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【要約と感想】江森一郎『「勉強」時代の幕あけ―子どもと教師の近世史』

【要約】能力主義的な価値観の下での「主体的な学習」は、江戸時代半ばから始まりました。
寺子屋の机の並べ方は現在の学校とは全く違って児童同士の対面型になっています。出版された女子往来物の数を考えれば女子の識字率は言われているよりも高いはずです。侍も農民も、18世紀半ばから能力主義的な考え方に傾いて主体的な「勉強」を奨励するようになりますが、19世紀に入ると「勉強」を外から押しつけるようになります。
18世紀半ばの「勉強」時代幕あけの直前、17世紀末の貝原益軒の教育思想と背景である朱子学の思想構造を検討すると、実は通説とは異なって、庶民まで含めて教育しようという論理や、ただの教え込みを否定して個性を尊重しながら「主体的な学習」を進めようとする意思を確認できます。もちろん体罰が教育効果を持たないことは、日本では江戸時代初期から既に認識されています。
能力重視の教育観は、熊本をはじめとする北九州では18世紀半ばから広がっていきましたが、保守的な加賀藩藩校では一部の人々が声高に主張するものの身分制の壁に阻まれて浸透していませんでした。しかし身分制度を破壊して能力主義へ転換することの必要性は、幕末維新の激動期を経て武士階級に広く共有され、世界史的に見て希有な廃藩置県の成功等に結びつきます。

【感想】30年前の本なので、具体的な記述に関して乗り越えられているところはもちろんあるのだけれど、問題関心という点で言えば古くなっていないというか、むしろ新しくなっている気もするのだった。というのは、本書の関心の中心は「主体的な学習」であり、「メリトクラシーの有効性」だからだ。
「主体的な学習」は、もちろん今時学習指導要領で最大のテーマとなっている。またメリトクラシーが機能しなくなっていることは、現在では佐藤学「学びからの逃走」などが指摘しているとおりだ。そしてメリトクラシーが現在機能しなくなっているということは、逆に「身分制」が復活してきていることを意味する。本書は「勉強時代の幕あけ」を扱ったわけだが、現代は逆に「勉強時代の幕おろし」の時代なのかもしれない。現代の教育的課題を理解するために、実は本書は最先端の知見を与えてくれるかもしれないのだ。いやはや。
それから、熊沢蕃山と貝原益軒の面白さについて改めて教えてもらったので(個性を尊重する教育を推進していたこととか)、個人的にも研究したいと思った。

【今後の個人的研究のためのメモ】
本書が言う「勉強時代の幕あけ」が18世紀半ばであることについて、私個人の知識と教養の範囲では同意するしかないが、その理由については見解を異にしているような気がする。本書では「朱子学」の「新民」思想の重要性を強調しているものの、私個人としてはむしろ社会経済史的条件(新田開発や商品作物の展開による生産力の向上による識字の有効性への認識)がはるかに重要であって、仮に朱子学の思想が影響を与えているとしても副次的なものだと思ってしまう。仮に為政者がどれだけ意識が高く庶民教育を推奨したとしても、庶民の側のインセンティブとモチベーションが伴わなければ実現するわけがない。それは現代でもまったく同じで、どれだけ文部科学省が笛を吹いても、日本国民は踊らない。朱子学の論理よりも、社会経済的条件のほうが本質的だと思うわけだ。まあこのあたりは地道に知見を貯えなければ本当のところは分からないので、勉強と研究を続けるのだけれども。

それから本質的なところではないけれど、「「教学」とは「学ぶことを教える」意味であると考えられ、学習法的教育観に立った上での「教える」ことを意味する言葉」pp.188-189とあるが、ちょっとどうなんだろう? 「教」や「学」という漢字の成り立ちから考えると、あり得ない見解のように思えるのだが。このあたりは乗り越えられているのだろうか?

江森一郎『「勉強」時代の幕あけ―子どもと教師の近世史』平凡社選書、1990年

【要約と感想】新井潤美『パブリック・スクール』

【要約】パブリック・スクールはイギリスの上流階級が入る学校ですが、小説や演劇を通じて、階級の差を超えてイギリスの文化や考え方全体に影響を与えています。

【感想】イギリスではパブリック・スクールを舞台とした物語が人気だったことが分かるが、日本でも1970年代から少女マンガで寄宿舎ものがやたらと発展したことを思い出す。まあイギリスではなく大陸ぽいけれども。イギリス階級ものマンガだと『エマ』とか『アンダーザローズ』を思い浮かべたりする。

教育史的関心から読むと、パブリック・スクールが増え始めるのが16世紀というのは(7頁)、本書が言うように宗教改革の影響も多々あるだろうが、個人的には印刷術の影響が決定的だろうと思ってしまう。
あるいは、教育史の学生用教科書にはパブリック・スクールはほとんど取り上げられず、一方でオーエンの性格形成学院とベル・ランカスターのモニトリアルシステムばかりが強調されるわけだが、本書では逆にそれら教育史的素材に一言も触れられないところは、イギリスの如何ともしがたい階級制をむしろ顕わにしていて、いろいろと感慨深いものがある。
体罰を描写するくだりでは、寺崎弘昭先生の素晴らしい仕事(ホープリー事件)を思い出さざるを得ない。が、本書ではジョン・ロックの「ジョ」の字も出てこない。教育史の専門家としてはイギリスの教育というとロックとかスペンサーとかを即座に想起するわけだが、まあ現実からズレているのは我々の方なのかもしれない。いやはや。

【個人的な研究のための備忘録】
本書では「人格」という言葉が随所に登場する。パブリック・スクールが知識や教養ではなく、人格形成を重んじていたという記述に登場する。

「しかしこうして見ると、「プライベートな教育か、パブリックな教育か」という論争で重要なのは、与えられる知識の質や量ではなく、「しつけと人格形成」であることがわかる。」24頁

「パブリック・スクールが人格形成の場所であり、弱点や欠点を持った少年でも、良い感化を受けて変わることが可能であるという、従来の「学校物語」のメッセージや教訓」62頁

「「ボーイ・スカウト」運動も、ワーキング・クラスの少年に、パブリック・スクールの規律と人格形成の機会を与えようという試みである。」69頁

「…土地を所有することで生活が成り立つアッパー・クラスにとっては知識や教養を詰め込む必要がないという考え方にもとづいている。しかし、何らかの職につくひつようがあるアッパー・ミドル・クラスにとっては、パブリック・スクールでいかに人格形成が重んじられようと、或る程度の知識や教養の取得が必要であることは言うまでもない。」130頁

「…学校を見に来た父親も「この手の学校がやるのは教育だけじゃないんだ、人生で大切なのは人格なんだ」と、パブリック・スクールの精神を認めている。」181頁

本書が言う「人格」の原語が気になるところではあるが、私が推測するに、十中八九「character」であって、「personality」ではないだろう。
そしてここにイギリスのアッパークラスにとって知識や教養を獲得する教育自体が必要でないという意識を補助線に入れると、「characterの形成には知識や教養が必要ない、必要ないどころか相反する」という公式が見えてくる。
しかしながら、大陸においては「personality」を形成する物語は「教養小説」と呼ばれている。人格形成は教養獲得と一体化している。日本語では同じく「人格」と呼ばれながら、実は「character」と「personality」では指しているものがまるで違うことに気がつく。
そしてロバート・オーエンが労働者階級のために設立した学校の名前が「性格形成学院=New Institution for the Formation of Character」であったことを想起したりする。果たしてイギリス人にとって「人格=Character」とは何なのか、気になるところだ。personalityとの違いも含め、明らかにしなければならない。

