のところでぜひ。

【要約と感想】ジョン・デューイ『学校と社会』

【要約】子どもたちは、学校で死んだ魚のような目をして、退屈な時間を過しています。学校は、社会の役に立っていません。社会が変化した以上、学校も変化しなければなりません。
 これからの新しい学校は、理想的な家庭を延長した、理想的な小さな社会とならなければいけません。子どもたちは生活で得た経験を学校に持ち込み、その経験は学校の中で豊かに磨き上げられて、人生の洞察に不可欠な科学的知識へと結びつきます。
 そのためには、小学校から大学までの学校システムを統一的に整備し、「教える内容」と「教える方法」を統一しなければいけません。それは子どもの「生活」を中心としたときに初めて可能になります。私が作った実験学校での取り組みの結果、確信を持って言うことができます。

【感想】「児童中心主義」を高らかに宣言する、新教育のマニフェスト的な本だ。背景となる社会理論も心理学理論もしっかり整備されている上に、実験学校における実践も伴っており、説得力あることこの上ない。100年以上前の本であるにも関わらず、「最新の学習指導要領の解説として出た」と言っても違和感がないほど、理論的には古びていない気がする。まあ、個々の具体的事例はもちろん古びているんだけれども。逆に言えば、現代の教育がデューイの議論をちゃんと乗り越えているのか、不安になるところでもある。

【個人的な研究のための引用とメモ】

コペルニクス的転回と児童中心主義

 本書では、児童中心主義をわかりやすく説明するためにコペルニクスの地動説を例に挙げている。いわゆる「コペルニクス的転回」である。

「旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書、その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある。(中略)。いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動である。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときと同様の変革であり革命である。このたびは子どもが太陽となり、その周囲を教育の諸々のいとなみが回転する。子どもが中心であり、この中心のまわりに諸々のいとなみが組織される。」49-50頁

 非常に分かりやすい喩えで、教育にとって「子どもの生活」が決定的に重要であることを明快に示している。

社会に開かれた教育課程

 本書の構成は8章から成っているが、最初の演説では3章構成だったという。その3章が、現在の学習指導要領の構成と極めて近接しているのは、興味深い。すなわち、
第一章 学校と、社会の進歩
第二章 学校と、子どもの生活
第三章 教育における浪費
 という構成なのだが、これはそれぞれ最新学習指導要領と、
(1)社会に開かれた教育課程
(2)主体的・対話的で深い学び
(3)カリキュラム・マネジメントと学校経営
 というふうに対応している。

 たとえば第一章「学校と、社会の進歩」では、デューイは産業社会の急激な進展によって家庭における子どものあり方が根本的に変化したことを指摘し、それに伴って学校の役割も変わるべきことを主張する。

「明白な事実は、社会生活が徹底的な、根本的な変化を受けたということである。もしわれわれの教育が生活にとってなんらかの意味をもつべきであるならば、それは同様に完全な変形をとげねばならぬ。」43頁

 「知識基盤社会」に対応して教育が変わらなければいけないと訴える現今学習指導要領の言い分と、とてもよく似ている。まあ、デューイの言う社会の変化が機械化である一方、学習指導要領の言う社会の変化はIT化、という中身の違いはある。とはいえ、社会の急激な変化を背景とした教育改革の必要性という点では、状況は極めて似ていると言える。
 そしてデューイは、そういった社会変化に、学校がまるでついていけていないと指摘する。

「倫理的側面からみるならば、こんにちの学校の悲劇的な弱点は、社会的精神の諸条件がとりわけ欠けている環境の中で、社会的秩序の未来の成員を準備することにつとめていることである。」27頁
「しかるに、学校はこれまで生活の日常の諸条件および諸動機から甚だしく切離され、孤立させられていて、子どもたちが訓練を受けるために差し向けられる当のこの場所が、およそこの世で、経験を――その名に値いするあらゆる訓練の母である経験を得ることが最も困難な場所となっている。」30頁

 上に引用した100年以上前の言葉は、ただの一個所の改変も必要とせず、そのままそっくり現代日本の教育に適用できてしまう。これはかなり恐ろしい事実である。「社会に開かれた教育課程」という合い言葉は、最近になって言われ始めたわけではない。100年前から叫ばれ続けていたにも関わらず実現しなかったのだと、認識しなければならない。学校という組織を変えることは、そう簡単ではない。
 では、デューイはこれからの学校をどうしようと言うのか。

「学校はいまや、たんに将来いとなまれるべき或る種の生活にたいして抽象的な、迂遠な関係をもつ学科を学ぶ場所であるのではなしに、生活とむすびつき、そこで子どもが生活を指導されることによって学ぶところの子どもの住みかとなる機会をもつ。学校は小型の社会、胎芽的な社会となることになる。」31頁

 ここでは、「生活指導」という概念が見られることに注目しておきたい。

主体的・対話的で深い学び

 続いて、第一章で示された理念を、子どもの発達の側面から見るのが第二章「学校と、子どもの生活」の狙いである。一人ひとりの子どもの個性を重視し、興味を足がかりとして、生活のなかの活動をとおし、自然と社会の本質をつかませる。児童中心主義の本領発揮である。いわゆるアクティブ・ラーニングというものが100年以上前から実践されていたことは、踏まえておいていいかもしれない。
 この章では、「言語」というものに対する考え方と扱い方も注目ポイントである。