新井潤美『パブリック・スクール―イギリス的紳士・淑女のつくられかた』岩波新書、2016年

【読み比べ】教職課程の教科書

教育課程論の教科書

 2017年に学習指導要領が改訂され、「社会に開かれた教育課程」や「カリキュラム・マネジメント」といった用語が全面的に展開され、「教育課程」を扱う教科書は従来の在り方から抜本的に変化することを余儀なくされている。また「主体的・対話的で深い学び」という概念によって教育課程論と教育方法論が原理的に結びついたため、「教育課程」を扱う教科書でも教育方法論に触れざるを得なくなっている。さらに「指導と評価の一体化」により、「評価」に対する記述も厚くしていく必要がある。
 それぞれの教科書が新学習指導要領にどのように対応しようとしているのか、確認しておきたい。

■田中耕治・水原克敏・三石初雄・西岡加名恵『新しい時代の教育課程 第4版』有斐閣、2018年

【特徴】2005年に初版が発行され、教育課程論の理論的な背景を一通り押さえられる定番教科書の一つではあるが、学習指導要領改訂を受けた2018年第4版では大幅な書き直しが行なわれている。「第2章 現代日本の教育課程の歩み」では「特別の教科道徳」や「主体的・対話的で深い学び」に関する記述が加わった。さらに「カリキュラム・マネジメント」が新たに章立てられている。戦前戦後のカリキュラム変遷に詳しい他、研究開発学校の具体的な取り組みや諸外国の教育課程が紹介されているのも一つの特徴。
【感想】理論的にも歴史的にも、そこそこ内容は盛りだくさんで、教職課程の初学者は読みこなすのが大変かもしれない。まあ、このくらいはしっかり読んで勉強して欲しいところではある。「社会に開かれた教育課程」という今時学習指導要領の理念が本書では前面に出てきていないのは、編集方針によるところかどうか、多少気になるところではある。

■細尾萌子・田中耕治編著『新しい教職教育講座教職教育編6 教育課程・教育評価』ミネルヴァ書房、2018年

【特徴】タイトルに「教育課程」と並んで「教育評価」と銘打ってあるとおり、「指導と評価の一体化」の流れに沿って、教育評価と一体化した教育課程論を目指している。戦前の教育課程や海外動向をばっさり切り落として、カリキュラム評価や学校評価に関する記述が手厚くなっている。
【感想】やはり「社会に開かれた教育課程」という観点の記述が薄いところが気になるところではある。特別活動や総合的な学習の時間の構想について最新改訂と絡めて言及されてはいるのだが、内在的なカリキュラム論として展開されるわけではない。編集方針なのか、単に展開しにくいだけか、どうか。

■松尾知明『新版 教育課程・方法論 コンピテンシーを育てる学びのデザイン』学文社、2018年

【特徴】従来は「教育課程」と「教育方法」を一緒に扱う教科書はあまりなかったように思うのだが、今時学習指導要領改訂は「過程を重視した学び」や「指導と評価の一体化」の掛け声に象徴的なように、教育課程と教育方法を一体化した記述となっている。それを受け、本書は「教育課程=カリキュラム・マネジメント」と「教育方法=主体的・対話的で深い学び」を一体化し、「コンテンツからコンピテンシーへの転換」を意識した記述となっている。
【感想】「教育課程」と「教育方法」を一体化して扱うことで学習指導要領が目指す教育の姿の全体をカバーしてはいるのだが、キーワードを表面的になぞるだけで、教育学的な本質に触れているかどうかについては気にかかるところ。少々論理的な記述内容が薄いような気はするが、一人の著者で膨大な領域をカバーしようとするとこうならざるをえないか。

教育原理の教科書

■木村元・汐見稔幸『アクティベート教育学01教育原理』ミネルヴァ書房、2020年

【特徴】西洋教育思想史の基本的事項について手堅く抑えつつも、近代教育(学校教育というシステム)の賞味期限切れという喫緊の事態に大きな危機感を抱いて、「教育」という概念そのものを根本的に捉えなおそうという意図で貫かれている。そういう意味では、教員採用試験で必要とされる知識の範囲を大きく超えているわけだが、これから教育という仕事に参入しようという人(教員に限らない)にはぜひ目を通してほしい充実した内容になっている。
【感想】さすが木村先生と汐見先生の名前が編著としてクレジットされているだけあって、基本的な知識や最新のトピックを着実に押さえながらも、読者に本質的な思考を促すような挑発的な仕掛けにも満ちている。教育原理の教科書は、「教育原理」と名乗るからにはこうありたいものだ。

■佐々木司・熊井将太編著『やさしく学ぶ教育原理』ミネルヴァ書房、2018年

【特徴】平易な言葉で、分かりやすく書かれている。養護教諭課程でも使用されることを想定しており、教育の他に「看護」に関する記述が厚い。「働き方改革」や人工知能など最新トピックにも言及されている他、批判的思考を養うための配慮もされている。
【感想】平易なぶん密度は薄めになっているが、本質的なところを外しているわけではなく、コンパクトに要点がまとまっているように思う。誤字・脱字等も見当たらず、丁寧に作られているような印象を持った。初学者には入りやすいのではないか。とはいえ、教員採用試験に対応しようと思ったら、もうちょっと密度が高い知識が必要になってくるだろうとは思ってしまう。ここを入口にして、教育課程論や教師論等の詳細に入って行くと良いのかなと思う。

■寺下明『教育原理 第2版』ミネルヴァ書房、2012年

【特徴】典型的な教科書とは趣が異なって、全編が著者の言葉で語られている。トピックの解説に終始せず、著者の教育学的観点(人間の学としての教育学)が全面に打ち出されており、教科書的な読み方を超えて、読み物としても面白く読めると思う。ただしそのぶん、個々の人名や語句に対する解説は省かれており、引用のスタイルも学術的で、初歩的な知識を習得し終えている中級者向けか。
【感想】教育人間学に関するトピックでは原典を直接参照しており、手厚くて面白く読めるが、その一方で日本や東洋の教育に関する記述(たとえば儒教)には二次的な引用が多く、多少食い足りない感じはする。一人でオールレンジをカバーする教科書を執筆するのは大変である。
とはいうものの、読み物として体系的にまとまっていて面白いので、初歩的な人名や語句を覚えたばかりの学部生に読ませて総合的な概念の定着を図るためには優れた本じゃないだろうか。ありそうで実はあまりないタイプの本のような気がする。

教育制度・教育法・教育行政の教科書

 2006年の教育基本法改訂以後、教育委員会制度の改正や教育機会確保法制定、義務教育学校の登場、教員養成制度改革などなど、教育制度はめまぐるしく変化している。教育制度・教育法・教育行政に関わる教科書は、最新のものでないと用をなさないようになっている。5年前のものは、もう古い。

■川口洋誉・古里貴士・中山弘之『新版 未来を創る教育制度論』北樹出版、新版2020年

【特徴】「子どもの学習権を保障する」というコンセプトで中心的となる柱をがっちりと固めつつ、教育制度に関わる領域を満遍なく網羅していて、全体的な統一度・完成度が高い。コラム等で具体的な判例や実践例が数多く紹介されており、説得力も高い。
【感想】筋が一本通っていて、とても読みやすく、分かりやすい。好感度が高い。単なる知識ではなく、自分なりに物事を考えるための「観点」を得ることに意味がある。「子どもの学習権」という観点を身につけると、教育に関する様々な事象の問題がクリアに見通せるようになる。

河野和清『現代教育の制度と行政(改訂版)』福村出版、2017年

【特徴】一歩引いたような地点から、教育制度・行政を概観するようなスタイル。タイトルに「現代」とついているように、ポスト近代の流れを意識したような構成になっている。そのせいで「未完の近代プロジェクト」としての「子どもの学習権」は前面に打ち出されない。ここは好き嫌いが分かれるところなのだろう。
【感想】「理念」としての教育制度・行政を考えるのではなく、現実問題としての教育制度・行政をまず知るという点では良いのかもしれない。特に臨時教育審議会以後の教育制度改革について記述が厚かったように思った。