「言語本能は子どもの社会的表現の最も単純な形式である。だから、言語はあらゆる教育的手段のなかで重要なもの、おそらくは最も重要なものであろう。」60-61頁
「旧制度のもとにおいては、子どもたちに自由にのびのびと言語をつかわせることは、疑いもなくきわめて困難な問題であった。その理由は明白であった。言語にたいする自然な動機がほとんどあたえられなかったのである。教育学の教科書においては、言語とは思想を表現する手段であると定義されている。なるほど思考的に訓練されたおとなにとっては言語は多かれ少なかれそういうことになるが、しかし、言語はまず第一に社会的なものであり、それによってわれわれが自己の経験を他人にあたえ、逆に他人の経験を受け取るための手段であることは、あらためていうまでもないことであろう。もしも言語をこの自然な目的からひき離してしまうならば、言語の教授が複雑で困難な問題になることは、怪しむに足りない。」68-69頁

 ここでは、言語というものが「思想を表現する手段」としてよりも、他者とコミュニケーションを図る手段として、より重要な地位をあたえられている。「主体的・対話的で深い学び」を実現する際、あるいは「言語活動」というものを重視する際にも、参考となる言語観だろう。

カリキュラム・マネジメントと学校経営

 以上の「社会に開かれた教育課程」および「主体的・対話的で深い学び」を踏まえた上で、デューイは第三章「教育における浪費」の中で、学校制度改革とカリキュラム構成について言及する。これは最新学習指導要領では、いわゆる「カリキュラム・マネジメント」に相当する部分だ。
 デューイはまず現今のカリキュラムに統一が欠けていると批判する。

「しかしながら、根本的な統一が欠けていることは、次の事実に徴してあきらかである。すなわち、ある学科は依然として訓練に役立つものと考えられ、他の学科は依然として教養に役立つものと考えられていることである。たとえば、算術の或る部分は訓練に、他の部分は実用に役立つものである、文学は教養に、文法は訓練に、また地理は一部分は実用に、他の部分は教養に役立つものと考えられている、など。ここでは教育の統一などということはかげもなく、諸々の学科は勝手な方向をむいてばらばらである。」88頁

 これまた一文字の変更もなく現在の教育に適用されて違和感のない文章である。この分断的・散漫的なカリキュラムを変えるために、デューイは「生活」による統一を提言する。

「子どもがこの共通の世界にたいする多様な、しかし具体的で能動的な関連のなかで生活するならば、かれの学習する学科は自然に統合されるであろう。そうなれば諸学科の相関というようなことは、もはや問題ではなくなるであろう。教師は、歴史の課業にわずかばかりの算術をおりこむために、あれこれと工夫をめぐらすといったような必要もなくなるであろう。学校を生活と関連せしめよ。しからばすべての学科は必然的に相関的なものとなるであろう。(中略)。さらにまた、もし全体としての学校が全体としての生活と関連せしめられるならば、学校の種々の目的や理想――教養・訓練・知識・実用――は、もはやこの一つの目的ないし理想にたいしてはこの一つの学科を選び、他の一つの目的ないし理想にたいしては他の一つの学科を選ばねばならぬというような個々ばらばらなものではなくなるであろう。」107頁

 デューイは様々な実例も挙げるのだが、それらはいわゆる「総合的な学習の時間」を彷彿とさせるものだ。というか、「総合的な学習の時間」はデューイの構想を土台として出来ているわけだから、当たり前なのだが。
 が、この部分は、最新学習指導要領と袂を分かつ点かもしれない。デューイは統合の原理を「子どもの生活」に求めているが、最新学習指導要領は統合の原理を「求められる資質・能力」に求めている。デューイはあくまでも一人ひとりの子どもの個性を大事にしようとするが、すべての子どもが共通して身につけるべき「資質・能力」については何も言わない。一方、学習指導要領はすべての子どもが共通して身につけるべき「資質・能力」を想定する。ここが決定的に違う。この学習指導要領の姿勢が、果たしてデューイ理論を基礎とする戦後教育改革に対して加えられた「這い回る経験主義」という批判を乗り越える可能性を持つのかどうか、学習指導要領自身は何も述べていない。
 ともかく、最終的で現実的な制度設計において、学習指導要領はデューイを離れてブルーナーに近づいていくのであった。新学習指導要領の狙いが当たるかどうかは、「理念としてのデューイ、手段としてのブルーナー」というあり方が適切かどうかにかかっているように思うのだった。

問題解決学習

 また本書の注目点は、「問題解決学習」についての言及にもある。

「かつまた、前の第一期の特徴である子どもと学習される社会生活との全身的・劇的な同一化に加えて、いまや知的同一化がおこってくる――すなわち、子どもは遭遇せねばならぬ問題の見地に自己を置き、それらの問題を解決する方法をおよぶかぎり再発見するのである。」129頁
「かかる注意はつねに「学習」用のもの、いいかえれば、他人が尋ねるであろうところの問題にたいする、すでに出来上っている解答を記憶することのためのものである。いっぽう、真の、反省的な注意は、常に判断・推理・熟慮をふくんでいる。すなわちそれは子どもが自分自身の問題をもっており、その問題を解決するための関係材料を探求し選択することに能動的に従事し、その材料の意義と関係を――すなわちその問題が要求するような解決の道を考察することを意味する。問題は自分自身のものなのである。であるからして注意への動因・刺激もまた自分自身のものである。それゆえにまた、得られた訓練も自分自身のものである。――それは真の訓練、すなわち統制力の獲得であり、またいいかえれば問題を考察する習慣の獲得である。」180頁

 問題解決学習は、子どもの興味と社会および科学を結びつける重要で決定的な媒介物となることが期待されている。問題解決学習の論理がデューイの発達心理学理論に根拠を置いていることは、知識として知っておいて損はしないかもしれない。

ジョン・デューイ『学校と社会』宮原誠一訳、岩波書店、1957年