教育方法の教科書

 2017年度版学習指導要領に登場した「主体的・対話的で深い学び」という言葉によって、それ以前の教科書は基本的に用なしになっている。さらにGIGAスクール構想や令和の日本型学校教育によって、いま出回っている教科書もすぐに役立たずになってしまいそうだ。

■稲垣忠編著『教育の方法と技術Ver.2 IDとICTでつくる主体的・対話的で深い学び』北大路書房、2022年

【特徴】「主体的・対話的で深い学び」を実現するための具体的な方法が、豊富な理論を背景に説明されていて、実践に活用できるように思わせる説得力がある。またGIGAスクール構想や令和の日本型学校教育の方針も視野に入っていて、ICTを活用した個別最適化についても配慮している。
【感想】子ども主体の方法が貫かれていて、ひと世代前の「教育方法論」とはずいぶん雰囲気が異なるような印象を受けた。

教育史の教科書

■山本正身『日本教育史:教育の「今」を歴史から考える』慶応義塾大学出版会、2014年

【特徴】古代・中世の教育的事項にはあまりページを割いていないが、近代以降の記述が厚く、特に戦後教育史に関する分析が鋭い。
【感想】一人で通史を書くのはほとんどドン・キホーテ的な蛮勇に類するものになってしまっているが、本書は誤字脱字も見当たらず、教員採用試験に登場するような基本的事項は一通り網羅した上で、全体を貫く構想にも説得力があって、学生にも安心して勧められるように思う。個人的には、特に戦後教育史に対する見方を共有していて、心強い。

■片桐芳雄・木村元編著/木村政伸・橋本美保・高木雅史・清水康幸著『教育から見る日本の社会と歴史』八千代出版、第二刷2017年

【特徴】日本教育史の通史。古代から現代まで過不足なく網羅している。当代一流の執筆陣で、安心して読める。第二刷で、最新の状況にも対応している。
【感想】単なる固有名詞の羅列ではなく、歴史の原則を踏まえた説明がしっかりしている。そのぶん、単に教員採用試験合格を目指すレベルの層には難しいかもしれないが、これくらいは読みこなしてもらいたいところ。

【要約と感想】ジョン・デューイ『学校と社会』

【要約】子どもたちは、学校で死んだ魚のような目をして、退屈な時間を過しています。学校は、社会の役に立っていません。社会が変化した以上、学校も変化しなければなりません。
 これからの新しい学校は、理想的な家庭を延長した、理想的な小さな社会とならなければいけません。子どもたちは生活で得た経験を学校に持ち込み、その経験は学校の中で豊かに磨き上げられて、人生の洞察に不可欠な科学的知識へと結びつきます。
 そのためには、小学校から大学までの学校システムを統一的に整備し、「教える内容」と「教える方法」を統一しなければいけません。それは子どもの「生活」を中心としたときに初めて可能になります。私が作った実験学校での取り組みの結果、確信を持って言うことができます。

【感想】「児童中心主義」を高らかに宣言する、新教育のマニフェスト的な本だ。背景となる社会理論も心理学理論もしっかり整備されている上に、実験学校における実践も伴っており、説得力あることこの上ない。100年以上前の本であるにも関わらず、「最新の学習指導要領の解説として出た」と言っても違和感がないほど、理論的には古びていない気がする。まあ、個々の具体的事例はもちろん古びているんだけれども。逆に言えば、現代の教育がデューイの議論をちゃんと乗り越えているのか、不安になるところでもある。

【個人的な研究のための引用とメモ】

コペルニクス的転回と児童中心主義

 本書では、児童中心主義をわかりやすく説明するためにコペルニクスの地動説を例に挙げている。いわゆる「コペルニクス的転回」である。

「旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書、その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある。(中略)。いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動である。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときと同様の変革であり革命である。このたびは子どもが太陽となり、その周囲を教育の諸々のいとなみが回転する。子どもが中心であり、この中心のまわりに諸々のいとなみが組織される。」49-50頁

 非常に分かりやすい喩えで、教育にとって「子どもの生活」が決定的に重要であることを明快に示している。

社会に開かれた教育課程

 本書の構成は8章から成っているが、最初の演説では3章構成だったという。その3章が、現在の学習指導要領の構成と極めて近接しているのは、興味深い。すなわち、
第一章 学校と、社会の進歩
第二章 学校と、子どもの生活
第三章 教育における浪費
 という構成なのだが、これはそれぞれ最新学習指導要領と、
(1)社会に開かれた教育課程
(2)主体的・対話的で深い学び
(3)カリキュラム・マネジメントと学校経営
 というふうに対応している。

 たとえば第一章「学校と、社会の進歩」では、デューイは産業社会の急激な進展によって家庭における子どものあり方が根本的に変化したことを指摘し、それに伴って学校の役割も変わるべきことを主張する。

「明白な事実は、社会生活が徹底的な、根本的な変化を受けたということである。もしわれわれの教育が生活にとってなんらかの意味をもつべきであるならば、それは同様に完全な変形をとげねばならぬ。」43頁

 「知識基盤社会」に対応して教育が変わらなければいけないと訴える現今学習指導要領の言い分と、とてもよく似ている。まあ、デューイの言う社会の変化が機械化である一方、学習指導要領の言う社会の変化はIT化、という中身の違いはある。とはいえ、社会の急激な変化を背景とした教育改革の必要性という点では、状況は極めて似ていると言える。
 そしてデューイは、そういった社会変化に、学校がまるでついていけていないと指摘する。

「倫理的側面からみるならば、こんにちの学校の悲劇的な弱点は、社会的精神の諸条件がとりわけ欠けている環境の中で、社会的秩序の未来の成員を準備することにつとめていることである。」27頁
「しかるに、学校はこれまで生活の日常の諸条件および諸動機から甚だしく切離され、孤立させられていて、子どもたちが訓練を受けるために差し向けられる当のこの場所が、およそこの世で、経験を――その名に値いするあらゆる訓練の母である経験を得ることが最も困難な場所となっている。」30頁

 上に引用した100年以上前の言葉は、ただの一個所の改変も必要とせず、そのままそっくり現代日本の教育に適用できてしまう。これはかなり恐ろしい事実である。「社会に開かれた教育課程」という合い言葉は、最近になって言われ始めたわけではない。100年前から叫ばれ続けていたにも関わらず実現しなかったのだと、認識しなければならない。学校という組織を変えることは、そう簡単ではない。
 では、デューイはこれからの学校をどうしようと言うのか。

「学校はいまや、たんに将来いとなまれるべき或る種の生活にたいして抽象的な、迂遠な関係をもつ学科を学ぶ場所であるのではなしに、生活とむすびつき、そこで子どもが生活を指導されることによって学ぶところの子どもの住みかとなる機会をもつ。学校は小型の社会、胎芽的な社会となることになる。」31頁

 ここでは、「生活指導」という概念が見られることに注目しておきたい。

主体的・対話的で深い学び

 続いて、第一章で示された理念を、子どもの発達の側面から見るのが第二章「学校と、子どもの生活」の狙いである。一人ひとりの子どもの個性を重視し、興味を足がかりとして、生活のなかの活動をとおし、自然と社会の本質をつかませる。児童中心主義の本領発揮である。いわゆるアクティブ・ラーニングというものが100年以上前から実践されていたことは、踏まえておいていいかもしれない。
 この章では、「言語」というものに対する考え方と扱い方も注目ポイントである。

「言語本能は子どもの社会的表現の最も単純な形式である。だから、言語はあらゆる教育的手段のなかで重要なもの、おそらくは最も重要なものであろう。」60-61頁
「旧制度のもとにおいては、子どもたちに自由にのびのびと言語をつかわせることは、疑いもなくきわめて困難な問題であった。その理由は明白であった。言語にたいする自然な動機がほとんどあたえられなかったのである。教育学の教科書においては、言語とは思想を表現する手段であると定義されている。なるほど思考的に訓練されたおとなにとっては言語は多かれ少なかれそういうことになるが、しかし、言語はまず第一に社会的なものであり、それによってわれわれが自己の経験を他人にあたえ、逆に他人の経験を受け取るための手段であることは、あらためていうまでもないことであろう。もしも言語をこの自然な目的からひき離してしまうならば、言語の教授が複雑で困難な問題になることは、怪しむに足りない。」68-69頁

 ここでは、言語というものが「思想を表現する手段」としてよりも、他者とコミュニケーションを図る手段として、より重要な地位をあたえられている。「主体的・対話的で深い学び」を実現する際、あるいは「言語活動」というものを重視する際にも、参考となる言語観だろう。

カリキュラム・マネジメントと学校経営

 以上の「社会に開かれた教育課程」および「主体的・対話的で深い学び」を踏まえた上で、デューイは第三章「教育における浪費」の中で、学校制度改革とカリキュラム構成について言及する。これは最新学習指導要領では、いわゆる「カリキュラム・マネジメント」に相当する部分だ。
 デューイはまず現今のカリキュラムに統一が欠けていると批判する。

「しかしながら、根本的な統一が欠けていることは、次の事実に徴してあきらかである。すなわち、ある学科は依然として訓練に役立つものと考えられ、他の学科は依然として教養に役立つものと考えられていることである。たとえば、算術の或る部分は訓練に、他の部分は実用に役立つものである、文学は教養に、文法は訓練に、また地理は一部分は実用に、他の部分は教養に役立つものと考えられている、など。ここでは教育の統一などということはかげもなく、諸々の学科は勝手な方向をむいてばらばらである。」88頁

 これまた一文字の変更もなく現在の教育に適用されて違和感のない文章である。この分断的・散漫的なカリキュラムを変えるために、デューイは「生活」による統一を提言する。

「子どもがこの共通の世界にたいする多様な、しかし具体的で能動的な関連のなかで生活するならば、かれの学習する学科は自然に統合されるであろう。そうなれば諸学科の相関というようなことは、もはや問題ではなくなるであろう。教師は、歴史の課業にわずかばかりの算術をおりこむために、あれこれと工夫をめぐらすといったような必要もなくなるであろう。学校を生活と関連せしめよ。しからばすべての学科は必然的に相関的なものとなるであろう。(中略)。さらにまた、もし全体としての学校が全体としての生活と関連せしめられるならば、学校の種々の目的や理想――教養・訓練・知識・実用――は、もはやこの一つの目的ないし理想にたいしてはこの一つの学科を選び、他の一つの目的ないし理想にたいしては他の一つの学科を選ばねばならぬというような個々ばらばらなものではなくなるであろう。」107頁

 デューイは様々な実例も挙げるのだが、それらはいわゆる「総合的な学習の時間」を彷彿とさせるものだ。というか、「総合的な学習の時間」はデューイの構想を土台として出来ているわけだから、当たり前なのだが。
 が、この部分は、最新学習指導要領と袂を分かつ点かもしれない。デューイは統合の原理を「子どもの生活」に求めているが、最新学習指導要領は統合の原理を「求められる資質・能力」に求めている。デューイはあくまでも一人ひとりの子どもの個性を大事にしようとするが、すべての子どもが共通して身につけるべき「資質・能力」については何も言わない。一方、学習指導要領はすべての子どもが共通して身につけるべき「資質・能力」を想定する。ここが決定的に違う。この学習指導要領の姿勢が、果たしてデューイ理論を基礎とする戦後教育改革に対して加えられた「這い回る経験主義」という批判を乗り越える可能性を持つのかどうか、学習指導要領自身は何も述べていない。
 ともかく、最終的で現実的な制度設計において、学習指導要領はデューイを離れてブルーナーに近づいていくのであった。新学習指導要領の狙いが当たるかどうかは、「理念としてのデューイ、手段としてのブルーナー」というあり方が適切かどうかにかかっているように思うのだった。

問題解決学習

 また本書の注目点は、「問題解決学習」についての言及にもある。

「かつまた、前の第一期の特徴である子どもと学習される社会生活との全身的・劇的な同一化に加えて、いまや知的同一化がおこってくる――すなわち、子どもは遭遇せねばならぬ問題の見地に自己を置き、それらの問題を解決する方法をおよぶかぎり再発見するのである。」129頁
「かかる注意はつねに「学習」用のもの、いいかえれば、他人が尋ねるであろうところの問題にたいする、すでに出来上っている解答を記憶することのためのものである。いっぽう、真の、反省的な注意は、常に判断・推理・熟慮をふくんでいる。すなわちそれは子どもが自分自身の問題をもっており、その問題を解決するための関係材料を探求し選択することに能動的に従事し、その材料の意義と関係を――すなわちその問題が要求するような解決の道を考察することを意味する。問題は自分自身のものなのである。であるからして注意への動因・刺激もまた自分自身のものである。それゆえにまた、得られた訓練も自分自身のものである。――それは真の訓練、すなわち統制力の獲得であり、またいいかえれば問題を考察する習慣の獲得である。」180頁

 問題解決学習は、子どもの興味と社会および科学を結びつける重要で決定的な媒介物となることが期待されている。問題解決学習の論理がデューイの発達心理学理論に根拠を置いていることは、知識として知っておいて損はしないかもしれない。

ジョン・デューイ『学校と社会』宮原誠一訳、岩波書店、1957年

ソクラテスの教育思想―魂の世話―

魂の世話

 このページでは、ソクラテスの教育について考えていきます。
 結論から示すと、ソクラテスの教育が目指しているのは、人々が「魂の世話」を心がけるようになることです。

プラトンが描いたソクラテス

 ということでさっそく内容の検討に入りたいところですが、しかしまず困るのは、ソクラテス自身が自分の教育について何も書き残していないことです。いちおう弟子のプラトンがソクラテスを主人公とした素晴らしい対話編をたくさん書き残してくれたおかげで、ソクラテスの言動を知る手がかりは豊富に与えられています。ただ、このプラトンの才能がありすぎて、むしろ困ってしまうわけです。才能がありすぎるプラトンは、師匠であるソクラテスの思想をさらに自分で突き詰めて考察を深め、最終的にオリジナリティ溢れる独創的な高みにまで上りつめます。逆に言えば、どこまでがソクラテスのオリジナルで、どこからプラトンが付け加えたものかが、分からなくなってしまっているわけですね。
 そんなわけで、私としては完全にオリジナルなソクラテスの再構成は最初から断念し、プラトンが書き残した対話編を通じて、大雑把にソクラテスの教育を捉えることに務めていくことにしたいと思います。
 で、「魂の世話」の中身を総合的に理解する上で重要な4つのキーワードがあります。「無知の知」「産婆術」「汝自身を知れ」「エロス」を順番に検討していきます。

無知の知

 まずは「無知の知」から確認していきましょう。「無知の知」とは、簡単に言えば、「自分が知らないということを自覚している」という意味です。が、もちろん「自分が勉強できないの、知ってる」なんて意味で「無知の知」と言っているわけではありません。『ソクラテスの弁明』の記述を参考に、「無知の知」について見ていきましょう。

「何」を知らないのか

 いちばん誤解していけないのは、「無知の知」と言った場合の「知らない」とは、「1+1=2」を知らないとか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」を知らないとか、そういうクイズ的な知識を知らないという意味などではない、ということです。知識がなくて学校のテストの点が悪いとか、そういうレベルの無知をテーマにしているわけではありません。ここを見誤ると、ソクラテスの主張が最初からまったく分からなくなります。
 ソクラテスが言う「知らない」とは、「命を賭けてでも知りたい価値のあるものについて、残念なことにそれが本当に何なのかを絶対に知ることができない」という意味です。「1+1=2」とか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」という知識は、他人から教えてもらえれば知ることができます。ソクラテスが取り組む知識とは、そういうふうに自分の外部から他人によってもたらされる知識ではありません。
 彼の言う知識とは、「自分の生き様」が間違っていないかどうか、確認できるような知識です。たとえば「正義とは何か」が本当に分かっているなら、自分の生き様が正義にかなっているかどうか、正確に判断することができるでしょう。しかし、この肝心の「正義とは何か?」が分からないから、自分の生き様が間違っていないかどうか、確認することができません。これがソクラテスの言う「知らない」という意味です。

世界一の賢者ソクラテス

 ソクラテスは、自分がどんな生き方をするべきか絶対的に示してくれる確実な知識を「神の知」と呼び、求め憧れました。「1+1=2」とか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」のような、誰か他人から教えてもらえれば獲得できるような知識は、言ってみれば「人間レベルの知」です。ソクラテスは、いま自分が持っている知識など所詮は人間レベルのものであって、自分が心から求めている絶対的な「神の知」には指先すらかかっていないということを自覚していました。自分が「無知」であることを強烈に自覚して、自分なんて大したことがない奴だと思っていたわけです。
 が、ある日、友達のカイレポンがデルフォイの神殿に行って、ソクラテスこそが世界一の賢者であるというお告げを得てきます。それを聞いたソクラテスは、「ありえない」と思います。日頃から「神の知」を求めさまよい、見つからず、自分自身のことを「無知」だと自認しているソクラテスにとって、「世界一の賢者」のお告げは不可解極まりないものでした。しかし他ならない神様からいただいたお告げですから、「神の知」を求めてやまないソクラテスとしては無視するわけにもいきません。自分が世界一の賢者などとは信じられないものの、神様の言葉である以上は何かしら重大な意味があるだろうということで、ソクラテスはお告げが正しいのかどうか確かめようと試みます。

バカばっかり

 お告げが真実かどうか確かめるために、ソクラテスは頭がいい人たちと話をすることにしました。というのは、自分が知らないようなことを知っている人が一人でもいれば、少なくとも自分は二番目以下ということで、「世界一の賢者」ではないことが明らかになります。世間には「自分は何でも知っている」と豪語している人がたくさんいるので、一人くらいは本当に「神の知」を持っている人がいてもいいかもしれません。そしてさらに、そういう智者と話ができれば、自分が知りたいと願っている「神の知」を教えてもらえるかもしれない。ソクラテスはそう期待に胸を膨らませて、「自分は何でも知っている」という自称賢者たちと話をしに行きました。
 が、実際に話をしてみて分かったことは、賢者を自称する人々が、実は何も知らなかったということでした。「自分は何でも知っている」と豪語している人が本当に「神の知」を持っているのか、ソクラテスがあれこれ質問しながら吟味してみると、たちまち馬脚を現して、実際には何も知らなかったことが明らかになるのでした。
 確かに自称賢者たちは、「人間レベルの知」はたくさん持っているようでした。が、ソクラテスが求めていたのはそんな「人間レベルの知」ではありません。確実な生き様を認識できる絶対的な「神の知」こそが問題なのです。自称賢者たちは、誰一人として「神の知」を持っていないどころか、それを持っていないということすら自覚していないことが発覚するのでした。

所詮は人間の知

 「神の知」を示してもらえるのではないかと密かに期待していたソクラテスは、「人間レベルの知」で満足している相手のバカさ加減にガッカリしながら帰途につきます。帰り道で、ふと気がつきます。自分も相手も、「神の知に辿り着いていない」という点についてはまったく違いがありません。ただ、相手は「自分が知らないということすら知らない」のに対し、自分は少なくとも「自分が知らないということを知っている」のです。このわずかな自覚の違いで、自分は彼らより一歩先を行っているのだと、ソクラテスは気がつきます。デルフォイの神殿のお告げは、きっとこのことを言っていたのだなと、ソクラテスは思いました。
 しかしそれはもちろん、自分は本当に「世界一の智者」なのだと自信を持ったという意味ではありません。仮にお告げの言うとおり自分が「世界一の智者」であったとしても、そんな自分は相変わらず「神の知」に届いていません。ちっとも嬉しくありません。神様がお告げによって本当に伝えたかったことは、「人間界最高の智者ですら、神の知には指先すらも届かない」とういうことなんだとソクラテスは理解します。そして神様がわざわざ自分にお告げを与えたのは、「神の知に届いているなどと自称している人々が、実はまるで無知である上に、自分が無知であることにすら気づいていない大馬鹿野郎だ」ということを暴いて自覚させる、そういう使命を与えるためだったのだと理解します。自分の使命を自覚したソクラテスは、自称賢者たちの無知を次々と暴いていくことになります。
 そういうわけで、「無知の知」という言葉の意味は、単に「知らないことを知っている」ということにとどまりません。「人間の力では絶対に神の知に手が届かない」という理解が伴って、初めて意味を持つような言葉なのです。「自分が勉強ができないことを自覚しているから、無知の知」などという「人間レベル」で理解したつもりにならないようにしましょう。

産婆術

 さて、そんなふうに自分は何も知らないと公言しているソクラテスなのですが、なぜか若者たちは喜んでソクラテスと話をしました。ソクラテスと話をすると、自分が成長したように感じるからです。それまで自分が知らなかったような知を獲得できた気になるからです。
 これはとても不思議な現象です。なぜなら、ソクラテスは「何も知らない」からです。常識的に考えれば、何も知らない人が、相手に「知」を与えることなどできません。自分の持っていないものを相手に与えることなど不可能です。それにも関わらず、ソクラテスの対話相手は、知を獲得することができました。知を持っていないソクラテスが誰かに知を与えられるはずがないのに、ソクラテスと対話している相手がいつの間にか知を獲得してしまう。このような技術を「産婆術」と呼びます。
 産婆術については、『テアイテトス』という本に詳しく書いてあります。こちらを参照しながら、産婆術について見ていきましょう。(ちなみに『テアイテトス』に記述された産婆術は、現代的な視点から見るとちょっとグロいのと、プラトンの数学偏重的立場が混入されてオリジナルを歪めているように思えるので、以下の祖述には私なりのアレンジが相当程度加えられていることをあらかじめお断りしておきます。)

「知」はどこから来るのか

 さて、ソクラテスは知を持っていないにも関わらず、対話を続けているうちに、いつのまにか対話相手の若者は知を獲得します。この「知」は、いったいどこからやってきたのでしょうか?
 何も存在しないところから「知」がいきなり出現するわけはありません。「知」はどこかにあったはずです。そしてソクラテスは「知」を持っていません。だとしたら、残る可能性はただ一つ、対話相手の若者がもともと持っていたのだと考える以外にありません。しかしそうだとしたら、若者は「知」を持っていたにも関わらず、それを自分自身では自覚できていなかったということになります。きっと「知」は若者自身から見えないところにあったはずです。たとえば、お腹の中にあったとしたらどうでしょう。もしも自分のお腹の中に「知」があったとしたら、自分の目からは見えないので、自分が持っていることに気がつかなくても仕方ありません。しかし持っていることに気がつかなくとも、お腹の中に何かあったら、なにかしら違和感が生じます。お腹がもぞもぞして、気分が悪くなります。出産したくなります。自分のお腹に異変を感じた若者は、なんとかそれを処理しようと、助けを求めてソクラテスのもとにやってきます。ソクラテスは若者を診てやります。ソクラテスが診てやると、若者は自分のお腹の中にあった「知」を産み出します。いったん産んでしまえば、自分の体の外に出た「知」は、自分の目で見えるようになります。「あ、知だ!」と分かります。そしてその「知」はもともと自分のお腹の中にあったものであって、ソクラテスから与えられたものではありません。ソクラテスは、ただ診てやっただけです。

産婆は出産の手伝いをするだけ

 このソクラテスの対話技術が「産婆」の技術とよく似ているので、この一連の行為を「産婆術」と呼んでいます。「産婆」とは、女性が子供を出産するときにサポートする人のことです。近年は病院で出産することが増えたので「産婆」の出番はなかなかありませんが、かつては自宅で出産することが多く、妊婦さんが産気づくと産婆さんを呼んで手伝ってもらっていました。
 子供を産むのは、あくまでもお母さんの行為です。当たり前のことですが、産婆自身が子供を産むわけではありません。産婆さんは出産の「お手伝い」をするだけです。産婆さんの仕事は、お母さんのお腹をさすったり、お母さんの息を整えたり姿勢を直してやったり、洗い桶や綺麗な布など環境を整えたり、生まれた赤ん坊を綺麗に拭いてやったりすることです。産婆さんの手助けがあって、お母さんは無事に子供を産むことができます。こうやって産婆さんが妊婦さんを励ましたり応援したりしながら出産を手伝う様子が、ソクラテスの教育法によく似ているわけです。
 というのも。知を産むのは、あくまでも若者の行為です。当たり前のことですが、ソクラテス自身が知を産むわけではありません。ソクラテスは出産の「お手伝い」をするだけです。ソクラテスの仕事は、若者が何か言いたいのを励ましてやったり、発言に適切な質問を加えて議論を展開させたり、考察に必要な概念や具体例を持ってきてやったり、生まれた知識を綺麗に拭いてやったりすることです。ソクラテスの手助けがあって、若者は無事に知を産むことができます。
 こうして若者は、自分自身の中にもともとあった知を産み出すことができたのですが、いま一度確認すると、若者がソクラテスから知を分け与えてもらったわけではありません。というか、そもそも「無知」であるソクラテスが誰かに知を与えることなど最初からできるわけがありません。彼は「対話」の力によって、若者の内部から知を引き出します。

対話

 若者の内側から知を引き出す際、ソクラテスが実際に行っている作業は「対話」です。巧妙な「対話」を通じて、若者の内側から知が湧き上がってきます。産婆術とは、具体的には「相手の内部から知を引き出す対話の技術」と言い直すことができるでしょう。対話相手から知を引き出すためには、相手の言葉に辛抱強く耳を傾け、断片的な言葉と未熟な論理から相手が本当に主張したい論点を把握し、間違っている論理は間違っていると指摘したり、有望な論理が出てきたら褒めて励ましてさらに思考の展開を促したり、言いたいことを的確に表現するための適切な言葉を見つけるのを手伝ったり、気づきのきっかけを作ったり、議論の筋道を整理したり論点や到達点をまとめたりするなどの様々な手助けが必要となります。
 しかし、この姿勢がなかなか難しいわけです。まず難しいのは、相手の話を「傾聴」するということかもしれません。いわゆる「先生」と呼ばれる職業に就いている人たちは、なにかと教えたがる傾向にあり、なかなか相手の話を黙って聴くことがありません。まず、対話相手をバカにせず、しっかりと話を聴いて、相手の主張を尊重すること、これが産婆術の基本中の基本になるでしょう。そしてソクラテスが極めて謙虚に相手の話を聞くことができるのは、根底に「無知の知」があるからだということは言うまでもありません。自分が何も知らないと自覚しているからこそ、相手の話を先入観なしで聞いたり、忌憚なく質問したり確認したり、正しく理解し論理的に判断したりすることができるわけです。

汝自身を知れ

 さてところで、そうやって対話相手から引き出される「知」の中身とはどのようなものでしょうか。もちろん、「1+1=2」とか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」というような知識であるはずがありません。産婆術でもたらされる「知」の中身については、デルフォイ神殿の入口に刻まれていたという標語、「汝自身を知れ」が重要な手がかりとなりそうです。以下、ソクラテスの言う「知」の中身を検討していきます。(ただし、プラトンのテキストそのものから読み取れる内容からは大きく逸れて、私個人の見解を反映した記述に向かうことはあらかじめお断りしておきます。)

自分のお腹の中にある「知」とは何か?

 さて、ソクラテスが産婆術で引き出したのは、対話相手のお腹の中に潜んでいた知でした。外から与えてもらわないのに、もともと自分のお腹の中に潜んでいた知とは、具体的にはどのようなものでしょうか? もちろん「ドラえもんの声優は大山のぶ代」という知識のはずがありません。そういう知識は、もともと自分の中に潜んでいるわけがなく、外から与えてもらわないと身につけることができないようなものです。
 が、「1+1=2」という知はどうでしょう? まあ確かに「1+1=2」なら教えてもらわないと分からないかもしれませんが、たとえば「53+69=122」ならどうでしょうか? おそらく「53+69」の答えが「122」だと教えてもらったことがなくとも、「53+69=122」が正しいことは分かると思います。数学の正解というものは、外から教えてもらわなくとも、基本的な原理原則さえ押さえていれば自分の中から引き出すことができます。
 数学に限らず、論理的な手続きを経て結論に至るような知識であれば、確かに外から新しい知識を付け加えなくとも、自分の内部で適切な情報処理を繰返していけば最終的に正しい結論に辿り着くことができます。この様子は『メノン』に鮮やかに描かれています。『メノン』に示されたプラトンの記述をそのまま受けとめれば、産婆術とは論理的な手続きを正確に踏んでいく対話の技術です。

理性によって知る

 数学に典型的に見られるように、論理的な手続きを正確に踏めば、外部から新しい知識を付け加えなくとも最終的に正しい結論に辿り着けるのは何故かというと、すべての人間が平等に「理性」を備えているためです。数学など論理的な問題に対しては、「理性」を正確に働かせることさえできれば、すべての人間は間違いなく共通の結論に辿り着きます。逆に言えば、生まれたときから自分の内部に備わっている「理性」を正確に運用できるなら、外部から知識を与えてもらう必要などないということです。プラトンの記述に従えば、産婆術が目指しているのは、理性を正確に運用して確実な知識に辿り着く手続きです。
 ここまでくると、デルフォイ神殿に刻まれた標語「汝自身を知れ」とは、「すべての人間に平等に備わった理性を追究せよ」という意味であると解釈することができそうです。「汝」とは、神様がわれわれ人間に向けて呼びかけた複数二人称ということになります。プラトン『メノン』や『テアイテトス』の記述を辿る限りは、そう解釈できそうです。

理性の限界を知る

 しかし、プラトンの初期著作に登場するソクラテスの言動を見ると、簡単にそう断言していいかどうか疑問も生じます。というのは、ソクラテス本人が数学を重視していた形跡がまったく見当たらないからです。実はプラトンは、中期対話篇を書く頃にピュタゴラス派と接触し、数学に傾倒したと考えられています。ですので、中期対話篇である『メノン』や『テアイテトス』にはオリジナルなソクラテスの姿が描かれているというより、ピュタゴラス派に影響を受けたあとのプラトンの思想が反映していると見るほうがよさそうに思われます。
 初期の対話篇でソクラテスが関心を示していたのは、数学ではなく、「善く生きる」とはどういうことか?というテーマでした。ただ単に「生きる」のではなく、「善く生きる」ということがテーマでした。そのために、「善い生き方とは何か?」を徹底的に追究しました。この「神の知」に数学が関わってくる余地は、あまりなさそうな気がします。
 そもそも思い返してみれば、ソクラテス自身が確実に知っていたのは、「自分は何も知らない」ということでした。そして様々な自称賢者たちと話をして確認できたのは、「自分だけが何も知らない」のではなく、「人間であれば誰もが絶対に知ることができない」ようなものがあるということでした。人間というあり方に本質的につきまとう「絶対的な無知」について知ることが「無知の知」です。単に「自分は知らないが、他の誰かは知っている」ようなものを「無知の知」とは絶対に呼んではいけません。
そういうわけで、ソクラテスの言動に即して考えれば、「汝自身を知れ」とは「すべての人間に平等に備わった理性を追究する」ことなどではなく、まったく逆に、「人間理性では絶対に到達できないものがあることを知り、理性の限界を自覚する」ということであり、「神の知の前では謙虚になるしかない」ということになります。プラトンとソクラテスでは、言っていることがまるで違ってくるわけです。
 (ただし、プラトンも数学的理性の限界には気がついていました。数学的理性の限界を超えて真の知識に辿り着く手段として、プラトンは「哲学的対話法」を持ち出しています。そして「哲学的対話法」の中身は、厳密には分かっていません。ひょっとしたら、プラトンの「哲学的対話法」も、ソクラテスが言うような「人間理性では絶対に到達できないものがあることを知り、理性の限界を自覚する」ための手続きかもしれません。が、今となっては、プラトンが本当に何を考えていたかは、謎のままです。)

わたしはどう生きるか?

 さらに、教育学に携わる者の関心が、テキストには書いていないところにまで飛躍することを許してもらえれば。ソクラテス本人が人間に共通する「理性の限界」を問題にしていたとしても、ソクラテスに話を聞いてもらっていた若者の受け取り方は、また違っていたかもしれません。
 たとえば。ソクラテスは実際の対話では、「正義」や「美」や、そして「善」を問題としました。ソクラテスにとっては、これらは共通して「理性の限界」を超えているものだったのでしょう。実際にソクラテス初期対話編では、問いに対する答えが出ずに消化不良のまま対話が終了し、「理性の限界」が示されます。ソクラテス本人にとっては「いちおう頑張ってみたけど、やっぱり人間の理性では答えは出ないよね。そりゃそうだよね」というふうに、改めて「無知の知」を確認した機会ということでいいでしょう。しかし対話を聞いていた若者たちに対しては、おそらくまったく違う効果があったと思われます。というのは、確かに、「正義」や「美」や、あるいは「善」というものには、一つの決まった答えがあるわけではありません。逆に言えば、「正義とは何か?」という問いは、「正義とはこういうもの」などと客観的な答えを出すべき数学的な問いではなく、ひとりひとりの主観的な「生き様」を問うような倫理的な問題として迫ってくることになります。評論家的な態度では絶対に答えは出ないけれども、当事者として必ず何かしらの見解を示さなければならないような、そういう人生観が問われるものとして迫ってきます。他人事ではなく、「わたしはこう考える」とか「わたしはこう生きる」とか、自分事としてどう「生きる」かが問われているような、そういう問題として迫ってきます。自分の外部に答えがあるのではなく、自分の内部にしか答えがないような、そういう問いとして迫ってきます。
 若者ひとりひとりが「どう生きるか」は、ソクラテスにとっては知ったことではありません。というか、ソクラテスが知るわけもありません。「無知」です。若者が「どう生きるか」については、ソクラテスが外側から何なかの「知」を若者に付け加えてやることはできません。若者が「どう生きるか」は、自分の内側から産み出さなければならない知です。そしてそれこそが、他の何よりも重要な知であるはずです。「わたしはどう生きるべきか」という問いに対する答えは、「1+1=2」だとか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」などという知よりも、圧倒的に決定的に重要な、人生に関わる知です。

わたし自身を知る

 「わたしはどういう人間か?」とか「わたしには何ができるか?」とか「わたしは何をしなければならないか?」とか「わたしはどうしたら幸せになれるか?」とか、つまり「わたしはどう生きるか?」という問いは、自分にとって最も重要な問いです。そして、自分以外の人間からは絶対にもたらされない知です。自分自身の内側から産み出さなければならない知です。しかし、こんなに難しいことはありません。「1+1=2」だとか「ドラえもんの声優は大山のぶ代」のように、他人から正解が与えられるような知識であれば、身につけることは簡単です。知っている人に聞けばいいだけです。しかし自分がいちばん知りたいこと、「私はどう生きるべきか」という問いに対する答えを他人が与えてくれることは、絶対にありません。どうしても自分自身で産み出さなければなりません。他人から与えられることが絶対にないのに、どうしても自分自身の内側から産み出さなければらない知。それこそが「汝自身を知れ」という箴言の本当の意味なのかもしれません。
 だとすれば、実はソクラテスの「産婆術」は、どう生きればいいのか途方に暮れて悩んでいた若者たちが「自分を知る」ために、大きな手助けとなっていたのではないでしょうか。悩んで、迷って、苦しんで、話を聞いてもらいたくてソクラテスのもとにやってきた若者に対し、ソクラテスは外部から知識を与えてやるわけでもなく、ただ若者の話に耳を傾け、間違っているところは間違っていると指摘し、議論を整理し、よかったところは褒め、到達点をまとめてくれるだけです。あくまでも答えは若者自身が出さなくてはなりません。が、ソクラテスのように真摯に対話相手になってくれる人がいるだけで、どれだけ救いになることでしょうか。ソクラテスとの対話を通じて、自分の内側に自分なりの答えを見つけた若者もいたことでしょう。
 (以上の見解は、プラトンが残したテキストから直接に読み取れるものではありません。教育学的想像力の産物とでも言えるものだということは、いちおう記しておきます。)

エロス

 そうやって、迷って、悩んで、苦しんだ若者たちがソクラテスのもとにやってきて、ソクラテスも喜んで若者たちの話に耳を傾けて、ひとりひとりがそれぞれの「生き方」を見つけていく。それはそれで美しい光景です。が、そうやってソクラテスのもとにやってくる若者はいいのですが、やってこない人たちはどうなるのでしょうか?

陣痛を起こす力

 プラトンはそういう事情を「陣痛」という言葉で表現しています。陣痛が起った若者は、自分の内側にある何者かを産み出す必要に迫られて、産婆術の達人ソクラテスのもとにやってきます。しかし陣痛が起こっていない者には、そもそも産婆は必要ありません。産婆術の出番もありません。
 が、『テアイテトス』の中でソクラテスはなかなか凄いことを言っています。彼には対話相手に「陣痛」を引き起す力があるようなのです。つまり、相手の内側に何かを生じさせる力があるようなのです。『テアイテトス』では、プラトンの数学趣味によって本来のソクラテスの姿が失われている恐れがあるので、他の著作も合わせて総合的にソクラテスの「陣痛を起こす力」を考えてみましょう。たとえば『饗宴』と『パイドロス』に記されたエロスの話は、このテーマを考える上で、なかなか興味深いものです。

恋愛の達人ソクラテス

 『パイドロス』の中で、ソクラテスは恋愛についてよく知っていると言っています。何も知らないと自称している割には、恋愛については自信があるようです。結論だけ先に示すと、ソクラテスは恋愛を「美しいものの内部で出産を願う」ことだと言っています。この「出産」という言葉に注目しましょう。「出産」するためには、そのまえに「陣痛」が起こらなければいけません。逆に言えば、陣痛さえ起これば、あとは産婆術の領域です。恋愛→陣痛→産婆術→出産という順番を踏まえると、産婆術の領域に相手を引き込むには、相手を「恋愛」に巻き込めばいいことが分かります。ソクラテスの「陣痛を起こす力がある(テアイテトス)」という証言と「恋愛はよく知っている(パイドロス)」という証言を合わせて解釈すれば、彼には相手の心の中に恋心を引き起すことで結果的に産婆術の世界に引き入れる技術があったと考えてよさそうです。

恋の対象

 とはいえ、もちろんソクラテスが言う恋愛は、世間一般で言う「恋愛」とはかなり意味が違っています。特に重要なのは、ソクラテスの言う「恋愛」には肉体的な欲望が伴っていないということです。実際に『饗宴』では、肉体的な欲望を強靱な精神力で押さえつけるソクラテスの姿が描かれています。
 ソクラテスの言う「恋愛」とは、「精神的な恋愛」を意味しています(世間的にはこれを「プラトンの恋愛=プラトニック・ラブ」と呼んでいるようです)。われわれは、美しく、素晴らしい、価値あるものに対して、心惹かれます。そしてその美しいものとは、目に見える美しさもあるでしょうが、心の目で見えるような美しさにはよりいっそう魅力を感じます。そういう価値あるものに、われわれは近づきたいと願い、求め、行動します。そうやって人々を価値ある美しいものに向かわせる動きを、ソクラテスは「エロス」と呼んでいます。エロス自身は美しいものではありません。なぜなら自分自身が完全に美しいものであったら、自分自身に留まって、敢えて外部の美しいものに向かおうとはしないだろうからです。自分自身が美しいものではないから、美しいものに惹かれるわけです。そしてまた完全に醜いものではありません。完全に醜いものは、美しいものの素晴らしさに気がつかないだろうからです。だからエロスとは、美しいものと醜いものの中間(メディア)です。
 ソクラテスは、究極に美しいものは「神」だけだと言います。そして「エロス」の働きによって、われわれのような不完全な人間が完全なる神に憧れるのだと言います。われわれは何も知らない無知な存在ではあるけれども、エロスの働きによって完全な美である神に向かっていきます。ソクラテスが人間の身でありながら「神の知」を求めてやまないのも、エロスの働きによるものです。

マニア=狂気こそが神に到達する

 ソクラテスが「エロス」というものを完全なる神と不完全なる人間の「中間=メディア=媒介物」だとしていることは、教育学的に重要な示唆だと思います。完全性への憧れを芽生えさせる「媒介物」は、ソクラテスの文脈で言えば「美しいもの」となるわけですが、おそらく人の興味関心をかき立てるようなものであればなんでも構わないに思われます。たとえば、「鉄道」でも、「切手収集」でも、「アニメ」でもいいでしょう。
 というのは、ソクラテスが言うには、人間の身でありながら神の領域に到達する奇跡を起こすには、尋常の常識的努力では絶対不可能で、「狂気」に陥って人間を超える必要があります。そしてこの「狂気」とは、ギリシア語では「マニア」です。「マニア」になった者だけが、人間の常識を遙かに超えて、神の領域へと到達することができます。「鉄道マニア」も「切手収集マニア」も狂気=マニアに陥っているという点では同じわけですが、このとき鉄道マニアや切手収集マニアは、その「媒介物=メディア」を通じて、憧れの「神の領域=真善美そのもの」に到達しているということです。
 逆に言えば、「媒介物=メディア」を工夫することによって、人々を「狂気=マニア」の世界へと誘い、「神の領域=真善美そのもの」への憧れを掻き立てることができるということです。子供たちを「狂気=マニア」に陥らせるような「教材=メディア」を提供できれば、子供たちの中に「神の領域=真善美そのもの」への憧れを生み出せるかもしれません。
 そうやっていったん「神の領域=真善美そのもの」への憧れ=エロスさえ芽生えれば、時間が経てば自然に陣痛が起こり、あとは産婆術の領域の話になります。逆に言えば、この憧れが生じなかった者には、陣痛が起こらず、産婆術は何の役にも立ちません。「エロス」は、教育を可能とするエネルギーなのです。

【まとめ】魂の世話

 こうしてソクラテスは、「無知の知」の自覚のもと、若者たちの「エロス」を芽生えさせ、「産婆術」を駆使して、「汝自身を知れ」という神の教えを実践するために、「魂の世話」を勧めて回りました。

ソクラテスの処刑

 ソクラテスが見るところ、人々は、人生で大切なものについて大きな勘違いをしていました。お金とか、名誉とか、そんなものを皆が大事にしています。しかし「無知の知」の自覚のもとで吟味してみれば、お金や名誉などというものが人生で最重要なテーマになるわけがないことが分かります。大事なことは、「神の知」に辿り着くことができなくとも、それに憧れて向かって行くことです。それは、自分自身の中にたったひとつだけある「魂」を大事にすることです。しかしその最も大切なものであるはずの「魂」を、誰もがないがしろにしています。ソクラテスは、そんなことでは絶対に幸せになることができないと確信し、人々に「魂の世話」をするように説いて回りました。人生で本当に大切な「汝自身」に気づくための「産婆術」であり、手助けを可能とするための「エロス」なのです。
 しかしそんなソクラテスが、裁判にかけられ、処刑されます。紀元前399年のことです。ソクラテスは町の有力者たちから憎まれていました。町の有力者たちは、「自分は何でも知っている」と豪語していましたが、ことごとくソクラテスによって「実はバカ」だったことを暴かれていました。恥をかかされた有力者たちは、ソクラテスを憎むようになっていたのです。ソクラテスを亡き者にしてやろうと狙っていた人々は、ついにデタラメな言いがかりをつけて、処刑に追い込んだのでした。

死ぬことは怖くない

 しかし死刑に処されるソクラテスの態度は、極めて堂々としていました。まるで「死」を恐れていないようでした。実際、ソクラテスは「死」を恐れていませんでした。なぜなら、ソクラテスが言うには、死んだ後のことは誰も知らないからです。「死」が本当に嫌なものかどうか、確かめた人は一人もいないのです、それを知っているのは「神」だけです。自分が知らないようなものについて考えても仕方ありません。ひょっとしたら、「死」というものはとても素晴らしいものかもしれません。「知らないものは知らない」と認める、だから「死」は怖くない。これこそがソクラテスの「無知の知」の真骨頂です。
 いやまあ、理屈はそうかもしれません。が、実際に自分が処刑されるまさにその瞬間ですら、そういう態度でいられるなんて、ちょっと信じられない凄さです。凄い。発言と行動が一致している様子を表す「言行一致」という言葉がありますが、まさにソクラテスは言行一致の人物でした。いや、言行一致なんて言葉でも生ぬるい気がします。「言」と「行」がまったく分離していない、そういう本物の「神の知」を最後の最後まで追究し続けた人物でした。
 この態度こそが、彼の言葉に圧倒的な説得力を持たせています。彼は本当に最後まで自分の「魂」の世話を大切にしていたのでした。

参考文献:ソクラテス教育の先行研究

林竹二著作集1『知識による救い―ソクラテス論考』
 ソクラテスの教育について原理的に興味深い考察を加えているだけでなく、さらにその理論をもとにして実際の対話的授業を作り上げており、著者本人の生き方もソクラテスのような言行一致なところが凄い。

村井実『ソクラテスの思想と教育』
 単にソクラテスの教育を客観的に理解しようとするだけでなく、そこから得た知見を自分の教育学体系全体に行き渡らせるような、主体的に対象を捉える渾身の研究姿勢が、凄い。

稲富栄次郎著作集2『ソクラテス、プラトンの教育思想』
 この領域の開拓者として敬意を払うべき研究。

北畠知量『ソクラテス―魂の教育について』
 独創的な研究だとは思うけれど、個人的には違和感が残る。自分をいくつかに分割するのって、ソクラテスの本意かどうか。

参考文献:ソクラテスに関する先行研究

稲富栄次郎『ソクラテスのエロスと死』
田中美知太郎『ソクラテス』
岩田靖夫『増補ソクラテス』
F.M.コーンフォード『ソクラテス以前以後』

→参考:研究ノート『プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法―』